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ヒベルニアの極光  作者: 葉梨
第五章
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2.修道女の回想

シスター・アンジェラの回想中心です。

「お願い、帰って来てよ、マキシムが悲しんでるから」


 六十年前にアンジェラが家出した時、彼女を迎えにベルファストまでやって来たギーヴはそう言って情けない顔をした。アンジェラの家出の原因は些細なことだったが、林檎修道院を飛び出して既に三週間が経過していた。


「どうして私がここにいると?」


 果樹園で他の修道女たちと談笑しながら昼食をとり、食後の紅茶を飲みつつのんびりと寛いでいたアンジェラは敷布から立ち上がってギーヴの顔を凝視した。暖かい日差しが注がれ、果実の甘い香りに包まれたその場所は、ギーヴがいつも昼寝をしている林檎修道院の果樹園に似ている。


 目の前に立っているのは間違いなく、ギーヴだ。彼に瓜二つのアンジェラの夫マキシムではない。アンジェラはがっかりした。捜し当てられるような場所ではないことは分かっていたけれど、それでももしマキシムがアンジェラを迎えに来てくれたら、すべてを諦めて最後の最後まで彼と一緒にいようと思っていたのだ。


「……なんとなく、西の方に君がいるような気がしたから」


 アンジェラの落胆に気がついたのか、ギーヴは申し訳なさそうに目を泳がせながら応える。二人は紅茶を楽しんでいる修道女たちから離れ、小枝や雑草を踏みしめて春の果樹園の中をゆっくりと歩き始めた。


「誤魔化さないでよ。どうして私がこの修道院にいるって分かったの?」

「……それは、ええと、その」

「はっきりしてよ」


 アンジェラが問い詰めるとギーヴは悲しそうに眉根を寄せた。


「ひみつ」


 ギーヴが悲しそうな顔をすると、アンジェラまで悲しくなる。マキシムとアンジェラは夫婦の約束をし、互いに全幅の信頼を寄せているが、ギーヴとマキシム、ギーヴとアンジェラの間には、薄く透明で目には見えない、けれども強固な壁がある。ギーヴは何か重要なことを、アンジェラたちに隠している。


「ごめんね、本当はマキシムをこっちに来させようとしたんだけど、あいつったら俺の話も聞かずに大慌てで君の実家に向かっちゃって」


 アンジェラの実家はフランスの農村だ。道の整備もされていない山間の村なので、そこに辿り着くにはかなり骨を折るだろう。山に住みつく盗賊の類に命や財産を狙われる危険もある。今さらながら、アンジェラは自分の身勝手な行動を後悔した。


「……髪を梳いていたら白髪を一本見つけたの」

「え?」


 いきなり話題を変えたアンジェラに、ギーヴは首をかしげた。アンジェラは大きくため息を吐き出し、何かを吹っ切るように両腕を空に振り上げ伸びをする。


「もちろん一本きりよ、私、まだ十九歳なんだから。でもね、急に怖くなったのよ。マキシムは永遠に歳を取らないけれど、私はどんどん年老いていく」


 その事実を思い知らされた時、アンジェラは林檎修道院を飛び出していた。書き置きも言付けもなく突然行方不明になった彼女をどれだけの仲間が心配したことだろう。だけど、アンジェラはどうしてもマキシムのそばにいるのが不安になってしまったのだ。


「マキシムと一緒にいるのが怖いわ。これから自分がどんな悲しみに襲われるのか、どんな苦しみに苛まれるのか、怖くて仕方がない。私はその悲しみや苦しみに耐えられるのか、耐えることができず、心を醜くゆがませるのか」

「それが家出の理由?」


 アンジェラは正直に頷いた。見た目は少し年上のお兄さんという姿のギーヴだが、実際の彼の年齢は四十八歳だ。彼に何かを偽ったり誤魔化したりできるとは思わない。


「でも、もういいわ。覚悟を決めた。マキシムは私を許してくれるかしら」


 アンジェラがそう言って苦々しく微笑むと、ギーヴは緑色の目を慈しむように細めた。アンジェラは胸が高鳴るのを感じてギーヴから目をそらした。うぬぼれかもしれないが、夫の弟は自分に好意を抱いているのではないか。こんなところまで自分を迎えに来てくれたのも、マキシムのためだけではないのではないか。


