7.まだ下せない背中の荷物がある
また、一転。
『欲しくなーる、欲しくなーる、欲しくなーる、欲しくなーる』
十歳のコルガーの目の前で、古ぼけた銀の懐中時計が振り子のようにぶんぶん揺れる。 暖炉の火が赤々と燃える父の部屋の揺り椅子で、コルガーは頬を膨らませていた。
『欲しくなーる、欲しくなーる。――どうだ?欲しくなったか?』
時計の鎖を持ったまま、父はにかっと笑った。けれどもコルガーは、そんな古臭いのは嫌だと言う。兄は誕生日にぴかぴか光る新しい時計を買って貰ったのに。
『あんなのはどこにでもある時計だ。これは世界でたった一つの特別な時計なんだぞ』
そう言って父は時計のふたを指でそっとなでた。コルガーはふてくされながら、父の表情を盗み見た。父はしわだらけの顔を悲しげにゆがめ、いつくしむように時計を見つめていたが、すぐにまた時計を振り出した。
『よーし、こうなったら別の術をかけてやる。おまえはこれを貰わなかったことを、 後悔すーる、後悔すーる、後悔すーる、後悔すーる、死ぬまで一生絶対後悔すーる……』
あんまりしつこいのでコルガーは観念した。 父は満足げに笑って彼の髪をかき回し、へたくそな歌を歌いながら向かいの椅子に腰掛けた。
――ぎんのとけい、きみにあげよう、ぼくのこころ、とわのあい。
『おまえは知らないか。私が若い頃に流行ったんだぞ』
コルガーは手の中で時計をもてあそびながら、しばらくの間、父が歌う声を聞いていた。
コルガーは目を開けた。毛布が顎の辺りまでかけられていて、部屋はまだ薄暗い。懐中時計の蓋を開けると五時を指していた。
ああ、あのまま暖炉の前で眠ってしまったのだ。そう思いながら、コルガーは九ヶ月前の三月地震で一度に亡くした家族のことをふいに思い出した。
父や兄は家の下敷きになって死んだ。同じ家の同じ部屋にいながら、不思議な力でコルガーだけが助かった。屋根や壁が崩れ、あらゆる家具や柱が住人に向かって倒れてきたにも関わらず、コルガーの周りだけが何かに守られてでもいたかのように何も落ちてこなかったのだ。彼はすり傷ひとつ負わなかった。それからというもの、彼は自分が生き残ったことに罪悪感を覚え、ときどき、生きていることが間違いのようにさえ思える。
大好きな人たちがたくさんこの世から姿を消して、もう二度と顔を見ることも触ることも声を聞くこともできないのに、自分がまだ息を吸って食べ物を食べて排泄していることが不思議に思えてならない。ぜんぶ、悪い夢に思えてならない。
そして、妹のことを思うと頭が真っ白になる。
目の前が、真っ暗になる。
コルガーがぎゅっと拳で毛布をつかんだとき、暖炉に薪をくべる音がした。顔を上げるとギーヴ・バルトロメと目が合った。
「あれ、眼が覚めた?」
彼の翡翠のような緑色の瞳は優しくコルガーを見つめた。ギーヴは片膝を立てた格好でコルガーの傍らに座っていた。長い髪を結っていた紐をほどき、襟元を緩め、ゆったりとくつろいでいる様子だった。
コルガーはなぜだか、ほっとした。
「もう少し寝ててもいいかもね」
ギーヴは暖炉に薪を放る。コルガーは半身を起して頭をかいた。
「……夢じゃなかったんだ。あなたや、変な女が来たこと」
「変な女ね。そういえば彼女、これからどうするつもりなんだろう。ある組織に雇われてるって言っていたけど、雇い主は誰だろう。ひょっとしてイギリス王室かなあ。イングランドの上流階級の言葉を使っていたよね」
「それにしちゃお粗末なスパイじゃないですか」
「じゃあイングランドの大富豪かな。どっちにしろ、気象を操って利益を得ようだなんて、神々をも恐れぬ行為だよ。まったく、経典を書き換えるとか、女神を歴史から抹消するとか、特定の宗派を弾圧するとかさ、本当に人間って――」
ギーヴは立ち上がり、暖炉にかけていた薬缶の湯をポットにそそいだ。白い湯気とともに、紅茶の良い香りがふわりと広がる。
「――身の程を、知らないよね」
