2 「 あたりまえ 」
※加筆修正しました。
夢をみている。
胡蝶の夢ではない。
ふつうの夢だ。
――眼前に広がるは闇。
その何もない空間を、一人の女が彷徨っていた。
姿はぼんやりとして朧げで、外見から性別を判断することはできない。
それでも、女だという確信があった。
同時に、愛おしさが胸を叩いてやまない。
それは、その者が自分自身であるような感覚。
が、そうではない。
あれは自分ではない。
がしかし、そうである気もまたする。
何もかもが、霞がかっていた。
肉体が、精神が、自己を構成するありとあらゆるものが、今にもこの空間へと溶け出していってしまいそうだった。
だが、そんな自己の消失ともいえる感覚に、俺は得も言われぬ安らぎを感じている。
不思議な感覚だった。
ふと気がつくと、女が小さくなっていた。
いや、距離が離れたのだ。
フラフラと様子の女が、どんどん小さくなっていく。
気づけば、俺は彼女のことを呼んでいた。
だがどんなに必死に叫んでも声は届かない。
いや、声がでないのだ。
それでもどうしても気づいてほしくて、目の前にある壁を夢中で叩いた。
ひたすら、叩く。
完全に姿が見えなくなってもなお、叩き続けた。
そうして、ふと思った。
……壁?
目の前に、壁はない。しかし、壁はある。
――見えない壁があるのだ。
そう理解した瞬間だった。
植物が成長して花をつけていくさま――それを早送りで見るようにして、徐々に徐々に壁が色付いていった。
なにがなんだか分からなかった。
だがすぐにピンときた。
月だ。
まるい月……満月だった。
からだが硬直した。
何が起こっているのかわからず、驚愕で見開いた目を、大きく瞬きさせる。
一回――からだは動かない。
二回――何の変化もない。
三回――っ!!
全身がプレスされた。
女がいた。目と鼻の先に。
壁一枚、月ひとつ隔てて。
目が合って、女が笑った気がした。
全身の力が抜ける。
そのとき感じた感情は……
喜びだった。
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「――っっ!!!」
ものすごい音がした。
これでもかと息を吸い込み凄まじい速度で飛び起きた、その音だ。
だから実際は大した音ではない。
だが人間が覚醒して一番に聞く音としては、十分過ぎるインパクトだったといえる。
柔らかな日の光とともに、開け放たれたカーテンから、可愛らしい雀のさえずりが飛び込んでくる。
レース越しに陽光を浴びつつ、俺は荒い呼吸を繰り返した。
からだは熱く、心臓は早鐘を打っている。
なんとか落ち着こうと、軽い口呼吸で息を整える。
そろそろ心臓が正常なリズムを刻み始めようかという頃、俺は大きく息を吸って――
「んひやああああぁ~~」
掠れた間抜け声をのせた息を吐き出し、柔らかなベットへと倒れ込んだ。
そのまま半ば放心状態で浅い呼吸を繰り返す。
大体4回ほど呼吸をした後だろうか。
俺は頭を傾けつつ、右腕を額に乗せ、小さくため息をついた。
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最悪な目覚めを迎えた俺は、最悪な気分で階段を降りていた。
段差を一段一段慎重に降りていく作業もまた、最悪だ。
数日前に捻挫した左足は、既に昨日の段階で痛みはなく、治ったと言っていいだろう。
軽い捻挫で本当によかった。
だが、こういうのは癖になると聞く、もう少し様子を見るべきだろう。
それに階段で転んでしまっては、捻挫どころでなく命が危ない。
昔転んだときは死を覚悟したものだ。
「――あら、もう起きたの? 珍しいじゃない」
ペタペタと一段ずつ足音を鳴らして階段を降りていると、キッチンから通りのよい声が届いてきた。
機嫌悪気におはようを口にすると、これまた通りのよい声で、ご機嫌なおはようを返される。