「心配しなくても大丈夫。マキシムは君に弱いから」


 ギーヴは感情の読み取れない笑顔をつくり、手を伸ばしてアンジェラの肩にそっと触れた。



 その晩、ギーヴは修道院の世話になった。二人がフランス語で会話していたために他の修道女たちが勘違いしたのだろう、ギーヴはアンジェラの夫として歓迎された。二人が誤解に気が付いたのは、ギーヴの寝床を整えたと言って修道女がアンジェラの部屋へ彼を導いた時だった。アンジェラの部屋の空いているベッドに洗いたてのシーツと毛布がセットされているのを見て、アンジェラもギーヴも固まった。


「おやすみなさい」


 笑みを浮かべて立ち去る修道女を見送り、二人は仕方なく部屋に入った。別の部屋とベッドを改めて用意することもできたが、アンジェラはギーヴが嫌でなければ彼と同室でも構わないと言った。ギーヴも同じようなことを口にしたので、結局、二人はそのまま眠ることになった。


「明かり、消すわね」


 アンジェラに背を向けてギーヴが上着を脱ぎ始めたので、アンジェラは慌てて蝋燭の火を消した。カーテンの隙間から漏れる黄色い月明かりが床に落ち、目が闇に慣れてくると上着を脱いだギーヴの広い背中がくっきりと見て取れた。アンジェラは彼に背を向け、ギーヴが衣擦れの音を響かせて服を脱ぎ、寝台をきしませて横たわるまで、不可解な緊張と恥ずかしさに耐えて立っていた。


「おやすみ、アンジェラ」


 もぞもぞと寝返りをうち、枕の位置を調整するギーヴの気配を感じながら、アンジェラはほっと息をついて自分のベッドに入った。毛布の中で服を脱ぎ、四肢を伸ばす。押し寄せる疲労感が有難かった。もしも疲れていなければ、緊張して眠れなかったかもしれない。


「おやすみなさい、ギーヴ。――今日はありがとう、迎えに来てくれて嬉しかったわ」


 アンジェラは目を閉じた。ゆっくりと意識が沈みこんでゆく。眠りに落ちる瞬間の、まるで温かい腕に魂を抱きしめられるような感覚に、アンジェラは神々の存在を思う。きっと、死の瞬間さえ、神々はこうして彼女を抱きしめてくれるだろう。


「アンジェラ」


 アンジェラが夢の世界に入りかけた時、ふと、額に何か生温かいものが触れた。それはすぐに離れ、今度は瞼に触れた。右頬に触れ、左頬に触れ、顎に触れる。アンジェラは目を開けた。


「マキシム……?」


 寝ぼけ眼でつぶやいてから、アンジェラは自己嫌悪に駆られた。月光に照らされたギーヴが、叱られた子犬のような顔で表情をゆがませたからだ。ここにマキシムはいない。アンジェラを迎えに来たのはギーヴなのだ。


「ギーヴ?」


 アンジェラは肘をついて身体を起こし、下着しか身につけていない胸元に毛布を引き寄せた。腰から下は見えないがギーヴは裸だった。彼はアンジェラのベッドの横に跪いている。アンジェラは顔がかっと熱くなるのを感じて目を伏せたが、ギーヴの太い首や厚い胸板やがっしりとした肩の形が瞼の裏から離れない。それはマキシムに似ているようで、やはり別人のものだった。


「ギ、ギーヴ、失礼でしょう、話があるなら服を着て!」


 アンジェラの抗議の声はギーヴに届かなかった。ギーヴは長い手を伸ばしてアンジェラの肩をつかむと彼女を抱き寄せた。ギーヴの素肌の胸に頬が触れ、アンジェラは混乱した。彼はさらに腕を伸ばしてアンジェラの背中に両腕を回し、強い力で彼女を抱きしめた。


「痛い、苦しいわ、ギーヴ、やめて」


 身体が痛いのか、胸が苦しいのか、アンジェラは抱きつぶされながらギーヴの長い髪を引っ張った。彼は腕の力をわずかに緩めたが、今度は首を曲げてアンジェラの唇にキスをした。


「ごめん、アンジェラ、ごめん」


 唇を触れ合わせたまま、ギーヴが熱に浮かされたようにつぶやく。


「お願いやめて、ギーヴ」

「ごめんね、許して」


 謝罪の言葉を繰り返し、ギーヴはアンジェラの身体を抱きしめ続けたが、彼の頬に涙の筋が光っているのを見つけて、アンジェラは動けなくなってしまった。ギーヴが悲しそうな顔をすると、アンジェラまで悲しくなる。彼が泣いていると、自分まで泣きたくなる。アンジェラは目を閉じた。彼の顔をこれ以上見つめ続けたら、このまま抱かれてもいいとさえ思ってしまうかもしれない。


