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マロの城取り(三)「三河の小せがれ」

『マロの戦国-今川氏真上洛記-』の続編登場です!


諏訪原城陥落! 余勢を駆って進撃する徳川勢。

しかしその前に立ちふさがる憎いあん畜生!

あいつもついに大激怒!

しかし、うれしそうな氏真さん。

九月十二日、って何の記念日!?


徳川勢はその日は小山城から三里ほど離れた場所で野営し、軍議を開いて小山城攻めの諸将の受け持ちを決めた。


「此度もまずは開城を勧める使者を立てるか」


家康がそう言うのは、小山城の城主が今川家の旧臣岡部(おかべ)五郎兵衛(ごろべえ)長教(ながのり)だからである。岡部長教は元今川家中切っての武辺者だ。


今から二十五年ほど前の天文十七年(一五四八年)の小豆坂の戦いでは、序盤で松平勢を突き崩して勢いに乗って攻め掛かる織田勢に横槍を入れて、今川方が勝利するきっかけを作った。その時の長教の勇姿は敵の織田方でも高い噂となったという。その戦功を賞した義元は長教のその日のいでたち筋馬鎧と猪の立物の兜を家中で長教以外の者が真似ることを禁じた。


その後織田方との戦いでは最前線の鳴海城をよく守り、桶狭間の戦いでは義元敗死を知った後も孤塁を捨てずに織田方の攻撃を持ちこたえた。


その忠勇に感じ入った信長から開城を勧められると義元の首級との交換を求め、義元の首級を取り戻してから駿府に戻った。長教の活躍はそれでは終わらず、義元の首級を守って駿府に戻る途中では、織田方の刈谷城を奇襲して城主水野信近を討ち取った。


家康は義元を烏帽子親として元服した時元信と名乗ったが、信玄に仕えてから名を変える前の長教も元信と名乗っていた。駿府時代に岡部一族と親交の厚かった家康には長教の武勇にあやかりたいという気持ちがあったのかも知れない。


「五郎兵衛を味方に付けられればこれ以上の吉事はござりますまい」


と氏真が応じれば、


「此度もそれがしにお使者をお任せ下されませ」


と弥太郎がキリリと引き締まった顔でしゃしゃり出る。


「うむ。やってみてくれ」


家康はあっさり許可を与えた。氏真もお決まりのように弥三郎を振り返って言う。


「弥三郎、此度も介添えしてやるがよい」


「御意」


二匹目のドジョウがそうやすやすと捕まるかな、と思う弥三郎だったが、それは口に出さずにいた。


徳川勢は翌日昼過ぎに小山城を取り囲んだ。その日はいくさを仕掛けず、夜に矢文を射込んで翌朝弥太郎と弥三郎が開城を勧めるべく城を訪れる事を告げておいた。


夜が明けて敵味方の朝餉が終わる頃に弥太郎と弥三郎は矢文で告げたように城門に近づいた。


「それがしは朝比奈弥太郎泰勝! 城主岡部長教殿にお話したき事あり! 開門願う!」


弓鉄炮の間合いのぎりぎり外から弥太郎が声を張り上げると、城門の櫓に人が立ったがそれは長身の岡部長教ではなく、恰幅のよい白髪武者だった。


「拙者は武者奉行の孕石(はらみいし)主水(もんど)であーる! 長教殿は貴殿らにお会いする気はない! 早々に引き取られよ!」


嫌な奴が出て来た。弥三郎は自分でも顔が歪むのが分かった。孕石主水と言えば、駿府時代まだ竹千代と名乗っていた家康の隣に屋敷を構えていて、家康の家来と数々のいさかいを起こしていたという男なのだ。


竹千代の愛鷹が主水の屋敷に迷い込んでしまい、小姓が鷹を捕らえようとして敷地に入り込んだ時の話を聞いたことがある。それを見つけた主水が小姓を捕まえて殴りつけ、竹千代の屋敷まで引きずって来た事もあるという。


