55 - 彼らと透杖のオラクルのこと
千年前、追放されたのがケビンなのかもしれない。
いや、流石にこれは理論が飛躍しすぎている。そう自分でも思うのだ。
大体、シニモドリが五百年周期だというのは適当な考えだし、もしそれが近いのだとしても、千年前、ケビンが神殿に反乱を起こしたという事を積極的に肯定できる要素もないじゃないか。
シーグに兄弟がいると言う記憶も、かけらさえ無いし。
けれど……。
一度思ってしまうと、一度考えてしまうと、なんとなくそれが真実であるように見えてしまう。
ケビンはシーグを失った後、なにやらとんでもない『治癒』をしたとあの声は言っていた。
厳密には、
『あれは珍しい例だよ。観測してて爆笑したもん。うわあすげえって。人間であの域に達するのって珍しい』
だ。
珍しい例。珍しいけれど、皆無ではない。
人間であの域に達するのって珍しい。つまりそれは普通の人間では不可能な事。
『破戒』という現象を起こした時、魔力が負の値になるから、事実上無制限に魔力が使えるようになる。ゼロを下回っている状態が基準になるからこそ、そこからどんなに魔力を使っても、魔力は無くなるもなにも無いのだと。
もともとケビンは治癒魔法が得意だった。特に自己治癒が得意だった。ならばその、珍しい例とは、『破戒』を意味しているのではないか。『破戒』によって得た無制限の魔力で、ケビンは己を治癒させたのではないか。
考え過ぎだ。
大体、この考えが真実だったとしても、僕にできる事なんてもはや無いのだ。それが千年前であるならば、もうケビンも死んでいるだろう。だから今更何ができるわけでもない。
そんな事を思いながらも、僕は神殿長の部屋の前に来ていた。
来てしまっていた。
僕は何を聞くつもりなのだろう。そんな事を聞いたって、答えてくれないかもしれない。
答えてくれないだけならいい。けど、その名前は本来記録されていないのだ、僕がオース・エリである以上、それを知っていてはいけない筈の名前なのだ。
「神官オース・エリ。どうしましたか、扉の前で」
と。
声は横からかけられた。
「神殿長……」
「少し急ぎの連絡を受けていまして。待たせてしまったのならば、悪い事をしました」
「……いえ。僕も……、なんで、ここに来たのか解らなくて」
かちゃりと扉を開けて、神殿長は部屋の中へ入って行く。その時、神殿長は僕の腕を掴んでいて、当然僕も部屋に入る。
神殿長はいつものように杖で床を叩きながら、机の横に立って……そして、僕に視線を合わせるように、少しかがんだ。
「どうしましたか、神官オース・エリ。……いえ、オースくん」
神殿長はいつもと違う、とても優しい笑顔を浮かべて僕に言う。
いつも纏っている張り詰めた空気も消えていて、なんとなく安心感にも似た何かを感じた。
そして、神殿長は僕の顔に手を伸ばす。
「あなたが泣くのは、初めて見ますね。何か辛いことがありましたか」
「…………」
泣く?
僕が?
