56 - 過ぎた年月の賜物のこと
僕は最後の一冊、『神官儀典於初校』の最後の一文字を書き終えてペンを置き、膨大な疲労感と奇妙な達成感とを感じていた。
翻訳を始めたのが六歳のころ。一週間に一冊を目安に翻訳を続けている間にも右筆と言う神殿におけるそれなりの地位の神官としての仕事は別にもあり、どうしてもノルマを達成できなかった週もあったりはしたけれど、概ね、想定通りに終わったとは思う。
気付けばオース・エリも十歳だ。神殿に入ったころと比べれば、身長も大分伸びたし、体力も大分マシになった。
なにより、百四十冊を超える本を『書きなおし』したことで、やたらと神殿や神官に関する知識がついたし、それはそのまま神官魔法のバリエーションという形にも表れていた。
元々、神官魔法は一般魔法と『分けて』考えられている。それは発動に至るまでの方法や性質が大分違うからだ。けれど、そんな二つの技術だって、魔法という大きな分類は共通しているし、その気になれば神官魔法は一般魔法と掛け合わせることも可能なのだ。
例えば『治癒』を属性として解釈した『矢弾』とか。離れてようが見えて無かろうが適当にぶっ放せるので便利だ。
問題は仲間が冒険者とか魔法使いの場合、当然それを避けるという事なのだけど。見た目はただの『矢弾』だし……。
それはそれ。
大凡三年ほどの年月が過ぎ、変わったのは当然僕だけでは無い。
本を神殿長に届けるためには例によって移動があるので、その間に少し整理してみよう。
今日は週に一度の休息日、普段着のままで良いだろう。
僕は本を左手に持ち、右手で最近になって漸く身長と同じくらいになった透明な杖を握り、それでこつん、こつんと床を鳴らしながら歩き始めた。
まず、アリト神殿においては三人の新たな神官が誕生した。ちなみに三人共年上だ。だいたい一年に一人くらい、新たな神官になるかなって感じらしい。
で、二人の神官が亡くなった。五十三歳のそこそこ偉かったウェシア・レドさんと、二十八歳の若い神官レーベ・トッシュ。死因はどちらも、残念ながら寿命では無い。
ウェシアさんは神官として、魔物に襲撃されたと言う村に派遣された。そこで民を護るために全力を尽くし、遂に村人全員を救助することにも成功したのだけど、その際に魔力を使い過ぎてしまった。神官としてはもっとも気高い死に方とされるものではあったけど、彼女が亡くなった事を知った神殿長は『気高く死ぬより、恥に生きてほしかったのですが』と、僕と二人きりの時にぽつりと漏らしていた。
レーベさんはルブム神殿の要請を受けてアリトから出向、神殿長以下八名の神官までを一気に失い混乱の極致にあったルブム神殿を治める役割を期待されていて、事実それは大枠においては成功したと言っていいだろう。ルブム神殿はレーベさんを含む三人の神官によって秩序を回復し、また神殿としての機能も快復させ、当時ルブム国で起きていた事件の真相を追及していた。そして何らかの情報を得たレーベさんは、その報告を行うべくアリト神殿に戻ろうとしたのだけれど、その道中で何者かによって暗殺されてしまったのだ。若い者の中でも優秀な人材だっただけに、神殿長は彼の死にひどく参っていたのが印象的だった。
アリト神殿は大体こんな感じ。
で、さっきもちらっと触れたけど、ルブム神殿はルブム国の世継ぎ騒動に巻き込まれる形で神殿長以下八名が落命していた。手古摺ったものの、現在はこれによって生じた混乱から回復することができている。完全に元通りとは行かないようだけど。
尚、ルブム神殿の新たな神殿長には、暫定の神殿長となっていた神官ペトラ・シトラが着いた。これを祝う形を取って、ルブム国はルブム神殿に莫大な支援金を贈っている。それが所謂口止め料であることは明白な反面、神殿としても機能を回復するためにはお金が必要だったというのもまた事実。結局、それを受け容れることが定例会議において正式に決定された。
この神官ペトラ・シトラという人物も強力『神授』を持っていて、それには『万理解釈』と言う名前が付いている。その名の示す通り、彼女はあらゆるものを無意識下に解釈することができるそうだ。但しこの解釈の精度は八割ほど。必ずしも全面的にその解釈が正しいとは限らないなど、使い勝手の悪さはどうしても目に付くけれど、しかし彼女の解釈は真相の八割を抑えるのだ。強力な力であることに違いは無い。
その解釈の力によるものも多少はあるのだろうけれど、彼女は単純に人を率いるだけの素質があったようで、今では極自然に神殿長としての執務に追われているはずだ。停滞していた頃、当然アリトやレーロも補助はしたけど、どうしてもその分だけ問題は溜まっている。大変そうだ。
大変そう、といえば、レーロ神殿においても少し大変な事が起きている。なんと直近一年間で十三人もの新しい神官が産まれたんだとか。当然『洗礼』を使った上で。これは歴史的に見ても珍しいし、何らかの厄介事が起きるかもしれない、そんな話が定例会でされていて、物は試しにと神官ペトラ・シトラの『万理解釈』によってそれを解釈した所、そう遠くないうちに『大規模な戦いが起きるからだろう』という事だった。
大規模な戦いといっても、今のところレーロ付近で戦争の気配は無いし、特に魔物の活動が活発になったと言う話も聞かないので、解釈を行った彼女自身、『これは大分はずれてそうですね』とは言っていたけれど、そこはレーロの神殿長、手堅く何が起きても対応できるように準備だけは進めているらしい。
