マロの駿河入り(二)桜の枝に帰る春風
『マロの戦国-今川氏真上洛記-』の続編登場です!
いよいよ氏真さん、駿河へ! 「マロの戦国II」最終話です!
氏真さんの秘かな情報チャンネル。
天正四年(一五七六)、ついに駿河へ。
諏訪原城の体制決まる!
この頃の氏真さんの歌は?
重大発表! これからどうなるの?
諏訪原城攻めから帰った後氏真主従は無為に過ごした。
「我らにできることはござりませぬでしょうか?」
七年前に所領を失って以来生活が苦しい弥三郎は氏真をせっついてみたが、当の氏真はのんびりと構えていた。
「手勢が少ない我らが今できることはない。家康が諏訪原城周りをしっかと固めるまで待つ他はないのう」
そう言いつつ今まで通りに歌を詠み暮らす氏真に弥三郎は不満を募らせたが、氏真は意に介する様子はなかった。
一方で氏真は陰で情報を仕入れていた。
長篠の合戦後の信長は大きな飛躍を見せた。七月には朝廷から官位昇進の勅諚を受けたがこれを拝辞する代わりに家臣への賜姓と任官を求め、勅許を得た。
氏真が上洛した折面識を得た明智光秀は姓を賜って惟任日向守となり、村井貞勝は長門守、羽柴秀吉は筑前守に任ぜられた。九州にゆかりのある賜姓と任官は信長がいずれ九州まで従えるつもりである事を示していた。
信長は八月には大軍を率いて越前の一向一揆を殲滅した。領地の分配や新税を巡って内部分裂していた一揆衆は織田勢の敵ではなく、一揆衆は老若男女を問わず撫で切りにされたという。長年信長と戦い続けてきた石山の本願寺顕如もこれを受けてとうとう信長に詫びを入れ、信長は顕如を赦免したという。
九月末に越前から岐阜城に戻った信長は十月に上洛し、この時公家衆の出迎えを受けたという。それまでは山科言継や吉田兼見など個々の公家のみの出迎えであったが、今回公家衆の出迎えとなった事は、朝廷に対する信長の地位が高まった事を示していた。
信長も積極的に朝廷を利用する意向を明らかにし、十一月には従三位権大納言に昇進し、さらに右近衛大将も兼任することになった。
従三位権大納言兼右近衛大将は京都から追放された将軍足利義昭と対等の官位であり、この昇進で信長は武家の頂点に立つ意思を改めて示したと言える。
信長はさらに周辺諸国の攻略を進めた。明智光秀に命じて丹波攻略を進める一方、美濃に残っていた武田方の岩村城にも嫡男信忠に命じて猛攻を加えさせた。城将秋山虎繁はこれに耐えきれずに降伏を申し出た。
信長は一旦降伏を受け入れたが、秋山らが赦免の礼を言上するために岐阜城を訪れたところを捕縛し、城下を流れる長良川の河原で磔にかけて殺した。秋山の妻となっていた信長の叔母おつやの方は信長が自ら斬ったという。十一月の事である。
元々岩村城は遠山氏の居城で、おつやの方は城主遠山景任に嫁して信長の五男坊丸を養子としていた。
しかし元亀三年(一五七二)十一月に秋山に攻められた折降参して坊丸を武田方に引き渡し、自身は秋山の妻となっていたために信長を激怒させたという事だった。
氏真はこれらの情報のほとんどを甥に当たる今川孫二郎から仕入れていた。孫二郎は今春氏真が上洛して信長に対面した後父の氏秋と共にやって来て信長への仕官を求めたのだ。
孫二郎は氏真が推挙して、信長の近習に加わっていた。
孫二郎の祖父今川氏豊は信長の父信秀に奸計をもって那古野城を奪われたのだが、生活に窮していた氏秋と孫二郎には選り好みする余裕はなく、氏真にも二人を召し抱える余裕がなかったため、やむを得ぬ仕儀であった。
しかし孫二郎には過去の因縁を意に介する様子はなく、書状にも信長は「公家」になられ「上様」になられたと無邪気に書き送って来ていた。
年は明けて天正四年(一五七六)。気づけば氏真一行が信長に会うために上洛してから一年が経っている。
