98 - 全てが始まる時のこと
『 』を消し去った後、僕はあの白い場所に戻り、ヴィショナリアに『王』としての維持を任せたままで、これまでのこと、そしてこれからのことを考えていた。
『 』が居なくなった世界の内側には、奇妙な寂寞感を感じた。
なのにヴィショナリアはそれを感じていないと言う。
つまり、それはダアトという個人の感傷なのだろう。
『 』。
世界がかつて愛していたもの。
今となってはそれが何だったのか、それを覚えている者は、僕と、僕の代わりを務めていたヴィショナリアの二人だけになってしまった。
『十』の全ても、『 』をきっちり忘れていた。ただ、昔になにか、とんでもない者と戦っていたような……そんな漠然とした記憶は残ってるらしい。
そんな記憶も、いつかは気のせいになるのだろう。
そうして『 』の痕跡は消えて行く。
『十』からも、人間からも、魔物からも、そして歴史からも。
例外的に覚えている僕やヴィショナリアにせよ、『 』がどんな名前だったのか、それはもう思い出せなくなっていた。
シニモドリとしての契約は、まだ残っている。それでも忘れてしまったと言う事は、僕の記憶を司る、世界そのものがそれを忘れつつあると言う事だ。
世界の寵愛をうけた何か。
圧倒的な力を持っていた何か。
それを示す言葉はもう。
それを意味する概念はもう、この世界に存在しない。
僕がようやく元通り、とまでは言えなくとも、世界の寂寞感を払しょくしたころ、世界では二千年という月日が流れていた。
ヴィショナリアは時折僕に手伝えと文句を言ったりはしてきたけれどそれくらいで、特にこの所、彼は『王』としての資質を得始めたように見える。
元が人間だった彼には、成長する事が出来るのだ。
そんな彼を観察している時だった。
「そろそろかな」
うん?
「いやさ。あんまり君がしょげてるもんだから、こっちとしてもこの白い部屋が辛気臭い……じゃなくて、空気が重い……でもなくて、えっと、そう。君が落ち込んでいると可哀そうで」
いや、良いよ別に正直に言っても。
「そう?」
君は僕の代わりとはいえ、『王』であることに違いは無い。
それに……。
こうして間近で観察している限りに置いて、君は少なくとも、『維持』に力を注ぐならば、僕とほぼ同等の役割を担えている。
だから、僕にとってヴィショナリア、君は既に一心同体だよ。
いや、字面的には二心同体か。
「そこは一心同体のままで間違いじゃないと思うけどね……。まあ、ともあれだ。君があんまりにふさぎこんでるもんだから、僕としても少なからず影響を受けかねないしさ。そろそろまた、シニモドリしてみるかい?」
んー……。
目的も無く、理由も無く。
特に意味のないシニモドリになるな。
「それでも契約は契約だ。君がシニモドリとして世界に降り立ち、変わった世界をその目で確かめて……そして、気分を変えるのもありだと思うよ」
契約……か。
でもさ。
シニモドリと言う契約は……よっぽどの理由が無い限り、結びたくないんだよね。
「そう?」
契約を結ぶ当事者は、良いんだ。
新たな役割として、契約として、僕が気分を変えると言うものを盛り込めば、また何人かを乗りついで、僕は元の僕に戻れるかもしれない。
そしてその間、君はそつなく『王』として君臨し、世界の意思を維持し続けることが出来るだろう。
お互いに何らかのメリットを得ることができるからね。
だからこそ、契約は成立する。
「うん。だから、今回も成立できると思うよ?」
成立しちゃうんだよ。
そこが問題なんだ。
シニモドリ。
生きている命を、死んだ身体にぶち込んだもの。
命は身体の記憶を全て継承し、全ての記憶を絶対とする。
それらの記憶は世界が担保しているが故に、本当の意味での絶対だ。
忘却することはあり得ない。
ただ、世界が喪失したことについては、シニモドリもまた喪失する。
『 』も、そうだ。
けどね、それ自体は問題じゃない。
むしろいい事だ。
当事者間で見たとき、契約としては最上の部類だろう。
だってお互いに得をして。
トータルで見ても、基本的にはプラスになるのだから。
「じゃあ、なんで駄目なの?」
契約というのはね。
それでもかならず、どこかで結果がゼロになるようになっている。
誰かが得をした分だけ、誰かが損をするようになっている。
僕と君が契約を結べば、僕も君も、得をする。
だからこそ。
僕の周りで。君の周りで。
必ず、大きな損をする人が出てくるんだ。
ラス・ペル・ダナン。
彼の死により、両親が復讐に狂ってしまったように。
オルト・ウォッカ。
彼の死により、兄が『イキカエリ』の伝承に縋り、全てを捨ててしまったように。
ノア・ロンド。
彼の死により、盗賊ギルドと冒険者ギルドの間で確執が産まれ、長きに亘ってその関係が硬直したように。
オース・エリ。
彼の死により、助かったはずの十九人が、国や家族、先祖の全てを安値で売らなければならなかったように。
シア・クルー。
彼の死により、彼の周りに居た者たちが、巻き込まれて消滅してしまったように。
シニモドリ。偽りの奇跡としての契約は、その周りに大きなゆがみと、不幸を振り撒いてしまう。
よほどのことが無い限り、使うべきじゃないんだよ。
「世界の『王』が落ち込んでいる。それも十分『よほどのこと』だと思うけど。確かに僕は君の代わりを、ある程度はできている。君の言う通り、僕は『維持』だけならば出来るんだ。けど、そこから先は出来ない。発展させることは、まだまだできない。それはつまり、世界の停滞だ。停滞することは、進化を止めると言うことは、君の本意じゃないんじゃないのかな?」
本意……か。
世界は甘言を駆使して子を励まし。
世界は契約を行使して子を助ける。
世界は選択を提示して子を悟らせ。
世界は叡智を教示して子を律する。
世界は決して悪意を持たない。
世界は決して害意を持たない。
世界は決して本意を持たない。
世界は決して作意を持たない。
しかし世界は、万理を騙す。
そして世界は、万感を堕す。
だから世界は、自然を乱す。
やがて世界は、自身を化す。
それはいつだったか。
随分昔のことだ。
僕が戯れに、とある人間と話した時にそんな事を語った事がある。
「それは、神とか悪魔とか言われてる存在の事……、のフレーズに、ものすごく似てるね」
あのフレーズに似てるんじゃないよ。
このフレーズが先にあったんだ。
時代を経るに従って、少しずつ書き換えられて行って、神とか悪魔の事を指すフレーズとして解釈された。
「へえ……。誰に語ったの?」
さあ。
誰にだったかな……。
忘れてしまったよ。
でも、僕はその時、既に『王』だった。
そしてその時、その人間はまだ、ただの人間だった。
そんな記憶は漠然とある。
「その時は人間だった……ってことは、その後人間じゃなくなった?」
そうかもね。
……だからこそ、か。
「うん?」
いや、君の言う通りだと思ったのさ。
確かに、停滞は好ましくない。
本意……とは、少し違うけど。
だってさ、僕がその人のことを忘れてしまっているのは、その分だけ世界が進歩したということだろう?
