8.幸せは曲がり角の向こう
小陽島の塔で意識を失ったパーシヴァルは目を覚ますと天蓋付きの豪華なベッドに寝かされていた。窓から差し込む白い日差しに目を細め、風に揺れるレースのカーテンを見上げながら、彼はぼんやりとした頭で瞬きを繰り返した。たまらなく眠い。
「あなた」
夢の世界へ戻ろうとしていた彼の耳に、蜂蜜のように甘く澄んだ声がするりと入って来る。
「……エヴァか?」
パーシヴァルは強い眠気を振り払って目を開けた。愛する妻の声を聞き間違えることなどあるわけがない。
「あなた、ありがとう」
ベッドに横たわるパーシヴァルを見下ろすように、傍らに女性が立っていた。女性は柔らかく微笑んで白く細い手をパーシヴァルの頬に伸ばした。彼女の指はパーシヴァルの頬を撫で、少し髭の伸びた顎を慈しむように撫でた。
「あなたのおかげで、私、ゆっくりと休めるわ。おひさまの光をいっぱいにあびて」
パーシヴァルはそうか、と深く息を吐き出した。パーシヴァルが気を失った後、世界の雲が晴れたのだ。コルガーたちがどうにかしたのだろう。
「エヴァ、俺もだ。俺もおまえとともに、風に吹かれ、雨に打たれ、草や花のように眠っていたい。もうこの世界で、やることがないんだ」
亡き妻の遺言のために奔走した九ヶ月間。いったい何度、虚しさに押しつぶされそうになっただろうか。それでもここまでやってこられたのは、彼女の願いを叶えるという明確な目的があったからだ。
「あなたに、子供を残してあげられたら良かったわ」
悲しそうに眉根を寄せ、妻はパーシヴァルの顔を両手で覆った。
「私と一緒に行きましょう」
妻に抱きしめられ、パーシヴァルは大きな鳥の羽根のようなものに魂が包まれたような気がした。
「ああ、一緒に行こう、エヴァ」
彼女の腕はなんて温かいのだろう。パーシヴァルは目を閉じ、うまく動かない重い腕を持ち上げて、妻の身体を抱きしめた。その時だった。
「そこまでだ!」
勢いよく扉が開く音がして、何人かが室内へなだれ込んできた。
「我が声は神々の御声!悪しきものよ、光によって打ち払われよ!」
悪魔を祓うギーヴの声にパーシヴァルは目を開けた。彼が抱きしめていたのは妻ではなく、悪魔アザゼルだった。アザゼルは醜い叫びを上げて床に転がり落ち、ベッドのつくる影の中に溶けて消えた。
「パーシヴァル、最近、身体の具合が悪いと感じることはなかったかい?」
ゆっくりとした歩調でギーヴがベッドに近づいてくる。パーシヴァルはよろりと身を起こし、頭を抱えた。悪魔の見せた幻想にまんまと騙されたことより、愛する妻の幻をかき消されてしまったことがショックだった。
「……いや。たが、何故か昔のことをよく思い出せなくなったり、それに時々、我を忘れてしまうことがある」
顔を上げると、パーシヴァルのベッドの周りにはギーヴ、コルガー、アヤ、ジャック、ヒリールが集まっていた。
「それは悪魔のせいだよ」
ギーヴは厳しい表情で告げた。
「君は悪魔と契約をした時、何を差し出したか覚えてる?」
「いや。悪魔は差し出したものについての記憶をことごとく消し去る」
「たぶん、君は自分の魂を差し出したんだ。君もだよ、アヤ。君たちは少しずつ、悪魔に蝕まれている。放っておけば、今みたいに魂を喰われてしまうよ」
悪魔に魂を喰われてしまうと聞いても、パーシヴァルの感情は動かされなかった。彼は両手で顔を覆った。
「あんなに甘く優しい幻なら、いっそ、喰われてしまいたかった」