「御屋形様、諏訪原城が落ちてもう三月以上経ち申した。家康様から何かお話はないのでござりますか?」
弥三郎は吉報を待ちかねて氏真に聞いてみた。上洛からいい話が続いていたので、この数か月の停滞が苦痛に感じるのだ。上洛するまでは何事も進まないのが当たり前だったのだが。
しかし氏真の反応は鈍い。
「ううむ、そうじゃのう。家康からも弥太郎からも取り立てて知らせはないのう。駿河に戻る日はいつになることやら……」
相変わらずのんきな殿。しかし家臣一同、いつまでも所領なしではいられませぬ。
弥三郎のみじめな気持ちはさすがに氏真にも分かるようだ。
「いや、そなたが焦る気持ちも分かっておるぞ……、うむっ、一首浮かんだ。かりがねよお、などふるさとのお、たびごろもお、うらみてかえるう、あけぼののそらあ……」
ああ、やっぱり具体的な行動よりもそっちの方に行ってしまうんですね。
春曙雁
鴈かねよなと故郷の旅衣うらみて帰る明ほのゝ空(2―11)
氏真衆は思い通りにならない日々を過ごしたが、かと言って不遇というほどの境遇でもない。生活に余裕はないが、取り立てて何かをするのでもなく、命の危険もなく、日々を過ごすことはできるのだ。
弥三郎は時々ため息をついたが氏真はゆるゆると歌を詠み暮らしてしばしの時が流れた。
ようやく三月に入ってから弥三郎は氏真から呼び出しを受けた。
何か動きがあったんだろう。それまで退屈だったが何かしら雑用はあったので、数日と開けずに氏真に会っていた。だが、今日のように雑用なしの改まった呼び出しは久しぶりだ。
「弥三郎参上つかまつりましてございまする」
「うむ、大儀。これから久々に城に参るぞ。どうやらよい知らせがあるようじゃ」
「御意」
そう氏真に告げられてそのまま供をすることになった。浜松城への登城は正月の挨拶以来だ。よい知らせとはどんな知らせだろう? 弥三郎の期待も高まる。
「氏真殿、いよいよ駿河入りの時節が到来し申した」
弥太郎と共に二人を迎え入れた家康から開口一番そう告げられた。
いよいよ駿河奪回に向けて動き出すと言うのだ。
徳川方が諏訪原城を奪った後奪回を図る武田方としばらく小競り合いが続いたが、武田方の攻勢が弱まり、近頃では守りに入っていると言う。長篠の戦いの後付城を築いて包囲していた二俣城も昨年末に開城し、武田による浜松への北からの脅威もほぼなくなった。
「諏訪原城の普請も一通り済み、守りは十分固め申した。これからは我らが押し出す番でござる」
家康は自信ありげだ。しかし駿河入りと言ってもどうやって駿河に入るんだろう? 数の少ない氏真衆だけでできることは少ないが、家康は何をさせる気なのか。そこが肝心だ。
「晴れて駿河入りできるとはうれしき限り。して、その手立てはいかにお考えでござろうか……」
氏真も同じ疑問を抱いていたようだ。
「氏真殿にはまずは諏訪原城にお入りいただき、近辺の駿遠国境の諸城の調略を手掛けていただきたく。諏訪原城には既に城番を決めており申す故、城の守りはその者どもにお任せ下され。機を見て我らも軍勢を繰り出し申す」
八月の月見の時に言った通りだ。家康は約束を忘れずにいてくれた。弥三郎がつい笑顔が浮かぶのを自覚して、あまりにやつかないように気を付けた。
氏真の方をうかがうと、うれしいはずだが表情を崩さずかすかに微笑んで見せている。
殿はこういう殿様らしい外面は抜かりがないなあ、いやいや、戦でもしっかりしてくれていたら、領国もなくさずに済んだろうけど。
弥三郎は氏真にちょっと感心し、ちょっと物足りなさを感じた。
その間も家康の話は続く。
「調略か城攻めか、いずれにせよ田中城と小山城を武田方から奪えば高天神城は干上がらせることができ申そう。さすれば氏真殿の駿河入りを阻むものはのうなる」