おそらく今川旧臣の中でも一番の偏屈者、反徳川の急先鋒に違いないのだ。


弥太郎も同じ思いらしく、あからさまに嫌そうな表情を浮かべているが、くじけずに主水に語りかけた。


「それがしも主命を帯びて参った身、引き取れと言われておいそれとは引き取れませぬ。同じ家中であったよしみに免じて少しだけでも話を聞いて下さるようお取次ぎ願いたい!」


確かに帰れと言われて帰るようでは子供の使い同然だ。しかし孕石主水も聞けと言われて話を聞くような男ではない。


「つべこべやかましいわ!」


そう言い放つと主水は後ろにいた誰かから鉄炮を受け取り、ほとんど狙いも付けずにぶっ放した。


無造作に放った一発だったが、鉄炮玉は唸りを上げて弥三郎と弥太郎の間を通り抜けて、背後の地面に突き刺さった。銃弾そのものはかすめもしなかったが、それが空気を切り裂くように飛んで作り出した衝撃波に撃たれて二人は一瞬言葉を忘れた。


それを見た孕石主水は呵々大笑した。


「いくさは言葉ではなく矢玉や命のやり取りをするものぞ! それが嫌なら都に上って公家衆と歌でも詠んでおれ!」


どうやら孕石主水は二人が氏真と一緒に上洛した事を知っているらしい。弥三郎がその事に少し驚いていると、弥太郎は珍しくカッとなったらしく、叫び返した。


「そのような振舞いをなさると後々のお為になりませぬぞ!」


「やかましいというておろうが!」


そう怒鳴り返した主水は後ろの者から別な一丁を受け取るとまた一発ぶっ放してきた。またほとんど狙いを付けなかったが、今度の銃弾は弥太郎の顔の近くを飛び、弥太郎はどちらによけたものかと一瞬慌てた表情を見せたが、身動きできなかった。


その様子を見た孕石は再び呵々大笑した。


「我らはお主らのケツが青い頃からいくさ場で命懸けの駆け引きをして参った。この城を取りたくば力で取りに来いと三河の小せがれに伝えよ!」


それだけ申し渡すと主水は櫓門から姿を消した。姿が見えなくなった主水が何かを言う声が聞こえ、それに応じてどっと笑い声が起こったが、その後城内はしんとして音沙汰がなくなった。弥三郎と弥太郎の二人はその場に取り残された。


「これは……取りつく島もないとは正にこの事でござるな」


一瞬あっけに取られた後弥三郎は我に返って弥太郎に話しかけた。見ると、いつもは落ち着き払ってキリリと引き締まった顔をしている弥太郎が目を吊り上げて城門をにらんでいる。


しかし弥太郎もいつまでもこうしていても仕方がないと観念したようで、


「いたし方ござらぬ。この上は戻ってありのままを申し上げるといたしましょう」


と言ってため息をついた。


戻った二人は氏真に事の次第を告げた。


「孕石主水、相変わらずの偏屈ぶりよのう」


二人の話を聞いた氏真も施す術がないとあきれたようにつぶやいた。


「無念ながら、あのような孕石主水を使者に立てた我らへのあしらいぶりからして、岡部殿は我らの話を聞く気など毛頭ないと考えざるを得ませぬ」


弥太郎も悔しげに答えた。


「まあ仕方あるまい。いつも調略がうまくいくというものでもなかろう。事の次第をありのままに家康に告げるといたそう」


氏真は弥太郎をなだめるように言うと、二人を連れて家康の本陣に行き、軍議の席で話し合いが進まなかった事を告げた。


「三河の小せがれ、とな……。あやつめ、このような所に出てくるとはな……」


氏真の話を聞く家康は苦々しげな表情を浮かべた。どうやら駿府時代に孕石主水との間に起こった事を色々と思い出している様だ。


「相済まぬことながら、どうやら岡部は調略に応じる気はないようじゃ」


「なんの、力で取りに来いと言うなら力で取るまでの事でござりましょう。父上、ここは我らにお任せくだされ。その孕石とやらに三河者の武辺を見せつけてやり申す」


氏真の言葉を引き取ってそう息巻いて見せるのは岡崎城主を任されている家康の嫡男信康、当年とって十七歳の若武者である。母親の瀬名から言い聞かされているらしく、氏真にはいつも敬意を持って接してくれる気持ちのよい若者だが、いくさの事となると決して遅れを取るまいといつも必死に力みかえっている。


