8.フライオーバー
アンジェラはコルガーの荷造りに手を出し口を出し、最終的にはそのほとんどを彼女がやることになった。コルガーは手際よく荷物を詰める曾祖母の傍らに座り、円筒形の革の鞄の中に防寒着や日用品が消えていく様を眺めていた。
「そういえば、私がなぜここに修道院を作ろうと思ったか、あなたに話したことなかったわね」
コルガーの部屋の窓は南向きだ。空は雲に覆われているものの、正午ともなれば淡い光が木の床やベッドを優しく照らす。
「うん、知らない」
出発は夜だ。暗闇に紛れてベルファストを脱出し、バンゴールという小さな港町に停泊している船を目指すとギーヴは言った。別れを惜しむ時間を与えられたアンジェラとコルガーは、どちらからともなくできるだけ一緒に過ごしている。今生の別れではないにしろ、どちらかが街を出るということはこれまで一度もなかったのだ。
「私は嫁いでからたった一度だけ、家出したことがあったの。マキシムのそばにいるのが辛くなってね。当時、私やマキシムやギーヴ猊下はフランスのオンフルール村の林檎修道院というところで暮らしていたのだけれど、そこを一人で飛び出して、海を渡ってベルファストへ来たの。その頃、この町で大きな帆船を造っていてね、一目でいいから見てみたかったのよね」
「どうしてマキシムのそばにいるのが辛くなっちゃったの?嫌いになったってこと?」
アンジェラは肩をすくめた。
「今ではこのとおり真っ白だけど、昔は私の髪もあなたみたいな茶色だったのよ。それがある朝、髪を梳いていたら白髪を一本見つけたの。怖くなったわ。マキシムは永遠に歳を取らないけれど、私はどんどん年老いていくんだって。そう思ったら居ても立っていられなくなってしまったのよ。彼を愛してたから」
コルガーはぽかんとした表情で瞬きした。異性に寄せる愛情について、彼はまだ無理解だ。そういうものなのかと感心するばかりのコルガーにアンジェラは微笑む。
「ベルファストへやってきて、どこか教会で休ませてもらおうと街を歩いていたら、一人の修道女に出会ったの。彼女は私の母親くらいの年齢で、何も聞かずに私を自分の修道院へ連れて行くと、十数人の修道女たちを紹介してくれた。言葉は半分も通じなかったけれど、そこに暮らす修道女たちが皆、歳老いたクラシックだということはすぐに分かったわ。誰もが親切で、何かの縁だからいつまでもここにいるといいと言われ、私も半分その気になっていた。その修道院には後継者になるような若い修道女がいなかったから」
きゅうっと鞄の口の紐をアンジェラが引いた。円筒形の鞄の口が絞られ、紐が持ち手となった。試しに持ち上げて担いでみるとコルガーの背中にぴったり収まったが、少し紐が短いようだった。
「その一方で、私はマキシムが私を捜しに来てくれることを願っていた。捜し当てられるような場所じゃないことは分かっていたけれど、それでも彼が迎えに来てくれたら、私はすべてを諦めて彼と一緒にいようと思ったのよ。最後の最後まで一緒にいようとね」
アンジェラは鞄をコルガーから受け取り、紐の長さを調整する。コルガーは机の上からスケッチブックを取り、これも入るかなと首を傾げる。
「そして、彼女たちと暮らし始めて二週間後、とうとう迎えが来たの」
「へえ、マキシムもここに来たことあるんだ」
コルガーはスケッチブックを鞄に押し込みながら不真面目に話を聞いていた。どうせ最後は迎えにきたマキシムと仲直りしてハッピーエンドに決まっている。
「いいえ。私を迎えに来たのはマキシムじゃなかったのよ」
少年の心中を察したのか、アンジェラはくすりと笑った。コルガーは目を瞬き、それから信じられないという顔をした。そうだ、ギーヴは六十年前にここへ来たことがあると言っていた。
「でも、あのギーヴ猊下がどうやって、ばあちゃんを見つけ出したの?」
ギーヴはお世辞にも勘が鋭いようには見えない。