「許して、アンジェラ」


 ギーヴの熱い吐息と欲望に取り付かれたような上ずった声が彼女の身体に静かな火を放つ。彼女は彼の身体を押し返すことも抱きしめることもできず、彼の口づけを受け続けていたが、やがて背徳感に駆られてとうとう意を決した。


 アンジェラはギーヴの唇を指先でつまんだ。ギーヴは驚いたように目を丸くして、濡れた睫毛を何度か上下させた。自然と彼の腕の力が緩んだ。


「ギーヴ、あなた、夕食でお酒を飲んだでしょう」


 ギーヴの唇から指を離し、アンジェラは冗談めかして彼を睨みつけた。腰に手を当て、怒ったようなポーズをとる。我に返ったのか、ギーヴはアンジェラから身体を離し、驚いた顔のまま彼女をじっと見つめた。


 アンジェラはにっこりと微笑んだ。


「全部、お酒のせいよ。あなたは本当にお酒に弱いんだから」



 林檎修道院へ帰り着くまでは教会や修道院で寝泊まりしながら夜を過ごしたので、アンジェラとギーヴが寝室で二人きりになることはもうなかった。ギーヴもそれを避けていたようで、街の宿屋に泊ることになった晩はわざわざ安宿を選び、男女別の大部屋で他の旅人たちと雑魚寝した。


 懐かしいフランスに戻り、林檎修道院へ帰って来ると、アンジェラは仲間の修道士たちに快く迎えられた。マキシムもアンジェラの実家の村から戻ったばかりだと聞き、アンジェラは荷物を寝室に置くやいなや、厨房でマキシムの好きなコーヒーを入れた。豆を引きながらマキシムにどう謝ろうかと思案したが、いざ彼の書斎に足を踏み入れると何もかも忘れてしまった。マキシムは開け放された扉に背中を向けて本を読んでいた。アンジェラは彼がどんな顔をしているのか知るのが恐ろしくて、なるべく時間をかけて彼に近づき、コーヒーを机の上に置いた。


「ただいま」


 本から顔を上げ、マキシムは白い湯気の立ち上るコーヒーに目を止めた。彼の視線はすぐにアンジェラに向かった。


「ありがとう」


 マキシムは怒るでもなく静かに言った。


「あなたがそう言ってくれるなら、コーヒーなんていくらでも入れるわ。何杯でも、何杯でも」


 なぜだか泣きたくなって、アンジェラは唇を噛んだ。マキシムはアンジェラの頬に手を伸ばし、硬い指先でそっと触れた。


「あなたは私を責めないの?」

「君は何も悪いことをしていない。悪いのは俺だ」


 力強く微笑むマキシムに、アンジェラは首を振った。とうとう涙がこぼれた。


「あなたこそ、何も悪いことをしていないわ。私が自分のことしか考えてなかったのよ」


 マキシムが立ち上がってアンジェラを抱きしめる。夫の胸に頬を寄せ、彼の匂いを胸一杯に吸い込むと、アンジェラは泣きわめきたいほどの幸福を感じた。アンジェラを責めるどころか、マキシムは家出の理由さえ訊ねなかった。この道の先に何があったとしても、マキシムは彼女の不安や悩みを理解し、受け止めてくれるに違いない。ずっとずっと、限りない愛情で互いの胸を満たし合っていける。


「そうだとしても、帰って来てくれて嬉しいんだ。だから、ありがとう」


 その時、アンジェラは胸に誓った。すべてを諦めて、最後の最後まで彼と一緒にいようと。どこまでも、いつまでも、何があっても――。






 アンジェラはうたた寝から目覚めた。目を開けると曾孫のコルガーがベッドの横に立っていた。


「ばあちゃん、そろそろ上陸するって」

「あら、私ったら」


 起き上がろうとして、アンジェラはそれをやめた。起きようとしても起き上がれないのだ。身体が石のように重い。


「ばあちゃん?どうしたの?」


――神々よ、私にもう少しの間、力を貸して下さい。私には、まだやり残した仕事があるのです。


 口の中で祈りを捧げると、すっと身体が持ち上がった。


「あいたた、首を寝違えちゃったわ、先に行ってちょうだい」


 コルガーが出て行くと、アンジェラは時間をかけて身体を起こし、手早く身支度を整えた。髪を撫でつけようと壁にかけた小さな手鏡をのぞき、そこに映る年老いた自分の蒼白な顔にどきりとする。その顔の真ん中の茶色の瞳だけがきらりと生命力を放っていて、まるで、生に取りつかれている屍のように思えた。アンジェラは荷物の中から化粧道具を取り出し、頬と唇に薄く紅をのせて甲板へ向かった。


