5.異端の女神
クラシックの歴史についてのギーヴの朗読から始まります。
「むかしむかし、古代のヨーロッパにおける宗教の中心地はバチカンでした。バチカン教会は古くからの教えを守り、神を崇め、神の四人の妻を女神と呼んで慕っていました。彼女たちは四人姉妹で、それぞれ雨の女神、雷の女神、虹の女神、極光の女神といいました。
神とは自然を支配し、人間に恵みと災いをもたらすものです。彼は太陽や月や星を持ち上げて空と大地を切り離し、四人の美しい女神たちとこの世界を同時に創ったといわれています。
中世になると、異民の侵略によって弱体化した教会は、権力を別の都市へ移します。教皇はエディンバラに移り住み、教会は以後、エディンバラ教会と呼ばれるようになりました。それから間もなく開かれたのがグリンヒル公会議です。この七日間に渡る話し合いの末、教会は神を唯一神とし、四人の女神たちの存在をこの世から抹消してしまいました。妻の存在を隠して神から人間性をとりあげ、神を唯一無二の超越した存在に仕立て上げることで、教会の権力を強めようというのが教会の狙いでした。
聖書や福音書が書き直され、あるものは焼き捨てられました。女神の描かれた宗教画や壁画やステンドグラスも失われました。彼女たちを讃える歌も歌うことを禁じられました。それまで妻帯することができた聖職者たちは次々と離縁させられ、彼らの家族はばらばらになりました。失いかけた教皇の権威を取り戻し、教会を建て直すためだけに、神も人間も人間らしさを奪われたのです。
しかし、やがて新たな宗派が生まれます。ルネッサンス文化とともに生まれた考え方です。ルネッサンスとは、迷信や聖書を鵜呑みにし、エディンバラ教会の言いなりになっていた中世に差し込んだ理性という名の光です。もちろん、その考えに賛同した者の多くが知識人ではありましたが、盲目的に聖書を信じる者は減りました。科学に目覚める者も、美や欲望を追い求める者も現れました。それは暗黒のような中世を抜けた、輝かしい近世の幕開けだったのです。
中世以前に存在していた人間らしさを追求する彼らは、古代遺跡から発掘された情報をもとに、女神たちを崇めるようになりました。配偶者を持ち、自分たちと同じように笑い、怒り、悲しむ魅力的な神々を、彼らは心から愛したのです。それは瞬く間にヨーロッパ中へ広まり、『古典へ帰れ』と唱えた彼らはいつしか『クラシック教徒』と呼ばれるようになりました。
それが再び、中世の暗闇に飲み込まれたのが一七〇五年のことです。エディンバラ教会がクラシックの教えを改めて異端としたのです。教会は、唯一絶対の神に妻など存在しないと、もう一度、女神たちの存在を公に否定しました。
ルネッサンス期に好んで制作された女神の絵画や彫刻は破壊され、彼女たちについて書かれた本は焚書の憂き目に遭いました。中世に行われた悲劇が再び繰り返されたのです。知恵をつけ、賢く自由になった人々の心が聖書から離れていくことを教会は恐れたのでしょう。教会は神が高潔で唯一無二の存在であることを徹底的に説き、女神たちをもう一度歴史から抹殺したのです。神がいつも人々の心を惹きつけ、スポットライトを浴び続けるただ一人の英雄でいられるように――。
中世に起きた最初の女神末梢の時、人々は教会に従いました。彼らは女神を忘れ、唯一神と教会を信じました。しかし、今度は違います。クラシック教徒たちは改宗を迫られると集会を開きました。力を合わせて抗議し、エディンバラ教会の決定を覆そうとしたのです。その運動のリーダーがマキシム・バルトロメという男です。彼はフランスの漁村オンフルールの修道士でした。マキシムは妻と弟の助けを借り、ヨーロッパ中のクラシック教徒に呼びかけ、フランスから海を渡り、エディンバラへ向かって抗議の大行進を始めたのです。マキシムたちと共に歩いたクラシックの数は千とも万とも言われています。
