01 - 身体の記憶と蓋のこと
朝。
木漏れ日に目を覚まし、僕は周囲をぐるりと見渡す。
そこは見知らぬ部屋だった。
僕を目覚めへと誘った木漏れ日は窓から差し込んでいたようだ。
僕が寝ているベッドには、綺麗なシーツに、綺麗な布団。
ベッドのそばには机があって、透明な水の入ったカップが置かれている。
少し離れた場所には木で作られた棚もあり、その棚には畳まれた衣服や本が置かれていた。
「……んー」
どうにも訳がわからないな、と腕で目のあたりを抑え、考える。
見知らぬ部屋……ただ、窓にはガラスが使われている。カップに入った水も透明だったし、このベッドもふかふかだ。
僕が暮らしていた家じゃないことは間違いが無い、僕が産まれた家はそこまで裕福な家庭では無かった。
それこそ窓にガラスなど使えるわけがないし、僕はその家が焼けおちて、そこで僕も死んだはずだった。
でも、生きている。
僕は今、生きている。
「ベッドで考えてても仕方な……、い、か。あれ?」
言葉を紡いで、大きな違和感。
僕の声、こんな声だっけ?
僕は確かにまだ声変わりを迎えていない、大人には程遠い子供だったけれど、だからといってここまで甲高い声じゃあなかったはずだ。
恐る恐る腕をはなし、きちんとその腕を見る。
それは見覚えのある僕のものではなく、とても華奢な腕だった。
腕につながる手も小さく、布団をはいで身体を見れば、その身体はどうにも小さい。
確かに僕は十二歳だったはずなのだけれど、どうにも近所に住んでいた五歳くらいの子と同じくらいに見える。
…………。
勇気、そう、一種の勇気を持って、僕は服をたくしあげ、穿いていた下着をずらして中身を見る。
よかった、男だ。
男だけど、でもやっぱり、僕の見知った僕の身体じゃあない。
いや。
当然か。
目覚める前の事を、ぼんやりと思いだす。
『君、また生きてみない?』
『そりゃ、生きたいけれど』
『そうかい。なら準備はしてあげるから、たのしんでくるんだよ』
『うん?』
うん。
たしかこんな感じのやり取りだった。
で、気が付いたら目が覚めたと。
結局あの声は何だったのだろう……、考えてもどうせ答えはでないだろうから、その点についてはもういいや。
とりあえず、僕は僕の現状を知らなければ……。
ベッドから降りて立ち上がろうとして大失敗、大きな音を立てて僕は前に転んだ。
なんか、普通に痛い……。
床に打ちつけてしまった額をさすりながらその場に座り込むと、部屋の扉が開かれ、
「何事ですか!」
と声が響いた。
響いた、といってもその声は奇妙に小さな声で、もっと大きな声で叫べばいいのになあと思った。
声の主を額をさすりながら見ていると、そんな僕を見て、声の主は暫く固まる。
その間に観察するかぎり、僕の家の近所にあった大きなお店のお手伝いさん、のような服装だった。
記憶にあるそれとはデザインは違うから、そのお店の人という事ではないだろうけど、なんとなく似たような服装だ。
それはつまり、見た目の華やかさと実用性を兼ねたようなもの……だったっけ、前にそんな話を聞いたことがある。
しかしこの人、固まったまま動かないな。
何かあったのだろうか。
「いてて……」
額をさすり続けていると。
「……ご、」
ご?
「ご主人さま! 坊ちゃまがお目覚めになられましたわ!」
今度こそ。
その人は、大きな声を張り上げて、そんな事を言うのだった。
はて……?
困惑していると、色々な人が部屋に入ってくる。
僕は一番最初に入ってきた人の手によって、ほとんど強制的にベッドの上に戻されていた。
その扱いは一挙一動が丁寧の一言に尽きていて、どうやらお手伝いさんというより、使用人さんなのかなあとあたりを付ける。
窓に使われているガラスにせよ、恐らくこの家はかなり裕福だ。恐らくは誰かに雇われているのだろう。
誰かに。といってもこの場合、その誰かとはこの家の所有者以外には居ないだろう。
僕はどんな人間に、というかどこの誰に『なっている』のだろう……。
そんな事を考え始めたその時だった。
「目覚めたと言うのは本当か!」
貫禄のある声がした。
その声を聞いて、僕ははっとする。
聞き覚えのない筈の声なのに、知らない筈の声なのに、僕はその声を知っている。
最初は小さな気付きだった。けれど、その気付きに連鎖するように、僕は色々な事を『思い出す』。
それはつまり、この身体の、記憶。
「……お父さん?」
「おお……これは夢か! 夢ならどうか、醒めないでくれ!」
その声の主、『身体』の記憶が訴えかけるところの父親は、両手で己の頬を叩くと、うん、と頷き僕に駆け寄ってくる。
ごく当然の流れのように、彼は僕の身体を抱きしめてくる。
僕の記憶、は一度置いて……ええと、身体の方の記憶をちょっと探ってみる。
明確に覚えているのは三歳の誕生日。
大きなパーティが開かれて、そこで色々なプレゼントをもらったりしたけれど、それよりも家族と一緒に過ごした時間が幸せだった。
次の記憶は、四歳になる前。
僕が外で遊んでいるとき、誰かに話しかけられた。
記憶が飛んで、今この瞬間。
ということは、僕は四歳になる前……?
