1.ヒベルニア王マキシム
どこからか歌声が聞こえていた。
「過ぎた日々はただ懐かしく
振り返ることしかできないけれど
ただ心だけで この心だけで
私はあなたのもとへ飛んでゆく」
アヤは身体を起こして暗い船室を見回した。数少ない小さな窓からは青白い月光が差しこんでいて、この土地の雲が晴れていることに何度目かの感動を覚える。日中に浴びた太陽の光が恵みなら、月や星の光は癒しだ。
「勝手に出歩くな」
パーシヴァルの低い声が反対側の壁際から聞こえた。ロッキンガムの商船には個室などないので、同じ部屋の離れたところに二人の男が毛布を被って転がっている。鼾をかいているジャックはもちろん、パーシヴァルも眠っていると思っていた。
「外の空気を吸いに行くだけよ」
アヤはパーシヴァルをじろりと見下ろし、扉を開けて甲板に出た。濃紺の夜空いっぱいに月と星が降るように輝いていて、うんと手を伸ばせば星ひとつくらいもぎ取れるような気がした。下弦の月と満天の星はあまりに明るく、アヤのすらりとしたシルエットが甲板にくっきりと濃い影を落とした。
「愛を告げる勇気も 己の非を認める強さも
運命に立ち向かう覚悟もなかった
あなたが許してくれるなら
他にはもう何もいらない」
アヤは甲板の手すりに寄り掛かり、目と鼻の先に見える小島を眺めた。その島はヒベルニア本島から五百メートルほど離れた沖に浮かぶ平らな島で、豊かな緑に覆われていた。人々の生活から隔離された聖域のようにも見えた。歌声はその小島から聞こえていた。
「ただ心だけで この心だけで
私はあなたのもとへ飛んでゆく」
静かな夜だ。歌声以外は穏やかな波の音しか聞こえない。アヤは目を閉じた。
「この心だけで この魂だけで
あの場所へ あの時へ あなたのもとへ」
ああ、この声はギーヴ・バルトロメの声に似ている。ベルファストのウイスキー修道院でアヤを見逃してくれた男の声。まるでクリームかチョコレートのように低く甘く優しく、それでいて眠れる獅子のようなたくましさを備えた雄々しい歌声だ。
「……ヒベルニア王?」
アヤははっとして目を開いた。まさか、これはギーヴの兄であるヒベルニア王マキシムの歌声なのだろうか。
「だろうな」
いつの間に隣にパーシヴァルが立っていた。すっかり身支度を済ませ、起きぬけとは思えない鋭い目つきで小島を睨んでいる。
「ようやく月が昇った。小舟を下せ、上陸する」
ロッキンガムの商船はギーヴたちに続いてヒベルニアへやって来ると、すぐに針路を北東の離れ小島に向けた。パーシヴァルの悪魔アザゼルが、極光の女神の居場所がこの小島であると突き止めたからだ。
一方、ギーヴたちはどうやらどこかの小さな漁村に入港したようだった。ヒベルニア王がこの小島にいることを知らない彼らは、今頃ヒベルニア王の居城でも目指していることだろう。
「了解。船員を起こすわ」
アヤとジャックとパーシヴァルは一言もしゃべらず小舟を漕いでそっと小島に近づいた。緑に覆われた小島の中央に白い石で建築されたルネッサンス様式の建物があった。聖堂のようだ。大きな窓がいくつもある。
「あれは何だろうな」
小舟を岩場に泊め、岩壁をよじ登って島への上陸を果たすと、腰上丈の草が覆い茂る野原の向こうに白い塔が立っていた。岬に立つ灯台のようにも見えるが、その割に宗教的な雰囲気が漂っている。
『あたし、いつか絶対ヒベルニアを見つけるの!楽しみにしててね、ばあや!』
ふと、子供の頃のアヤが大人になったアヤの目の前を笑いながら横切ったような気がした。アヤは額を抑えるふりをして小さく苦笑した。
――ばあや、私は今、あなたが焦がれていたヒベルニアにいるわ。あなたがずっと憧れていたマキシム・バルトロメのそばに。
アヤは感慨深く辺りを見回した。風が吹きわたり、草原が波のように揺れ動く、ここはなんて穏やかで平和な土地なのだろう。
「あの聖堂か、あの塔か、ヒベルニア王がいるのはどちらかだろうな」
パーシヴァルの声にアヤは我に返った。ヒベルニア王の歌声は途絶えている。
「二手に別れましょう。私は聖堂へ行くわ。パーシヴァルは塔へ。――ジャックは舟を見張っていて」
「え、俺、見張りぃ?」
ジャックの抗議の声を無視してアヤは聖堂へと歩き出した。平坦な緑の島に君臨するかのような聖堂は月や星の光を浴びて佇んでいる。どうしてか、ヒベルニア王マキシムがいるならこちらだとアヤは思った。
草をかき分けて大股で歩きながら、アヤは育ての祖母を想った。ヒベルニアへ辿り着いたことでアヤの目的は半分果たされた。もしも祖母なら今後どのような身の振り方をするだろう。考え始めると、答えは簡単に導き出せた。
「三月地震の原因がヒベルニア王にあるのなら彼の間違いを諌めて世界の雲を晴らし、彼とヒベルニアとクラシックを守る」
