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ヒベルニアの極光  作者: 葉梨
第五章
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6.天使の死

 昼下がりのウイスキー修道院の、窓から差し込む黄金色の光の中でアンジェラがレース編みをしている。コルガーが声をかけると彼女は顔を上げ目尻を下げて微笑む。


『まあ、エド』


 怪力で兄を骨折させてしまったコルガーは両親にひどく叱られ落ち込んでいた。いらっしゃい、とコルガーを呼び寄せるとアンジェラは温かい手で彼女の頭を撫でて言った。


『あなたは神々から素敵な贈り物をもらったのね』






 小陽島で意識を失い、ヒベルニア城へ運びこまれたアンジェラはすぐに医師の診察を受けた。床についた彼女の顔は青白く、唇も白い。


 コルガーは城へ向かう船や馬車の中で彼女のそばにずっとついていたが、アンジェラの意識は戻らなかった。しばらく彼女の容態を診ていた王族専属の医師は無情にも首を振った。


「老衰に薬はございません。時が来たのだとお思い下さい」


 マキシムはショックを受けたように目を見張り、それから医師を下がらせた。医師が薬湯を持ってくると言って出ていくと部屋には横たわるアンジェラと、コルガー、ギーヴ、マキシムが残された。


「ねえ、ばあちゃん、どうなっちゃうの?」


 コルガーはギーヴに詰め寄る。声を出した途端に胸がぎゅっと潰れるほど痛む。ギーヴとマキシムは顔を見合わせた。


「人は時に逆らえないんだよ。俺たちも友人を随分亡くした」


 そう言うギーヴやマキシムは時に逆らい、自然に逆らって生きている。腑に落ちない。コルガーが感情的に抗議の声を上げようとした時、アンジェラが身じろぎした。


「ここは……?」


 弱々しく細い声に三人は彼女を振り向いた。


「ばあちゃん!」

「アンジェラ……!」


 三人はアンジェラを覗き込む。


「ここはヒベルニア城だよ」

「そう。ここがヒベルニア城……。ああ、お願い、お水を一杯いただけないかしら」

「俺が持ってくる!」


 ギーヴが申し出て部屋を飛び出す。


「ばあちゃん、しっかりして!」


 コルガーがぎゅっと手を握るとアンジェラも力なく握り返してきた。


「エド、あなたにばかり辛い思いをさせてごめんなさい。あなたを残して行きたくないけれど、まだまだあなたを見守っていたいけれど、これでさよならね」

「嫌だ!そんなの嫌だ!ばあちゃんがいなきゃオレ生きていけない!」


 コルガーの両目から涙が溢れた。

 もう誰も失いたくない。悲しみを抱えて一人ぼっちになりたくない。今度こそ生きていけない。アンジェラのいない未来なんて欲しくない。


「ねえ、いつか話したわね。人が死んではいけないのには理由があるって。何があっても生き抜かなければならないって。私、それが分かった気がするの」


 アンジェラの手が驚くほど強くコルガーの手を握りしめた。


「生きて。あなたはあなたの答えを見つけなさい」

「嫌だよ!そんなこと、言わないでよ!」


 コルガーの視界は熱くぼやけ、胸の中はアンジェラへの想いでいっぱいになる。自分にできることなら何でもする、だから彼女を連れて行かないで。コルガーは天に祈り、極光の女神に祈った。


「アンジェラ、水だよ!」


 ギーヴが扉を開け放った時だった。アンジェラが微笑んだ。


「愛してるわ、マキシム、ギーヴ、そしてエド……誰よりも……あなたを……思ってる……」


 いつの間にか太陽が昇ってきていた。美しい、朝のことだった。






 シスター・アンジェラの遺体は王家の墓でもあるヒベルニアの大聖堂の地下へ埋葬された。関係者だけの簡単な葬儀が終わった後、コルガーとギーヴは仲間たちと別れてヒベルニア城の中庭にやってきた。


「きっとこれは罰なんだ」


 ベンチに座ったコルガーの膝の上には黒いリボンで束ねられた一房の白髪がのっている。


「この手で人を殺めたオレに与えられた罰……」


 隣に佇むギーヴがゆっくりと首を振る。


「違うよ」


 ギーヴの手がコルガーの髪に触れる。


「君はとっても良い子だ。アンジェラの自慢の曾孫だよ」


 ギーヴは珍しく強い口調で語り、コルガーの隣に腰かけた。


 コルガーは膝を抱え、白髪の束を額に押し当てた。次から次へ涙が溢れて何もかもぐちゃぐちゃだった。


「……ありがとう」


 コルガーは頭を傾けてギーヴの肩にそっと寄りかかる。上着の袖で涙を拭うと少しだけ気持ちが吹っ切れた。


「ねえ」


 しばらく黙って座っていると、ギーヴが切り出した。


「はい?」


 危うく眠りこみそうになっていたコルガーはまどろみながらギーヴの顔を見上げた。


「君を、抱きしめてもいいかな?」


 ぎこちない仕草で腕を広げ、ギーヴはコルガーに向き直った。コルガーの心臓がどきんと大きな音を立てた。


 こっくりと頷き、コルガーは恐る恐るギーヴに手を伸ばして彼に抱きついた。ぎゅっと抱きしめられると、ギーヴの腕の中は日だまりのように温かく、コルガーはこんな幸福があることを生まれて初めて知った。