「うむ、信康、忠次、そなたたちに任せる。孕石主水に一泡吹かせてやれ」


家康はそう言うと手際よく午後からの諸将の攻め口を決めて、軍議は散会となった。


「御屋形様、孕石主水は何故あれほどまでに家康様を嫌っておるのでござりましょうや?」


陣屋に戻った弥三郎はどうしても気になって氏真に聞いてみた。


「どうやら主水はマロの父上が子供の竹千代を大事にされていた事が不満だったようじゃな。そなた竹千代の屋敷がどこにあったか知っておるか?」


「いえ、そこまでは存じませぬ」


「少将の宮の町じゃ。隣には北条助五郎が屋敷を与えられておった」


少将の宮の町といえば今川一門や重臣中の重臣が住むことを許された特別な場所だった。そして、北条助五郎氏規は北条氏康の五男だ。母は氏真の父義元の姉で、氏真にとっては従弟に当たる。そんな所に屋敷を構える事を許されたとなると、家康はかなり厚遇されていたと見てよさそうだ。


「竹千代の屋敷のもう一方の隣に孕石の屋敷があった。孕石は主水の父親が花倉の乱で命懸けで働いた故マロの父上が屋敷を下されたと聞いておるよ」


花倉の乱というのは今川家先々代、氏真にとって伯父に当たる氏輝が急死した後に起きた家督争いだ。


その時になぜか氏輝だけでなくその弟彦五郎まで亡くなったので、当時仏門にいた四男の玄広恵探(げんこうえたん)と五男の栴岳承芳(せんがくしょうほう)が還俗して家中を二分して争うことになった。


栴岳承芳が師匠の太原雪斎と実母で父氏親の正室だった寿桂尼に助けられて時の将軍足利義晴から家督相続を認められ、戦いにも勝って家督を相続した。その時義晴から足利将軍家がその名に代々用いる義の一字をもらって義元と名乗ったのだ。


その戦いの功績で屋敷を与えられたというからには孕石一族も随分な働きをしたのだろう。しかしやっと与えられた屋敷の横に、今川家に対して何の功績もない子供が屋敷を構えたのだ。しかもその鳥や小姓が入って来て庭を荒らされれば面白くないだろう。


「なるほど、働きのない子供がそのようなお歴々の集まる場所に屋敷を構えたのが(かん)に障ったのでござりまするな」


「そのようじゃな。しかし主水も次第に情が沸いて家康に色々世話を焼いたり訓戒を垂れたりするようになったようじゃ。まあそれも家康にはうっとうしい事であったろうがのう」


