3.小舟の上の真実
嵐を抜け、ヒベルニアへ辿り着いたコルガーたちは、太陽の光が降り注ぐ入江に小さな漁村を発見し、村民の疑わしげな視線を浴びながら上陸した。野次馬の案内で村の長老を訪ねると、彼は六十年前の大行進の時に先陣を切っていたギーヴとアンジェラのことを覚えていた。乗組員を休ませる場所の提供とヒベルニア城への取次を請うと長老は快く承諾してくれた。
だが、彼らはすぐに村を出ることになった。彼らの船をつけていたロッキンガムの船が北に向かって航行していく姿を見て、それを追いかけることにしたのだ。
「恐らく、王が小陽島で祈りを捧げているのでしょう」
長老は小陽島という、聖堂と塔だけが建つ小島の名前と場所を教え、食料とヒベルニアの通貨を持たせて彼らを送り出した。小陽島に着くと案の定、沖にロッキンガムの船が浮かんでいた。
「あいつら、てっきりすぐに攻撃してくると思ってたのに」
小陽島へ上陸するための小舟を下す作業を手伝いながらコルガーはロッキンガムの船を睨んだ。メルセデス号はマストの先端を嵐にもぎ取られたというのに、ロッキンガムの船には一見したところ大きな損傷がない。きっと全員無事にヒベルニアへ辿り着き、今頃マキシムと対面しているのだろう。
「上陸した途端、待ち伏せに遭うかもしれないぞ」
小舟を下すコルガーたちの横でユアンが拳銃に弾丸を詰めながら言った。コルガーは彼に気づかれないようにユアンの表情をうかがう。頭の中に数日前に盗み聞いた彼の言葉がこだまする。
――おれを信用できないという気持ちは分かる。おれがいつ裏切るか、不安でたまらないんだろう?
あれは一体どういう意味なのだろう。
「こらコルガー、ぼけっとすんな!」
フレドリクソンに怒鳴られ、コルガーは我に返った。小舟を下すと、コルガーは船の漕ぎ手としてオールを渡された。清々しいくらいの男扱いにほっとしながら小舟に飛び乗ると、ギーヴ、アンジェラ、ヨイク、ユアン、ヒリールが彼女に続いた。全員が床に腰を落ち着けるのを確認してから、コルガーはゆっくりと小舟を漕ぎ始めた。ゆっくりといっても、怪力の彼女が漕げばかなりの速度が出る。
ぎしぎしと船がきしみ、ちゃぷちゃぷと波が音を立てる。狭い小舟に押し込められた人々は一様に黙りこみ、行く手に浮かぶ平坦な緑の島を見つめていた。コルガーは無心でオールを動かし続けた。何かを考えようとしても、緊張して思うようにいかなかった。
「上陸する前にはっきりさせておきたいことがある。よろしいですか、ギーヴ猊下」
ユアンが沈黙を破ったのは話声がメルセデス号に届かなくなった辺りだった。名指しされたギーヴは小陽島から書籍商へと視線を転じた。
「……何?」
「うかがいたいことは二つあります。まず、昨日のあれは何ですか?嵐の前に現れたあの――」
ユアンが言葉を選んでいる一瞬の隙にギーヴはああと無感動な声を漏らした。
「あれは極光の女神だよ」
ギーヴはいつも通りののんびりとした口調で応えた。ユアンは眉をひそめてちらりとヨイクの顔を見た。ヨイクも昨日の嵐の前に甲板に現れた女性について詳しく知りたいらしく、好奇心のこもった目で身を乗り出す。
「どういうこと?極光の女神って、クラシックの信じる神様の、四人の奥さんの一人よね?私たちの前に現れたあの人は、あれは本当に本物の女神なの?」
ヨイクの質問にギーヴはおかしそうに笑った。
「あっはっは!神だの女神だのが実在するわけないでしょう。彼女は自分のことを極光の女神だと思い込んでいる最上級の――悪魔だよ」
コルガーは耳を疑った。子供のころから日常的に力を貸してくれていたのは極光の女神だった。小舟を漕いでいる今でさえ、彼女の力を借りて怪力を出している。それが悪魔の力だったと思うと、極光の女神に対して抱いていた感謝の念はかき消え、騙されたという気持ちにすらなった。同時に、なぜ彼女がコルガーだけを助け、兄や妹を助けなかったのか合点がいった。神なら人々を平等に愛するかもしれないが、悪魔なら気まぐれやえこひいきもあるだろう。コルガーは気まぐれで彼女に愛されたのだ。
「パーシヴァルの悪魔アザゼルやアヤ・ソールズベリの悪魔ミスティックは彼女にとって同胞だって言ったでしょう。彼女は悪魔。俺とマキシムは悪魔の力を借りている。契約はしてないけどね」
平然と語るギーヴにヨイクが困惑したように首を傾げた。
「よく分からないけど、パーシヴァルやアヤは悪魔と契約をして彼らを使役しているんでしょう?極光の女神は何故、契約もしていない、しかも聖職者であるあなたたちに力を貸しているの?」
ギーヴは何故か微笑んだ。
「俺とマキシムは神の四人の妻を敬愛するクラシックの頂点だ。つまり、彼女が俺たちを助けるのは、俺たちの祈りや信心に対する正当な報酬なんだよ。彼女は自分のことを神の妻である極光の女神だと、本当にそう思ってる」
