マロの合戦(一)京を離れ、戦いの巷へ
『マロの戦国-今川氏真上洛記-』の続編登場です!
再び「うむっ!」
信長が作っても「今道はよいのう」
名残惜しい都は山を隔てて雲の向こうへ・・・
マロの戦国 -今川氏真合戦記-
マロの合戦
天正三年(一五七五年)四月二十三日、今川家当主今川氏真は三ヶ月に及ぶ京都滞在を終え、家臣海老江弥三郎と朝比奈弥太郎を従えて馬を走らせていた。これから始まる武田との無二の一戦に加わるべく浜松に向かうのである。
「うむっ!」
先ほどから憂鬱げな表情で馬を走らせていた氏真が突然手綱を引いて馬を止めた。
「どうなされました?」
弥三郎はもしやまた例のあれか、と思いつつ馬を止めて聞いてみた。先を駆けていた弥太郎も戻って来る。
「一首浮かんだ。たびびとのお、ゆきかうごとにい、あらためてえ、いまみちありとお、つくりなすらんん……」
「まこと、この今道は活気に満ちておりまする」
「うむうむ」
弥太郎がキリリと引き締まった顔をほころばせて氏真の歌をほめ上げると、氏真は上機嫌になって懐から紙と筆を取り出して詠んだ歌を書き付けている。そうしているうちに、徒で供する者たちも追いついてきた。
(またか)
と弥三郎は思った。いつもの事なのだ。殿は常に和歌を心にかけていて、事あるごとにその場で思いついた和歌を詠み上げる。外出中馬に乗っていても、歌を思いつけばこうやって馬を止めて忘れる前に書き付ける。
気分が向いた時は周りの者に聞かせて感想を求めるのだ。しかし、歌道に疎い弥三郎は氏真の口から出る音を追いかけるのが精一杯で、氏真の詠じる歌を咄嗟に言葉として理解する事もできない。
「闇雲に人を殺めるのはただの人殺しぞ。もののあわれを知り弓矢で争う前に道理を尽くすがまことのもののふよ」
今川家中ではそう言って和歌や文芸が奨励されてきたが、
(肝心のいくさで負けてしまってはしょうがないじゃないか)
と弥三郎は内心口をとがらせたくなる。だがそういうお家柄だから仕方がない。
その点朝比奈弥太郎はうまいものだった。
今年の正月に浜松を出立した朝も、氏真は
「この歌はどうじゃ、弥太郎?」
と一首を披露して弥太郎に感想を聞いた。
峯の雪麓の霞中絶えて一筋続く明けぼのの山(1―8)
すると弥太郎は、キリリと引き締まった顔をほころばせて
「希望の光が見えるようなよい歌にござりまする」
と答えたのだ。
「そうであろう、うむ、よく申した」
氏真もみるみる顔をほころばせていかにも満足げな様子であった。
朝比奈弥太郎泰勝は今川家の重鎮朝比奈家の出身だ。朝比奈家は今川仮名目録でも三浦家と並ぶ格式を認められ、京の公家中御門家から正室を娶って今川家と縁戚にもなっていた。
七年前に甲斐の武田信玄と三河の徳川家康が共謀して今川家を攻めた時には、当主朝比奈泰朝は駿府から逃れてきた氏真らの軍勢を懸川の居城に受け入れて半年間防戦し抜いて、ついには家康との講和に持ち込むという活躍を示した。
その泰朝が亡くなる直前特に選んで氏真に近侍させたのが弥太郎泰勝だ。
弥太郎は勇敢で頭もよく見目形もよいが、歌を巡る問答で氏真の機嫌を取る手並みは今川家で重きをなしてきた朝比奈家に代々伝わる秘伝の処世術か、天性の素質か、とにかく弥三郎には到底できない芸当だった。
今回の上洛でもその手並みは遺憾なく発揮された。浜松出立から京を出るまでの百日ほどの間に氏真は実に三百首近い歌を行く先々で詠みまくり、その度に弥太郎は氏真の歌をほめ上げたのだ。嗜みがない弥三郎には歌の良しあしなど分からないので、弥太郎が氏真の相手をしてくれて助かった。
機嫌を良くした氏真が弥三郎と弥太郎に語りかける。
「今道は走りやすくてよいのう。このような道が日本中にできれば旅も伝馬も苦労せずに済む……」