鈴を振るような声、細い指先、柔らかな笑顔、愛しげな眼差し、ぬくもり。恋しくて恋しくて、パーシヴァルは泣きたいくらいだった。
「馬鹿野郎!」
コルガーに胸倉をつかまれてパーシヴァルは顔を上げた。コルガーは目を吊り上げて彼を睨みつけた。
「あんたはオレが助けたんだ!生きてもらわなきゃ、困る!」
小陽島の塔で気を失った後、パーシヴァルをここまで運んだのはコルガーだった。余計なことを、と言おうとしたパーシヴァルをコルガーは続く言葉で遮った。
「三月地震で、生きたくても死んだ人がたくさんいたんだ。命が助かったオレたちが、自らそれを手放しちゃだめだ!何があっても、自分の命は手放しちゃだめだ!人が死んではいけないのには理由があるんだ!」
「理由?」
パーシヴァルが訊ねると、一瞬、コルガーは悲しげな顔をした。コルガーも自分と同じような想いをどこかで味わったのかもしれない。パーシヴァルは素直な気持ちでコルガーの答えを待った。
「人生では、思いがけない喜びが、曲がり角で待ち伏せしてるんだ。生きている意味が分からないと泣いている時には決して見えない喜びが」
コルガーはそっとパーシヴァルから手を離した。
「それは忘れた頃に、突然やってくる。あんたにも必ず、絶対、訪れるよ。だから生きて。もう誰も死んじゃだめだ」
この九ヶ月間、パーシヴァルは幸せも喜びももう二度と訪れないと思って生きて来た。この先の人生もきっとそうだと思っていた。
「だが、俺にはもうやりたいことがない」
気象兵器奪取に失敗した今、ロッキンガム家に戻る気は起きなかった。
「それなら、ここに残りませんか?」
そう言ったのはヒリールだった。ヒベルニアの姫君らしい薄青色の細身のドレスを着ている。彼女の申し出に驚いたのはパーシヴァルだけでなく、ギーヴやコルガーも目を丸くしている。ヒリールはパーシヴァルのベッドの傍らにしゃがみ、大人びた表情で微笑んだ。
「ジャックさんから聞きました。あなたは昔、イギリス海軍の大佐だったんでしょう?ヒベルニアにも軍隊はあります。軍隊が嫌なら王族の護衛の仕事もありますよ」
「いい話なんじゃねえのー?俺もアヤもここに残るつもりだし、おまえもそうしろよ」
ジャックが暢気に笑い、アヤも真面目な顔で頷く。パーシヴァルは困り果てて額を抑えた。
「……考えさせてくれ」
「もちろんです」
ヒリールはパーシヴァルにうなずき、隣に立つギーヴを見上げた。
「ギーヴおじいさま、彼らの悪魔を祓うことはできるのですか?」
パーシヴァルやアヤだけでなく、その場の全員が期待を込めてギーヴを見つめる。ギーヴはのんびりとした動作で頷いた。
「もちろん。なるべく早い方がいい。今夜にでもやろう」
ヒベルニア王マキシム・バルトロメは自室のバルコニーから城下町を見下ろしていた。粉雪がちらちらと降る町は白銀色に輝き、静かな活力が満ちている。
かつては、マキシムも下々のひとりだった。生まれたのは漁村の漁師の家だ。彼の人生を変えたのは彼の歌声だった。ギーヴとともに神童と祭り上げられ、やがて林檎修道院へ招かれたことは人生の転換点のひとつだった。
転換点と言えば、最も大きなターニングポイントは極光の女神と出会ったことだ。それはギーヴとマキシムが三十歳の頃のこと。修道士として修業を積んでいた彼らはある夏の夕方に海へ出かけた。その日は二人とも仕事がなく、自由な時間でひと泳ぎしようということになったのだ。
磯の岩陰でそれを見つけたのはギーヴだった。
波の寄せる岩の上にいたのは、人間の赤ん坊の姿をした生まれたての悪魔だった。
