5.世界の夜明け
白い搭にたどり着くとコルガーは臆さず中に踏み込んだ。五階建てほどの高さの搭の内部には古い石の螺旋階段があり、上方から淡い緑色の光が漏れていて、階段を上った先に極光の女神がいることが分かる。コルガーはゆっくりと階段に足をかけた。
「大人しくしろ」
背筋が凍るような悪寒がしたと思った瞬間、後ろにパーシヴァルが立っていた。足音もしなかった。
「気象兵器は見つかったのか?」
コルガーの首に悪魔の毛むくじゃらの黒い手がまわっていた。パーシヴァルの悪魔アザゼルだ。二週間前にコルガーはアザゼルに殺されかけている。コルガーの特殊能力をもってしても全く歯が立たなかったのだ。
「気象兵器なんてない。世界の空を雲で覆ったのは極光の女神だ!」
こんなところでやられるわけにはいかない。コルガーは階段の先を見上げる。いつの間にかそこに極光の女神が立っていた。コルガーの浴びせた聖水と悪魔ミスティックの攻撃で弱っているようには見えたが、彼女の姿はやはり美しく、神々しかった。
「極光の女神?あれは悪魔だろう?誰と契約を結んでいる悪魔だ?」
パーシヴァルは女神を見上げ、怪訝そうに言った。
「誰とも契約してない。彼女は自分のことを悪魔ではなく極光の女神だと思ってるんだ」
ギーヴやマキシムは女神と契約していないと言っていた。女神は契約のためではなく、祈りと信仰の報酬として彼らを助けてくれると。
「そうか」
パーシヴァルは嘲るように暗く笑った。
「つまり、彼女を従えれば世界の気象を操れるということか!」
アザゼルの手がコルガーの喉を離れて極光の女神に向かった。女神は身軽に攻撃をかわしたが、アザゼルのあまりの勢いに階段が崩れる。
「やめろ!」
コルガーが叫ぶ間に女神は身を翻して螺旋階段を駆け上る。アザゼルとパーシヴァルがそれを追い、さらに後からコルガーが続く。搭の頂上まで上ると外へ出るための扉があった。重い扉を押し開けると女神がアザゼルに追い詰められていた。
「パーシヴァル、やめろ!彼女には手を出すな!」
コルガーはパーシヴァルの首に飛び付き、彼を床へ引き倒して馬乗りになる。悪魔に対抗できない以上、人間同士の肉弾戦に持ち込まなければコルガーに勝ち目はない。コルガーがパーシヴァルの白い顔を何度も殴ると、彼も負けじとコルガーを押し倒して彼女の腹に拳を繰り出した。
女神はコルガーが自分を守っていることに気がついたのか、コルガーに力を貸してくれていた。コルガーの全身は淡い緑色の光に包まれ、鋼のような肉体を持つパーシヴァルと互角に戦うことができた。やがてコルガーが優勢になると、パーシヴァルは朦朧としながら悪魔に助けを求めた。
「アザゼル!まずはこいつを始末しろ!」
――御意。
アザゼルは女神から離れ、闘牛のような勢いでコルガーに襲いかかったが、コルガーの身体に触れるか触れないかというところで衝撃を受けて床に転がった。扉の前にギーヴが立っていた。
「――我が声は神々の御声」
りん、と錫杖の輪が鳴る音がした。
「悪しきものよ、光によって打ち払われよ」
ギーヴが錫杖を振るうと杖の先から緑色の光が溢れ出てアザゼルの身体をすっぽりと包んだ。光を浴びたアザゼルは身をよじり断末魔を上げながら姿を消した。
「極光の女神エド」
女神へ静かに呼びかけ、ギーヴはひざまずいた。
「この者たちのした愚かな行為を許して下さい。そしてあなたが教会から受けた仕打ちを許して下さい」
ギーヴの懇願に女神は切なげに眉根を寄せた。その時、コルガーは気が付いてしまった。女神もまた、ギーヴを愛しているのだと。自分と同じように、狂おしいほど、彼に恋焦がれているのだと。
「教会の罪を白日の下にさらせば、あなたや俺たちが迫害されることなく暮らしていける日は必ず来る。俺がきっと実現させる。あなたをこの海の果てに追いやるものは何もなくなるんだ」
コルガーは気を失っているパーシヴァルから下り、ギーヴの言葉に大きく頷いた。
「どうか許して下さい」
しばらくの間、その場に重い沈黙が落ちた。それを破ったのは女神の哄笑だった。
――あっはっはっはっは!!許す?!