今道は今年信長が諸国に命じて作らせた道である。上洛中面識を得た吉田神社の神官吉田兼和も所領を通る道を普請するよう命じられて免除を願い出たが許されなかったとぼやいていたが、信長が天下を従える事で民衆の生活の利便が増すならそれもよいと氏真は考えているようであった。
「ではまた道を急ぐとしよう」
歌を書き留めた氏真に言われて弥三郎は我に返った。
「御意」
先ほどと同じように弥太郎が先を進み、弥三郎は氏真のすぐ後につき従い、三人を徒の者たちが追いかけた。
(さて此度の無二の一戦、いかが相成るか……)
馬上の氏真は今までの出来事を思い起こした。
十三日物詣の志ありて発足
駒なへて行は霞の道の末有し野山も分迷ひけり(1―9)
氏真が「物詣で」のため上洛すべく浜松を出立したのは今年の正月十三日の事だった。と言っても神仏に詣でるのではない。京の都で織田信長に会って七年前に武田信玄に奪われた駿河回復の支援を取り付ける、いわば信長詣でだ。
信玄と共謀して攻め込んできた家康と講和し遠江を譲って懸川城を出た氏真は、正室春姫の実父北条氏康を頼って小田原に移った。だが氏康は翌々年に病死し、その跡を継いだ氏政は武田と同盟してしまった。
氏真は小田原を退去せざるを得なくなり、家康の居城浜松に入った。氏真と講和した時既に信玄と対立していた家康は、氏真の駿河奪回に協力すると約束していたからである。
その後氏真は浜松で鬱屈した数年を過ごした。信玄は将軍足利義昭の求めに応じて織田と徳川を討とうと西上の軍を起こし、それを阻もうとする家康の軍勢を三方ヶ原で痛破した。幸いにも信玄が病死したため武田は兵を納めたが、勝頼の代になっても武田の猛威は衰える事なく、駿河回復の見通しが立たないまま天正三年を迎えた。
しかしこの正月に家康から呼び出された時、氏真の鬱屈した日々は終わった。信長がとうとう武田との無二の一戦を決意し、氏真の力も借りたがっていると言うのだ。
駿河を取り戻すまたとない好機が訪れたのだ。しかも信長は氏真が夢にまで見た京の都で会いたいと言う。
氏真は躍り上がらんばかりに喜び、弥三郎や弥太郎らを引き連れて上洛した。都合のよい事に多忙な信長は三月まで上洛してこなかったので、それまで氏真は京都の名所や歌枕を次々と訪れ、大いに歌を詠んだ。
駿府に下向してきた事のある公家衆や、連歌師里村紹巴、叔父の象耳泉奘を始めとする京の高僧らとも大いに交流を楽しみつつ、人脈作りも怠らなかった。
三月になってようやく信長が上洛してきたので十六日に対面し、駿河回復の支援の約束を取り付ける事ができた。その時信長が氏真を岐阜ではなく京に呼んだ理由が分かった。
信長は氏真の駿河時代からの人脈を使って今まで以上に朝廷に接近しようと考えたらしいのだ。武田との無二の一戦を控えて信長は使えるものは全て使おうと考え。将軍足利義昭追放後朝廷の権威も利用する必要があると考えていたようだった。
対面した信長は蹴鞠の名足と言われる氏真にその妙技を披露するよう求めてきた。信長の意図を汲み取った氏真は、蹴鞠宗家の飛鳥井雅教ら懇意にしていた公家衆と相談し、三月二十日に信長の宿所相国寺で蹴鞠を披露した。
相国寺には蹴鞠の鞠足を務める公家だけではなく、関白二条晴良や山科言継ら朝廷の首脳級の公家も見物に集まったから、信長はこの日の蹴鞠見物を通じて公家衆との交流を一層深めることができた。
こうして氏真は駿河復帰の足固めをしつつ、信長と公家衆との交流にも貢献して存在感を高めたが、その心境は複雑だった。
かたはらに人のあつまるをみれは花一本あり
深山木も浮世の花にふれてより今更人にしられぬる哉(1―232)
信長は蹴鞠そのものにも興味を持ったようで、四月三日には夕方に突然蹴鞠見物を思い立って飛鳥井邸にやって来て、雅教に鞠会を開くよう所望した。雅教は慌てて氏真や公家衆を探し呼び集めた。