「私も真っ先に聞いたわ。でも誤魔化された。マキシムが大慌てで私の実家へ旅立った後、何となく西のような気がしてアイルランドへやってきたんですって」
「それだけで修道院まで特定できないよ」
「ええ。だから私は、ギーヴ猊下には、まだまだ秘密があるんだと思うのよ。私にさえ明かしてくれない秘密の力が」
アンジェラは楽しそうに笑い、コルガーに鞄を手渡した。今度は紐の長さも丁度良いようだ。
「あの人はいつでもマキシムの後ろにいた。修道院で暮らしている時も、教会へ反旗を翻した時も、いつもいつも自分はマキシムのオマケですって顔をしてた。前へ出ていく性格じゃなかったと言えばそれまでなのかもしれないけれど、今はそうじゃないような気がするの。彼は自分と兄を対のように見せ、そればかりか兄の方が優れているように見せていたけれど、本当は逆なのかもしれない。あの兄弟は、ギーヴ・バルトロメという異能の男と、ちょっと変わったその兄と言った方が正しいのかもしれないわ」
不老の男を『ちょっと変わった』と言ってしまうのは彼女だからだろう。
「ともかく、家出した私はギーヴ猊下に連れられて林檎修道院へ帰った。するとすぐに教会のクラシック弾圧が激しくなって、私たちは教会に抗議するべくエディンバラへ向けて行進を始めたの。そのどさくさに紛れてマキシムとはすぐに仲直りしたわ。彼の子を身ごもっていると分かったのもその頃で、今から思えば私の人生が一番輝いていた時だった。そして大行進が終わり、マキシムがヒベルニアへ旅立ち、ギーヴ猊下がエディンバラへ向かった後、私は怪我人や病人を収容できる安全な場所を探したの。その時、思い出したのがこの修道院だった。そして、この修道院を手放せずに私はまだここにいるというわけ」
ウイスキー修道院には後ろ盾となる有力者や資金源となる貴族のスポンサーがいない。必要なものは自給自足し、院内で収穫した農作物や手作りの酒やジャムや菓子を売り、教会の目を盗んで彼女は細々とクラシックの教えを守ってきたのだ。
「ついでに聞いてもいい?」
コルガーはふと思いついて訊ねた。
「なあに」
「マキシムが迎えに来てくれたら、最後の最後まで一緒にいようと思ったって、それって、ギーヴ猊下の場合も適用されたのかなあって」
アンジェラは思いがけない質問に心底びっくりしたようだった。彼女は何度か瞳を閉じ、今まで考えてもみなかったわ、と微笑んだ。
「でも、彼が迎えに来てくれた時、とてもとても嬉しかったのは本当よ」
彼女の唇からこぼれた声は驚くほど愛情に満ちていて、自分はしてはいけない質問をしてしまったのではないかとコルガーは緊張した。曾祖母の本当の気持ちに気づいてしまうことは、誰に対してだか分らない後ろめたさがある。彼の心を読んだのか、アンジェラはうふふとおかしそうに笑った。
「それでも、私が愛していたのはマキシムだけよ」
昼寝から目覚めてギーヴが厨房に顔を出すと、夕飯の支度に取り掛かっていた修道女たちが一斉に振り向いた。(見た目が)若くて顔の良い男が珍しいので、神々の花嫁たちも色めき立つのである。
「まあ、ギーヴ猊下、お目覚めですのね!」
「うん、おはよう。修道院の戒律を破って世話になっちゃって、悪いね」
これまでにウイスキー修道院に滞在を許された健康な男はギーヴ・バルトロメくらいであろう。女子修道院は日没とともに男子禁制となる。
「そのようなこと、エディンバラ名誉司教猊下のなさることですもの!」
「それもそうだよね」
可憐な野の花のような修道女たちに囲まれてギーヴが鼻の下を伸ばしていると、彼女たちの黄色い声を聞きつけたアンジェラが釘を刺しに来た。
「開き直ってどうするんです。本来なら、司教だろうと修道士だろうと、日没以降、老病人以外の殿方の滞在は許されていないんですよ」
「いいじゃない、俺は老人だよ。コルガーは?」
ギーヴがピクルスをつまみ食いしながら応じると、老シスターは薬草の入った籠をどんとテーブルに置いて笑った。
「一緒にお昼寝でもしましょうかって誘ったら、すっとんで逃げて行ったわ」