語尾に音符がついてそうなやつだ。
「父さんは?」
「ついさっき出たわよ~」
ふーん……と愛想のない返事を返すと、俺は冷蔵庫の扉を開けた。
壁にかけられた時計をみると、午前6時を少し回ったところだった。
――社畜である父の朝は早い。
8時30分始業開始なのに7時半には会社に着いて、清掃したりなんだりしているらしい。
俺は朝に弱いので、基本的に父さんの顔をみることはない。
俺が起きるのはいつも7時なので当然だ。
正直7時でさえキツイものがある。
6時前に起きることなど出来るわけがない。今日は特別だ。
6時前に起きて支度を済ませて出社する父、出社を見送るためにギリギリとはいえ6時前に起きる母。
この二人の間に生まれておきながら、なぜ俺は朝に弱いのだろうか……
永遠の謎である。
冷蔵庫からよく冷えた麦茶を取り出し、コップに注ぐ。
今日は珍しくのんびりできると喜びながら、俺はリモコンを手に取りテレビのスイッチを入れた。
ニュースを流し見しつつ、のんびりできるのはいい事だ――と、どこかボーッとする頭で計算する。
野球部の朝のグランド整備は8時からだ。
なので、いつもどおり7時20分に家を出ればいい。
支度自体は20分で終わるとして、今6時すぎなので、およそ一時間ほど余裕があることになる。
ゆったりとした時をこよなく愛す俺様は、なんとなく得をした気分になって、ニヤリとして麦茶を飲んだ。
まぁ、いつもより1時間も睡眠時間を損したという見方もできるわけだが……
チラリと、俺はキッチンの様子を伺った。
どうやら母さんは弁当を作りはじめたばかりのようだった。
弁当のほとんどが夕食の余りモノや冷凍食品ではあるけれど、母さんが早起きして作ってくれた弁当というのは、本当に染み入るようなウマさがある。
俺は心の中で、ありがとう、と母に感謝した。
……さてと。
一息ついたことだし、更なるゆとりを得るためにも、早めに支度をするとしますか。
俺は残った麦茶を一気に喉に流し込んだ。
ゴクゴクと喉を鳴らし、空になったコップを勢いよくテーブルに置くと、ふとテレビのニュースが目に入った。
テレビのむこうで、アナウンサーが轢き逃げや殺人事件などの悲惨なニュースを伝えている。
……物騒な世の中だ。
この比較的平和といえる日本でも、ただ目の前に見えていないというだけで、こうしている間にも数々の事件が起こっているのだろう。
俺がこうして平和な日常を享受できているのは単なる偶然に過ぎないのだと思うと、少し身が寒くなる。
しかし、そういうことはいくら普段から気をつけていようと中々防ぎようのないものだ。
一寸先は闇――だから精々、今を全力で楽しむしかないのかもしれない。
俺は思わずため息をついて、椅子ごと身を引いた。
「よぃしょっ、とお!」
親父くさい掛け声にあわせて重い腰をあげ、俺は支度をすべく洗面所へと向かった。
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引き戸をひき、洗面所に着いた。
洗面所へ着いてまずすることは、風呂場の戸を開けることである。
次いで風呂場の蛇口をひねり、40度ほどの丁度良いお湯が出てくるのを待つ。
ジャーという音をたてる水の柱を、指の腹でさわる。
――いい感じにお湯が出てきた。
俺は空気を目一杯吸い込んで、お湯の滝へと頭を差し込んだ。
バチャバチャと音を立てながら頭を洗う。
満遍なく洗い終えたところでお湯を止め、襟足の方から水分を押し出すようにして両手で髪をかきあげていく。
最後に頭のてっぺん(やや手前か)で、キューピ〇さんのような形を作り、水を絞りきる。
そしたら仕上げにタオルドライだ。
目も覚めるし寝癖も治る、一石二鳥の素晴らしい作業である。
ついでに顔を洗うこともできて、スッキリ爽快、超時短だ。
ん? いやまて。
今気がついたが、それだと一石三鳥じゃないか?