徳川勢はその日の昼過ぎから城攻めに取り掛かったが、小山城の守りは堅かった。


台地の上に立つ小山城は三方を急峻な傾斜に囲まれており、徳川勢は大手門のある東方から攻めたが、三重に巡らされた三日月堀に接近を阻まれた。


孕石主水は大手門の櫓にしばしば姿を現して


「三河の小せがれには飽き飽きしたと言ったであろう、早々に尻尾を巻いて逃げくさるがよいわ」


などと嘲弄したり、音頭を取って城兵たちに笑い声を立てさせたりした。短気な信康は悔しがって強襲を繰り返したが、味方の手負いを増やすばかりであった。


「やめよ。主水の思うつぼじゃ」


家康は無理な城攻めをやめさせたが、


「三河の小せがれには飽き飽きした、か」


 と悔しさもにじませた。


その場ではどういうことか分からなかったが、後で氏真が弥三郎に解説してくれた。


「三河の小せがれには飽き飽きした、か。家康が駿府に来たばかりの頃飼っておった鳥がよく敷地に入ってきた故主水はそう言ういふらしておったようじゃな」


徳川勢が小山城を取り囲んだまま十日余りが過ぎた九月四日の夜、氏真は臨時の軍議に呼び出された。


「甲斐に潜ませておった忍びが戻って参った。三日前勝頼が後詰の軍勢を率いて甲府を出たとの事じゃ」


諸将は顔を見合わせた。


「忍びの者によると、勝頼は我らが深く攻め込んだ事にいたく腹を立てて、長篠で討ち死にした者の家からは年の頃十二三以上の者は出家していた者まで駆り集めて出陣したそうじゃ」


「となれば勝頼は死に物狂いの勢いで我らに向かって参りましょうな」


と言うのは酒井忠次だ。


「そうであろう。手負いの獣を相手にしても得るものはない。信長殿にもきつく言い含められておる事故、後詰の姿が見え次第囲みを解いて諏訪原城まで引き上げる」


家康の決断は早かった。嫡男信康はそれを悔しそうに聞いていたが、


「ならばせめて殿(しんがり)はそれがしにお任せ下され」


と申し出た。


「よかろう、ならば見事殿を務めて見せよ」


武田の後詰は翌五日の昼に小山城東方一里弱のあたりを流れる大井川に達し、渡河を始めた。徳川勢はかねてからの手配通りに囲みを解き、信康の手勢を殿軍として退き始めた。氏真衆も家康の本陣に付き従うようにして退いた。


殿を務める信康は小山城から城方の突出に備えつつ大井川東岸まで兵を出して後詰の軍勢の渡河を牽制し、全軍が小山城から十分離れた事を確かめてから手際よく兵をまとめて自らも退いた。家康の嫡男にふさわしい見事な采配であった。


諏訪原城まで軍を引いた家康は無事戻って来た信康の見事な采配をほめた後、数日間勝頼の出方を窺った。勝頼は小山城の外に陣を構え、決戦を求めて諏訪原城に迫るかと思われたが、十一日になって小山城に入った。徳川方では


「さすがの勝頼も寄せ集めの軍勢で我らに挑むのはためらったのであろう」


と噂し合っていた。


その情報を踏まえて諏訪原城で十一日の夕方に軍議が開かれた。


「勝頼が攻め寄せる気配がない故此度のいくさはここまでとし馬を納める」


家康は諸将にそう申し渡した。


「小山城まで落とせれば一挙に駿河境まで手中にできたと思うと口惜しゅうござる」


と信康は悔しがって見せ、酒井忠次もうなずいたが、家康は


「此度はここまででよい。その前にこの諏訪原城をしかと守り抜くことが肝要じゃ」


と答えて明日には浜松に発つことを決めた。諏訪原城には在番として東条松平家当主甚太郎家忠と牧野康成を残し、深溝松平の又八郎家忠にも諏訪原城の普請のためにしばらく留まるよう命じた。


明けて九月十二日、在番の衆を除く徳川勢は諏訪原城を出て浜松への帰途に就いた。もちろん氏真衆も一緒である。弥三郎は時折荷駄を運ぶ者たちの面倒を見つつ氏真に従ったが、馬上の氏真がうきうきとうれしそうなので、気になって話しかけてみた。


「御屋形様、此度は得るものの多いいくさでござりましたな」


「うむ、そうじゃな」


氏真はまんざらでもない表情だが、特に喜ぶ言葉も口にしなかった。


今回のいくさでは諏訪原城を落として駿河境にかなり近づいたし、家康も武田との攻防が一段落ついたら諏訪原城を殿に任せると言ってくれた。弥三郎も長い洞窟の中を歩いてきて光明が見えたような気分だった。


何より月見の晩に家康が氏真の事を義兄とか友とか思ってくれているらしいと分かった事には大変に勇気づけられた。殿もうれしかったに違いない。


弥三郎は氏真からもう少し喜ぶ言葉が聞きたくなって、差し出がましいと思われようが気にせず話を続けた。


「いずれ諏訪原城も任せられる上に家康様との間もずっと縮まり申した。これで御屋形様のご運もますます開ける事でござりましょう」


「うむ、まあな。じゃが月見の晩は皆酒が入っておったし、諏訪原城の事もまだ決まった事ではない故ぬか喜びはせぬ事じゃ」


氏真はやはり気のない返事を返してきたが、その割にはうきうきしているように見える。駿河奪回や諏訪原城や家康との関係の事じゃないなら何がそんなにうれしいのだろう?