 傷ついた心が癒されていく。そんな気がした。


 コルガーはバンゴールでアザゼルと戦った夜のことを思い出した。家族以外の誰かに守ってもらったのはあれが初めてだった。家族以外の誰かに、こんな気持ちを抱くのも初めてだった。


「エディンバラへ帰ったら、脱走したことに罰を受けませんか?」


 離れたくない。この人と、このままずっと一緒にいたい。ギーヴの腕の中でコルガーは思った。


「大丈夫、俺に鞭を打てる奴なんていないよ」

「でも、わざわざ囚われに行くこともないと思います。このままヒベルニアにいてもいいし、どこかへ逃げてもいいじゃないですか」


 コルガーの気持ちが嬉しかったのか、ギーヴは身体を離して柔らかく微笑んだ。


「ヨイクの本が出れば世界は変わる。教会の罪が人々の目にさらされ、皆が教会のやり方に疑問を持ち始める。その、ちょっとした隙間にクラシックの居場所を作るのが俺の仕事だ」


 本の編纂や印刷には一年以上かかるだろうとユアンが言っていた。その間、ヨイクとユアンはヒベルニア城下の老舗宿に滞在して作業することが決まっている。


「クラシックがもう一度大陸に戻れるように、俺は俺にしかできないことをする。それにはやっぱりエディンバラ教会の中にいるのが一番だと思う、たとえ不自由な身でもね」


 コルガーがそれ以上何も言えずに口ごもってうつむくと、ギーヴは悲しげに緑色の目を細めて彼女の顔を覗き込んだ。


「クラシックの人々が、エディンバラ教会を信じる人々と共存できる世界。それが俺の夢なんだ。ずっとずっと、夢なんだ」


 目を合わせ、見つめ合うと泣きたい気持ちになる。コルガーは途方のない寂しさを堪えて口を開く。


「オレの夢は建築家になって、人々の心が救われるような教会を造ることです」


 決して、一緒にはいられない。最初から分かっていたはずなのに、悔しいほどに悲しく、腹立たしいほどに切なかった。


「……それならローマに留学するといい。俺の知り合いの建築家に紹介状を書いてあげる」


 ギーヴの突然の申し出にコルガーはきょとんとした。ローマはヨーロッパの建築家にとって聖地の中の聖地だ。コルガーは思わず立ち上がって身を乗り出した。


「ほ、本当ですか?!」

「うん、喜んで」

「やっっったあ!!」


 飛び跳ねて喜ぶコルガーに、ギーヴは嬉しそうに微笑んだ。


「良かった、やっと笑ったね」


 ギーヴは微笑んだまま、切なげに眉根を寄せる。


「俺たちは二人とも、自分の夢にとてもとても忠実だね」

「……はい」


 どちらかが夢を諦めれば一緒にいられるかもしれない。だけど望みを諦めれば自分の人生に意味がなくなる気がする。コルガーは唇を噛んだ。


「悔しいです」

「悔しい?」

「あなたの歩んできた長い長い人生にとって、きっとこの旅は瞬きをするくらいの短い時間で、あなたはオレのことなんか、すぐに忘れちゃうんでしょう」


 ギーヴはむっとしたように唇を尖らせた。


「じゃあ君は、歳をとったら俺を忘れてしまうの?」


 コルガーもむっとした。


「いいえ。忘れません。きっと、いつか老人になって、息を引き取る時にも、あなたのことは忘れません」


 きっと、永遠に。祈るように、コルガーはそう思った。ギーヴは静かにコルガーを見上げ、ゆっくりと何度か瞬きをした。


「……前にも言ったけどね、俺はマキシムやアンジェラと離れ離れになってからずっと、エディンバラの聖ピーター大聖堂の鐘楼の天辺にいたんだよ」


 コルガーは再びベンチに腰を下し、こっくりと頷く。


「鐘楼は十五分おきに時を告げる。その音色が奏でられるたびに、俺はまた十五分生き延びたんだと思う。鐘が鳴りやんで、それからもう一度鐘の音が聴こえてくるまで、そのたった十五分がどんなに長いものか」


 ギーヴは緑色の瞳を閉じ、開いた。


「それに比べて、君との旅は矢のように過ぎ去ったけど」


 きゅっとギーヴはコルガーの小指に自分の小指を絡ませた。


「俺だって忘れないよ。息を引き取る時にも、きっと君を思い出すよ、エド」

「はい!」


 コルガーは満面の笑みを浮かべ、ギーヴに力いっぱい抱きついた。


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