折しも三条西実枝の屋敷で開かれた歌会が終わって歓談していた氏真はその場にいた公家衆と共に飛鳥井邸に馳せ参じて蹴鞠を披露した。信長は夕方からの見物では飽き足らず、翌四日にも飛鳥井邸に来て自らも氏真らとの蹴鞠に参加し、蹴鞠を楽しみつつさらに公家衆との交流を深めた。
三条西殿実澄めされて参す二十当座人数十七人
聞時鳥 寄世祝
稀に聞雲井の声を時鳥面影残せ行末の空(1―253)
うつし見よ四方の境もわたつみの波風たゝぬ御代の鏡を(1―254)
同日晩は於飛鳥井殿鞠見物
信長は満足げだったが、氏真は再び複雑な心境に囚われた。自分の蹴鞠披露がきっかけで信長が蹴鞠を気に入ってくれたと言えば聞こえはいいが、歌会の余韻を楽しんでいる所に突然呼びつけられたのだ。信長が公家衆に対しても同じような扱いをしたのも面白くなかった。
それで自分の詠草には蹴鞠見物したかのように書き付けたが、氏真も蹴鞠の衆に加わっていた事は遠縁の中御門宣教が日記にちゃんと書き残していた。
その翌々日には信長は三好康長らを討つべく出陣し、氏真も陣中見舞いのため八幡まで赴いた。その頃武田勝頼が三河に侵入し始めていたので、信長からは三好を討った後返す刀で武田と無二の一戦を遂げる決意を聞かされた。
氏真はこの日の事も自分の詠草には見物したかのように書き付けたが、たかが見物のためにわざわざ八幡の陣中までついて行く事はない。その道中こっそりと書き付けた歌にも信長に振り回されるのが面白くない氏真の心境が表れていた。
信長和泉筋出陣八幡にて見物
みかりせし跡や鳥羽田の面影に賤か車そ行廻りける(1―257)
それから半月ほど後の四月二十一日、三好康長を降伏させて京に戻って来た信長に呼び出されて武田との戦いで後詰するよう命じられた。こうして氏真一行は先ほど公家衆や里村紹巴らに見送られて京の都を旅立ったのだ。
三州境さはかしきと云人あるを聞てい
そき下るへきとて
忘れぬを家つとにせむ帰るさの花の都の面影の空(1―288)
思ひ置友の有せはいかならむ留ぬ都もはなれ難さを(1―289)
実り多い上洛であった。生まれて初めての京の都は戦乱で荒廃した所も多かったが、数多の名所旧跡歌枕があり、三月ほどの間に思う存分堪能できた。上洛の高揚感も手伝って、歌を三百首近くも詠めた。
信長との関係を強めたい公家衆にも頼りにされ、信長の前の鞠会では宗家飛鳥井雅教に次ぐ格別の扱いを受けたし、歌会にも招かれた。
駿河奪回への信長の支援も無事取り付ける事ができた。人の下に付くのは面白い事ではないが、気性が激しく猜疑心が強いと聞いていた信長は予想以上に氏真に好意的だった。
京の都で氏真の出仕を取り次いだ村井貞勝は信長の権勢を笠に着ているような所がちらりと見えて気に食わなかったが、上洛の途中坂本城に立ち寄ってから知り合いになった明智光秀は腰が低く歌の嗜みがあり、気が合った。
後は武田との決戦で勝利するだけである。ここ数年織田徳川は武田に対しては分が悪く、世間でも信長が武田との戦いを避けていると見られていたが、一昨日会った信長は自信ありげで秘策があるような事を言っていた。
自身ほとんど手勢を持たない氏真は織田徳川勢の後詰として旧今川家中の者たちの心を引き付ける事しかできないが、あの信長が大軍を率いて駆け付ければ何とかなりそうだ。
そんな勝利の予感に高揚する氏真はつい馬の歩みを早めつつ浜松へと急ぐ。
氏真の馬は脚が速く、徒の者たちはどうしても遅れがちになる。氏真は歌を詠みながらそれを待ち、徒の者たちが追いつくとまた馬を走らせる事を繰り返した。