「かわいそうに、流されてきて打ち上げられたんだろうね」
ギーヴはそう言って、躊躇もなく悪魔を抱き上げた。マキシムは恐る恐るそれを覗きこんだ。悪魔は両の拳を握りしめ、大声で泣いていた。
「悪魔の餌ってなんだろうな。まさか魂なんてあげられないしな」
「案外、普通のものを食べるかもしれないよ」
ギーヴはそう言って、当たり前のように悪魔の赤ん坊を修道院へ連れて帰った。もちろん、こっそりと。悪魔は牛乳を飲み、バターを舐めた。三日後にはやわらかな金色の髪と白い歯が生えそろい、よちよちと歩くようになった。果物をやると喜んで食べ、七日後には元気に走り回るようになった。悪魔は女の子だった。
ギーヴとマキシムは彼女に女児の服を与え、名前を与えた。
「君の名前はエドだ。極光の女神の名だよ」
ギーヴが言うと、彼女は大きな青い目を何度も瞬いた。
「きょっこうの……めがみ?」
彼女が言葉を発したのはそれが初めてだった。ギーヴとマキシムは顔を見合わせて喜んだ。
「そうだよ。君は極光の女神のように美しい女性になるよ、エド」
ギーヴとマキシムが年をとらない身体となったのは数年後だった。彼女は悪魔とは思えないほど清らかで美しい女性に成長していった。
そしてもうひとつの大きな転換点は六十年前だ。マキシムは生まれてからずっと連れ添ってきた双子の弟ギーヴと別れ、愛する妻アンジェラと離れてヒベルニアを目指した。あの時のことをマキシムが後悔しない日はなかった。彼らなしでヒベルニアを目指し、クラシックをまとめ、国を創り上げるの日々はひどく孤独だった。それでもマキシムがやってこられたのは、ギーヴとアンジェラがいつか必ずヒベルニアへやってくると信じていたからだ。
だが、約束が果たされたのは六十年後。そしてアンジェラは死んでしまった。
マキシムはぶるっと身震いした。
アンジェラのいない世界はとても寒い。
「マキシムおじいさま、よろしいですか」
コンコン、と扉が叩かれた。ヒリールだった。
「入りなさい」
マキシムが応じるとすぐに孫娘が入って来る。彼女はマキシムのたたずむバルコニーまでやってくると、祖父を真っすぐに見上げた。
「マキシムおじいさま、お願いがあります。わたしをこの城に住まわせて下さい」
ヒリールの住まいは離宮だ。彼女はヒベルニア城下から離れた郊外の城で、両親や祖母とともに暮らしている。
「離宮暮らしが気に入らないのか?」
離宮は森に囲まれた湖のほとりにある。城下などよりよっぽど環境がいいと思って彼らをそこへ住まわせていたマキシムは訝しんで訊ねた。
「いいえ、そうではありません」
ヒリールは長い茶色の髪を振って応じる。
「わたしはマキシムおじいさまが大好きです。だから、おじいさまともっともっと一緒にいたいです。おじいさまから色んな事を学びたいです。わたしはいずれ、この国の女王になるのですから」
ヒリールはそう言って、ヨイク・アールトのように勝気な表情でにこりと笑った。マキシムは目を丸くして何度か瞬きする。彼女は変わった。
「いつまでも子供だと思っていたら大間違いだな」
マキシムの胸にじわりと喜びが広がる。何より、孫娘に大好きだと言われて嬉しくない祖父がこの世にいるだろうか。マキシムは笑みを浮かべ、ヒリールの肩を抱いた。そうだ、俺の世界はまだこんなにも温かい。
「いいだろう。すぐにおまえの部屋を用意させよう」
「ありがとうございます!」
ヒリールはマキシムの腕に顔を寄せて微笑み、小さくつぶやいた。
「ありがとう。おじいさまは霧山の王だわ」