そう言ったきり、ギーヴは黙ってしまった。コルガーはギーヴがのんびりと紅茶を淹れる様を眺めながら、彼の言葉の裏に隠された静かな怒りと信心を感じ取っていた。この人は、実は怒っているのだ。人間の思い上がった行動や、権力の横暴に怒っているのだ。
「そうだ、君に見せたいものがあるんだ。外は寒いから、毛布はそのまま被っていくといいよ」
二人が熱い紅茶を飲み終えた頃、沈黙がようやく破られた。ギーヴは暖炉の火をランプに移し、コルガーが立ち上がるのを待たずに扉へ向かった。
「外?」
コルガーは空のカップを床に置き、毛布を頭から被った姿でギーヴを追いかけた。ギーヴは建物の外へ出ると、林のような庭を真っすぐ横切り、礼拝堂の扉を開けた。夜明け前の闇は深く、ギーヴの持つランプの炎がゆらゆらと礼拝堂内部をわずかに照らす。彼は入口で片膝をついて頭を垂れると、静かに祈りを捧げた。
「この修道院へ来たのは初めてじゃないんだ」
ギーヴは立ち上がり、柔和な表情でコルガーを顧みた。
「前に来たのは六十年前」
「というと一七〇五年ですね。クラシックの大行進の年だ。ええと、猊下って、おいくつなんでしたっけ?」
「こう見えて百九歳。でも、あれだね。言っちゃあ悪いけど、君も十八には見えないねえ」
「……失礼な」
コルガーは首に下げた小さな木の札を服の中から引き出した。彼の掌の半分ほどの札には姓名と生年月日、性別、所属教区が彫られ、ベルファスト市の紋章がスタンプされている。
これは四月から携帯を義務付けられた市民証で旅券も兼ねる。三月地震の際、命を落とした人々の身元が分からず、引き取り手のいない数千の遺体を共同墓地に墓標も建てずに埋葬せざるを得なかったことを教訓にエディンバラ教会が取り決めた。普段は首札と呼ばれることが多い。
最初はまるで首輪でもつけられたような不愉快な気分だったが、これさえあれば誰に対しても自分の身分を証明できるのでコルガーにとっては好都合だった。
『コルガー・バルトロメ、一七四七年生まれ、男』
間違いなく十八歳の男だろ、とばかりにコルガーは胸を張った。
「人は見かけに寄らないよねえ」
ギーヴの余計な一言を無視して、コルガーは視線を礼拝堂の奥に移した。目の前にあるのは何の装飾も無い祭壇と壁だ。漆喰で塗り固められた三方の壁にも、天井にも、彫刻のひとつも絵画の一片もない。資金不足ここに極まれりといった具合だ。
「それで、オレに見せたいものって何ですか?」
「あ、そうだった。座って、明かりを消すから」
ギーヴは一番後ろの列の長椅子に腰をおろした。コルガーが通路を挟んだ同じ列の椅子に座ると、ギーヴはランプの炎を吹き消した。自分の手さえ見えない闇に覆われ、コルガーは目を閉じた。木々の揺れる音が聞こえ、ふくろうの鳴き声がかすかに届く。五秒後、彼は両目を開いた。
「……ああ」
コルガーはつぶやいた。
それはまるで星座のようだった。四方の壁と天井と床がぼんやりと光を放っていた。よく見ると目の前に広がっているのは彩り鮮やかな絵画だった。建物の内側いっぱいに描かれた、一枚の巨大な祭壇画だ。
「見せたいものってこれかあ」
コルガーは驚くでもなく、ぐるりと辺りを眺めまわした。
「君、やっぱりこの絵のこと知ってたんだ?」
「この絵は暗闇の中でしか見えないようになってるでしょう。それも、一度明りに照らして、それから真っ暗にすると数分間だけ光るようになってる。だからオレもこの修道院に住むようになってから気がついたんです」
背景の青空には豊かな白い雲が浮かび、小さな天使が何十人も舞っている。祭壇の奥の、金色の太陽が輝く手前に男神が立っていて、彼は両腕で空を持ち上げるような格好をしている。隆起した二の腕の筋肉がたくましい。
「神は自然を支配し、人間に恵みと災いをもたらすもの。彼は太陽や月や星を持ち上げて空と大地を切り離し、この世界を創ったといわれている」
ギーヴは頭上に描かれた青空を仰いだ。エディンバラ教会が定めた神は一人だけだ。その他に神は居ないことになっている。だが、男神の周囲には、寄りそうようにたたずむ四人の女神の姿があった。四人ともそっくりの姿で、官能的なまでに美しかった。