「やめて下さいよー!オレ、こう見えてすっごい怖がりなんだから!」

「あっはっは!俺だって怖がりだよ?でもね……」


 夜明け前の暗い空の下で、彼女の曾孫と夫の弟が声を上げて笑っている。二人は顔を見合わせて笑いながら、海に身を乗り出すように船の手すりに並んで寄り掛かっている。仲むつまじい二人の後ろ姿は胸が苦しくなるほどの懐かしさと、小さな寂しさと、わずかな羨望を感じさせた。


「あ、ばあちゃん!」


 コルガーがはじけるような笑顔で振り向いた。三月地震で家族を亡くしたばかりの彼女を引き取った時、アンジェラはもう二度とコルガーの笑顔を見られないのではないかと思っていた。



 風のない静かな夜更けに、コルガーが妹の遺体を抱いてウイスキー修道院にやって来た時のことをアンジェラは今でもはっきりと覚えている。妹の遺体を壊れもののようにそっと礼拝堂の床に横たえると、顔の筋肉を微動だにせず、コルガーは祭壇に向かって跪いた。素朴な礼拝堂に死臭が漂い、手指を組み合わせて祈りを捧げ続けるコルガーの姿は常軌を逸した儀式のようにも見えた。何を祈っているのか、コルガー自身も分からなかったことだろう。


 夜明け前、二人は遺体を修道院内の墓地にひっそりと埋葬した。コルガーの父や兄はすでに貴族の共同墓地に葬られている。墓地を管理する者もいないので、兄と同じように妹をそこへ埋葬することもできたが、そのためには彼女の遺体を他人の目にさらさなければならない。コルガーはきっとそれを嫌がるだろうとアンジェラは修道院の墓地の提供を申し出た。


 月も星も見えない真っ黒な闇の中、スコップで土をすくっては放り投げ、すくっては放り投げ、かわいそうな妹を埋めるための穴を掘りながら、少女は嗚咽を押し殺し、歯を食いしばって泣いた。静かな夜に響くざくりざくりと土をかく音を聞いていると、まるで傷ついた少女とこの世に二人きりになってしまったような気持ちがした。


「――もう、生きて行く意味が分からない」


 ようやく墓穴を掘り終えると、コルガーは妹の遺体をゆっくりと穴の中に横たえたが、妹の身体に土を被せるのをためらうように、彼女は静かに穴を見下ろしていた。


「この手で妹を土の中に埋めて、それでも生きなければならない理由が分からない」


 泥だらけの両手で顔を覆い、コルガーは慟哭した。それは孤独なオオカミの悲痛な叫びのようだった。


「これが夢でなくて現実なら、現実なんて、消えて無くなった方がいい!これが世界なら、わたしは世界なんて要らない!こんなわたしなら、わたしはわたしさえ要らない!」


 八十年も生きていれば、様々な災難に遭う。大切な人の死、愛するものとの別れ、貧困、病。それらに直面しては乗り越えてきたアンジェラと、まだ世の中を知らない無垢な少女の経験値の落差は大きいが、アンジェラさえ、少女のような目に遭ったことはなかった。どんな言葉をかけてやるべきか、アンジェラは逡巡してから口を開いた。


「人が何のために生まれ、何のために生きるのか、それは神々さえ分からないわ。それでも人が死んではいけないのには理由があると思うの」


 アンジェラはコルガーの肩にそっと触れた。小刻みに震える氷のように冷たい身体は硬く、まるで穴の中に横たわる遺体のようだった。だが、少女の身体には静かに、けれど確かに血が通っている。――マキシムとアンジェラの血だ。


「あなたは今、自分をこの世に繋ぎとめるものを全て失ったと思っているかもしれない。だけど、それはまだまだこの大地のどこかに必ず眠っている。それは決して数多くはないかもしれないけれど、だけど――探しなさい」

「……わたしを、この世に繋ぎとめるもの?」

「そうよ。例えば、私はどう?私があなたの曾祖母だと言ったら?」


 コルガーの見開かれた虚ろな瞳に小さな光が宿るのが見えた。


「私は修道女だけど、六十年前に子供を一人産んだの。それがあなたの祖父のミシェルよ」


 アンジェラは実の息子にさえ、自分が母親だと告げなかった。ミシェルは死ぬまでアンジェラのことを母親の姉だと思っていた。その秘密をコルガーに明かしたのは、すべての肉親を失ったと思い打ちひしがれている彼女を慰めるためではあったが、修道女でありながら身ごもり、私生児を密かに出産したアンジェラのことを彼女なら責めたりしないだろうという確信があったからだ。そして、万が一アンジェラが教会の教えに異を唱えるクラシック教徒だと知っても、コルガーならそれを冷静に受けとめるだろうと思ったのだ。