自分の中で髪と顔を洗うのが当然のセットになってしまっていて、今の今までで気が付かなかった。
大発見だ。
これからはこれを、朝のハッピーセットと呼ぶことにしよう。
さて、ハッピーセット(タオルドライを含む)を終えたら今度は髭剃りだ。
髭はかなり薄いほうだが、やはり毎日剃らないことには不潔な印象を与えてしまう。
髭の似合うワイルドな男ってのも憧れるけど、俺の髭は薄い上に密度がスカスカのまばらなのだ。
伸ばしたところで冗談にしか見えないだろう……
俺は悲しい気分になりながら、シェービングクリームを口周りに塗った。
そして、薬局で頭を悩ませて選んだ優しいシェーバーを手に取る。
やさしい……やさし、やっさしぃー! のCMで一時期有名になったあれだ。
俺はシェーバーを肌に添える。
まず順剃り、それから逆剃りだ。
俺は肌が弱いので、急に逆剃りをすると傷がつくし、逆に順剃りだけだと剃りが甘い。大切な手順なのだ。
剃り終えた後は軽く水洗いして、化粧水をつけたらゲームセット。
よし、バッチリ! きれてなーい!
会社が違うぞという突っ込みはノーサンキューだ。
俺は爽快な気分で二階の自室へ戻る。
ドアを閉めると手早く全裸になり、制服を身につけていく。
昨夜のお風呂後から履いているパンツは、そのまま履かずに洗濯行きだ。
人間は、夜寝ている間にも結構な汗をかいていると聞く。
それを考えると、それをそのまま履き続けるのには抵抗がある。
本当ならシャワーも浴びたいところだが、シャワーを浴びている時間があるなら俺は寝ていたい。
というか起きれないだけだが。
まあ、そこでシャワーの代わりとなるのがコイツ。
制汗スプレー「32 Forメン」抗菌仕様、爽やかシトラスの香り!
俺は気になる場所に32を吹き付け、制服を着込んだ。
汗を抑えるというより、匂いを抑える用途だな。
制服はブレザータイプだが、ネクタイは締めない。
苦しいし、朝のグランド整備でどうせすぐジャージになる。
しっかりするだけ無駄というものだ。
俺は鞄と今さっき脱いだ洗濯物を手に持ち、再びリビングへと向かった。
途中、脱衣所で洗濯物をカゴに放り込むのも忘れずに行う。
リビングにもどってくると、既に朝食が準備されていた。
といっても単なるシリアルだが。
俺はあくびをしながら席に着く。
用意された牛乳を注ぎながらテレビをみると、ちょうどニュースが6時30分の時刻をお伝えしていた。
おっと危ない、牛乳を注ぎすぎるところだった。
俺はシリアルは牛乳を注ぎすぎず、サクッとした触感を残すのが好きなんだ。
どうせ最後のほうのはベチャベチャになるしね。
一度で二度おいしいってやつだ。
「いただきまーす」
「はい召し上がれ~!」
キッチンから聞こえてくる母さんの声を聞きながら、俺はシリアルを口に運んだ。
俺は朝はあまり食えないたちなので、シリアルだけとか、単品で丁度いい。
それに朝はいつも時間がないし。
だがこれをとある友人にいうと、そんなんじゃお昼まで我慢できないだろ! とか、力が出ないぞ! とか、毎回文句を言われる。
しかしである、仮に昼前にお腹が減ってしまったとしてもだ。
そのときはただ早弁をすればいいだけの話で、何の問題もないと思うのだ。
母さんもそれを見越して、いつも多目に弁当をつくってくれている。
大体あいつはいつも細かいことを心配しすぎなんだよ。
今度言われたら「大丈夫だ、問題ない」と、クールに返してやることにしよう。
それでも大丈夫かと食い下がってくるようなら、さらにこう返そう。
「そのための早弁です」
その際、メガネをくいっと押し上げる動作をするのがポイントだ。
メガネないけど。
そんな調子でシリアルを食べていると、手を拭きながらキッチンから母がでてきた。
「結、お弁当おいといたから、忘れないで持っていってね」
「うん、ありがと」
「じゃ私一回部屋もどるから――」
そういってリビングをでていく母を見送ると、俺は食べ終えたシリアルの食器をもって席を立った。
キッチンにはいり、シンクに食器をおいて水で満たす。
