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ヒベルニアの極光  作者: 葉梨
第一章
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4.天に選ばれること

 ギーヴのあっさりとした答えにアヤはぽかんと口を開けた。


「え?」

「だから、俺たちこれからヒベルニアへ行くんだ」


 ギーヴは中央の通路まで歩み、身をかがめて床に片膝を着いた。小さな祭壇や何も描かれていない壁をゆっくりゆっくり見回し、それから頭を垂れて口の中で祈りの言葉を唱える。ここは、彼にとって神聖な場所なのだ。コルガーは彼の一挙手一投足を目で追った。


 この人は本当に神の僕なのだ。


 やがてギーヴは立ち上がり、困ったような顔でアヤを見下ろした。彼の大きなシルエットが入口に浮かび上がり、風に吹かれた法衣のひだが扇のように広がる。


「良ければ君も一緒に来る?」


 さらりと言ったギーヴに、アヤは言葉を失ったように凍りついた。彼女は数秒間まじまじとギーヴの顔を見つめ、それからようやく切り返す。


「な、何を言ってるのよ!」

「だって君、ヒベルニアへ行きたいんでしょ。エディンバラ教会の関係者ならお断りだけど、君のお祖母さんは大行進にも参加したクラシックだっていうし、一緒に連れて行ってもいいよ」


「わ、私はねえ、ある組織に雇われてるの!そいつらはヒベルニアの異常気象の原因をつきとめて、それでお金儲けするのが目的なのよ!要するに金の亡者よ!」


 そこまで言ってからアヤはしゃべり過ぎたことを悔やむように口を覆った。アヤたちの目的を聞いてアンジェラとコルガーは目を見張ったが、ギーヴは驚かなかった。


「知ってるよ。異常気象の原因が本当にヒベルニアにあるのなら、それを利用しない手はないよね。どこから嗅ぎつけたのか知らないけど、列強国はみんなヒベルニアを狙ってる。どうせ君を雇っているのも、どこかの国か企業でしょう」


 ギーヴの静かな指摘に、アヤは自棄を起こしたように言った。


「ええ、そうよ。夢のような話だけど、気象を操ることができれば、自分の国にだけ太陽を輝かせ、他国を飢えさせることができる。作物を輸出すればその値段は跳ね上がり、大きな利益を得ることもできる。信じがたいけど、そういう非情なことを狙っている人間が実際にいるのよ。私の雇い主もそう。――でも、それを知っていて、よくも一緒に行こうなんて言えるわね!」


「だって、人質とってるのは君の方だろ。それ以外にどうしろって言うの?」


 アヤははっとして銃を握り直した。動揺したせいかアンジェラに向けた銃口が下がっていたのだ。彼女は心を落ち着かせようと深く息を吸い、ゆっくりと吐き出した。


「……ヒベルニアへ行く方法を教えて。それだけでいいの」


 アヤは言い切らないうちに呻き声を上げて床に両膝をついた。


「そんなこと、してやる必要ないよ」


 コルガーは誰にも気づかれないようにアヤの背後に回り、彼女の手から銃をもぎ取り、ついでに鳩尾に肘で一撃をくれたのだ。付け焼刃とはいえ用心棒としての訓練を受けたアヤが少年の近付く気配を全く感じなかった。アヤは歯を食いしばり、コルガーの顔を見上げた。コルガーは手の中の銃を珍しそうにしげしげと眺めている。


「こういうの、あると便利なんだろうけど、えい」


 それは粘土をこねるような動作だった。コルガーの手の中で、鉄製の拳銃がぐにゃりと折れ曲がった。少年はそれを丸めてすっかり球状にしてしまうと、足元にぽいっと投げ捨てた。


「なっ……何を!」


 アヤが立ち上がって後ずさった隙にコルガーはアンジェラを抱きかかえて跳躍した。美しいアーチを描いて着地したのはギーヴの後ろ、礼拝堂の扉の前だ。


「まだやる?女の人を痛めつけるのは趣味じゃないんだけどな」


 そう言いつつ、コルガーはギーヴにアンジェラを預け、アヤの方へ進み出る。神聖な修道院へ踏み込み、喧嘩を売って来たのはアヤの方だ。遠慮する理由はない。


「気をつけて、あれはただ者じゃないよ」


 ギーヴがささやくと、コルガーは皮肉っぽく笑った。


「オレも似たようなものだから、釣り合いが取れてちょうどいいかな」


 コルガーが自分の超人的な肉体能力に気がついたのは物心ついてすぐだった。ほんの子供だったコルガーが一緒に遊んでいた兄の手の骨を折ってしまったのだ。兄には大泣きされ、両親からはこっぴどく怒られた。そしてアンジェラだけが、優しくこう言ってくれたのだ。


『あなたは神々から素敵な贈り物をもらったのね』


 自分が他人と違うとどれほど思い知っても、彼女のその言葉があれば乗り越えられると信じて生きてきた。


「君のは生まれつきでしょう、彼女とはまるで違うよ。彼女は禁じられた古の知識を詰め込むことで魔法を後天的に体得している」


 ギーヴは答え、アヤの姿を見た。コルガーも彼女に目を向ける。育ちのよさそうな美しい女性がなぜ魔法に手を染めたのかは分からない。だが、彼女が本気だということは分かった。彼女は本気でヒベルニアへ行く方法を手に入れようとしている。