もちろん、エディンバラ教会は黙っていませんでした。大行進のために留守になったクラシックの教会や修道院へ立ち入り、女神崇拝の象徴を没収して回ったのです。没収された絵画や古代の聖書は街の中央広場にうず高く積み上げられ、歴史的に価値のある物さえ容赦なく火をつけられました。弾圧は厳しく、マキシムたちは行進の途中で、教会との武力衝突を繰り返します。それによって多くの死者や怪我人を出し、やがて彼らはヨーロッパを去ることを決めました。ヨーロッパを出て、西の果てにある島ヒベルニアを目指そうとしたのです。
しかし、マキシムの弟は言いました。
『だけどまだ、諦めるのは早いんじゃないか』
生まれてからずっと共に歩んできた双子の兄に意を唱えるのは、彼にとって初めてのことでした。
『まだ、諦めるのは早いんじゃないか。いつかきっとエディンバラ教会とクラシック教徒が共存できるようになる。そうしたら、俺もみんなの後を追ってヒベルニアへ行くよ。どうかそれまで、俺と、彼女と、彼女のお腹に宿るおまえの子供のことを待っていてくれないか』
マキシムは答えます。
『待ってくれ。俺は諦めたわけじゃない。俺たちは信仰を諦めないためにヒベルニアへ行くんだ』
すると弟は首を横に振りました。
『エディンバラ教会は規律ある中世へ戻れという。クラシック達は古典へ帰れという。俺は古典でも中世でもない、この時代らしさを、ここで探したい。いろいろな信仰や思想が共存できる、この時代らしい信仰の在り方を』
弟は迷いのない言葉を続けます。
『だから俺はエディンバラへ行くよ』
『よせ、殺されるぞ!教会が俺たちに容赦しないことは十分に分かっただろう!』
『いいや、教会は決して俺を殺せない。俺に危害を加えればクラシックが黙っていないことは教会も知っているんだ。何より、俺が殺されたとしたらおまえが何をしでかすか。教会はその事態を恐れているはずだよ』
弟はマキシムを安心させるように柔らかく微笑みました。
『今まで宗派も国境も世代も越えて、色んな人たちと意見を交わしてきたんだ。これまでのように彼らと共に暮らすことができなくなるなんて嘘だ。どうして、みんな一緒にいられないんだ?おかしいだろう?――だからまだ、諦めるのは早いと思うんだ。いつかエディンバラ教会とクラシックが共存できるようになる。どうかそれまで待っていてくれないか』
弟が頑固に言い張るのでマキシムはしぶしぶ頷きました。
『君は来てくれ、アンジェラ』
妻が大陸に残ることを、マキシムは頑なに認めませんでした。誰がヨーロッパ大陸に残っても、彼女だけは自分と一緒に来てくれると思っていたのです。
『マキシム、よく考えて。ヒベルニアへは長い航海に耐える体力がなければ行けません。ここには怪我人のクラシックがたくさんいるし、どうしても故郷を捨てられない人だって、新しい土地へ旅立つ勇気がない人だっているわ。彼らの面倒を誰が見るの?故郷に帰すにしても、時間と労力は必要だわ。語学力と統率力のある人間が何人かここへ残らなければ。彼らを見捨てたとなれば、あなたは人々の信頼を失うことになります。私が残れば、誰にもあなたの悪口は言わせません』
『俺は実の弟を残していくんだ、それで十分じゃないか』
『マキシム、この戦いで愛する者を失った人はたくさんいるわ。家族と別れなければならなかった人も。でも、生きてさえいれば、きっとまた会える。私たちにはまだ命がある。それだけで無限の可能性があるの、私たちにも、この子にも』
妻はそう言って大きな自分のお腹を撫でました。彼女のお腹にはマキシムの子供が宿っています。口ごもるマキシムに弟が提案します。
『マキシム、俺がヒベルニアへ行く時は、彼女と、おまえの子供を連れていくよ。必ずだ、約束する』
妻も口を添えました。
『マキシム、元気な赤ん坊を産んで、こちらでの仕事が全部済んだら、その時は私も必ず行くわ、ヒベルニアへ』