カウンターを見ると、黒い弁当袋に包まれたお弁当様が、威風堂々とお座りになられていた。
保冷に重点を置いたその漆黒の外装に、大容量を誇る二段式アルミ弁当箱が、物々しい雰囲気を放っている。
俺はそれをひょいと掴んで、鞄のそこのほうにいれた。
逆さまになったら悲しいからな。
さて、時刻は6時40分。
いつも通りトイレで歯磨きをして、残された時間を優雅にソファで過ごさせていただきますかね――
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「くっ、そおおおーーっっ!!!」
心の叫び。
俺はついそれを口にしてしまっていた。
だがそれもムリはないだろう。
何故ならいま俺は、全速力でチャリをかっとばしている最中だからだ。
「うおおおおおーーっっ!!!」
では何故チャリを飛ばすハメになったかというと、単純に寝過ごしたからである。
あの後、トイレと歯磨きを終えた俺は、ソファにどっかり座り込み、紅茶を飲みながらニュースをみるという、正に優雅な朝を過ごしていた。
そこまでは完璧だった。
そう、誤算があったとすれば、そこでリラックスしすぎたことだろう。
起きたばかりの時は、あの強烈な夢のせいで二度寝なんて事はとてもじゃないが出来なかった。
だが俺はもともと朝に弱い男。
いつもは7時ギリギリまで眠っている男が、6時に起きた上に柔らかいソファに深く身を預けていたらどうなるか――
お察しであろう。
そんなわけで、目を覚ましてみたら7時35分。
実に15分ものタイムオーバーである。
高校までの距離はチャリで30分。
だから7時50分に着くためには7時20分に出なければならないのだ。
それが15分もオーバーしてしまえばどうなるか。
当然普通に向かえば8時を過ぎてしまう、まず整備開始には間に合わない。
そうすれば、残された時間内、周囲の白い目線の中で延々とグランド整備をし続けなければならないのだ。
その気まずさと居心地の悪さといったらないだろう。
それに、駄目押しの塁間ダッシュ30本だ。
これは野球部内の誰か一人に頼んで見届け人になってもらい、部活の練習時間以外の自由時間に消化しきらなければならない。
そんなのは誰でも嫌に決まっている、信用も失うしな。
そんなわけで今俺は、全速力で立ち漕ぎをしている。
幸いにも仕度を全て終えていたため、目を覚ましてからノータイムで出発することができた。
学校まで30分というのは、そもそも普通に漕いで行った場合の話なので急いでいけば15分……はムリでも、17から18分ほどで着くことができる。
つまり低く見積もっても7時55分には学校に到着することが可能なのだ。
ただし、そこから自転車を降りて部室へ行き、着替えを済ませてグランドに出る、という行程にかかる時間も考慮にいれなければならない。
だからせめて、せめて52分には――!
そんな一心で、俺は自転車を走らせる。
幸いにも、今日は信号機に捕まらずにいける日のようだ。
そしてあの厄介な向かい風もない。
というかむしろ追い風がある始末である。
これならもしかしたら新記録が出せるかもしれない。
自己新は16分――ならば目指すは15分である。
ソファで眠りこけていた俺を起こしてくれた母さんに、二重の意味で感謝しなければなるまい。
――ふふ、まだだ! まだ終わらんよ!!
足が重いと、折れかけていた自分の心に、渇を入れる。
そうして俺は、今日も元気にチャリをとばすのであった。
高校に入学して以来、毎日忙しい日々を送ってきたが、そのことに心から充足を感じている。
毎日楽しくてしかたない。
だからこれからも、こんな毎日が続いてほしいと願う。
だが同時に俺は、自分には大したことは何も起こらないと、そう心のどこかで思っていた。
ただ漠然と、何の根拠もなく、平和な日常を信じていた。
展開が遅めで申し訳ないです。
※加筆修正しました。
既に読んでいただいた方には申し訳ない気持ちでいっぱいです。
加筆は洗面所に行く前あたりです。