駿河の国境をまたぐだけなら確かにそうだが、境目の城を二つ三つ落とした所で武田方がおいそれと駿河を明け渡してくれるわけではない。氏真が旗頭となって駿河に入れば武田方も必死に巻き返しを図るだろう。
とはいえとうとう氏真が形の上だけでも城を一つ預かる事になった。そこで弥三郎が気になるのは、氏真の諏訪原入城に当たってどれだけの土地が付いてくるかだ。
しかし家康は今川家に宛がう土地の話はせずに、先ほどから家康の左右に控えていた家臣たちを氏真に引き合わせ始めた。
「諏訪原城の番はこの者たちが務め申す。よしなに」
いずれも旧知の者だが、家康から改めて紹介を受けて、それぞれに挨拶してきた。
定番衆を半年交代で務めることになったのが、東条松平家の甚太郎家忠と牛久保城主の牧野右馬允康成である。この二人が氏真をいただいて城を守る事実上の城主である。
甚太郎家忠には家老の松平康親が補佐役についている。康親は元々松井忠次と名乗っていたが、家康に働きを認められて能見松平家の娘を娶って松平姓を許されている。
他にも深溝松平の又八郎家忠、西郷家員、戸田康長が牧野番として月ごとに輪番で守備と普請を担当する。
一通り挨拶が済んでから、家康は氏真に探るような目つきで尋ねた。
「なお駿河入りを果たした暁には甚太郎と右馬允に山東の知行を二つに分けて遣わしたく
存ずるがよろしいか?」
ああ、やっぱり家康は駿河の土地は徳川のものにして、できる限り殿を飾りとして使うつもりだな。そうなると殿は思い通りに家臣に知行を与えられない。氏真衆には単独で駿河を分捕る力はないのでそうなる事は予想できたが。
もう一つ分かった事がある。家康は駿河入りは切り取り次第と考えている。つまり自力で武田領を奪うまでは恐らく氏真にも諏訪原城の番を務める家臣たちにも加増はする気はないのだ。虫のいい事を考えていた弥三郎の中には失望が広がった。
しかし氏真は異存のない様子で答えた。
「よいお考えと存ずる。二人ともよろしく頼むぞ」
とだけ答えて笑っている。恐らく他人のふんどしで相撲を取る方が楽なんだろう、と弥三郎は邪推した。氏真の快諾を得た家康は機嫌をよくして笑顔を見せた。
その後しばらく細かい事を話し合った後、酒宴となった。平生慎重に言葉を選ぶ姿勢を崩さない家康が、酒が入った事もあってか饒舌になった。
「此度の氏真殿の諏訪原ご入城はまことにめでたき事でござる。有徳なる武王が悪逆非道の殷の紂を討って周を興したがごとく、共に悪逆なる武田を討ち、駿河を取り戻しましょうぞ」
信玄と共謀して攻め込んで遠江を奪ったくせに、家康は虫のいい事を言う。しかし氏真はうれしそうだ。
「そのように思っていただけるとはうれしき限りでござる。そう言えば武王が紂を破ったのも牧野という地でしたな」
「おお、そうでしたな。諏訪原城も牧野原の南の端にござる。これなる右馬允の苗字も牧野……。そうじゃ、武王の故事にちなんで城の名を改めて牧野城といたしたく存ずるがいかが?」
「おお、それはよいお考えじゃ」
氏真にほめられてますます上機嫌になった家康は牧野康成の前に来てその盃を自ら満たしてやった。
「右馬允、牧野で武王が紂を破ったのにあやかって、氏真殿をお助けして見事牧野原にて武田を破り、駿河をもぎ取って見せよ」
それを聞いて松平康親も
「それがしも牧野殿に負けぬよう粉骨いたす所存にござりまする」
と負けん気を見せた。
家康はそう言う康親を見てしばらく何か考えていたが、
「うむ……そうじゃ、そなたは周にちなんでこれより周防守を名乗るがよい」
と命じた。康親は一瞬少し驚いたような顔をしたが、すぐに
「御意。松平周防守、氏真様をお守りして駿河を分捕ってご覧に入れまする」
と応じた。
家康は満足げにうなずいた。