弥三郎がそう思って密かに首をかしげていると、氏真はこうのたまった。


「まあ先の事は先の楽しみとして、今は目の前の事を楽しもうぞ」


「はあ……」


「弥三郎、今日は九月十二日じゃが、何か思うことはないか?」


「さて、何でござりましょう?」


「明日は九月十三日じゃ」


「はい……」


十二日の次は十三日に決まっているだろう。何を言っているんだ、と弥三郎が内心怪訝に思っていると、氏真は得意そうに続けた。


「鈍いやつよなあ。九月十三日は後の名月であろう」


「はあ!?」


あきれ返った弥三郎はつい変な返事をしてしまってから氏真の機嫌を損じなかったかと慌てた。が、氏真はその様子をむしろ面白がっているような表情で言葉を続けた。


「この調子なら遅くとも明日には浜松に戻れるであろう。マロは家の者と後の名月を愛でながら歌を詠めるのがうれしいのじゃ」


また歌の事を考えていたのか!? いつもの事とはいえ、帰り路でいくさや家の復興の事を全て忘れたかのような氏真の歌道への耽溺ぶりに弥三郎はうんざりした。


しかし、そんなそぶりを見せたら氏真の覚えが悪くなって、もらえる知行が減るかも知れない。弥三郎は唇を歪めてこみ上げてくる渋い思いを押し込めて微笑んで見せた。


氏真はそんな弥三郎を一向に気にかける様子もなく、


「おおそうじゃ。おい助五郎、いくさはもう終わった故そなたやることがなかろう。ご苦労じゃが屋敷までひとっ走りして明日は後の名月ゆえ月見の支度をしっかりするよう奥に伝えてくれ」


と蒲原助五郎を呼んで先に浜松の屋敷に戻るよう命じた。


弥三郎はそれを聞いてまたまたあきれた。助五郎は氏真衆の采配を任されているはずだ。実際にはいくさは徳川勢がして氏真衆は氏真を守っていればよいからほとんどやる事はないが、万が一武田の伏兵や忍びに襲われたら誰が采配を取るんだ!?


しかし長年氏真に仕えて四十の坂を越えている助五郎はそんな事には慣れ切っているようで、気にする様子もなく


「御意」


とだけ答えて一礼してから馬の尻に鞭を当てて走り去った。その瞬間助五郎がちらりとこちらを見て、まだまだ若いな、とでも言いたそうな表情を浮かべたのを弥三郎は見逃さなかった。


確かに弥三郎はまだ若いのかも知れない。


「闇雲に人を(あや)めるのはただの人殺しぞ。もののあわれを知り弓矢で争う前に道理を尽くすがまことのもののふよ」


というのが今川家の家風だ。


今川家では歌を詠めたり、せめて風流ごとに理解がなければ出頭人になるのは難しいと心得ていなければいけない事は弥太郎も分かっている。


しかし、今の戦国の世の中、ここまで風流ごとに溺れていていいんだろうか。


弥太郎みたいに徳川家に拾ってもらうか、それとも織田家に行くか?


こんな時弥三郎は他家に奉公する空想をするのだが、あいにく他家に自慢できるほどの手柄もないし、信長や家康のようなつわものに奉公してうまくやっていけると思えるほど自信家でもない。


今川家はぬるま湯のような家だが、氏真はめったに怒らない楽な殿様だし、このままうまくいけば家康の手助けで駿河を取り戻せそうだ。


やはり我慢が肝心だ、と不満をぐっとこらえた弥三郎であった。




『マロの戦国II -今川氏真合戦記-』第13話、いかがでしたか?