「――雨の女神、雷の女神、虹の女神、そして極光の女神。エディンバラ教会によって存在を消されてしまったが、神には美しい妻がいた。彼女たちが復権したのはルネッサンス初期に古代遺跡を発掘し、独自に女神のことを調べあげた一部の聖職者のおかげだった。それ以降、女神の絵画や彫刻が好んで製作されたけど、それも六十年前にみんな処分されてしまった。識字率が今より低い時代に焚書なんてものがあったくらいだから、それは徹底してたんだよ。だから、この絵も隠されていたんだ。聖なる術をかけて、弾圧から逃れるためにね」
「……逆行だ。そんなの、中世へ後退してるようなものじゃないですか」
こんなに美しい絵を人々の目から隠さなければならないなんて悲しすぎる。コルガーは憤った。建築や美術に関心が高いだけに、少年の怒りは大きい。
暗黒の中世からルネッサンスへの移り変わりは、美術史を見ると一目瞭然だ。中世の時代、神や聖人は絵画の中で作り物のように描かれていた。表情は無く、体は薄っぺらで、棒のように直立しているか、人形のように椅子に座らされていた。頭からは後光が差し、背景は描かれないのが普通だった。ルネッサンス期に入ると、宗教画に変化が現れた。神々や聖人がまるで本物の人間のように、瑞々しく、艶めかしく描かれるようになったのだ。神々は服をはだけ、地べたに寝転び、喜怒哀楽を惜しげもなく表すようになった。後光は小さくなり、描かれないことさえあった。背景は写実的になり、リアリティや臨場感が増した。彼らがより身近に愛されていた証拠である。
六十年前、それが再び、中世の暗闇に飲み込まれてしまった。神々は人間らしさを取り上げられ、人々は捻じ曲げられた教えによって真実に目隠しされている。中世へ逆行している。
「神様や聖人に人間らしさを加えた、ルネッサンスの巨匠を侮辱してる」
怒りをこめ、つぶやいた少年の胸にあるのは偉大な芸術家たちのことだ。彼が敬愛する芸術家が、もし女神の彫刻を造っていたら?そしてそれが教会の手によって壊されていたら?
ギーヴは昔の記憶をさぐるように、ゆっくりと語った。
「人々が賢くなって、自由になって、教会は人心が経典から離れるのを恐れたんだ。神を高潔で唯一無二のものに仕立て上げ、いつも人々の心を惹きつけていられるように、女神たちを歴史から抹殺したのさ。俺の知る限り、彼女たちの絵が残されているのはここだけだ。だけどね、コルガー、エディンバラ教会が間違っているわけじゃないんだよ。クラシックが間違っているわけでもない。信仰に間違いなんてないんだよ」
生き生きと輝く神々の姿を眺め、ギーヴは自分自身に言い聞かせるかのように言葉を紡いだ。
「あれから六十年経ったけど、俺はまだ諦めてないんだ。いつかエディンバラ教会とクラシックが共存できるようになる。いろいろな信仰や思想が共存できるようになる。まだまだ、しつこく、俺はそう信じてるんだよ」
ギーヴが語る間に、祭壇画の彩りはしだいに褪せていった。壁に浮かんでいた壮大で繊細な絵が消え、淡い光は跡かたもなく沈み、二人の前には暗闇と沈黙が再び舞い降りた。
「さっき、空を雲で覆ったのは極光の女神だって言いましたよね。それって、三月地震の原因も極光の女神にあるってことですか?そもそも極光の女神っていったい何者なんですか?本当に神様なんですか?だとしたらどうして人々を苦しめるようなことをするんですか?」
ギーヴが答えようとした時、礼拝堂の扉が開いた。
「ああ、ここにいたのね。心配したわ」
薄明かりが差し込み、ロウソクを手にシスター・アンジェラがやってきた。
「極光の女神とは、俺や君に不思議な力を授けてくれる張本人だ。今はマキシムと一緒にヒベルニアにいるはずだよ。三月地震やこの異常気象を引き起こしたのは彼女たちだと俺は踏んでいる。こんなことができるのは極光の女神くらいだから」
歩み寄るアンジェラを目で追いながら、ギーヴは静かに言った。コルガーは椅子から立ち上がった。じっとしていられなかった。そして、家族や、妹のことを思う。頭が真っ白になる。目の前が、真っ暗になる。
