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ヒベルニアの極光  作者: 葉梨
第一章
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6.ロッキンガム東方貿易会社

場面が一転します。

 アヤ・ソールズベリとジャック・ロッキンガムはウイスキー修道院から逃げ出し市街地を目指していた。ヨーロッパの辺境と呼ばれるこの国にも、ロッキンガム家の所有する商館がある。


 辻馬車がいるような時間ではないので、男装の麗人と茶色のジャケットとパンツ姿の美丈夫は自分の足で路地を歩いた。暗い裏道には浮浪者が何人も寝転がっていたが、不機嫌な顔で先を急ぐ二人のイングランド人に絡んでくる者は幸いいなかった。


「しくじって悪かったわ、ジャック。相手を舐め過ぎてた」


 歩調を緩めず、アヤは言った。敗北感に苛まれながらも、彼女にはやはり女王のような気品と風格がある。二人は中央広場に面した五階建ての商館の前で立ち止まった。築百年は経っている古い建物だ。入口には金色の文字で「ロッキンガム東方貿易会社」と書いてあった。


「気にすんなよ、収穫ゼロってわけじゃなかったんだし」

「でも目的はヒベルニアへ行く方法を聞き出すことだったのに」


「ああ、でもギーヴ猊下が言ったんだろ、彼らの船について行っていいって。まあ、そうなるとヒベルニアに一番乗りってわけにはいかないけど、それでもいいんじゃねえの?うちのジジイの望みは叶うんだろ?」


 そのとき、使用人によって商館の扉が開かれた。二人は暗い建物の中に入り、ほとんど手探りで階段を上って二階の一室に滑り込んだ。


 ジャックはすぐに応接セットのソファに倒れこむ。アヤは窓に近づいて、締め切られた重いカーテンを開けた。月も星も雲に覆われているが、ほのかな明かりが応接室の空気に滲む。


「ねえ、ジャック。私の望みが、ジョージおじいさまの望みと真逆のものだったら、あなた、どうする?」


 ジャックは目を丸くして身を起こした。


「はあ?」

「私、ヒベルニアの気象兵器なんてどうでもいい。私は祖母の夢見たヒベルニアの地を踏みたい。できることなら、ヒベルニアを守りたい。私の本当の望みはそれだけなのよ」


 言いながら、アヤは祖母のことを思い出していた。今夜やたらと彼女のことを思い出すのは、ウイスキー修道院で仲睦まじい老シスターと少年のやりとりを目にしたせいかもしれない。


 ジャックは乗馬用のブーツをはいた脚を組み、おもむろに頭をかいた。


「あのよー俺も聞いていい?いまいち分かんないんだよなあ。アヤのお祖母さんって、あのばあやのことだろ?……血、つながってないよな?」


 アヤの両親がジャックの訪問を嫌がったため、彼はアヤの家に入ったことがあまりない。だが子供の頃、二人が日暮れまで遊んでいると、青いドレスにエプロンをつけた白髪の老婆がアヤを迎えにやって来たものだ。


「ええ。彼女はうちの使用人の一人だったわ。でも、私にとっては、たった一人のかけがえのない家族だった」


 アヤは父親の不義の子だった。物心ついた時から兄や姉と明らかに差別され、母親からは暴力を振るわれて生きてきた。自分の夫とメイドの間にできたアヤをいじめる母親からアヤをかばってくれたのが祖母だった。アヤを愛し、慈しんで育ててくれたのは、愛する「ばあや」だけだったのだ。アヤは彼女の恩に報いたかった。


「そういえば、そういうあなたはどうしてヒベルニア探しに加わったの?面白そうだからってだけじゃ割に合わないと思うけど」


 アヤが首をかしげると、ジャックは胸を張って冗談めかして笑った。


「しゃあねえだろ。強情なダチが、どうしても行くって聞かねえからよ」


 木枯らしが窓の外の木々から茶色の葉をもぎとって去ってゆく。隙間風が足元を通り過ぎて身を凍らせる。ジョージ・ロッキンガムを敵に回すかもしれない。ヒベルニアの地を踏むために命を落とすかもしれない。様々な不安が浮かんではアヤの心を重くしたが、それでも、ジャックがいればどこまででも行けるような気がした。何だってできるような気がした。


 アヤが両肩を上げて破顔すると、幼馴染みもにっこりと笑った。リヴァプール中の女性の心を奪うような笑顔だったが、アヤにとっては心強いお守りだ。


「おまえの望みが何であろうと、それがうちのジジイと全然違うものでも、俺はどこまでも付き合うぜ」




 親友同士が語らう部屋の前で、その扉に耳をつける者がいた。ロッキンガム家当主ジョージ・ロッキンガムに気象兵器奪取を任されたパーシヴァルという男である。長身の筋骨たくましい体は上から下まで黒い衣服に包まれていて、短い髪も切れ長の目も黒い。闇の中で白く浮かび上がる顔は整ってこそいるが見る者に冷めたい印象を与え、帝王のような威厳を感じさせる。年の頃は四十ほどだ。


