4.再会
聖堂はルネサンス様式の純白の建物だった。入り口の扉が開いていて、コルガーが中を覗くと丈の長い白い法衣をまとった男と背の高い男装の女がステンドグラスの光を浴びて立っていた。コルガーとヨイクは遅れてやってくるギーヴたちを振り返った。
「猊下」
コルガーがギーヴを見上げると、彼はコルガーの手を取ってぎゅっと握った。
「行こう」
「はい」
コルガーが頷き、ギーヴはアンジェラと視線を交わしてから真っ先に扉をくぐった。アンジェラ、ヒリール、コルガーが続き、ヨイクとユアンは最後だった。
かつん、かつん、かつん。ギーヴの靴の音が聖堂内に響く。高窓から漏れる青い月光がギーヴの姿を照らし、ステンドグラスの下にいた二人が彼を振り向く。
「……ギーヴ、やっと来たか」
かつん。ギーヴは足を止めた。張り詰めた顔のギーヴとは対照的に、マキシムは微笑んでいた。二人が最後に顔を合わせてから六十年。どちらも外見の歳を取っていない。コルガーは奇妙な思いで二人の男を見つめた。
「久しぶりだね、マキシム」
ギーヴはいくらか表情を和らげ、マキシムの様子をうかがった。ギーヴのたった一人の兄は色とりどりの光を浴び、静かにたたずんでいる。
双子の兄弟はしばらく見つめ合い、それから二人揃って入り口を見た。
「アンジェラか?」
マキシムは恐る恐るといった様子で訊ねた。
「遅くなってごめんなさい、マキシム」
聖堂内へ足を踏み出しつつアンジェラが応じる。八十歳になったアンジェラと、六十年前と変らないマキシム。かつて夫婦だった二人は今では親子のように見えた。
「無事だったのか、ヒリール」
マキシムの視線はアンジェラの後ろのヒリールを捕えた。ヒリールはこっくりと頷き、祖父を恐れるように首を縮めた。嵐の海で行方不明になった孫と祖父の再会としてはやけにあっさりしていた。
マキシムはすぐに視線を転じ、ヒリールの隣のコルガーに目を止めた。彼は驚いたようにはっとして真っすぐにコルガーを見た。コルガーの胸はどきりとした。
「……あの子は?」
マキシムは怪訝そうにギーヴへ訊ねた。
「君とアンジェラの曾孫のコルガーだよ。アンジェラの若い頃にそっくりでしょう」
目を見開いては瞬きを繰り返すマキシムに、コルガーは照れ臭い想いでぺこりと頭を下げる。昔のアンジェラと自分はそんなに似ているのだろうか。
「どうも、初めまして」
「……曾孫?」
噛みしめるように呟くマキシムに、アンジェラが頷いた。
「あなたと離れ離れになってから、私は一人であなたの子を産み育てたのよ。子も孫も曾孫も、この子以外はみんな死んでしまったけれど」
最後にマキシムはヨイクとユアンを見た。
「彼らは?」
「ヨイク・アールト嬢とユアン・リプトン君。ヒベルニアを研究している民話学者と書籍商だよ。俺たちがここへ来られたのは彼らのおかげなんだ」
見知らぬ訪問客に眉をひそめ、マキシムはギーヴを睨んだ。
「民話学者と書籍商?ギーヴ、おまえ、ここへ何しに来たんだ?」
「ひとつは、世界の雲を晴らすため。もうひとつは、教会の罪を白日の下にさらすべく、おまえを説得するためだ」
マキシムの怒りを予想していたかのようにギーヴは落ち着いて応じる。
「極光の女神を煽って、世界を雲で覆っているのはおまえなんだろう?三月の大地震も、何もかもおまえの仕業なんだろう、マキシム?」
もしもマキシムが頷いたら、自分はどうするだろう。コルガーは固唾をのんでマキシムの応答を待った。もしも本当にマキシムが三月地震の元凶だと告白したら、自分は彼を許せるだろうか。血のつながった曾祖父であり、かつてアンジェラが愛した男であり、ギーヴの兄である彼を、許せるだろうか。
ところがマキシムは静かに首を振った。
「これは女神の望みだ。女神は教会に復讐したがっている。聖典から彼女を抹消し、こんな世界の果てに追いやった教会や、盲目的に教会を信じる民に目にもの見せてやりたかったんだ。それに、決め手はおまえだ、ギーヴ。おまえがいつまで待っても来ないから、女神は怒ってしまったんだよ」
コルガーは奥歯を噛んだ。マキシムの他人事のような口ぶりが腹立たしかった。
「そうだとしても、どうして女神を止めなかったんだ!あんたなら女神を止められたんだろ!悪魔にやりたい放題させてたあんたにも責任はあるのに、ギーヴ猊下のせいにしてんじゃねえよ!」
マキシムは力なく笑った。
「彼女は神の妻、極光の女神だ。俺には彼女を止められない。やれるものなら、おまえたちが彼女を止めてみるといい。もっとも、おまえたちときたら彼女の怒りを鎮めるどころか、火に油を注ごうとしているようだがな」
マキシムはヨイクとユアンを睨んだ。
「なぜ民話学者と書籍商なんて連れて来た?ヒベルニアの秘密を外に漏らす気か?俺たちの居場所が教会の耳に入れば、奴らは武器を持ってヒベルニアへ押し寄せるだろう」