マキシムはようやく承諾し、二人はしっかりと抱き合いました。
『きっとすぐに追いつくから待っていて。約束よ、マキシム』
ぽろりと妻の瞳から涙がこぼれました。
『ああ、約束する』
『約束だ』
三人は誓い合い、そうして散り散りに別れたのです。ひとりはクラシック教徒を率いて西の果ての島ヒベルニアへ。もうひとりは教会との共存を夢見てエディンバラへ。最後のひとりは大陸に残ったクラシックを故郷に帰した後、拠り所のないクラシックを連れてアイルランドへ移り住み、修道院をつくりました。彼らの約束は果たされないまま、それから六十年が経とうとしています――」
コルガーとギーヴは濡れた服を着替え、ウイスキー修道院の広間で暖炉に当たっていた。二人は毛織の絨毯に並んで座り、薪の燃える音を聞きながら、ギーヴは紅茶を、コルガーはウイスキーを口に運ぶ。厨房から、アンジェラがスープを温めるいい匂いがした。
「これはヨイク・アールトという民話学者が書いたもので、頼まれて内容をチェックしてたところなんだけど、どう?俺の話とクラシックの生き残りの日記を元にしたらしいんだけど」
ギーヴは視線を上げた。スープの入った皿を手に持ったアンジェラが戸口に立っていた。彼女はくすくすと笑い、温かいスープをコルガーとギーヴの前の床に置く。
「そうね、とても懐かしいわ。でも、ちょっと美化され過ぎなんじゃないかしら」
「君もそう思う?なんだか恥ずかしいんだよねえ。話が大げさすぎるっていうか」
ギーヴとアンジェラは微笑み合い、コルガーに目を向けた。少年はギーヴの手から紙の束を受け取り、熱心にめくっている。ヨイク・アールトという名はコルガーも知っていた。民話だか御伽噺だかを集めて大衆向けの本にした学者で、コルガーもそのベストセラー本を読んだ覚えがある。ユーモラスな新聞広告で話題になった本だ。
「冷めないうちに食べなさい」
見かねたアンジェラが声をかけると、コルガーとギーヴは両手を組んだ。
「あなた方の恵みに」
感謝の言葉をささげてスプーンをとりながら、コルガーははっとした。子供のころから食事の前に唱えるように言われていたこの言葉の「あなた方」というのは、神と四人の女神のことだったのだ。知らず知らずのうちに、自分の中にはクラシックの教えが根づいている。だが、コルガーは不思議と嫌な気持ちにならなかった。
「ばあちゃんや、猊下の事情は分かりました」
じゃがいものスープをみんな胃の中におさめてしまうと体が芯から温まった。コルガーは本格的な眠気を感じた。
「でも、ヒベルニアって本当にあるんですか?」
コルガーは膝を抱え、大あくびをしながら訊ねた。つられたようにギーヴもあくびをする。
「うん、正直、俺も百パーセントの確信は持てなかったんだけど、九月に教会がマキシムの孫娘を保護したんだ。彼女はヒベルニアからやってきたと言っていて、どうやらそれは本当らしい。マキシムは今、ヒベルニア王と呼ばれてるんだってさ」
今度は二人同時にあくびをした。ギーヴは絨毯の上に寝転がって丸くなった。毛織の絨毯は硬くて寝心地が悪かったが、それが気にならないほど疲れていた。
「ヒベルニアという島はね、もともと、古の教えに登場する、女神たちの聖地なんだ。それが転じて御伽噺や怪談になったんだよ。悪いことするとヒベルニアに連れて行かれるぞっていうのは、クラシック教徒たちが聖地を隠すために流したデマだね」
へええと感心しながらコルガーもギーヴと同じように寝転がる。ギーヴはとうとう目を閉じた。
「そのヒベルニアへ行く方法を猊下は知ってるんですか?」
「もちろん。後を追うってマキシムと約束したからね」
「じゃあ、本当にヒベルニアへ行くんですか?」
コルガーは訊ね、なかなか返事が返って来ないのを見かねてギーヴの顔を覗き込む。金褐色の長いまつげはぴくりとも動かず、規則正しい寝息が聞こえ始めたのは間もなくだった。