「それは極光の女神を信じるクラシックなら誰にでも力を貸すってこと?」
「そういうわけじゃないと思う。彼女の本質は悪魔だから、自分が気に入った、俺たちの血縁者にだけ特別な力を与えてるんだと思うよ」
ギーヴの説明にコルガーは小舟を漕ぎながら納得して頷く。
「オレもそうだと思う、オレは子供の頃から女神に助けられてるけど、クラシック教徒じゃないし、彼女に祈りを捧げたこともないよ。女神も言ってたけど、ばあちゃんとマキシムの血を引いていて、女神と同じ名前を持ってるってだけで女神はオレに力を貸してくれてた。つまり、全部彼女の気まぐれなんだよ」
ヨイクが考え込むように腕組みして黙るとギーヴが再び口を開いた。
「ヒベルニア以外の土地を雲で覆っているのも彼女の仕業だ。彼女にとって、これは四人の女神を歴史から抹消し、クラシックを弾圧した教会への復讐なんだよ、彼女は自分を蔑にした人間たちを恨んでいるんだ」
己を女神と思い込んでいる悪魔が世を恨んで世界を雲で覆った。コルガーはにわかには信じられず、空を仰いだ。頭上には夜明け前の暗い空が広がっていて、ふくよかな月と蒼い星々が輝いている。しばらくの間、誰もが黙りこんでいたが、とうとうユアンが落ち着かなげに言った。
「極光の女神が教会を恨んでいるとして、どうして彼女は今になって復讐を始めたんですか?教会にひと泡吹かせてやろうと思ったのなら、クラシックが多く殺された六十年前の大行進の時にやればよかったのに」
「それは俺にも分からない。……考えられるのはマキシムが焚きつけたか、女神が業を煮やしたか、それとも両方か……」
ギーヴは思案するように言い淀み、目を眇めて小陽島を見つめた。
「極光の女神を倒すの?世界の雲を晴らすために」
訊ねたのはヨイクだった。ギーヴは首を振った。
「悪魔とは言え、彼女には恩がある。それに彼女は強い。できれば穏便にことを済ませたい」
女神の恩恵で不老の身体を維持しているギーヴとしては、彼女を倒す気になれないのだろう。彼女の後ろ盾を失ったら自分がどうなるか、きっとギーヴは恐れているのだ。
「女神は祈りと信心の報酬として俺たちの言葉に耳を傾けてくれる。もし女神が現れたら、決して盾突くことなく祈ってほしい。そうすれば世界の雲を晴らしてくれるかもしれない」
「悪魔と言えば、ロッキンガムの悪魔にはどう対処したらいい?私は銃の通用しない相手とはお手合わせしたくないんだけど」
ヨイクは肩をすくめてユアンと顔を見合わせる。
「とりあえずこれで身を護って。そうしたら俺が倒す」
言いながらギーヴは聖水の小瓶を全員に配った。
「リプトン君、聞きたいことは二つあるんでしょう?もうひとつは何?」
ギーヴに問われ、ユアンはコルガーをじっと見つめた。頭からつま先まで舐めるように見られ、コルガーはぎくりとした。そういえば、極光の女神はコルガーのことを「私と同じ名を持つ愛しい娘、エド」と呼んでいた。女であることがバレているのかもしれない。コルガーが冷や汗をかいていると、ユアンは目を伏せて首を振った。
「いや、結構です。誰にでも暴かれたくない秘密のひとつやふたつ、あるでしょうし」
首をかしげているヨイクとヒリールの視線がコルガーとユアンの間を何度か行き来したが、小舟が小陽島に到着したため会話は打ち切られた。小舟を寄せ、上陸できそうな場所を見つけて六人は小舟を下りた。その時、ギーヴがユアンの肩をたたいて何か囁いているのが聞こえた。
「いい心がけだよ、坊や」
小陽島は起伏のない平らな島で、緑の草原の中心に聖堂と併設した修道院が建っている以外は少し離れたところに白い塔があるだけだ。ヒベルニア本島の目と鼻の先にありながら、ここは俗世とは切り離されているのだと漁村の長老が言っていた。
「早く行きましょ!」
好奇心の燃えたぎるヨイクが先陣をきり、六人は聖堂へ向かった。黄緑色の草原を強い風が吹き渡り、黎明の空には零れ落ちてきそうなほど大きな星々がきらりきらりと瞬いている。砂浜の波打ち際にはアイルランドやスコットランドからの漂着物がたくさん転がっていた。
コルガーは少し離れたところを歩くヨイクの横顔を盗み見た。彼女の青い瞳は明けの明星のように輝いていた。
「なあに?」
視線に気が付いて、ヨイクはコルガーを振り返った。コルガーは水平線に目を向けて微笑んだ。
「ヨイクを見てると、オレも夢を追いかけようって思えてくるよ」
「あら、コルガーの夢って、何なの?」
コルガーは胸を張り、訊ねるヨイクに破顔した。自分の人生を真っすぐに歩いて行くことこそが償いだとギーヴは言った。
「建築家になること!」