マロの駿河入り(一)後の名月
『マロの戦国-今川氏真上洛記-』の続編登場です!
氏真さんにとってはビッグイベント、でも弥三郎にとってはどうでもいい、「後の名月」ですよ!
海の向こうでも名月を愛でる?
また時雨に降られる氏真さん。
相変わらずしぶとい風流ぶり。
月を愛でる若女房?
空を観じてみたり。
君が代を祝い月を見る国民?
マロの駿河入り
一日行軍を続けて徳川勢はその日のうちに浜松に帰り着き、氏真衆も期待通り十二日中に戻ることができた。日暮れ前に屋敷に戻った氏真を春がいつものように喜んで出迎えてくれた。
「帰ったぞ」
「ご無事のお帰り、うれしゅうござりまする」
「いくさ帰り故、なにもみやげはないがな」
「ご無事でお戻りになられるのが何よりうれしゅうござりまする」
「そなたはいつもそれだな」
口では気のない受け答えをしつつも、いつも自分の無事を心から祈っていてくれる春の愛情を感じているのだろう、氏真は笑顔になった。
「おみやげはないのでございまするか?」
一方まだ六歳の五郎はおみやげがないと聞いて不満を隠さない。
「これ五郎、父上のご無事が何よりのおみやげなのですよ。父上、お帰りなされませ」
花が五郎をたしなめた。十歳なのでもう立派な分別がある。
氏真は機嫌を悪くするでもなく五郎に笑顔で語りかけた。
「うむ。すまぬな五郎。しかしみやげと言っては何じゃが父は十三夜の名月を連れて帰って参ったぞ」
「めいげつ?」
「うむ。明日は九月十三日故、明日の月は後の名月というのじゃ。また父と一緒に月を見て歌を詠もうな」
「……はい」
「そう言えば助五郎は戻っておろうな」
「はい、お知らせをいただいてお月見の準備万端整えておりまする。五郎殿、父上が後の名月を連れてお戻りになられた故明日の夜は栗菓子やお団子を供えてお月見ですよ」
「はあい!」
いつも子供といる母親の春の方が説明がうまい。何が子供の心を引き付けるか分かっている。栗菓子や団子と聞いて五郎は喜んだ。
その夜は早々に解散して氏真も弥三郎たちも軍装を解き、久しぶりに我が家でゆっくりと休んだ。
明けて九月十三日、弥三郎は日中今回の出陣で使った兵糧や武具の数量などをまとめて書き付けて家宰の岡部三郎兵衛に報告して過ごしたが、夕方になると氏真の月見に呼ばれた。弥太郎が家康に召し出されてから弥三郎が呼び出されることが多くなっている。和歌が分からない弥三郎としては気が進まないがこれもご奉公と思って顔を出した。
氏真の屋敷の庭では与兵衛が黙々と働いて、もう月への供え物やススキの穂、秋の七草などがそれらしく飾り付けられていた。やがて氏真一家も縁側に出て来た。弥三郎も月見の邪魔にならない所に控える。
「おう、今宵の月も美しく冴えておるのう……なあ、五郎や」
「もぐ、はい……」
筆と短冊を手にした氏真は歌道の道に五郎を引き込みたいらしく、折にふれてこうして五郎の関心を引こうとするが、幼い五郎は団子や栗や柿、栗菓子を食べるのに夢中だ。弥三郎も風流っ気より食い気の方なので、五郎に共感する。
五郎に相手にされない氏真だが、いつものことなので気にしていないようだ。その一方で、珍しく弥三郎にも気を使う。
「弥三郎、せっかくの月見じゃ。そなたも酒でも団子でも菓子でも大いに楽しむがよい」
「ははっ」
「誰ぞ、弥三郎に酒やら食い物やら出してやれ」
「へえい」
与兵衛が氏真の呼びかけに応えて酒やら団子やら持って来てくれる。
「栗菓子もな」
「へえい」
「この栗きんとんはこの日のためにわざわざ作らせたのじゃ。そなたも味わってくれ」