女神は腹を抱えて笑う。
――では、おまえは私を許すのですか?
きっとコルガーを睨み、女神は唇の端を上げた。
――おまえは、妹を殺した男たちを許すのですか?自分にできないことを私には要求するというの?
コルガーは答えられず両の拳を握りしめた。脳裏をよぎったのは夕日に赤く染まる河原とそこに横たわる妹の遺体、それを囲む三人の人影、そして、この手で殺めた男の苦しげな顔だった。
吐き気がした。
コルガーは咳き込み、うずくまって床に手をついた。
両目から涙がぽたぽたと落ち、額に汗が滲む。
コルガーは床を拳で殴った。
許せない。許せるはずがない。許されない。許されるはずがない。だけど。
「……許す」
嗚咽とともに床へ拳を繰り出す。何度も、何度も、殴る。
いつか、ギーヴは言った。妹を殺した男たちを許し、生き残った自分を許し、過ちを犯した自分を許せと。償いとは、苦しむことではなく、罪を忘れず、人生を真っすぐに歩いて行くことだと。
「許さなきゃ何も終わらないし、何も始まらないんだ。償うために、人生を真っすぐ歩いていくために、わたしは、全部、許す!!!」
黎明の空に向かって叫ぶと、頭の上から父の声が聞こえた。母の声、兄の声、妹の声。
みんな、笑っていた。
――私と同じ名を持つ娘、エド。
極光の女神はコルガーの身体をそっと抱いた。
――では私も、エディンバラを許します。
極光の女神は立ち上がり、右手を空へ向けた。その瞬間、ヒベルニアの周囲を覆っていた分厚い雲が文字通り雲散霧消し、水平線まで綺麗に晴れ渡った。
ギーヴがコルガーを抱き起こし、二人はそろって空を見上げた。星々が煌めく頭上の空に淡い緑色のオーロラが現れたのはその時だった。穏やかな風に吹かれているかのようにゆったりとゆらめき、雄大に輝く幾重もの光のカーテンはこの世のものとは思えないほど神秘的で、息を飲むほど美しかった。まるで極光の女神のようだった。
――ギーヴ。
空を見上げ続ける二人に歩み寄り、女神はギーヴと見つめ合った。彼女は哀しげに微笑むと、肉感的な腕を伸ばしてギーヴの両頬に手を添え、そっと彼に口づけた。
――ずっと、あなたに会いたかった……。
女神は空に浮かび上がり、光の中に溶けて消えた。辺りに静かな風が吹いた。
世界の雲が晴れた。すべてが終わった。コルガーとギーヴはしばらく呆然とオーロラを眺めていた。物思いにふけるかのように黙りこんでしまったギーヴに何か言おうとコルガーが口を開いた時、再び地面が揺れ始めた。先ほどより大きく、まるで突き上げるような気味の悪い揺れだった。遠くからは奇妙な轟音が聞こえ、とても立っていられない。
「なんかこれ、すっごく危ない気がしませんか?」
言いながら、コルガーは倒れているパーシヴァルを片手で担ぎ、逃げる算段を始めている。ギーヴも眉をひそめ、塔の手すりにつかまりながら辺りを見回した。
「搭が倒れる……?」
二人は顔を見合わせ、そろって搭の頂上から飛び下りた。その瞬間、白い搭はがらがらと音を立てて崩れ始めた。
二人は海岸まで転がるように走り、島の中心を振り向いた。平坦な島のほぼ中央から赤いマグマが噴き出していた。
「まじかよ!」