「うむ、その意気込みで双方とも武功を競うがよい。氏真殿をお助けし諸事万端粗略なきようにせよ」
「これはまたうれしい事を言ってくださるのう」
と氏真も目を細めた。
宴が果てた後、弥三郎は氏真に従って帰途に就いた。
「御屋形様、此度の駿河入り、誠におめでとうござりまする」
弥三郎はいい気分で馬の背の上で揺られていた。駿河入りの前祝いとて酒宴は大いに盛り上がった。末席ながら弥三郎も大いに飲ませてもらったので饒舌になり、どうしても氏真にお祝いの言葉を言いたくなったのだ。
「まだ駿河入りしようと決めただけじゃ。これから厳しい戦いが始まるであろうな」
氏真は口ではたしなめるような事を言いつつも、表情はにこやかだ。
「御意。それがしも大いに働きまする」
「うむうむ……うむっ! 一首浮かんだ! たちかえるう、はるにおいぎのはなざかりぃ、たのみありけるう、みのゆくえかなあ……」
「お見事!……」
出たっ、馬上で聞く殿の久々の詠歌! 弥三郎はとりあえずほめてみたが、細かいことは分からないので、後の言葉は続かない。
でも、桜の老木にまた春が来て花が盛りだというのは氏真自身や氏真衆のことだ。「たのみ」というのは家康のことか、最近運が向いてきたことだろう。そこまでは自分にも分かった、多分。
帰り道が暖かいのは酒のせいだけではなく、春風のせいでもある。道端の桜がその風の中に花びらを舞わせている。
氏真の歌を聞いたら、弥三郎の目にも、そんなものが見えてきた。今まで今川家再興と恩賞をもらうことに必死で、そんなことには目もくれず、気づきもしなかったけれど……。
「ほう、そなたもマロの歌が分かるようになったか、よいことじゃ」
氏真の言葉で弥三郎は我に返った。氏真は微笑んでいた。どうやら氏真はしばらくの間弥三郎の顔を見つめてその表情から心中を読み取ろうとしていたらしい。
「御意! あ、いや、と申しましても少しだけにござりまする……」
「よいよい、その心掛けが大事なのじゃ……」
弥三郎は謙遜するふりで、とりあえず予防線を張っておいた。色々期待されたり付き合わされたりしてはかなわないから。しかし氏真は笑顔で鷹揚なことをいう。
「しかし、やはり家康様は御屋形様を好いておられるのでござりましょうな」
家臣の分際でぶしつけな物言いだが、弥三郎はつい本音を口にしてしまった。
「はは、そうやも知れぬ。しかし、何より今川に背いたのが後ろめたかったのであろうな」
月明かりの中で目を凝らして見ると、馬上の氏真は遠くを見つめるような表情を浮かべていた。
「家康は桶狭間のいくさまでは本気で今川のために働いておったのじゃ。じゃが父上が桶狭間で討たれて全てが変わってしもうた。一時の事とは言え父上の後を追って大樹寺で腹を切ろうと思うたと言うのも嘘ではあるまい。それ故今さらながら罪滅ぼしに我らに駿河入りをさせてやろうというのじゃろう……」
確かに、平生重い石でも使って感情を押し殺したような顔をしている家康が、今日の酒宴では晴れ晴れとした笑顔を見せていた。
「あやつはずるいやつじゃが、悪いやつではない。欲得だけで動いておる男ではないでのう。欲得勘定もあろうがな、あやつの天下泰平を願う気持ちは父上や雪斎和尚から受け継いだのじゃ。そうマロは思う」
「なるほど……」
いつも気楽そうに構えている氏真も家康について色々と考えているらしいのが弥三郎には新鮮に感じられた。
「あやつも信長も昔の敵じゃが、共にみかどをいただいて天下静謐のために働くのなら、マロも一臂を貸してやろうと思うておる。そなたもしっかり働いてくれよ」
「御意!」
いつも風流ごとにかまけていて歯がゆいくらいのんきな殿だが、見かけ以上に真面目な事も考えているのだな。弥三郎はそんな思いを抱きながら春風の夜道を氏真と帰った。
花慰老
立帰る春に老木の花盛たのみ有ける身の行くゑ哉(2―15)