「かたじけのう存じまする」
よほどものほしそうに見えたのかな、と少し気まずく思いながら弥三郎もお相伴にあずかった。
氏真は機嫌よげに五郎や弥三郎の様子を眺めてから、早速一首詠み上げた。
「今宵の最初の一首はもう決まっておるのじゃ。なをしらぬう、もろこしにてもお、めでてみんん、もなかにまさるう、つきのこよいはあ……」
「遠く離れた異国を思いやりながら歌をお詠みになるなんて、素敵……」
早速花が氏真の歌をほめ上げる。氏真も一層機嫌をよくしたようだ。
「うむ、そなたにこの思いが分かってもらえて父はうれしいぞ。天の原、ふりさけ見れば春日なる、三笠の山にいでし月かも……、五郎や、この歌は百人一首の歌じゃが詠み人が誰か分かるか?」
「もぐ、ええと……」
「五郎殿はまだ六つでござりまする……」
栗きんとんを食べるのに夢中になっていた五郎は氏真の問いかけに不意をつかれて目を白黒させている。そこに春が助け舟を出した。
「阿倍仲麻呂でござりましょう?」
横から花が無邪気に口を出す。
五郎からの答えを期待していたらしい氏真は一瞬浮かぬ顔をしたが、花には笑顔を浮かべて、また蘊蓄をたれる。
「うむ、そうじゃ。阿倍仲麻呂は唐国に渡った学生でな、かの国で出世した後何年ぶりかに遣唐使と共に日本へ帰ろうとした時にこの歌を詠んだのじゃが、帰りの船が嵐に遭ってしまったというのじゃ」
「かわいそう……溺れて死んでしまったの?」
花が眉をひそめて聞く。
「いや、運よく船は唐国の南に漂い着いたので助かった。じゃが、あちらの帝が船旅は危ないから残って仕えてくれよと命じられて、あちらで亡くなったという事じゃ」
「まあ、やっぱりかわいそう……」
「そうじゃな。父も此度のいくさが長引いて陣中で後の名月を見る事になるかと思っておったらこの歌を思いついたのじゃ」
「父上が無事にお戻りになって本当に良かった」
花が安堵したように言うと、母親の春も我が意を得たりと言うように微笑んでうなずいている。
「うむうむ、父もこうしてそなたらと一緒に月を愛でるのがうれしいぞ。弥三郎、マロは帰り道でもそう申したよな?」
「は、はい、そう仰せにござりました……」
五郎と同じようについ飲み食いに夢中になっていた弥三郎は慌てて答えたが、その後気のきいた事を思いつかないので言葉が途切れ、その場に沈黙が広がった。弥三郎は弥太郎と違ってこういう時の当意即妙の受け答えが苦手なので少し焦った。すると、
「ちちうえ、ゆりのはながひかっておりまする」
と五郎が庭の向こうの柴垣あたりを指差して声を上げた。皆の注意が庭先に向けられたので弥三郎は安堵した。
庭を見た氏真が微笑んで言った。
「五郎、あれは菊じゃ」
「きくでござりまするか……」
間違いを指摘された五郎は少し残念そうだ。
「うむ。じゃが五郎、そなたの言う通り、菊の花が月明かりを浴びて美しゅう輝いておるな……うむっ! 一首浮かんだ。におわずばあ、きくよりほかのお、はなとみんん、つゆにやどかるつきのまがきをお……」
「菊の花の露にお月さまが宿を借りるなんて、素敵……」
「うむうむ……」
花が氏真の歌を気に入ったらしく、ほめ上げる。氏真も機嫌よさげである。
好みの似通った父娘二人で楽しく過ごせるなら、他人の自分は解放してほしい。そう弥三郎が思っていると風が強くなって来た。
「おお、松風が聞こえる。くまなき月の夜に聞く松風は格別じゃのう。松風もそこを心得ておるのであろう。うむ、一首浮かんだ」
氏真の風流仕様のおつむには松風が聞こえるらしいが、無風流仕様の弥三郎は天気の変わり目としか思わない。そして弥三郎は酒と食い物を口に運びながら意地悪な期待をした。
