好き?
『泣くなよ。暴れんなよ』
見知らぬおにーさんの背中はあったかかった。
ザァザァと水の音。流される膝がすごく痛かった。水は冷たくて、傷は痛くて熱くて怖かった。
泣くなと要求されて必死にこらえたけれど、相手は知らないお兄さん。ちょっと怖い。でも、痛そうな表情で手当てをしてくれてる姿にちょっと安心した。
消毒にペタンと貼られる絆創膏。『ほーら。頑張って我慢したご褒美な』治療終わりに口に放り込まれた飴玉が固くて、舌で転がせば甘かった。
転んだ私を見つけて応急手当。「ちゃんとお母さんに言うんだぞ。痕が残らないといいな」そんなことを言いながらおぶって家まで送ってくれた。
それは小学生だった頃の甘酸っぱい思い出。
お兄さんは次の年もその場所に来てた。
遠くから見る私に気がつかない。
まわりのお姉さんやお兄さんがじゃれるように『フミちゃん』って呼んでいた。その名前を忘れたくなくて持ってた本にメモをした。
お友達も沢山で楽しそうな人だから、きっと、転んだ小学生なんて覚えてないよね。
そう思ってた。
中学であなたと同じ部活を選んだ。動機は、少しでも近づいてみたいから。不純、かな?
だって、共通点が欲しかったから。
『また、転んだのか?』
靴紐を結びなおしていた私に差し出される手と眩しい笑顔。覚えてもらえたことがどれほど嬉しかったか。
少しでも大人に見られたくて。はしゃぐなんて子供っぽいよね?
でも、どうすれば背伸びできるかわからない。見てるだけで満足だと自分を騙してたのかな?
笑いかけてくれるだけで幸せで嬉しいの。
本当は、全然足りない。
彼と同じ学校の子達に嫉妬してた。
彼は明るくて誰にでもやさしい。特別なんだって思い込んだら罰があたる。
羨望と不可能を重ねてその条件を揃えた人に無条件で嫉妬する。嫉妬する醜さに後悔を募らせる。
おひさまが陰ってくね。
特別になりたい欲は消えない。
私にだけ特別にやさしいんだって思いたかった。
スキな人いたんだ。
その事実に心が刻まれるように痛い。
「なにやってんだ」
あなたの声にドキドキする。
「人を待ってるの」
あなたを待っているの。
「俯いてたら気づかねーんじゃねーの?」
「そう、かな?」
でもコレが会える方法なんだよ。
そうっと顔を上げる。
雨のむこう、あなたは濡れることのない笑顔。
決まった時間決まった場所。そして赤い御守り鈴。
いつだって私に気がつかない。
だって、あなたはいつも名乗るんだ。あなたにとって私はいつまでも初対面の見知らぬ女。
追いついた時間が嫌だ。
大人になりたいって思ってたのに。今は時間を止めたくてしかたがないの。
それでも、あなたは知らないけど私だけが今、あなたを独占してる。
「片槻ちゃん。あそこでしゃがみこむのはなんで?」
ほぅと息をついたとたんに声がかけられた。見られてたなんて気がつかなかった。
「気にしないで。おまじないなの」
「いや、気になるって」
大学で知り合った友人は心配そうにおせっかい。
気遣われてるのはわかるのけれど、私はいらだつ。特別な時間を邪魔されたっていらだっている。
「関係ないよね。だから干渉しないで。心配してくれてありがとう。おやすみなさい」
近所に住んでたんだなぁ。そんなことを考えながら「さよなら」と手を振って別れる。
誰かになんて、何かになんて興味なんかなかった。
目立たずひっそり。
それが私のモットーで、ただ、おひさまを目指したから少し変われていた。
宙ぶらりんになくしちゃうと私はやっぱり宙ぶらりん。
目指すおひさまは一つの場所にいて、私の意識は他に興味が持てない。
動けないの。
「……バカ」
「だって……」
「行こう……」
そんな会話が届く。それは聞くつもりもなかった話題。そのうちの一人が悪戯な猫の表情で私を見てくる。
「片槻さんも肝試し参加しない?」
肝試し?
「出るルートがあるんだって」
きゃあきゃあとはしゃいでる中、私はうまく混れない。
出るってなにが?
「心霊ゾーンだってー」
「ないよねー」
彼女たちは不謹慎な遊興に心を揺らしてはしゃぐ。
ないよね、そこで人が死んだんだよ?
どうして楽しそうなの?
私にはわからない。
「片槻さん、帰り道になるし、乗って行きなよ。車内で食べるお弁当だってあるからさ」
そう告げられて、もう決定事項になっていた。
予定はって聞かれて、反射的にないって示しちゃったから。現場にたどり着くまでの社内の話題として聞かされる現場事故の話。居眠りの車が起こした事故。加害者も被害者もどちらも生き残らなかったって。接触現場を過ぎる時に『俺のせいじゃない』って声が聞こえると。どこまでが真実か、面白おかしく誇張されてるんだと思う。「食べる?」とおやつやパンを差し出されても喉を通らない。
車内に落ちた鈴を拾おうと身を屈めた。
『あの二人はうまくいくし、俺も紹介したいコいるんだ』
ねぇ、どうして彼の声が聞こえるの?
すぐ、となりから聞こえてくる弾む声に心臓が止まりそうになる。
『とーさんもかーさんもしぶい顔しねぇの!』
朗らかなおひさまの声が聞こえた。
不自然な体勢で動きが止まる。身じろぎができない。
『俺さ、好きなコいるんだ。まだ、告ってもないけどさー。絶対オトス!』
聞きたい聞きたくない懐かしい声。
『あー。遅刻しそー。ねぇ、とーさん、近道してよ』
どこか膜越しに思える彼の声が耳に届く。
彼は、彼らはまだ、ここにいるの?
それともコレは場所の記憶?
「あー? 誰か、いる?」
貴方の声が、近くで問う。
「なにもなかったね」「付き合いありがと」口々に別れの言葉。
みんなには聞こえなかったあの人の声。途中俯いてしまった私にかけられる気づかいの言葉に反射的に「大丈夫」と答えて笑ってみせる。
私は笑えてる?
こわかった。こわかったの。
他の人が好きで、もう報われるコトはありえないのに、どうしても大好きなの。
嬉しくて仕方なかった私がこわかったの。
きっと手を伸ばされれば。
風がチャリんと鈴を転がす。
「なにやってんだ」
「好きな人を諦めたくないの」
「なら、諦めなきゃいいだろ?」
気配がぐっと近づいた気がする。
「だって届かない。かなわないんだよ!」
あなたは遠い。心も体も。それなのにあたりまえだって言いそうな断定で告げるあなたが酷いの。
「その気持ちは大事じゃね? 伝えねーとさ届かない」
心が痛い。伝える? ねぇ? あなたに届くの?
「好きよ。大好き」
風が鈴をチャリんちりんと転がす。
「片槻ちゃん、大丈夫か?」
聞こえる声はあなたじゃない。伝えることも許されないの?
見上げた先にいるのは鈴を拾いあげた友達。
額に触れるひやりとした手の感触。
「ちょ! 熱あるじゃねーか。家、どこだよ。ああ、それとも病院!?」
慌てる彼。
大丈夫なのに。
「送ってなんかいらないけど?」
「また風邪っぴきでしゃがみこんでんじゃないかって思うと心配過ぎるから、目を離せないね」
「関係、ないでしょう?」
ほっといてよ。
「心配だって言ってるだろ。諦めろよ。好きな相手を心配せずにいるなんてできないんだから」
え?
彼は、伊住君は何を言ってるの?