ギーヴは首を左右に振った。
「女神の守護の結界さえあればヒベルニアへ出入りできるのは俺たちだけだ。まさか、それを知らないおまえじゃないだろ。ヨイクを連れて来たのは女神やおまえを説得するためだ。ヨイクのように教会の教えを信じない者もいれば、教会の罪を暴こうとしている者もいる。教会の過ちを本にして世に知らしめれば世界は変わる。きっと女神の怒りだって鎮まる」
ギーヴとマキシムの視線がヨイクに集まり、それまで黙っていた彼女は数歩前に進み出て凛とした声で言った。
「初めまして、ヒベルニア王マキシム陛下。私は各地の民話を集めているヨイク・アールトと申します。どうか私にクラシックの歴史を書かせて下さい。これまでクラシックが受けて来た仕打ちを、教会の過ちを、あなたがたがこんな世界の果てに追いやられてしまった悲劇を、私の手で本にさせて下さい」
ヨイクの申し出にギーヴが口を添える。
「彼女のしようとしていることは、俺の望みでもある。教会とクラシックが共存するには、教会の罪が白日の下にさらされ、市井の人々が教会の横暴を知ることが必要不可欠だと俺は思う。そうすれば教会の体質もきっと変っていくよ」
マキシムはヨイクを頭からつま先までじっくりと見つめた。彼女はいつも通り、サーメ人の伝統的な民族衣装をまとっている。
「見たところ、辺境の少数民族の出のようだが、おまえはなぜ、教会の闇を暴こうと?本当なら、教会もクラシックも無縁の人生だったろうに」
ヨイクは波打つ金色の髪をかき上げて小首を傾げた。
「そうね、八割は好奇心です」
「はっはっは!正直だな!」
「あとは、不安になったから、かしら」
「不安?」
マキシムは興味深そうに目を眇めた。ヨイクは小さく笑った。
「私はノルウェー王国の人間です。私の村には土着の信仰がありますが、都市部では教会の定める唯一神を仰ぐ人々が多くを占めています。私が最初にクラシックに触れたのはミシェルというクラシック教徒の日記でした。彼の日記を読んでいるうちに私は不安になったんです。私たちも、いつか教会の教えを受け入れざるをえなくなるのではないか、従わなければ教会から弾圧されるんじゃないかって」
ヨイクは故郷に想いを馳せるかのように目を閉じ、それから青い瞳を真っすぐに上げた。
「もしも私の身勝手な好奇心が、私の愛する人たちを救う手助けになったら、それはとっても素敵だわ」
花のように微笑み、ヨイクは続ける。
「教会を断罪するには、クラシック弾圧の生き証人が必要です。ミシェルさんの日記やギーヴ猊下やシスター・アンジェラだけじゃなく、クラシックのリーダーであるあなたや、あなたと一緒にヒベルニアへ逃れた沢山の人々の証言が欲しいんです。あなたがたにしてみれば冗談じゃないかもしれないけれど、教会の罪を暴くことは、教会に属さないすべての民の望みよ、ヒベルニア王」
マキシムは顔をしかめ、ステンドグラスを見上げた。
「――どう思う?女神」
ステンドグラスからそそぐ色とりどりの光の中から極光の女神が現れたのはその時だった。彼女は長い髪をなびかせ、マキシムの隣にふわりと降り立った。その姿はとても悪魔には見えず、むしろ天使のように清らかで美しかった。
――私はエディンバラを許さないわ。私はエディンバラを決して許さないわ。
女神が鈴を振るような声で言うと、マキシムは頷いた。
「本の制作には協力してやろう。だが、世界の雲は晴れない。俺たちを弾圧し、この島へ追いやったのは教会だ。俺たちの苦しみを思い知ればいい」
ギーヴが唇を噛んだ時、コルガーの我慢は限界に達した。
「馬鹿野郎、この野郎、さっきから聞いてりゃ好き勝手言いやがって、あんたたちのせいで一体どれだけの人間が死んだと思ってんだ!世界がどんなに壊れちまったか、分かってんのか!」
コルガーが大声で叫ぶと、マキシムと極光の女神は目を丸くした。アイルランド人は怒りのボルテージの上がり方が半端ではない。コルガーはなりふり構わず怒鳴り散らした。
「確かにクラシックは酷い目に遭ったかもしれねえ、あんたたちは悲しい思いをしたかもしれねえ、だけどな、大地震を起こして、太陽を奪って、人を殺していい理由にはならねえよ!人を苦しめていい理由になんて、ならねえんだよ!」
肩で息をしながらコルガーはマキシムと女神を睨みつける。アンジェラはコルガーの肩をそっと抱き、かつての夫を悲しげに見つめた。
「そうよ、お願いだから、もうやめてちょうだい。このままでは世界が滅びてしまうわ」
さすがのマキシムも、アンジェラの説得には目を泳がせた。
「……だが、彼女は俺の話に耳を貸さない。もう誰にも女神を止められない」
――そうよ、誰にも私を止められない。世界なんて滅びればいい!