氏真衆は三月下旬に牧野城に向けて出立することになった。
家康の肝いりで氏真が駿河入りをすると聞いた今川旧臣が駆け付けてきて、人足を入れて三十人足らずだった氏真衆は百人近くに増えてにぎやかになった。家康はその人数を扶持するために氏真の知行を少しだけだが増やしてくれた。
人数は増えたが、氏真衆の編成は前と同じだ。今回も蒲原助五郎が采配を取り、弥三郎が小荷駄の奉行を務める。指図する配下の数が増えて弥三郎は少しだけ忙しくなったが、味方は多い方がにぎやかでいい。
いよいよ正念場だ。武田方の境目の城を奪えば勝頼は必ず自ら軍勢を率いて必死に反撃してくるはずだ。氏真衆も長篠や諏訪原城攻めの時のように味方の大軍の後ろに隠れているわけには行かないかも知れない。
しかし見事武田を撃退できればいよいよ氏真の駿河入りが実現する。氏真衆も駿河で知行をもらえるかも知れない。
今川屋敷に勢揃いした氏真衆が旧友との再会を喜んだり談笑したりする中で、弥三郎は快い高揚感を楽しんでいた。
そろそろ出立する頃合いかと思い弥三郎が氏真の方を見やると、正室の春が氏真に挨拶をしていた。
「殿、どうぞご無事で」
春はいつものように氏真の無事を願う。それがおかしく思えたらしく氏真は笑ってからかった。
「そなたはいつもそれだな。首尾よく駿河入りできるよう祈ってはくれぬのか?」
「申し訳ござりませぬ。もちろん駿河入りの首尾を祈っておりまする……」
そう言いながらも春はやはり氏真の無事を何よりも祈っている。氏真も春の想いを受け止めて微笑んでいる。
花も五郎も氏真の旅立ちを少し寂しく思いながら、無事を祈っているようだ。
「父上、ご武運をお祈りしておりまする」
「おいのりしておりまする」
「うむ、父が帰るまで元気でいてくれよ。何、さびしがることはない。戦に勝ってすぐ戻るゆえな。父が戻ってくる時を楽しみにしてくれ。その頃には駿河のことも片づけておろうゆえ……」
殿、そのような安請け合い、よろしいのでござりますか? 尾羽打ち枯らしてすごすごと戻ることはないように努めねばなりませんぞ……。
弥三郎は氏真一家のやり取りに目が潤むのを感じながら、内心氏真をからかってみる。
「おお、みるがよい。散る花が春風に誘われて、元の枝に戻ろうとしておるではないか……うむ! 一首浮かんだ! いまさらにい、くやしとやおもうう、ちるはなをお、さそいてえだにい、かえるはるかぜえ……」
「すてきなお歌! 父上様はお戻りになって、わたしたちを駿府に連れてお戻りになられるのですね」
花がそう嘆声を上げると、春も瞳に一層優しい光をたたえてうなずく。
「うむ、そうじゃ。二人の名前も詠み込んでおいたぞ。皆で駿府に戻ろうな」
「はい」
花と春は笑顔でうなずくが、五郎は何か不服そうだ。
「ねえ、僕の名前は?」
「はっはっは。そなたの名までは詠み込めなんだ。じゃがそなたも一緒じゃ。一緒に駿府に帰ろうな」
「……はい」
落花随風
今さらに悔しとや思ふ散花をさそひて枝に帰る春かせ(2―16)
家族としばしの別れを惜しんだ氏真は笑顔で騎乗し、氏真衆の中心に入って下知を与えた。
「これより牧野城へ参るぞ!」
「おう!」
いよいよ駿河入りだと信じる氏真衆の意気も上がる。皆氏真に力強く応え、牧野城へと向かう道を歩き始めた。
弥三郎も氏真の少し後に続いて馬を歩ませる。いつもカッコばかりで反発を感じるが、今日の氏真はなぜか少しだけ頼もしい。
弥三郎の顔には笑みが浮かびかけたがあわてて表情を引き締める。いやいや、今から緩んでどうする。
殿、これからが正念場でござるぞ。
今川の戦いはまだ始まったばかりだ。
(マロの戦国II・完)
『マロの戦国II -今川氏真合戦記-』第15話(最終話)、いかがでしたか?