ああ、僕は泣いているのか。
「……教えてほしい事があるんです。神殿長」
「ええ。私が知っている事ならば」
意を決して。
「千年前」
僕は聞く。
「神殿に追放されて、反乱を起こした神官がいたそうです。神殿長はその人の名前を知っていますか」
「…………」
神殿長の表情は変わらない。
けれど、僕の顔に触れる手が一瞬、震えた。
「あなたは、何故その人物の名前を知りたいのですか?」
「僕の誓いは『知る事』です」
嘘では無い。
だから知りたいというのも、本当だ。
そのニュアンスの違いを、神殿長は即座に悟ったのだろう。
「ならば、質問を変えましょう」
と、言葉を直した。
「あなたはその人物の名前を知って、何をしたいのですか?」
「……僕は」
何がしたいんだろう。
解らない。
その人が別の誰なのかを知って、安心したいのだろうか。
それとも……その人がケビンである事を願っているのだろうか。
「あなたは良く働いてくれましたからね。褒美は必要です。ですから、その名前を教えてあげましょう。但し……その名前は、他の誰に教えてもいけません。神殿長格の人物のみが、口伝によって語り継いでいる特別な名前でもありますからね。それと、当時の『発音』は解っていますが、そう言う経緯ですから、綴りや文字は解りません。それでもいいですか?」
「はい。それで、良いです」
「リジン、です」
リジン……。
ケビンでは無い名前。
僕はそれを聞いて、なんだか緊張していた全身が、ふっと楽になったように感じる。
よかった。
杞憂だったのだ。
なんで僕は、そんな事を勝手に思い、そして勝手に泣いていたのだろう。
ばかばかしい。
そう思った。
「フルネームはリジン・ウォッカ。冒険者としての名前は、ケビンでしたか」
だから、神殿長が付け足した言葉に、僕は動けなくなる。
息の仕方も解らなくなって……なのに、ばくばくと心臓が大きく音を鳴らしている。
「…………」
ウォッカ。シーグの本名は、オルト・ウォッカ。
リジン・ウォッカ……冒険者としての名前が、ケビン。
反乱を起こした者は、ケセド古殿に行き、そこのトップを倒している。その理由は……、ならば、シーグのせいか。
僕は考える。
その名前を知って、千年前の追放者がケビンだと知って、僕は何がしたいのだろう。
本当に……何が今、できるわけでもないのに。
「オースくん。調子が優れないのであれば、少し休むべきですよ。あなたにお願いした仕事も、どうしても急いで行う必要は無いのですから……正直なところ言うと、今まであなたが提出した八冊の再解釈で、神殿の上の方でもめていましてね。残りの全てもそう簡単に翻訳されると、こちらの仕事が追いつきません」
「それは神殿長がどうにかして下さい。僕にできるのは読んで、書きなおす事だけですから」
「それもそうですね。けど、そう言えない事情もできてしまいましたし……ねえ、オースくん。あなたが何故千年前の追放者の名前を急に知りたくなったのか、その理由を話してほしいとは言いません。私としても教えた以上、何故それを知りたがったのかが知りたいのは事実ですけれど……でも、あなたの様子を見る限り、どうやらその名前はあなたにとって、なぜか心当たりのある名前なのですよね? 何かで読んだか見たか聞いたのか、そこまでは判りませんが、でも、きっとあなたはその名前を知っていたのですよね……だから、それを確かめたくなったんですよね」
神殿長は言う。
「オースくん。いいえ……、神官オース・エリ」
神殿長は姿勢を改めて、僕にあの透明な杖を突きつける。
僕はそれに……呆然とする。
杖をつきつけられた事は初めてではない。
そう、それ自体は何度かあった。
けれど……いつもと、向きが違う。
今回のこれはまるで、僕に渡そうとするかのような、そんな形になってしまっている。
「この杖は『透杖歴鍵』と言う道具でしてね……。これは先代まではレーロ神殿の神殿長が受け継いでいたものなのですよ。武器の杖としての性能も高い、魔力の『集約』を補助してくれる不思議な杖でもあるのですが、しかし、これの本質は杖では無い。これは鍵なのですよ。ケセド古殿の門を開く、唯一の鍵。そう伝えられているのです。だからこそ、現存する三神殿の中で最も影響力の高い、ルブム神殿が管理していました」
ケセド古殿の……鍵?