「やはり信用ならんな」


 気象兵器奪取を狙うロッキンガム家を裏切らんとするアヤとジャックの言葉に彼は眉をひそめ、口の中でそうつぶやいた。憤るでもなくそっとその場を立ち去ると、彼は自室に向かった。暖炉に火を入れ、黒いブーツを履いたままソファに横になって毛布を被る。


 パーシヴァルはジョージ・ロッキンガムたっての願いでアヤとジャックを連れていくことにした。いつもなら子供のおもりなど御免と渋るところだが、今回ばかりは二つ返事で引き受けた。ジョージ・ロッキンガムが気象兵器を手に入れることは、彼の望みでもあったのだ。


 だが、アヤはパーシヴァルに心をゆるさなかった。恐らく、パーシヴァルがヒベルニアの気象兵器に固執し過ぎているからであろう。アヤはジャックだけを連れ、パーシヴァルに黙ってウイスキー修道院へ向かった。彼らはパーシヴァルにばれていないつもりのようだが、イングランド王家に二十年仕えて海軍大佐に上り詰め、三月地震以降ロッキンガム家の特別用心棒として訓練を重ねたパーシヴァルが、彼らの単独行動を見逃すはずがなかった。


 生真面目なパーシヴァルにとって、チームワークを乱すアヤたちの行動は不愉快でしかない。しかも、どうやら彼らは敗走してきた様子だ。パーシヴァルは一刻も早くヒベルニアへ行くための手がかりを手に入れようと、慎重に確実にシスター・アンジェラの隙をうかがっていたというのに。


 パーシヴァルは毛布から顔を出し、炎の影が躍る天井を見つめた。黄金色と暗黒が絡まりあい、溶け合ってまた別れていく。揺れ動く光と影を眺めていると、パーシヴァルの瞼に眩しい記憶が蘇った。


 白いレースのカーテンが窓辺で風に揺れていたのを、パーシヴァルはよく覚えている。窓の外から差し込む弱い光と、蜂蜜のように甘く澄んだ声のことも。


『どうか私のお墓は日の当たるところへつくって。風に吹かれ、雨に打たれ、草や花のように眠っていたい』


 空に横たわる分厚い雲を見るたび、パーシヴァルは妻の最期の言葉を思い出した。世界は灰色の雲に覆われ続けていて、半年前に亡くした彼女の遺言を、彼はまだ果たせずにいるのだ。


 もう少し待ってくれ、エヴァ。


 パーシヴァルは起き上がり、茶色のカーテンを開けた。確認するまでもなく、暗い夜空には晴れることのない雲が横たわっている。


 もう少し待ってくれ、エヴァ、今にきっとヒベルニアの気象兵器を手に入れてみせる。そして我らが偉大なボスが定める土地にだけ、太陽の光が降り注ぐ日がやって来る。そうしたら、俺は真っ先におまえの棺をそこへ運ぶぞ、エヴァ。


 その時ノックの音がしなければ、パーシヴァルは悲しい思い出の海に身を投げてしまっていたかもしれない。妻の死に顔を目の前から振り払い、パーシヴァルはドアに近づいた。扉を開ける前に神経を研ぎ澄まして廊下の様子をうかがう。そこにいるのはアヤ一人のようだった。ジャックは立っているだけで気配が騒がしいので間違いない。


「こんな時間にごめんなさい。話があるの、いいかしら」


 パーシヴァルが扉を開けると、アヤは張りつめた表情でそう言った。パーシヴァルは黙ってアヤを見下ろし、武器を持っていないことを密かに読み取る。


「作戦会議をするには不向きの時間だと思うがね」

「そうね。でも密談するには都合のいい時間だと思うわ」


 女というのはつくづく秘密が好きな生き物だ。妻もよく内緒ごとを匂わせては「あなたには秘密よ」と人差し指を立てていた。パーシヴァルはアヤにソファを勧め、暖炉の上に置いたブランデーの瓶を取り上げた。


「あなたに謝らなければならないの」


 アヤはソファに腰を下ろし、握った拳を膝にのせた。男装していてもすぐに彼女が女と分かるのは、体に染みついた上品な仕草のせいかもしれないとパーシヴァルは思った。小柄な妻のしなやかな立ち居振る舞いを思い出しかけ、パーシヴァルは首を振った。


「私に黙ってウイスキー修道院へ行ったことか?」


 顔をしかめ、アヤは視線を床に落とした。苦虫を噛み潰したような顔だ。


「知ってたの?」

「私はロッキンガム家の特別用心棒だぞ」


 言いながら、パーシヴァルはブランデーを二つのグラスにそそぎ、ひとつをアヤに手渡した。彼女の酒の好みなど知らないが、仕事を失敗した夜に出された酒を拒む人間もそうそういないだろう。