アヤは掌に爪が食い込むほど拳を握った。パーシヴァルはヒベルニア王から気象兵器を奪おうとしている。彼を止めなければ。
聖堂の扉は装飾の細かい青銅で作られていた。クラシックの崇める四人の女神の物語が絵巻物のように彫刻されていたが、アヤは彼女たちの逸話を一つも知らなかった。祖母は自分の信仰をアヤに押し付けることをしなかったのだ。
扉は人が一人通れるだけの隙間を残して閉ざされていた。アヤは足音を忍ばせてそっと扉に近づき、恐る恐る中を覗いた。
そこに、まだ見ぬヒベルニア王マキシムがいた。
聖堂の内壁や天井には白い雲がたなびく真っ青な空が描かれていた。そこに、四人の女神と一人の男神、何十人もの天使が浮遊している。描かれているのは神が太陽や月や星を持ち上げて空と大地を切り離し、この世界を創り上げたという最も有名な場面だ。それはエディンバラ教会の教えとも合致するのでアヤも知っていた。教会の教えと異なるのは四人の美しい女神の存在だ。
入り口の正面に大きなステンドグラスがあった。原色のガラスで描かれたケルトの組み紐模様は青白い月光を鮮やかな色どりへ変え、聖堂の床や説教台や長椅子を飾りたてている。
ヒベルニア王マキシムは、その色鮮やかな光の中に跪き、静かに祈りを捧げていた。
彼のまとった純白の法衣の上にステンドグラスの光がきらきらと舞い降り、まるで光に祝福されているようだとアヤは思った。背中で束ねた長い金褐色の髪も、長身でがっしりとした体躯も双子の弟のギーヴ・バルトロメにそっくりだった。ギーヴ同様にマキシムの肉体も実年齢より遥かに若く、三十代の男に見えた。
「誰だ?」
息を潜めてマキシムに見入っていたアヤを突然彼が振り向いた。アヤは口元をおさえ、飛び出しそうになった悲鳴を飲み込んだ。どくどくと血液が音を立てて全身を駆け廻る。
「……ヒベルニア人ではないな」
マキシムはフランス語でつぶやき、膝を払いながら立ち上がった。彼はゆっくりとアヤに歩み寄り、ステンドグラスの光の外に出た。アヤは逃げ出すことも彼に近づくこともできずに立ち尽くしていた。
――これが、ヒベルニア王マキシム。
「ここで何をしている?どこから来た?」
マキシムは今度は英語で言った。彼の秀麗な目鼻立ちや緑色の瞳はギーヴそのものだった。音楽のような声も、どこかおもむろな立ち居振る舞いも。だが、柔和で穏やかなギーヴとは明らかに表情が違う。マキシムは氷のように冷たい視線をアヤにそそいでいた。
「私は……リヴァプールから来ました」
アヤも英語で応えた。マキシムの瞳から目をそらせなかった。
「イングランド人か」
マキシムは互いの手が届きそうな距離までやってきて足を止めた。彼は聖堂の入り口で立ち尽くすアヤを無表情に見下ろし、翡翠色の目を眇めた。
「おまえ、悪魔を飼っているな。エディンバラ教会の関係者ではないようだが、なぜ悪魔など連れてヒベルニアくんだりまでやって来た?」
アヤは握った拳を自分の胸に当て、ここへ一人で来たことを後悔した。底知れぬ恐怖が足元から忍び寄って来るような、マキシムに何もかも見透かされているような、そんな気がしたのだ。
「そ、育ての祖母がクラシックで、祖母はクラシックの大行進にも参加しました。あなたのことをとても慕っていて、息を引き取る最期の瞬間まで、あなたの治めるヒベルニアの地を踏みたいと口にしていました……だから、祖母の果たせなかった望みを私が代わりにと……」
アヤがしどろもどろに答える間中、マキシムは口をつぐんでいた。
「あなたがヒベルニアへ旅立つ時、祖母は大怪我をしていたんです。でも、祖母はそれが治ったらシスター・アンジェラたちと共にヒベルニアへ向かう気でいました」
まるで催眠術のようだ。アヤの舌は勝手に動き、ぺらぺらと細かな事情までマキシムに話している。
「それに、あなたにお訊ねしたいことがあるのです。世界中が雲に覆われているにも関わらずヒベルニアにだけ太陽が照っているという話を聞いて、エディンバラ教会や列強国、豪商たちはヒベルニアに気象兵器があるのではないかと騒いでいるのです。そんなものは本当に存在するのですか?」
ようやくマキシムが応えた。
「はっはっは!!気象兵器か!!それはいい!!はっはっは!!」
楽しそうに嘲笑してマキシムは腹を抱えた。ばかばかしくて仕方がないという風だった。ひとしきり大笑いすると、マキシムは唇の端を上げた。
「それに近いものはある。いいや、『いる』」
「いる?」
アヤがさらに問いかけようとした時、マキシムの目がはっとしたように見開かれ、彼の顔色が一変した。それは喜びや怒りがないまぜになったような表情だった。
「時が来たよ、女神」
マキシムはつぶやくと、ステンドグラスを見上げて両手を組み合わせ、鮮やかな光の中で再び跪いた。