「ばあちゃん、ギーヴ猊下」
コルガーは顔を上げ、大人びた表情で二人を見た。
「オレ、三月地震で家族を一度に亡くした時、天災だから仕方がないと思った。自然の力にはかないっこないから仕方がないって、ずっとずっと、今まで、自分自身に言い聞かせてきた。妹が酷い目に遭ったのも、仕方がないことだったんだって。でも、もしこのことに人為的な原因があるなら、もしこのことに犯人がいるなら、オレ、そいつにどうしても言ってやりたい。みんなが……妹が死ななければならなかったことの根っこに犯人がいるなら、一発ぶん殴ってやりたい。ギーヴ猊下、ヒベルニアへ行くなら、オレを連れて行ってください」
ためらいなく言い切り、コルガーは胸元で両手を握りしめた。その掌の下で、古ぼけた銀製の懐中時計が静かに時を刻んでいる。
「じゃなきゃ、いつまで経っても、オレは前を向けないような気がするんです」
家族の死が誰かのせいかもしれないなら、それを明らかにしたい。そうでないと、自分の弔いは終わらないような気がする。背中に負った荷物を、地面に下ろせないような気がする。心の闇が晴らせない気がする。
「その犯人が自分の曽祖父かもしれなくても?」
ギーヴの問いにコルガーは迷わなかった。彼はうんと顔を上げ、ギーヴの緑色の双眸を見つめた。
「はい」
「そう」
しんみりと短く応えたそれがギーヴの承諾のようだった。
「それじゃ、よろしくお願いしますね」
まさにアイルランド男児らしく、コルガーはさっきまでの沈痛な表情を顔から消し去り、ギーヴに右手を差し出しながらにっこりと笑った。ギーヴも彼に倣ってぎこちなく微笑む。
「猊下、私からも、この子をよろしくお願いします」
アンジェラはコルガーの肩を抱き、ギーヴを見上げた。
男性陣は目を丸くした。
「え、ばあちゃんは行かないの?」
「え、君が行かなくてどうするの?」
老シスターは自嘲気味に目を伏せる。
「私は行けないわ。もうこの年だし、今さらだもの」
「何が年で、何が今さらなのさ?そんなの俺だってそうだし、君を連れて行くって、俺はあの時マキシムに約束したんだ!」
「ええ、でもね……私はマキシムに会うのが怖いの。変わってしまった彼に会うことも、変わってしまった自分を彼の前にさらすことも、彼の築いた家庭を目の当たりにすることも怖いのよ。彼の妻や子や孫が私のことをどう思うか、私が彼らをどう思うか、不安でたまらい。どうしても決心がつかない」
アンジェラはコルガーの肩に置いた手をぎゅっと握った。力を込め過ぎてしわだらけの手が一層白くなる。ギーヴはそれ以上追及しなかった。
「マキシムには、君は死んだと伝えるよ。その代りにコルガーを連れて来たと」
異常気象を引き起こした原因がマキシムにあるのなら、彼の怒りに触れるようなことは避けるべきだ。ギーヴとアンジェラが六十年もヨーロッパ大陸にとどまり続けたことにマキシムが怒っているのなら、アンジェラが死んだことにすれば少しは彼の怒りを鎮めることができるかもしれない。
ギーヴの理解を得て、アンジェラはほっと息をついた。
「ありがとう、猊下。さてと、二人とも朝食までもう一眠りするといいわ。コルガー、荷づくりは入念にするのよ。セーターを着て、靴下も厚手のものを履いて、懐炉も持っていきなさい、出かける前にちょっと暖炉で暖めるだけだから。手袋やマフラーも忘れずにね、冷えは女の敵ですもの」
アンジェラはコルガーの肩を抱いたまま礼拝堂の出口に向かって歩き出す。今さらヒベルニアへ行けないと言うアンジェラのことも、それをあっさりと納得したギーヴのことも、コルガーには理解できなかった。
「ねえ、ばあちゃん、本当にいいの?」
少年のとまどいに気がつき、アンジェラは目を細めた。彼女はコルガーの髪にそっと頬ずりする。
「私の代わりにヒベルニアへ行ってちょうだい、コルガー。あなたはマキシムの血を引いているんだもの。あの人は、決して後ろを振り向かない人だった」