「俺たちはヒベルニアへ行く。君たちは、その後をつけてくるといい」


 音が反響するように設計された礼拝堂にギーヴの声が響いた。余裕を取り戻した女の笑い声がそれに重なる。


「私たちはヒベルニアの気象兵器を狙ってるのよ。一番にたどり着けなければ意味はないわ」

「俺たちは気象兵器なんかに興味はないよ。第一、君たちが望むような気象兵器は存在しない。この空を雲で覆ったのは極光の女神だ。彼女は人間の言うことなんか聞かない。――マキシムと俺以外の言うことなんか聞かないんだよ」


 極光の女神。


 ギーヴの口からするりと出た言葉は何とも甘美な響きを持っていた。


「……どういうこと?」

「俺たちは遠い昔の約束を果たし、極光の女神を止めるためにヒベルニアへ行くんだ」

「遠い昔の約束?」


 アヤはオウム返しに訊ね、眉をひそめる。その一瞬の後、コルガーは鼻孔を刺激する不快な匂いに気が付いた。開け放たれた扉の向こうから、ウイスキーの香りに混じって焦げくさい匂いがした。


「まさか……!」


 礼拝堂を飛び出したコルガーの目に飛び込んで来たのは、果樹園の方角に揺らめく真っ赤な光だった。


「火事だー!火事だー!かなりやばい大火事だー!」


 炎の向こうから若い男の間延びした声が聞こえ、コルガーは走り出した。男手がなく、閉鎖された修道院で火事ほど恐ろしいものはない。





 少年が超人的な速度で走り去ると、アンジェラは深いため息を吐き出して礼拝堂の外に出た。ギーヴとアヤもそれに続く。


「あの果樹園には大切な林檎の木があったの。思い出の林檎の木がね。火をつけたのはあなたのお仲間でしょう、今夜はもうお引き取り下さい」


 憤るでも悲しむでもなく、アンジェラは静かに告げた。その時アヤは、彼女の茶色の瞳が少年の目にとてもよく似ていることに気がついた。


「……ありがとう」


 アヤはギーヴとアンジェラを交互に見つめてそう言った。何がありがとうなのかアヤ自身も分からぬまま、彼女は脱兎の如く逃げ出した。その足の速さや身のこなしは、やはり魔法に手を染めた者のそれだった。


「アンジェラ、早くみんなを起こして、門を開けて外に逃げるんだ」

「大丈夫よ、猊下。コルガーが何とかするわ。神々はね、あの子の期待を決して裏切らないの」

「それでもだめだよ。逃げて」


 自信たっぷりのアンジェラに言い捨て、ギーヴは緩慢な動作で柔らかな冬草の上を走った。本人はとても急いでいるつもりだ。ギーヴが林檎の木が密集する果樹園にたどり着くと、コルガーは夜露に濡れた草に片膝をつき、両手を組み合わせて燃え広がる炎を見つめていた。


「コルガー?」


 ギーヴが後ろから声をかけると、少年はぱっと顔を上げ、朗らかに笑った。


「オレがこうすると雨が降るんです。雨が必ず助けてくれるんです。ここの人たちはみんなオレの家族ですから、オレが何とかするんです」


 当たり前とでもいうような、自信に満ちた顔だった。子供のころのアンジェラにそっくりだなと口の中でつぶやき、ギーヴは微笑んだ。暗い空を見上げると、鉛色の雲が空を覆っている。三月地震以来ずっと居座り続けているその分厚い雲が雨を降らせたのは、ここ数カ月でも数えるほどだ。


「ばあちゃんはオレの天使なんだ。みんなや修道院に何かあれば、ばあちゃんが悲しむでしょ。それはだめなんです」

「天使?骨と皮の?」

「そう、骨と皮の!」


 ギーヴはおかしくなって吹き出した。二人がけらけら笑うと、それに同調するかのように雷が低く呻いた。ギーヴは少年の隣に立ち、彼が組み合わせた小さな両手に片手を置く。その瞬間、コルガーは息をのんだ。


「あ」


 ぽつりと少年の手の甲に雨粒が落ちてきた。夜明けの遠い闇の中、しとしとと救いの雨が降り出したのは間もなくだった。雨脚は次第に強くなり、肌に当たると痛いほどだ。二人はあっという間にずぶ濡れになり、果樹園を蝕む炎の手は脆くも崩れ去る。白煙を上げながら赤い光が消えていく。


 辺りが再び暗闇に包まれると、ギーヴはコルガーの手から自分の手を離した。その途端、何かで遮ったように雨がぴたっとやんだ。


「……あなたは何者ですか」


 組んでいた手をほどき、コルガーは立ち上がった。それでも、彼がギーヴと目を合わせるには顔をうんと上げなければならなかった。ギーヴは濡れた髪をかき上げ、首をかしげて微笑む。


「答えになってないかもしれないけど――俺はバルトロメ家の人間だ。君と同じだよ」


 二人はお互いの目の中に、自分と同じものを見つけた。それは、人と違う何かを持って生れたものの悲しみだ。誰も、天に選ばれることを望んだわけではなかった。


「同じかあ」


 コルガーは肩をすくめ、空を仰いで息を吐き出した。その唇には、わずかに笑みが浮かんでいた。同じ悲しみと同じ喜びを噛みしめ、ギーヴも微笑んだ。




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