「あら……」
しばらくすると夜空が曇って月を隠し、花が小さな声を上げると、弥三郎の期待通りぱらぱらと雨音が聞こえ始めた。与兵衛が急いで庭の供え物を片付ける。
「うむう……」
氏真が不本意そうな声を上げると、弥三郎は顔を伏せて会心の笑みをこぼした。いい気味でござる……。
しかし、これしきでへこたれるような氏真ではない。しばらく何かを探すような目つきで庭を見渡していたが、
「おお、あの桂の木を見よ。時雨に濡れ染められた葉の色が一層鮮やかではないか……」
と指さす先を見ると、時雨の途切れる合間に、少し離れた所に立っている庭の桂の木が微かな光の中紅葉を濡らしているのが見える。
「うむっ、一首浮かんだ。そめてゆくう、しぐれのほどぞお、しられけるう、ふけていろこきい、つきのかつらにい……」
「父上のおっしゃる通りだわ。時雨はもみじの葉を染めるものなのですね」
「うむ、そうじゃ。時雨は月を隠しても、木や草花に潤いを与え、鮮やかに染め上げるものなのじゃ。風につけても、雨につけても風雅に思いを致す我が心、そなたに分かってもらえて父はうれしいぞ」
いつもの事ながら、氏真のしぶとい風流ぶりだ。殿、世の侍は風につけても、雨につけても弓矢の事に思いを致しておるのでござりまするぞ。そう言ってみたくなる弥三郎だがいつものように我慢する。
「しばらく待てば時雨もやむであろう」
氏真はそう言って庭を眺めて粘っているが、時雨は弥三郎に味方しているのか、雨足は一層強くなる。満腹でとうにおねむになっている五郎を抱いていた春が奥に入り、花も眠くなったらしく、氏真に挨拶して下がっていった。後には氏真と弥三郎が取り残された。
弥三郎もおねむだが、「もののあわれ」が分からないと「まことのもののふ」と認めてもらえず知行をもらえなくなるかも知れないので、あくびをかみ殺しながら氏真が月見をお開きにするのを待つ。
「ふむう……」
一人縁側に置き去りにされた氏真を尻目に弥三郎は氏真が諦めるのを待っていたが、そうは行かない。不服げな表情をしていた氏真は何かにハッと気付くと、目を閉じて微笑んだ。
「弥三郎、目を閉じてみよ。雨音に混じって衣を打つ音が聞こえて参るぞ」
「はっ」
弥三郎は口で応じるふりをしたが、氏真が本当に目をつぶっているのを確かめつつ、一瞬だけ憎しみを込めて氏真をにらんだ。くう、まだ小賢しく風流ぶるか……。
「あれはどこの家の者かのう、雨音に合わせて音曲を奏でておるようではないか……」
芝居がかった様子で微笑みながら目を閉じて音に聞き入る氏真をいまいましく思いながらも目をつぶると、確かに雨音に混じって衣を打つ音が聞こえる。
とんとん、とんとん、と明日自分が着る物か、主人の着物か分からぬが、衣の艶出しと着心地のために砧で衣を打っているのはどこの女だろう? あの家のうら若い女中か、あの家の女房か……。耳を澄ませて聞いていると、確かに風情のあるものに思えてくる。
しばらく耳を澄ませていると、別な方向からも衣を打つ音が聞こえ始めた。氏真も気付いたようで独り言のようにつぶやくのが聞こえた。
「二つの砧が雨音に合わせて共に音曲を奏でておるようではないか……」
後から聞こえ始めた砧の音は前から聞こえている音とは違う調子だが、前から打っている音に調子を合わせているようにも聞こえる。本当に調子を合わせて衣を打つのを楽しんでいるのか、単に他の家の者が音を立てている間に自分も済ませてしまおうと思ったものかは分からないが……。