諏訪原城を攻め落とした徳川勢、余勢を駆って小山城へ進軍したようです。


以前本作で書いたように、小山城は遠江に深く食い込んだ高天神城にとって、諏訪原城と共に兵站を支える命綱の一本。


徳川方に取っては脇腹に突き付けられた刃のような高天神城、ここの兵站を絶って機能不全にすれば、?徳川方の東方への行動を牽制する拠点はなくなります。


小山城は北方の田中城、西方の諏訪原城、西南方の高天神城を支援するような位置にありますので、ここを落とせば前線は東に動き、いよいよ駿河侵攻が現実化します。


しかし武田勝頼も間抜けではありません。この重要拠点にはしかるべき武将を守将に据えていました。


それが岡部長教。一般には岡部元信として知られている今川の勇将です。今回書いたように、小豆坂や、桶狭間の戦いで活躍した元信、信玄叔父さんとは親交があったらしく、桶狭間の後、信玄が元信に送った書状が残っています。


その後信玄が駿河に侵攻した時、兄弟の正綱たちと共に一度は武田方に奪われた駿府を小勢ながら奪回し、富士大宮の宮司で大宮城主富士信忠、安倍金山の安倍元真の安倍一揆、北条軍などと共に、信玄の軍勢と甲斐との連絡を遮断し、窮地に追い込みました。


しかし、北条氏政が信玄と同盟し、氏真さんが小田原を出た頃までには武田方に降ったようです。(確証なし)


岡部元信が桶狭間の戦いの後、どんな気持ちで徳川方と戦い続けたのか、氏真さんをどう思っていたのか?それは氏真さんのその後の人生にも大きく影響したと思われます。


さて、今回登場した孕石主水。この人は幼い頃の家康をいじめたエピソードで有名です。このエピソードが駿府時代の家康が今川家に冷遇されていたという見解を広めるのに使われたようですが、その立地を考えると、家康は逆に厚遇されていた可能性が高そうです。


松平屋敷は今川家の縁戚で寿桂尼の孫、義元の甥、氏真さんの従弟である北条氏規と孕石主水の屋敷に挟まれていた。つまり、今川一門と功臣のお屋敷に挟まれていたわけです。


さらに、幼い家康を養育したいとやって来た祖母(於大の方の母)源応尼(げんおうに)も近所の知源院に住むことを許されています。


駿府を訪問した山科言継の『言継卿記』によると、寿桂尼は孫の氏規と湯山に湯治に出かけ、それを義元と氏真さんが後追いで合流した事があったそうです。


氏規は北条家からの人質というより、寿桂尼の孫として大事にされていた。そのお隣り竹千代の祖母源応尼とおばあちゃん同士の交流もあったかも知れません。


家康のお父さん松平広忠も父清康が守山崩れで不慮の死を遂げた後、大叔父さん松平信定に命を狙われて岡崎城を脱出、その後の家督を継いで間もない義元の支援を得て岡崎城に復帰しています。


その後広忠が織田信秀(信長の父)と戦うために再び援軍を求めた時、義元は流石に嫡男竹千代を人質として要求しましたが、竹千代が織田方に奪われた時、織田方に屈服しなかった広忠の義気に感動して無条件で援軍を出す決断をしました。


その後広忠までが家臣岩松八弥に暗殺され、松平家は当主がいない家になりますが、義元と雪斎は織田家に囚われていた竹千代を取り戻して松平家を存続させる事にしたようです。