その準備の一環として、レーロ神殿に所属していた神官イトラ・カルシアさんが三か月ほど前に冒険者となった。次のレーロ神殿は彼だろうと皆が考えていただけに、その出奔の報告には僕も神殿長も驚いたものだ。けど理由を聞いて納得、というのも、レーロで活動を開始したとある冒険者たちが居るのだけど、その冒険者たちの力がどうにも強すぎる。その強さは、『並の神官では治癒もできないほどに』。
その冒険者たちは間違いなく英雄の素質を持っている。場合によっては勇者にもなり得るほどの素質を。普段ならばそれでもイトラさんを出すことは無かったんだろうけど、ペトラ・シトラの『万理解釈』を踏まえると、どうもきな臭い。万が一という可能性もあるし、だからこそ、レーロ神殿はその神殿の中でもトップクラスの腕の持ち主であるイトラさんというカードを切るに至ったわけだ。この決断が吉と出るか凶と出るか、それが解るのは大分先の事になるだろう。
杞憂で終わる可能性の方が高い決断だし、結構なリスクを背負ってるようにも見えるのだけど、もっとも最近勇者として認められたパーティは四百八十八年前の勇者一行にまで遡るわけで、そろそろ新しい勇者が出てもおかしくない。それも決断に一つの方向性を示したのかもしれなかった。
ふう、こんなところか。
丁度神殿長の部屋の前についたのでドアをノック。
「オースです、良いですか?」
「どうぞ」
「失礼します」
扉を開けると、神殿長は机の上に座っていた。とてもお行儀が悪い。いやそれはまあ、今に始まった事じゃないので別にいいけど……。
「あれ、先客がいましたか。こんにちは、神官トトラ・ワグナー」
「えっと、こんにちは……?」
神官トトラ・ワグナー。年齢十三歳、女性。
長く伸ばした髪は真っ赤で、目は金色。それだけを聞くと強気にも見えそうなのだけど、どうも全体的な印象は穏やかで、優しげな子だ。
僕の数少ない後輩の神官三人の内の一人で、もっとも最近神官になった人物だ。
厳密にはまだ見習いなので、誓いも建てていなければ、神官魔法を学んでもいない。今はまだ施設や生活に慣れる段階なのだと思う。
そういえばこの人とまともに挨拶したこと無いな……。すれ違った回数も二回で、その二回とも休息日だ。僕は装束ではなく、今と同じような普段着を着ている。
「僕はオース・エリと言います。よろしくお願いしますね」
「あ、はい。オースくん、よろしくおねがいします」
軽く会釈をして、観察はそこそこに先に要件を済ませることに。
「ごめんなさい、神官トトラ。横入りしちゃって」
「いえ。私は特に、要件があって来たわけでもないので、むしろ私の方が申し訳ないかも」
ありがとう、ととりあえずお礼を言っておき、僕は神殿長に二冊の本を渡す。
「神殿長。頼まれていた本です。これで最後になります」
「ええ、確かに。良く途中で投げ出すような事もなく、やり遂げてくれました、オース。私からは当然ですが、神殿全体としても、改めて感謝します。謝礼金があまり出せないのは、心苦しいのですが」
「お気遣いなく。仕事の範疇ですし、それに今の神殿の状況は解っているつもりです」
お互いに嘘はついていない。ただ、トトラには知られたくない事情というものがどうやら神殿長にもあるようなので、少し会話をぼかしているだけだ。
ちなみに会計関係は当然だけど、僕以外にちゃんと専門の神官が居るので、僕は基本的にはノータッチ。
神殿長が目を通した資料は基本的に僕も目を通してるけど、それだけだし。
「で、どうですか、実際に仕事を終えての感想は」
「感慨深いです。色々な事を知ったような気もするし、長い間やってましたからね。疲労感もあるけど、達成感も強いし」
「それは良かった。あなたには大きく期待しています。……が」
首を軽く横に振り、神殿長は続ける。
「その仕事を終えたと言う事は、そろそろ目指すのでしょう、あなたは」
「…………」
僕は答えに困り、透明な杖を持ちあげて、くるり、と一回転させる。
杖の使い方にもだいぶ慣れてきた。まあ、これで近接戦闘をしろと言われたら、全力で逃げて魔法使うけど、とりあえず振り回される事もなくなったし、咄嗟に振ることもできるだろう。
「神殿長。僕は……、どうなんだろう。僕がよくわからないんですよ。目指したいという気持ちは今も強いです。多分そこには、僕が今望んでいるものがあるのでしょう。けどそれは『僕』が望んでいる事であって、僕はたぶん、知りたいだけ」
「…………?」
僅かなニュアンスの違いに気づいたようで、神殿長は不思議そうに頷く。
「結論を急ぐつもりはありません。まだもう少し、不安な部分もあるので、そこを潰してからかな……」
「そうですか……。わかりました、ではオース・エリ。改めてお疲れさまでした。謝礼はいつも通りに支払います」
「はい。ありがとうございます。それじゃ、僕は失礼しますね」
神殿長が頷いたのを確認し、僕は改めて二人に会釈をしてから部屋を出た。
また会いましょうねと、トトラが言う。僕はこちらこそと答えておいた。
部屋を出て扉を閉め、少し歩いたところで、
『ええええ!? あの子が神官の先輩!?』
と叫び声が聞こえてきた。
ものすごく自然なリアクションだったけど、ちょっと声が大きすぎるような気がするなあ……。