恐らく近所の迷惑にならないように気を遣っているのだろう、どことなく密やかな二つの砧と雨の合奏に耳を澄ませているうちに、それが子守歌のように聞こえてきて、弥三郎は眠くなって来た。
「おお、時雨がやんで月がまた顔を出したぞ」
弥三郎がはっとして慌てて目をこすると確かに時雨がやんで月が見えていた。どのくらい寝ていたのか、寝ていたのが氏真に気付かれていないかどきどきしたが、氏真は気に介さぬように言葉を続けた。
「秋の時雨故少し辛抱すればこうしてまた月が見られるのじゃ。何を厭うことがあろうか。むしろ時雨の後の月の方がのどかな風情があるではないか」
「御意」
正直弥三郎には時雨の前と後の月の違いなんて分からないしどうでもいいが、とりあえず同意しておく。
「うむっ、一首浮かんだ。ときのまをお、なにいといけんん、うきぐものお、あとこそつきはあ、のどかなりけれえ……おや……、弥三郎、何か気づかぬか?」
機嫌よげに一首詠んだ後氏真はしたり顔で問いかけてきたが、弥三郎には分からない。
「はて、何でござりましょう?」
弥三郎の答えが優越感をくすぐったようで、氏真はますますしたり顔で微笑む。
「ほれ、時雨がやんで月が見えたら砧の音もやんだではないか」
「あっ、左様でござりまするな」
確かに衣を打つ音も止まって、時雨の後の月夜は静寂に包まれている。
「なぜか分かるか? それはな、衣を打っておった女子どもも時雨の後に顔を出した月に見とれておるからじゃ。どこぞの乙女か若女房か知らぬが風雅の心を知っておるのであろうなあ……うむ、また一首浮かんだ。しずのやにい、うちふかしたるさよごろもお、こえのたえまや、つきをみるらんん……」
氏真は一首詠みながら何事か思い描く様子で悦に入っている。器量のよい女子が月に見とれている様子でも想像しているのだろう。いや殿、不細工な女子どもがたまたま衣を打ち終わって月など見向きもせずにどかどかと片付けをしているだけかも知れませぬぞ。弥三郎はそう言ってやりたくなったがもちろん我慢する。
氏真は弥三郎の心中など気にも留めずにまたやらかす。
「……月にかかる雲が西にたなびいておる。都から見える月にも雲がかかっておるのかのう。都が恋しいのう……うむ、一首浮かんだ。……月を見ると昔の事が色々と思い出されてのう。恋しさがこの空に満ちてくるようじゃ、うむっ、また一首浮かんだ……月の光が冴えると物思う心も深うなる……」
盃を重ねたせいもあって氏真は月にまつわる過去を思い出しながら感傷に浸り始めたようだが、やがてそれを振り払うように頭を振ってまた続ける。
「いやいや、昔の思い出に囚われてはならぬな。弥三郎、あの月を見よ。月はただひとり高きにあって俗念とは無縁なのであろう。マロもああなりたい……うむ、一首浮かんだ」
何と答えていいか分からないし、氏真は語り続けて返事を期待している様子がないので、弥三郎は中途半端にうなずいて見せた。本音を言えば、駿河を取り戻したい、とか、領地が欲しい、とか、家臣にも知行をもっとやらねば、とか言った俗念は持ってほしいが当然それは言えない。
弥三郎は心の中で紺や氏真が詠んだ歌の数を数えた。今の歌で十首目だ。十三夜に合わせて十三首詠むならあと三種の我慢か。随分夜も更けてきたなと思っていると、氏真がまた一首詠んだ。
「夜も更けた。この月夜が終わるのが惜しいのう。いやいや、今宵独り済む月はそれすらも執着、一切空を観ぜよと諭しておるようじゃ。うむ、また一首浮かんだ。ふけゆくをお、おしとおもいしこころだにい、あとなきそらにい、つきひとりすむう……」