氏真さん、とうとう駿河へと旅立ちました!
既に書いた通り、天正三年(一五七五)八月二十四日に諏訪原城降参、その後徳川勢は小山城に押し寄せましたが、城将岡部長教の堅守と、激怒した武田勝頼の後詰で、一時撤退しました。
氏真さんも駿河確保を果たせなかったのですが、前回見た通り、九月十三日の「後の月(栗名月、豆名月)」を見ながら詠んだ十三首には撤退を残念がる様子が見えません。
最後の一首の「月前祝」という題には前向きさが感じられます。「友」家康の約束に期待していたようですね。
そこから半年近く動きがなかったようですが、家康の約束(?)は、翌天正四年(一五七六)の氏真の諏訪原城入りという形で果たされました。
三月十六日、家康は東条城主松平甚太郎家忠とその母方の叔父で補佐役の松平周防守康親に、書状を出しました。
目的は二人の「氏真駿河入国」補佐に関する指示です。
*氏真に対し粗略にせず意見具申すること、
*味方の逆心の企ては糾明し、法にのっとり下知すること
*敵方からの「忠節退転」の申し出があれば二人に確認する
などの指示です。
家康は他にも、牛久保城主牧野康成も常駐する定番衆とし、深溝松平家当主松平家忠などを交代で城に詰める牧野番に任命ししました。
家康は氏真の牧野城入城を機に本気で駿河に攻め込むつもりだったようで、書状で「氏真駿河入国」と記しています。
諏訪原城の牧野城改名エピソードや、松井忠次の松平周防守改名など、ダジャレ風命名が好きな家康さんならではですが、その意気込みが表れていますね。
周の武王は弟周公旦の補佐を得て紂を滅ぼしました。家康は氏真を武王になぞらえ、築山殿を義元の養女として娶った自らを周公旦になぞらえたのかもしれません。
また、武王は父文王以来の仁政で人心を得て悪逆な紂を倒したといわれます。
氏真が武田と徳川双方に属する今川旧臣を味方にして駿河に攻め入る事を期待し、示唆したのかもしれません。
【天正四年(一五七六)今川氏真詠草はいずこへ?】
さて今回の投稿にあたって氏真詠草について気になったこと、対処せねばならなかったことがあります。
それは、天正四年の今川氏真詠草の特定です。
注意深い読者の皆さんは、今回投稿で和歌の通し番号が変わったのに気づかれたことでしょう。今までほとんど「1-○○○」だったのが、今回、天正四年(一五七六)最初の「春曙雁」の一首の番号は(2―11)なんですね。
『マロの戦国I』のどこかの後書きで書いただけなんですが、本作が使っている観泉寺史編纂刊行委員会編『今川氏と観泉寺』(吉川弘文館、1974年)には以下の詠草があります。
1 今川氏真詠草(天正三年)
今川氏真が織田信長に会うために上洛した年の新春から長篠の戦い、諏訪原城城主時代までの旅程や訪問先が詳細に分かる四百二十八首。
2 百首(自筆)
観泉寺所蔵の百首。天正四年(一五七六)頃に詠まれたもの?
3 法楽百首
宮城県図書館伊達文庫所蔵の百首。天正六年(一五七八)頃に詠まれたもの?