「シスターが、わたしの曾祖母?」


 大きな茶色の目でじっと見つめられ、アンジェラは微笑んだ。するとコルガーは縋りつくようにアンジェラの背中に両手をまわし、彼女の胸に顔を押し付けてきた。赤ん坊のような仕草は愛らしく思えたが、本来は自立心の強い勝気な少女が弱りきっていることを思い知って、アンジェラは少女の背中を力いっぱい抱きしめた。


「いくら絶望しても、いくら悲しみにくれてもいい。頑張らなくてもいいし、無理に立ち上がる必要もないわ。だけど死んでは駄目よ、エド」


 数日後、教会が死亡者のリストを作成すると発表し、市民は家族の死亡届を提出した。コルガーが自分と妹の死亡届を出し、兄の名を名乗って建築現場で働き始めたのはその少し後のことだった。




「もう、聞いてよばあちゃん!猊下がさあ!」


 アンジェラの意識はメルセデス号の甲板に引き戻された。コルガーがギーヴの隣を離れ、アンジェラの元に駆け寄って来る。


 あの時、生きて行く意味が分からないと泣いていた少女が、今、こうして幸福そうに笑っている。己をこの世に繋ぎとめるほど愛しいものは多くない、けれどそれは必ずある。そう言って励まし、彼女を生かしたのはアンジェラだった。


「アンジェラ、おはよう」


 ギーヴもアンジェラを振り返り、彼女に近寄って来る。アンジェラはふいに泣きたい気持ちになって、彼らに向かって笑みを浮かべた。


 この世には、なんて愛しいものがあることだろう。


 死が訪れた時、神々は彼女の魂を温かく抱きしめてくれる。けれど、それと引き換えにこの愛しい人々の手を放すのはあまりに辛すぎる。


「おはようございます、猊下」


 神々よ、もう少しだけ私に時間を下さい。


「おーい、コルガー、ちょっと手を貸してくれ!」


 フレドリクソンに呼ばれてコルガーが走り去ると、アンジェラはその躍動的な背中を目で追った。どんな苦難も乗り越えられる、小さいけれどたくましい背中だ。


「あれだよ、アンジェラ。あれがマキシムのいる島」


 ギーヴが長い指でさした小島は平坦な緑の大地に白い聖堂と小さな塔をのせている。だが、そこにマキシムがいると言われても、アンジェラは実感がわかなかった。彼に会うためにここまで来たというのに我ながらおかしな話だ。


 アンジェラはギーヴを見上げた。彼も落ちつかない様子で顔をしかめている。


「マキシムは私を許してくれるかしら」


 どこまでも、いつまでも、何があっても、最後の最後までマキシムと一緒にいようと、自分の胸に確かに誓った。だが結局、アンジェラはマキシムと離れる道を選んでしまった。もちろん、それはマキシムやクラシックのためにした苦渋の決断ではあった。


「心配しなくても大丈夫。マキシムは君に弱いから」


 六十年前に交わした言葉を繰り返しながら、ギーヴは気まずそうに眉をひそめた。


「ねえ、ひょっとして、まだ怒ってる?六十年前のこと」

「怒ってなんかないわ。青春時代の、懐かしくて大切な思い出よ」


 家出から戻って間もなく、アンジェラは妊娠した。もしもギーヴと過ちを犯していたら、身ごもった子供の父親は誰なのかと一生悩み続けたことだろう。あの程度で済んで良かったと思えば怒る気はしないし、夫以外の男性から愛情を寄せられ、背徳のひと時を過ごしたことは、慎ましい修道女の女としての自尊心を少なからずくすぐったものだ。


「女の人の心って分からないよねえ」


 しみじみと呟き、ギーヴは小島に視線を転じた。メルセデス号は接岸するポイントを見極め、小島にどんどん近づいていく。


『帰って来てくれて嬉しいんだ。だから、ありがとう』


 六十年前、家出から戻ったアンジェラにマキシムはそう言ってくれた。彼が再びそう言って微笑んでくれることを祈りながら、アンジェラは静かに胸に手を当てた。


いつもありがとうございます!


次回の更新は12月24日(土)です。

クリスマスイヴ!

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