夜が更けたという同じ事にもお互い違うことを思いつくもんだなあ。この退屈な夜更かしを早く終えて寝たいばかりの弥三郎は妙なことに感心した。
弥三郎がそんなことを考えていると、氏真はまた別なことを見つけてしゃべり出した。
「おお、雪をかぶった富士の高嶺は月影を浴びて冴えて冴え凍っておるようじゃ。富士の山神は今宵が秋の夜である事も忘れておるかもしれぬな。富士の御手洗も凍るほどに冷たいのであろうな。うむっ、一首浮かんだ……」
弥三郎には氏真が風流ごとでなければ神仏に心を惹かれる事が気にかかる。風流ごとを離れるなら神仏に頼まず今の戦国乱世を戦い抜く事を考えてくだされ。
そんな事を考えている弥三郎に氏真は話しかけた。
「マロはいささか浮世離れしすぎじゃな。弥三郎、そなたもそう思うであろう」
心中を見透かしたように氏真に話しかけられて弥三郎は慌てた。
「いえいえ、決してそのような事は……」
取りあえず否定するが図星なので、ごまかしの言葉が続かない。氏真はそんな弥三郎の慌てぶりを気にする様子もなく話し続ける。
「いやいや、よいのだ。昔は館に家臣や公家衆を集めて歌会を催しながら月を見たものであったが、今はこうして歌を詠むのはマロ一人……。弥三郎、そなたもさびしいであろう」
「そうですなあ……」
さびしいというよりは退屈というのが本音の弥三郎だが、氏真の気持ちも分かるような気がする。とは言っても今川家の衰えを認めるようなことも言えないので、曖昧な返事しかできない。
「しかし、もう少しの辛抱じゃ。信長や家康が武田を討てばやがて駿河も取り戻せるであろう。いずれみかどの御威光が天下にゆきわたって国中の民が名月を眺められる時も来るであろう。その時には昔のように盛大に月見を楽しもうではないか……」
「御意……」
弥三郎は期待を込めて答えた。と言っても、期待しているのは氏真が今夜の月見のまとめに入っているからだ。あと一首。
「うむ、今宵の最後の歌は君が代を祝う歌にいたそう……一首浮かんだぞ。くもりなきい、きみがよのかげもひさかたのお、つきをぞあおぐう、よものくにたみい……」
「まこと、よいお歌でござりまする……」
「うむうむ……」
弥三郎は何がいいのかは言わなかったが微笑んで氏真の歌をほめ上げた。長たらしい月見がやっと終わった。やっと眠れる。
夜更けの月がそれぞれに微笑む氏真と弥三郎を照らしていた。
九月名月十三首
九月十三夜 月照菊 月前風
名をしらぬ唐にてもめてゝみむ最中に増る月の今夜は(1―384)
匂はすは菊より外の花とみん露に宿かる月の籬を(1―385)
小夜深て隈なき月に吹てこそ心有けれ枩風の声(1―386)
月前時雨 月前雲 月前擣衣
染て行時雨の程そしられける更て色こき月の桂に(1―387)
時の間を何いとひ劔浮雲の跡こそ月は閑なりけれ(1―388)
賤の屋に打ふかしたる小夜衣声の絶間や月を見るらん(1―389)
月前遠情 月前紅葉 月前恋
月みれは通ふ都の雲井哉心さそはん人しなき身に(1―390)
もれ出る月の光のうす紅葉見こしの色そ染まさりける(1―391)
恋しさや天津空にもみちぬらむ心のうちにこもる月影(1―392)
月前思 月前空観 月前神祇
それならぬ思ひをさへにそふる哉そを忘んと向月影(1―393)
深行を惜と思ひし心たに跡なき空に月独すむ(1―394)
秋の夜を高ねの雪に忘れてや月影氷るふしの御手洗(1―395)
月前祝
曇りなき君か代の影も久方の月をそあふく四方の国民(1―396)
『マロの戦国II -今川氏真合戦記-』第14話、いかがでしたか?