「お父さん……、お父さん?」
「ああ。ああ。どうした、どこか痛むか」
「痛くないよ。痛くないけど……」
いや。
何かがおかしい。
この身体の記憶にある『父親』と、目の前に居る『父親』は、確かに同一人物に違いはない。
違わない筈なのに、祖語がある。
それは年単位で時間が経っているかのような、そんな祖語だ。
「『僕』は……」
誰かに話しかけられた後から記憶が飛んで、『僕』として身体は先程目覚めた。
その間の記憶が。
『その間の記憶がない』ならば、まだ良かった。
けれど『僕』にはわかる。
解ってしまう。
その部分の記憶は、確かに身体に刻まれている。
思い出そうと思えば、きっと簡単に思い出せる。
なのに身体は。
それを思い出そうとする『僕』を、必死になって止めに掛かる。
「僕は……」
思いださなければならない。
今、この状況を解するために。
身体の制止を振り切って、僕は『身体』の記憶、その蓋を取り払った。
チカッ、とした刺激を感じる。
ぐにゃり、と世界が歪む。
「う……げ、」
強烈な嫌悪感と嘔吐感、身体がわなわなと意図せず震える。
思い出す。
思い出す。
僕はこの『身体』が、永遠に忘れていたかったはずのことを思い出す。
この身体では本来無理なはずなのに、抱きついてきた『父親』を思いっきりはねのけて、僕はベッドの布団に包まるようになる。
先程までは全く感じていなかったふかふかの布団、その気持ちの悪さを、肌が嫌というほどに感じている。
それでも誰かに触られるよりかはマシだと『身体』は感じ、それにすがるかのように、気持ちの悪い布団を求める。
理解した。
『身体』がその記憶を封じ込めて居たかった、その理由を理解した。
そして――『僕』という命が、この『身体』にある理由も、理解した。
本来のこの『身体』の持ち主は。
あの日。
見知らぬ人に話しかけられ、それに受け答えてしまったこの『身体』の持ち主は、その直後に攫われた。
その後は一睡もすることができず、この『身体』のはひたすらに弄ばれた。
言葉を飾っても仕方が無い。
思い出してしまった『僕』が折り合いを付ける意味もある。
認めよう。
なぜそんな事をされたのか、その理由を、この『身体』の持ち主は遂に理解できなかったようだけれど、『僕』にならば解る。
報復だ。
それも、『身体』の持ち主の親に対する報復。
父親を直接害するのではなく、その家族、愛する実子を、愛する息子を壊しつくす。
死んだら死んだで構わない。ただ、無残にそして凄惨にできるならば、それでよい。
結局、この『身体』の持ち主は、半日で全てをあきらめた。
そしてさらに半日で、身体的に生きていても、その精神的には二度と戻らないほどに壊れてしまって、そして消えてしまった。
命だけが死んだのだ。
意識のない『身体』だけになっても、ただひたすらにそれらは続いて、続きつづけて、一週間。
『身体』は助け出された。
けれど、もはやそこに命はない。
だから身体が、ようやく眠る事を許されて……そして二度と目覚めなかった。
命が無いから。
それでも、この身体の持ち主は家族にとても愛されていた。
だからこそ、この身体を狙った連中の狙いは適切極まり無かったわけだけれど……、ただ、愛されていたから。
二度と目覚める事はないだろう、なぜならばそこに命がもう無いから。現実には目覚めたくもない苦痛しかないのだから、永遠に眠り続けるしかないのだと解っていても、その『身体』はひたすらに生かされた。
そんな所に、『僕』という命がぶち込まれた。
空虚な器は命を欲していたし、命しかなかった僕には器が必要だったから。
疑問は多い。
しかも乗っ取るような形だけれど。
それでも。
僕はまた、生きている。
僕はまた、生きられる。
僕は僕にそう言い聞かせる。
すると先程までの強烈な嫌悪感が、嘔吐感が、消えて行くかのようだった。
いや、違うな。
この感覚は、むしろ……。
「…………」
布団から出て、僕は改めてベッドから降りる。
今度は思い描いた通りに、立ち上がる事が出来た。
呆然と僕の方を見ていた皆の顔を見れば、先程までは解らなかった人たちの名前も、漠然と父親としか解らなかった人物の名前も、すんなりと思い出せる。
そして、もう一つ。
『おめでとう、最初の試練は無事クリアしたようで何よりだ。それじゃあ、ビジネスのお話をしようか』
あの白い場所で聞いた謎の声が、聞こえてきた。