女神は口元に手を当てて上品に高笑いした。
その時、コルガーの中で何かが音を立てて切れた。コルガーはギーヴからもらった聖水を極光の女神に浴びせた。
――ああああああっ!!!
女神は身をよじって苦しみ、細い悲鳴を上げた。
「猊下!こいつ悪魔なんだろ!倒してくれるんだろ!誰にもこいつを止められないなら、倒してよ!こいつのせいで!こいつのせいで!こいつのせいでっ!!!」
父は。兄は。妹は――!!
コルガーは大声で泣き叫びたくなった。三月地震のせいで、コルガーは何もかも失わなければならなかった。誰も彼もが不幸を背負いこみ、悲しみと戦うことを余儀なくされた。そして今もまだ、世界中の人々が苦しんでいる。
「あんたでもいいよ!!」
ギーヴが困惑した顔で動かずにいると、コルガーはアヤの腕をつかんだ。
「あんたの悪魔でやっつけてよ!じゃなきゃ世界が元に戻らないんだ!やってよ!やって!やってよ!!」
「そう言われても……」
アヤは眉根を寄せた。
「あいつは三月地震の元凶なんだぞ!あいつを倒せば世界の雲は晴れるんだぞ!」
「――どうなっても知らないわよ!」
迷った挙句、アヤは思い切ったように右手を上げた。
「ミスティック!」
アヤの影からじわじわと黒い霧が這い出し、極光の女神の身体を包む。女神は霧を払おうとしたが濃密な暗い霧は彼女を締め付けるように全身に絡みついた。
「うっ」
ギーヴとマキシムが同時に苦痛の声を漏らして身体を折った。コルガーの全身にも倦怠感が広がり、今までいかに自分が女神の力を借りていたか思い知らされる。
女神は黒い霧に締めあげられながら苦しげに嘲笑した。
――愚かな子。私を倒せばギーヴとマキシムは死ぬわ。おまえも特別な力を失うでしょう。
コルガーは歯噛みした。女神を倒せばギーヴとマキシムが死ぬ。彼らは女神の力を借りて不老を保っているのだ。
――おまえ、ギーヴを愛しているんでしょう?愛する男と世界を天秤にかけたら、ねえ、一体どちらに傾くのかしら?
女神は怒りに満ちた目でコルガーを睨み、黒い霧を引きちぎって姿を消した。その途端、立っていられないほど大きく地面が揺れ始めた。その場にいた全員が床に倒れ込み、ステンドグラスが砕け散る。
「……世界のために女神を倒せば、俺たちは死ぬ。女神の結界も破れて、教会がヒベルニアへ押し寄せて来る」
マキシムが苦しげに言うとギーヴは首を振った。
「マキシム、それでもやらなくちゃ。やろう、俺たちの手で。彼女を拾って育てたのは俺たちなんだから」
「彼女を……あの子を倒して、世界に太陽を取り戻す……それしかないのか……」
揺れる床に手をつき、ギーヴとマキシムは顔を見合わせた。二人にとって、それは苦渋の決断だった。コルガーが彼らに飛びついたのはその時だった。
「だけどまだ、諦めるのは早いんじゃないか?」
コルガーは確信を持って繰り返す。
「まだ、諦めるのは早いんじゃないか?」
ギーヴもマキシムも目を丸くした。
コルガーは諦めたくなかった。世界を救いたい。けれど、ギーヴにもマキシムにも生きていてほしい。どちらも諦めたくない。三月地震以来、指の間からこぼれ落ちるものを見つめるように、いろいろなことを諦めて来た。でも、今度ばかりは諦めたくなかった。今度ばかりは欲張りたかった。
「そうだね。まだ諦めるのは早いよ、マキシム。女神を鎮める方法は、何かあると思う。ヒベルニアを護るためにも、彼女を倒すわけにはいかないよ」
ギーヴが頷くと、コルガーは身を起こした。
「オレ、謝って来る。どうにかして女神の怒りを鎮める。マキシムじいちゃん、彼女はどこにいると思う?」
ぐらぐらと揺れ続ける聖堂内で唯一、コルガーは立ち上がった。マキシムは眩しそうに曾孫を見上げ、それから静かに口を開いた。
「彼女は恐らく塔にいる」
マキシムが言い終わるやいなや、コルガーは身をひるがえして駆け出した。背後でアンジェラの声が聞こえた。
「私たちもここで祈りましょう」
外に出るとまだ夜明け前だった。緑の草原を走り抜け、コルガーは白い塔を目指した。