そしてその思惑通り、雪斎は安祥城を攻め落として信秀の庶長子である城主信広を捕らえ、これを竹千代と交換して、駿府に連れて来させたわけです。


義元と雪斎は家康の父広忠の苦難に満ちた人生に同情し、その遺児竹千代を不憫に思ったのではないでしょうか。


さらに、その祖母寿桂尼が命がけで駿府に乗り込んで竹千代を養育させてほしいと嘆願したことも、二人と寿桂尼を感動させたのではないでしょうか。


源応尼の娘で竹千代の母於大の方の兄水野信元(母は華陽院ではない)は織田方で、広忠死後再演した久松俊勝も織田方だったのです。


竹千代はそんな父と祖母のおかげで今川家の同情を買って、大事にされていたように思われます。


ちなみに、源応尼の戒名は華陽院といい、かつての知源院は源応尼の菩提寺として華陽院と改称しており、源応尼や夭折した家康の娘市姫の墓も現存しています(静岡市葵区)。江戸時代には幕府に保護されたようです。


ここで戦国ミステリー。


山科言継は弘治二年(1556)から三年(1557)にかけて駿府に滞在して、寿桂尼の親戚中御門宣綱や寿桂尼の膳方奉行と華陽院を訪れ、華陽院住持と交流しているのに、源応尼は永禄三年(1560)五月、家康が桶狭間の戦いに出撃する頃に亡くなり、家康は出征の途上でその訃報を受け取ったという伝承があるのです。


源応尼が永禄三年に亡くなったという伝承が誤りなのか(しかし源応尼は永禄三年五月逝去とした刻文があった石塔を模写した江戸時代の絵が残っている)、それとも、後に華陽院は源応尼の生前から存在し、後に菩提寺となったのか。


このミステリーを解く歴史家が現れるといいですね。


さて、小山城の今川旧臣たち、氏真衆の誘いをまるで相手にせず、徳川勢は一旦退くより他なくなりました。


しかし氏真さんは楽観的で、諏訪原城を落とせたことで満足したようで、九月十三日には後の名月をエンジョイします。


氏真さんの天正三年九月十三日、後の名月の宴はどんな感じだったのか?


それは次回のお楽しみ!


 『マロの戦国II』、次回もお楽しみに!


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こちらもご覧ください。


祝! 諏訪原城が続日本100名城に選定されておりました!


諏訪原城 Shizuoka城と戦国浪漫(静岡県のサイト)

http://www.sengoku-shizuoka.com/castle/2103009/point.php


続日本100名城(PDFが開きます)

http://jokaku.jp/wp-content/uploads/2017/04/bf93ec3a1c5eefad5b2c6e528ade2f20.pdf


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  決定版! 今川氏真辞世研究!

 http://ameblo.jp/sagarasouju/entry-12221185272.html



お知らせ1。

世界初!天正三年氏真上洛経路地図公開!

http://ameblo.jp/sagarasouju/entry-12189682350.html

『マロの戦国』執筆にあたって天正三年(一五七五)の今川氏真上洛経路をグーグルマップで公開しています! 参考に是非ご覧ください!


詠草に残されただけで約160か所を訪れた氏真さんの行動力には驚かされます。

この地図は三月十六日信長との対面及び四月三日~四日飛鳥井邸蹴鞠以外は詠草の和歌と詞書から割り出したものです。

これ以外にも実務的な外出もこなしているはずですが、そちらは知るすべがありません。

この後長篠の戦いに参加し家康から遠江の牧野城を任されたことはご存知の方も多いでしょう。

しかし牧野城主を辞任してからの足取りはほとんど記録に残っていません。

現在苦闘中の今川氏真伝では天正四年以降天正年間の居所推定にも挑戦して、注目に値する事実を発見しましたので、公表する予定です。



お知らせ2。大河ドラマ「おんな城主直虎」を生温かく見守るブログ


2017年大河ドラマは「おんな城主直虎」。

史実を踏まえつつ、大河ドラマと井伊直虎とその周辺に関するあれこれを「直虎」ブログに書いていきます。

こちらも是非ご覧ください!


大河ドラマ「おんな城主直虎」を生温かく見守るブログ

http://ameblo.jp/sagarasouju/


本作は観泉寺史編纂刊行委員会編『今川氏と観泉寺』(吉川弘文館、1974年)所収の天正三年詠草の和歌と詞書に依拠しながら、上洛後武田との合戦に身を投じた氏真の日常に迫ります。




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