「そりゃね、もう十八歳でしょ、彼」
「……」
アンジェラは窓の外へ視線を転じ、暮れてゆく外の景色を一瞥した。
「ねえ、猊下、あなたは世間のことに疎い方だし、あの子もあなたより世慣れているとはいえ、長い旅に出るのは初めてのことだもの。道中くれぐれも気を付けてくださいね」
「分かってるよ。どうしたのさ」
「心配なのよ、あなたのこともあの子のことも」
アンジェラはそう言い残し、上の空の様子で厨房を出て行った。
「コルガーは多分、墓地にいますよ」
修道女たちから果樹園の奥に墓地があることを教えられ、ギーヴはコルガーを探しに行くことにした。火災のせいで焼け焦げた果樹園を抜けて墓地に着くと、案の定、彼は小さな募石の前に座り込んでいた。ギーヴがおもむろに近づいていくとコルガーはすぐに気が付き顔を上げた。彼の表情はひどく暗く、ギーヴはつられて悲しい気持ちになる。
「家族のお墓?」
「妹です」
短く答え、コルガーは募石を撫でた。覗きこむギーヴに、少年は皮肉っぽく言った。
「これ、彫ったのオレなんです。三月地震の直後は混乱してたから、適当に拾ってきた石を削って墓標にしたんですよ」
石工顔負けの技巧をこらした募石を眺め、ギーヴは感心した。
「君って本当に芸術家なんだねえ」
マキシムもそうだった。そう思いながらギーヴが微笑んだ時、修道院の門の鐘が鳴った。庭で日直の修道女が「ズボンは出て行け」と唱え始める。男子禁制となる日没の合図だ。
「猊下、行きましょう」
二人が居住棟に戻ると、扉の前でアンジェラが待っていた。ギーヴは自分の荷物を取りに客室へ戻り、コルガーはアンジェラに荷物を背負わされ、防寒着を着こまされた。
「ばあちゃん、みんなに宜しく言っといてね」
「あの子たちも、あなたに宜しくって。これ」
アンジェラが手渡したのは弁当の包みだった。
コルガーは洗濯物を取り込んでいる修道女たちを見た。家族を失い、打ちひしがれていた彼に彼女たちはやすらぎと日常をくれた。彼女たちはどんなに口やかましく小言を言っても、コルガーが決して触れてほしくない話題については一言も口にしなかった。彼女たちはコルガーのことを静かに温かく、絶えず見守ってくれていた。
コルガーは無理やり笑顔を作り、大きくうなずいた。少しでも力を抜けば、涙がこぼれてしまいそうだった。
「コルガー」
「ばあちゃん」
コルガーはシスター・アンジェラに向き直り、彼女のしわだらけの両手を握った。老シスターは渾身の力で曾孫を抱擁した。
「身体を大事にしなさい。あなたは――女の子なんだから」
耳元で囁いたアンジェラに、コルガーは頷いた。
「それ、猊下には黙っててね」
「あら、どうして?」
「だってあの人、オレのことばあちゃんの若い頃にそっくりだって、うっとりしながら言うんだぜ。二人旅で変な気、起こされても困るし」
「……それもそうね」
何故かしみじみと頷いて笑い、アンジェラはコルガーの髪を撫でた。
「愛してるわ、エド。いつも、あなたの上に光が差しますように」
「……オレも祈ってるよ、いつも」
カンカンカン!しつこく鳴り響く鐘の音に、二人は体を離した。
そこへギーヴが戻ってくる。彼にしては機敏な動きだった。
「行こうか、コルガー」
「はい!」
シスター・アンジェラと別れのキスを交わし、コルガーは踵を返した。心は決まっている。揺るぎようがないほど決まっている。
駆け出したコルガーの背中に、修道女たちの惜別の言葉がぶつかったが振り返らなかった。待っていてくれる人がいるというのは良いものだ。走りながら勝気に笑い、彼は――彼女は思った。
「猊下、こっちから出ましょう」
修道院の広い庭を走りながら、二人は視線を交わした。前方には高い塀がそびえ、その向こうには深い堀がある。彼らはうなずきあって無邪気に笑い、同時に冬草を蹴った。二人とも、いい踏切だった。
そしてそのとき、ウイスキー修道院の塀を飛び越えた者がいた。