4 「玄旨紹巴」の百首その一
5 「玄旨紹巴」の百首その二
氏真は親交のあった「玄旨紹巴」、戦国武将 細川藤孝(幽斎玄旨、一五三四~一六一〇)と連歌師 里村紹巴(一五二五~一六〇二)の二人が別々に詠んだ百首を借りて書写し、同じ題で合計二百首詠んだもの。
この二巻は天正十年(一五八二)以降伊勢国 神戸(三重県鈴鹿市)という場所で綴られたらしい。本能寺の変後の氏真の動向を推測する手がかりになる。
6 詠草中
今川氏真が三十八年間に詠んだ詠草から抜き出されたとされる八百十六首。天正三年詠草との重複がないので天正四年(一五七六)から氏真が亡くなる慶長十九年(一六一五)までの期間と推定。
7 詠十五首和歌
氏真が三条西実澄(後に実枝と改名)と北条氏康と共に同じ題で詠んだ和歌。実澄は細川藤孝に古今和歌集解釈の秘伝「古今伝授」を伝えた当代一流の歌人。氏康は氏真の正室 早川殿の父なので、氏真にとっては舅であり、心強い味方でした。
遺 作品拾遺
現存する様々な史料に散見される氏真の和歌五十二首を集めている。年代や背景が不明な歌がほとんどだが、小田原退去の時に詠んだという有名な「なかなかに」の歌がここに掲載されている。
本作中で「1-○○○」という番号があるのは「1 今川氏真詠草(天正三年)」所収、「2-○○○」は「2 百首(自筆)」所収なのです。
ここで、今回問題なのが、「1 今川氏真詠草(天正三年)」に、九月十三日名月十三首の後に、諏訪原城での秋から冬の折々に詠んだ歌が収録されていることです。
しかもその内容が暗い。どうやら氏真が思い通りに駿河攻略を進められず、心が折れかけていた時期の歌なのです。
何が問題か? 先ほどの天正四年三月家康書状がこれから発足する氏真サポート体制に関する指示のはずなので、諏訪原城での秋から冬の折々に詠んだそういう歌は、天正四年のものでなければいけないはずなのです。
つまり、「1 今川氏真詠草(天正三年)」はどうやら天正三年から四年の二年越しの詠草らしい。
そして、天正三年九月から四年七月までの時期が空白と思われるんです。
そこで、今回その期間の詠草の特定作業をしてみました。
結論を言うと、「2 百首(自筆)」と「6 詠草中」の冒頭が天正四年の一年をカバーしているようです。
「2 百首(自筆)」は沙弥宗誾という自署があります。
「沙弥」とは戒律を授けられて一人前になる前の少年修行者、あるいは大人になっても何かの事情で戒律を授けられなかった初級の修行者のことだそうです。
天正五年(一五七七)までに宗誾と名乗ったと見られる氏真さんが自ら新米の仏弟子(在家信者)として「沙弥」と謙遜したと取ってよいように思えます。
内容は希望に満ちた春から元気がなくなる秋、上洛中?京都を懐かしむ一首があり、諏訪原城入り前から城主辞任までの氏真さんの心の軌跡にも合うように思います。
なお、「3 法楽百首」も沙弥宗誾となっているのですが、京都周辺にいるかと思われる歌が散在しているので、その翌年のものかと想像しています。
「6 詠草中」は氏真が後半生の三十八年間に詠んだ詠草の抜粋とされ、ほぼ時代順と推測されます。
天正三年詠草との重複がないので天正四年(一五七六)から氏真が亡くなる慶長十九年(一六一五)までの期間と推定され、ある方法で一部の和歌の年次をほぼ特定できます。
どうやって特定するのかは、今川氏真評伝で書きますのでご期待ください。
ちなみに「4 「玄旨紹巴」の百首その一」「5 「玄旨紹巴」の百首その二」は、細川藤孝が幽斎玄旨と書かれているので、天正十年(一五八二)以降です。
最近細川藤孝の妙衆集冒頭の百首と突き合わせたら、「4」の題と完全一致しました。歌ごとに突き合わせるとまた面白いことが分かりそうです。
こちらも今川氏真評伝で書きます。
「7 詠十五首和歌」は氏真さんがまだ若かったころ、舅の氏康と詠んだものです。
そういうわけで、氏真さんご一行が諏訪原城へと向かう今回は、「2 百首(自筆)」から歌を採用したわけです。
【重大発表! 今川氏真評伝と『マロの戦国III』(仮題)について】
さて、長らくご愛顧いただきました『マロの戦国II -今川氏真合戦記-』今回第15話で完結です。
この最終回、前回投稿からずいぶん時間が経ってしまいました。最後まで読んでくださった皆さん、ご辛抱いただきありがとうございます。
天正四年春の詠草はどれか、この後の展開をどうするか、で悩んじゃいましたが、何とか自分なりに決着をつけました。
今までありがとうございました。
結末は打ち切りになるジャンプ連載風にしましたが、ここらが区切りと思ったんです。
多分天正三年の初上洛から諏訪原城へと出発するこの時期が大人になってからの氏真さんの一番いい時期だったと思います。
そしてここからが氏真さんにとってきつい時期の再開なんです。
氏真さん、一般に思われている以上にまだまだ波乱万丈だったようです。
何が起こったのか?