それは喜ばしいことだ。
新たな概念は、時々僕たち世界を傷つけることもある。
それでも。
孫が産まれて、喜ばない親はいない……はずだ。
「僕もそう思うよ。君の代わりに『維持』をしているだけでも、時々何かが産まれることはある。そんな時、僕は些細に何か、嬉しいな、って思うんだ。……ダアト。もしきみがよかったら。もっともっと、昔の話を聞かせてよ。僕は君の代わりとして、君の記憶を貰ってはいるけれど、君が感じた事を、今の君の気持ちで教えてほしいんだ」
それも良いかもしれないね。
なら、逆もお願いしようか。
僕の代わりをしている君は、それを聞いて何を思ったのか。
それを教えてくれるかい?
「ああ、もちろんさ」
時間はたくさんある。
ゆっくり、じっくり教え合おう。
そして――
――『 』の概念を失った世界は、それに関連する記憶も連鎖的に失い始める。
其れは即ち、『 』という概念の根本的で根源的な終焉を意味していて、それ以降、世界は極々平穏な状態へと戻った。
平穏に人々は争い。
平穏に人間と魔物が対立し。
共闘し、和解し、また対立し、分裂し、統合し、また共闘し……。
いつしか皆が、『 』を忘れた。
数万年もの過去に永く亘っていた、神話の時代。
『王』や『十』や『 』が産まれた、その時代。
一万年前までに繰り広げられた、伝説の時代。
『王』や『十』や『 』が消えた、その時代。
そして、歴史が刻まれ続ける、この時代。
世界はただ、そこに在り。
世界はただ、時を進める。
それ以来、『世界の内側』と称された場所で、『十』や『王』が観測された事は無い。
ケセド古殿に張られていたはずの結界は消え失せていたし、他の『十』が作った、人知を超えた結界も、その全てが例外なく、世界の内側から消えていた。
ならば『十』にせよ『王』にせよ、彼らはこの世界への興味を失ったのか……と言えば、それは間違いだ。
彼らは今でも、この世界の事を観察している。
ただ、彼らは『 』の概念を失うことで、世界の内側に干渉する理由を失ったのだ。
既に生命は安定していたし、それを乱すようなものも無い。
だから、これ以上の干渉は意味が無いし、理由も無い。
故に彼らは。
「あああああっ! また失敗!」
「ははは。ヴィショナリア、試行錯誤は大切だよ。試して間違えて、それを直して確かめて。魔法も格闘もそうだけど、『王』としての世界の発展も、また同じなのさ」
「そうなのかなあ……、やっぱり僕には資質とか才能が足りないんじゃないかな。ダアトはこんな失敗しなかったでしょ?」
「そんな事は無いよ。最初の数億年は失敗続きだったしね。その点、君はまだ一万年ちょっとじゃないか。数千の一の期間で、既に君は命を産み出した。それは僕よりもむしろ、才能があるって事だと思う」
「ううん……なんかけむに巻かれてるような……」
白い場所で、彼らはそんな会話を交わしていた。
そう。
彼らは確かに、世界の内側と彼らが称した、その惑星から手を引いた。
あとは暫く『放置』して、その星に生きる者たちが、惑星という概念を知り、そしていづれその外に出ると言う発想を抱き、それを現実のものするのを待っている。
ただ、待っているだけでは正直、暇だ。
『十』も『王』も、命を持っている。何かをしながら待つのはともかく、ただ見て待つのは、どうしても手出しがしたくなる。
だからこそ、彼らはその惑星から遠く離れた、別の惑星に降り立った。
それはいつの日か、概ねの世界が作られ終えた頃、命という概念を産むために、その時の世界、ダアトがそうしたように。
ただ、今度の惑星はダアトではなく、ヴィショナリアによって紡がれる。
故にその星は、きっと元の星と良く似通った、そして全く違った命が産まれてくるのだろう。
それは遠い未来の事かもしれないし、案外すぐ先の事かもしれない。
ただ一つ、解っている事は。
ダアトは、『本当の意味』で己が『選んだ』、己の『半身』の成長を、隣で見守る事を幸せに思っていることだ。
それは即ちシニモドリ。
死に戻りは私に戻り、そして新たな世界と――
始に戻り。
98 - 全てが始まる時のこと
[EOF]
完。
次話はあとがきです。
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