いや、なんでそんな鍵を、重要なものを、代々受け継いでいたルブム神殿ではなくこの神殿長が持っているのだろう。
今だって……そう、今だって、影響力という意味ではほとんど横並びだけれど、ルブム神殿の規模がレーロ、アリトと比べれば大きいのは事実だ。
何故そんな重要な、そんな歴史的な意味さえ持ちそうなものを、ルブムの神殿長が手放したのだろう。
「あなたは既に、ルブム神殿の神殿長が持つ『神授』を知っていますよね。『オラクル』です」
将来起こる事を知る、反則のような『神授』。
「彼はこの杖を先代から受け継いだ時、『この杖は自分から誰かに渡されて、その後また別の誰かに渡される』ことを知ったそうです。そして私が神殿長になり、そして初めて出会った時、彼は言いました。『いつのことかは解らない、すぐ先のことかもしれないしずっと先の事かもしれない。けれどあなたは必ず、この杖を誰かに渡すことになる。それはあなたの役目であって、私の役目はあなたにこれを渡す事だ』と」
…………。
「当時既に私も『オラクル』を知っていましたが、だからと言ってそんな漠然とした事で受け取れるような代物ではないのですよ、これ。だから聞いたんです。何故私がそれを渡すのですか、あなたが直接渡せばいいじゃないですかと。そして彼はこう答えました。『その時、その誰かが訪れるのはアリト神殿であるというのが一つ目。でもそれは補強するための理由であって、根本的な理由は別にある』。彼は笑っていましたよ。その誰かに私も会いたいものだ、きっとその誰かは神殿を大きく変えるから、と」
神殿を大きく変える誰か。
それが僕だと、神殿長が思ったのだろうか。
「確かに神官オース・エリ、あなたは気付いていないのでしょうが、あなたが解読した魔法書によって既に、神殿は変わりつつあるのです。良かれ悪かれ……今はまだどちらとも判断がつきませんが、それでも、議論が進めば神殿と言うもののあり方がきっと変わるでしょうね。それほどまでに重大なことも書かれていましたから。でもそれは未来の事で、まだ起きていないことです。だからあなたがその誰かであると言う確信は、その後に続いた彼の言葉によるのです」
神殿長は改めて、杖を僕に向ける。
「『私がそれを、その誰かに渡す事はできない。あなたがこの杖を誰かに渡す時。それはきっと、私が殺されたと知った直後のことだ』――先程ルブム神殿から緊急の連絡がありました。ルブム国の第一王子の国葬に参列したルブム神殿の神殿長以下八名の神官と、第二王子が殺害されたそうです」
「……え?」
「その直後にあなたがあらわれ、ケセド古殿にまつわる名を訪ねてきた。もはや疑う余地はありません。私がこの杖を、私がこの鍵を渡すのは、神官オース・エリ。あなたです」
殆ど押しつけるように、神殿長は僕にその杖を渡してくる。
オースの身長よりも長い、大きく透明な杖。
ケセド古殿の……鍵。
「もしもあなたがケセド古殿に行きたいと言うならば、私はそれを止めません。ですが、たとえ反乱によって侵されたとしても、それでも聖域とも呼ばれるほどに、彼岸に近しい場所なのです。その点にはご留意を」
僕は、その杖を受け取って、自然と、それを抱える。
「…………」
ケビン。
ケビンはどうして、そこに行ったんだい。
追放されて、反逆者にさえされて、それでもなんで、ケビンはそこに行ったんだい。
僕は……『僕』は、それが知りたい。
「わかりました。じゃあ……」
僕はちらりと時計を見る。
そしてその横にある暦も確認して。
「とりあえず、今あるお仕事が終わったら、行ってみようと思います」
「…………。神官オース・エリ、あなたは恐ろしく辛抱強いですね。すぐにでも向かうかと思ったのですが」
「そうしたいのは山々ですけど、仕事は仕事、やらないとなんかもやもやするし……それに」
「それに?」
「今の僕じゃあ、辿りつけるかどうか。六歳児って、体力が無いんですよ、神殿長が思うほど」
それもそうですね、失念していました、なんて神殿長は言う。
そう。
名前を知った。
鍵は貰った。
場所も判っている。
時間は既に手遅れだ。
だから焦る意味は無い。
ただ、必ずそこに辿りつけるための力を、今は付けなければならない。