それは今川氏真評伝と『マロの戦国III』(仮題)で書きます。
今川氏真評伝は、かなり研究色も強い内容になりますが、あっとびっくりの新事実を公開いたします。
氏真さんや周辺人物の人生の物語としても楽しんでいただけると思います。
『マロの戦国III』(仮題)ですが、こういうタイトルで書くべきか、も含め、結構考え込んでいます。コメディーの要素はほとんどないんです。
多分九月までには今川氏真評伝をまとめ、『マロの戦国III』(仮題)に取りかかるか?
もうちょっと考えます。
以上、『マロの戦国II -今川氏真合戦記-』最後の後書きでした。
これからも色々書いていきますので今後ともよろしくお願いいたします。
それでは皆さん、また会う日まで、ごきげんよう!
***********************************
こちらもご覧ください。
祝! 諏訪原城が続日本100名城に選定されておりました!
諏訪原城 Shizuoka城と戦国浪漫(静岡県のサイト)
http://www.sengoku-shizuoka.com/castle/2103009/point.php
続日本100名城(PDFが開きます)
http://jokaku.jp/wp-content/uploads/2017/04/bf93ec3a1c5eefad5b2c6e528ade2f20.pdf
***********************************
決定版! 今川氏真辞世研究!
http://ameblo.jp/sagarasouju/entry-12221185272.html
お知らせ1。
世界初!天正三年氏真上洛経路地図公開!
http://ameblo.jp/sagarasouju/entry-12189682350.html
『マロの戦国』執筆にあたって天正三年(一五七五)の今川氏真上洛経路をグーグルマップで公開しています! 参考に是非ご覧ください!
詠草に残されただけで約160か所を訪れた氏真さんの行動力には驚かされます。
この地図は三月十六日信長との対面及び四月三日~四日飛鳥井邸蹴鞠以外は詠草の和歌と詞書から割り出したものです。
これ以外にも実務的な外出もこなしているはずですが、そちらは知るすべがありません。
この後長篠の戦いに参加し家康から遠江の牧野城を任されたことはご存知の方も多いでしょう。
しかし牧野城主を辞任してからの足取りはほとんど記録に残っていません。
現在苦闘中の今川氏真伝では天正四年以降天正年間の居所推定にも挑戦して、注目に値する事実を発見しましたので、公表する予定です。
お知らせ2。大河ドラマ「おんな城主直虎」を生温かく見守るブログ
2017年大河ドラマは「おんな城主直虎」。
史実を踏まえつつ、大河ドラマと井伊直虎とその周辺に関するあれこれを「直虎」ブログに書いていきます。
こちらも是非ご覧ください!
大河ドラマ「おんな城主直虎」を生温かく見守るブログ
http://ameblo.jp/sagarasouju/
本作は観泉寺史編纂刊行委員会編『今川氏と観泉寺』(吉川弘文館、1974年)所収の天正三年詠草の和歌と詞書に依拠しながら、上洛後武田との合戦に身を投じた氏真の日常に迫ります。