パーシヴァルを肩に担いだコルガーはあんぐりと口を開け、ギーヴもその場に立ち尽くした。
「溶岩がここまで流れてきますよ!」
「脱出しよう。小舟はどこだったかな?」
「あっちの岩影です!」
二人は振動する草原を駆け、白い波しぶきが舞うごつごつとした岩場へたどり着いた。やがてコルガーが小舟を見つけてもやい綱をほどきにかかると、後ろから声がした。
「パーシヴァル!」
現れたのはジャック・ロッキンガムだった。
「大丈夫、気ぃ失ってるだけ」
心配そうなジャックに答えつつコルガーはぐったりしたパーシヴァルをジャックに預けた。
「あんたらもさっさと逃げないとどうなるか分かんないよ、この島」
もやい綱をほどき、コルガーはオールを持って小舟に飛び乗る。ギーヴもそれに続き、二人は波に揺られながら聖堂の方を見た。こけつまろびつ走ってくる人影がいくつも見える。
「コルガー!猊下ー!無事ー?!」
先頭のヨイクが手を振り、それに続くユアンがアンジェラを背負っている。マキシムはヒリールを庇うように彼女の肩を抱いていた。
「皆、早くー!」
コルガーが小舟の上でオールを振った時、岩影から別の小舟が現れた。
「ジャック!乗って!」
小舟をこいでいるのはアヤ・ソールズベリだ。
「ナイス、アヤ!」
ジャックはパーシヴァルを小舟に放り込み、自分も跳躍してそこへ乗り込んだ。
「コルガー!舟を寄せろ!」
アンジェラを背負ったユアンが怒鳴る。コルガーは高くなる波の上で小舟を操り岸に寄せた。
「まずはシスター・アンジェラを!」
ぐったりと意識を失ったアンジェラをユアンが小舟に乗せる。
「ばあちゃん!どうしたの!」
「聖堂で祈りを捧げていたら急に倒れたのよ。でも息はあるわ」
「当たり前だよ!」
ヨイクに当たっても仕方ないとは思ったがコルガーはつい金切り声を上げてしまった。アンジェラの顔は青白く、唇は真っ青だ。
「よし、出せ」
全員が小舟に乗り込み岸から離れたその時だった。大地の揺れがさらに大きくなり、赤々とした溶岩が地面を押し割って島の中央から噴き出した。腹に響くような大音響がとどろく。
波間の小舟は転覆し、全員は冷たい海に投げ出された。コルガーはアンジェラを背負って泳ぎ、マキシムはヒリールの身体を海中から引き上げた。
「皆、生きてるー?!」
噴火が収まり、辺りが静まったところでヨイクが叫ぶ。舞い落ちてくる粉塵と白煙に咳き込みつつユアンが応える。
「この灰、妙に甘いな」
「本当ね。何故かしら」
舌を突き出して灰を舐め、ヨイクは不思議そうに空を仰いだ。
「ばあやの言った通りだわ。ヒベルニアにはお砂糖の雪が降るのよ」
懐かしそうに空を見上げて言ったのは同じく海に投げ出されたアヤ・ソールズベリだった。
「そういえば、そんな伝説があったわね。何かに糖分が含まれているのか、それとも……」
「ヨイク、それよりシスター・アンジェラを医師に診せなきゃ!」
ヒリールが厳しい表情で言った時にはひっくり返っていた小舟をコルガーが元に戻していた。
「この辺りに医師のいる村はない。ヒベルニア城まで馬車を飛ばす!」
両腕でアンジェラを抱きしめ、悲痛な顔をしたマキシムが言った。東の空が白み始めていた。