「都は白い雲の彼方になってしまったのう。隔てている山は一重じゃのに。うむっ! 一首浮かんだ。瀬田の長橋ができたというが、どこじゃ? 辺り一帯霞んで見当たらぬなあ。うむっ、また一首浮かんだ。海の上を伝って聞こえてくるあの鐘は三井寺の鐘であろう。うむっ! 逢坂山は名ばかりで別れの関となるとは何故であろう? うむっ! 行きは雪の中を通った志賀の山越は此度は散る花の後を追う事になったな。うむっ! 遠目には唐崎の浜の木々には雪が降っておるかと思うたが湖のさざ波であったわ。うむっ! また一首浮かんだ」
今道今度作てこえ安くなれり大津にしはら
くしてけふの道すから書とゝめ後に詠
之昼の過に船に乗長わたりす
旅人の行かふ毎にあらためて今道ありと作なすらん(1―292)
白雲の遠き都と成にけり隔つる山はひとへなれとも(1―293)
いつくやはせたの長橋なかむれは霞わたりてそことしもなし(1―294)
海の上告くる鐘はさたかにて遥に霞む三井の古寺(1―295)
名計はあふ坂山のいかなれはわきて行きの関と成らん(1―296)
またて行散てかへれは花園の名残忘ぬしかの山越(1―297)
木々に降雪かとみつるさゝ波のかへさ涼しき唐崎の浜(1―298)
『マロの戦国II -今川氏真合戦記-』第1話、いかがでしたか?
戦国期稀に見る氏真さんの京都大観光旅行が終わりを告げ、いよいよ武田との合戦へ!
四月二十一日に三好征伐から戻ってきた信長の指示で、氏真さんは翌々日には京都を出立しました。
京の都と京で交流した人々との別れを惜しみつつも、信長が命じて整備させた今道や瀬田の長橋を無邪気に歌に詠んでいるところを見ると、氏真さん、どうやら信長からはいい話を聞かされたのでしょう。
領国統治での楽市、治水や徳政などの政策、民の幸福を願う歌などから氏真は民生を重んじており、その点で信長とは気の合う所もあったのではないかと思われます。
さて、氏真さんご一行、その日のうちに唐崎あたりに着いたようです。『マロの戦国-今川氏真上洛記-』の読者の皆さんは、聞き覚えのある地名だと思います。
そこで、またちょっと面白いことがあったようです。
それは何か?
それは次回のお楽しみ!
『マロの戦国』次回もお楽しみに!
お知らせ1。
世界初!天正三年氏真上洛経路地図公開!
http://ameblo.jp/sagarasouju/entry-12189682350.html
『マロの戦国』執筆にあたって天正三年(一五七五)の今川氏真上洛経路をグーグルマップで公開しています! 参考に是非ご覧ください!
詠草に残されただけで約160か所を訪れた氏真さんの行動力には驚かされます。
この地図は三月十六日信長との対面及び四月三日~四日飛鳥井邸蹴鞠以外は詠草の和歌と詞書から割り出したものです。
これ以外にも実務的な外出もこなしているはずですが、そちらは知るすべがありません。
この後長篠の戦いに参加し家康から遠江の牧野城を任されたことはご存知の方も多いでしょう。
しかし牧野城主を辞任してからの足取りはほとんど記録に残っていません。
現在苦闘中の今川氏真伝では天正四年以降天正年間の居所推定にも挑戦して、注目に値する事実を発見しましたので、公表する予定です。
お知らせ2。大河ドラマ「おんな城主直虎」を生温かく見守るブログ
2017年大河ドラマは「おんな城主直虎」。
史実を踏まえつつ、大河ドラマと井伊直虎とその周辺に関するあれこれを「直虎」ブログに書いていきます。
こちらも是非ご覧ください!
大河ドラマ「おんな城主直虎」を生温かく見守るブログ
http://ameblo.jp/sagarasouju/
本作は観泉寺史編纂刊行委員会編『今川氏と観泉寺』(吉川弘文館、1974年)所収の天正三年詠草の和歌と詞書に依拠しながら、上洛後武田との合戦に身を投じた氏真の日常に迫ります。