「それなら話が早いわ。ヒベルニアへ行く方法は見つからなかったけど、ギーヴ猊下やシスター・アンジェラと接触できたの。彼らはヒベルニアへ行きたければ自分たちについて来いと。自分たちもヒベルニアを目指すのだと言っていたわ」


「ついて来い?それではギーヴ猊下に先を越されて、気象兵器を奪われるかもしれないということだろう?」

「いいえ、あの人は気象兵器には興味がないとはっきり言ったわ」


 それは君もだろう。喉まで出かかった言葉を胸にしまい、パーシヴァルは息を吐いた。パーシヴァルにとってはヒベルニアもクラシック教徒もどうでもいい存在だ。気象兵器を手に入れることができれば他には何も要らない。だから、気象兵器に興味がないと言い切るギーヴの言葉が信じられなかった。それがもし本当なら、ギーヴとパーシヴァルの利害は完全に一致するのだが。


「君が余計な事をしなければ、私はシスター・アンジェラをさらい、ギーヴ猊下から必要なことを聞き出すつもりだった。それは君たちにも話しておいただろう。これで彼らはもう隙を見せない。なぜチャンスを待てなかった?」


「あなたが目的のためならどこまでも冷酷になれる人だからよ。理由が何であっても、老人に手荒なまねをするのは反対よ。それに、私ひとりで何とかなると思ったのよ」


「仕事を舐めていたということか」

「そうね。甘く見てたわ」


 アヤは勢いよくブランデーをあおった。反対にパーシヴァルはグラスを置いて立ち上がった。


「トムとジェリーには民話学者と書籍商をつけさせている。君とジャックはギーヴ猊下たちを見張れ。彼らが船に乗ったら、こちらもすぐに出港し、奴らの先導によってヒベルニアへ向かう。ヒベルニアへ上陸したら、すぐに奴らを殺す。そのために、君もこれで覚悟を決めろ」


 パーシヴァルは酒瓶の並んだキャビネットから一本の小瓶を取り出した。色は黒く、ラベルはない。


「覚悟?」


 直感的に身の危険を感じたのか、アヤは緊張した面持ちでパーシヴァルと小瓶を見上げる。パーシヴァルはせせら笑うように言った。


「君はなぜ彼らに負けたか分かるか?彼らはクラシックの女神に愛されている。神に対抗できるのは悪魔だ。昔からロッキンガム東方貿易会社の特別用心棒は、悪魔と契約することで超人的な力を手に入れてきた。私も半年前にアザゼルという下級悪魔と契約を交わした」


「悪魔と……契約?」

「なんだ、知らないのか。ならば見せてやろう」


 パーシヴァルは小瓶を床に叩きつけた。ガラスの破片が飛び散り、瓶から黒い霧のようなものが現れる。背筋が凍り、心臓や胃袋を冷たい手で直接撫でられたような気がした。


――我が名はミスティック。おまえが差し出すものは何か。


 黒い霧の中心から、腹に響くような重低音がした。それは聞き取りにくいが人の言葉だ。


――我が名はミスティック。おまえが差し出すものは何か。


「差し出すもの?」


 部屋いっぱいに広がる黒い霧に圧倒されつつアヤはパーシヴァルを見た。


「神や悪魔と契約するには交換条件が必要だ。例えば、飼い犬を差し出せばそれなりの力を、両親を差し出せば巨大な力を彼らは貸してくれる」

「あなたは何を差し出したの?」


「分からない。悪魔は契約のために何かを差し出させるが、それを後から人が惜しまぬように差し出した物に関する記憶を消すんだ」


 アヤは逡巡するように目を伏せた。


――我が名はミスティック。おまえが差し出すものは何か。


「ミスティック。なるほど、確かに霧のようね」


 もやもやとした黒いものを見上げ、アヤはひきつったような笑みを見せた。


「私にはあげられるものがないわ。家族も資産も捨てたの。他を当たってちょうだい」


――ジャック・ロッキンガム、欲しい。


「だめよ!」


 アヤは慌てた。なぜ悪魔がジャックのことを知っているのだろう。


――ジャック・ロッキンガム、欲しい。


「だめ!彼は私の持ちものじゃないわ、あなたにあげられない!」


 パーシヴァルは自分が悪魔と契約した時のことを思い出した。あの時、パーシヴァルも彼女と同じように「あげられるものはない」と言ったのだ。しかし、パーシヴァルは何かを差し出した。そう、無理やり奪い取られたのだ。何か、とても大切なものを。


「お願いよ、他を当たって!私には、自分以外の何かを差し出すなんてできない!」


 懇願し、アヤは扉に向かって後ずさりした。だが、悪魔は愉快そうに低く笑った。


――それが答えだな。契約は結ばれた。


 悪魔の声がしたとたん、黒い霧がアヤの身体に吸い込まれた。アヤは恐怖に表情を凍らせ、苦しげに口を開閉させて床に倒れ込んだ。




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