天正三年九月十三日。風流人の氏真さん、後の名月を愛で、十三首もの歌を詠みました。
おそらく毎年の恒例行事だったでしょうが、現存する氏真詠草で後の名月に十三首も詠む例はありません。
十五夜の時と同様、氏真さんの作歌意欲が大変に高まっていたのだろうと思われます。
『マロの戦国』が依拠している天正三年今川氏真詠草は、上洛から諏訪原城時代までの氏真さんの激動期の詠草で、氏真さんに関する様々な事実を教えてくれます。
天正三年詠草と、その後失意の出来事が多かった時期の詠草を比べると、氏真さんは自身を取り巻く状況が好転している時に時間ができると歌を多く詠む傾向が見られます。
調子がいい時に気分が乗って歌を詠むというのはあまり珍しいことではないと思います。
一方、俗事で多忙になると、煩悩に惑わされて、風流や仏教の教えをおろそかにする事を嫌って歌を詠みたがるような印象もあります。
不幸や失意の時期には感情を押し込め、気が乗らないのだと思われますが、自分の想いをぎゅっと押し込めた後に、それを吐き出すような歌を詠む事があります。
さて、今回の後の名月も面白いです。
最初の「名をしらぬ唐にても…」の一首は安倍仲麻呂の「…三笠の山にいでし月かも」を思い起こしたでしょうね。
染て行時雨の程そしられける更て色こき月の桂に(1―387)
その後雨が降っても月見をやめない氏真さん。十三首詠むまではやめない、と最初から決めていたのでしょう。相変わらずのしぶとさです。
そして雨がやんで次の一首。
時の間を何いとひ劔浮雲の跡こそ月は閑なりけれ(1―388)
雨降って地固まる、とでも言いたいのでしょうか。時雨がやむまで待つのをいとうことがあろうか、雨の後の月の方がよいよ、というわけです。
これは懸川開城後の自身の境遇も暗示しているのかも知れません。氏真さんは後世の人が思うより、しぶとい性格だったようです。
その後は月が再び出た後砧を打つ音が聞こえなくなったのを女性が月を見ているのだろうと想像したり、都が恋しいと詠んだり。
夜が更けるのを惜しいと思うのも煩悩、空に澄む月も戒めていると思ったり。
風流心と空想、仏教的無常観はいつもの氏真さんですね。
そしてこちらが最後の一首。
月前祝
曇りなき君か代の影も久方の月をそあふく四方の国民(1―396)
上洛時にもしばしば見られた皇室尊崇と民衆の安寧を願う一首です。
氏真さん、かつての敵信長や家康に与するのは朝廷や民衆のためだと自分を納得させようとしていたのでしょう。
こうして天正三年九月十三日の後の名月は終わりました。
氏真さんたち、束の間の平穏を楽しみましたがこれからどうなることやら。
それは次回のお楽しみ!
『マロの戦国II』、次回もお楽しみに!
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こちらもご覧ください。
祝! 諏訪原城が続日本100名城に選定されておりました!
諏訪原城 Shizuoka城と戦国浪漫(静岡県のサイト)
http://www.sengoku-shizuoka.com/castle/2103009/point.php
続日本100名城(PDFが開きます)
http://jokaku.jp/wp-content/uploads/2017/04/bf93ec3a1c5eefad5b2c6e528ade2f20.pdf
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決定版! 今川氏真辞世研究!
http://ameblo.jp/sagarasouju/entry-12221185272.html
お知らせ1。
世界初!天正三年氏真上洛経路地図公開!
http://ameblo.jp/sagarasouju/entry-12189682350.html
『マロの戦国』執筆にあたって天正三年(一五七五)の今川氏真上洛経路をグーグルマップで公開しています! 参考に是非ご覧ください!
詠草に残されただけで約160か所を訪れた氏真さんの行動力には驚かされます。
この地図は三月十六日信長との対面及び四月三日~四日飛鳥井邸蹴鞠以外は詠草の和歌と詞書から割り出したものです。
これ以外にも実務的な外出もこなしているはずですが、そちらは知るすべがありません。
この後長篠の戦いに参加し家康から遠江の牧野城を任されたことはご存知の方も多いでしょう。
しかし牧野城主を辞任してからの足取りはほとんど記録に残っていません。
現在苦闘中の今川氏真伝では天正四年以降天正年間の居所推定にも挑戦して、注目に値する事実を発見しましたので、公表する予定です。
お知らせ2。大河ドラマ「おんな城主直虎」を生温かく見守るブログ
2017年大河ドラマは「おんな城主直虎」。
史実を踏まえつつ、大河ドラマと井伊直虎とその周辺に関するあれこれを「直虎」ブログに書いていきます。
こちらも是非ご覧ください!
大河ドラマ「おんな城主直虎」を生温かく見守るブログ
http://ameblo.jp/sagarasouju/
本作は観泉寺史編纂刊行委員会編『今川氏と観泉寺』(吉川弘文館、1974年)所収の天正三年詠草の和歌と詞書に依拠しながら、上洛後武田との合戦に身を投じた氏真の日常に迫ります。