10.極光の女神
ヨイクはじっと西の地平線を睨んでいた。甲板には冷たい風が吹いていて、ヨイクの身体は氷のように冷たくなっている。幾度も休憩をはさみながら、ヨイクはもう十時間以上そこに立っていた。一年で最も長い夜の終わりが近づいていたが、船をヒベルニアへ導く海流は一向に現れない。日暮れから宵にかけては、わくわくと瞳を輝かせた仲間たちが甲板で海流の出現を待ち受けていたが、いつまでたっても海に変化がないため日付が変わる頃には皆船内へ戻ってしまった。今甲板にいるのはヨイクとコルガーだけだった。
隣に立つコルガーがコートの中の上着に手を突っ込み、懐中時計を取り出した。銀色の蓋を開けると、針は朝の七時過ぎを指していた。夜明けまで、あと二時間あまり。
「なんて夜が長いんだろ」
はあああと大きなため息をつき、コルガーは手袋をした指先で時計の蓋を撫でる。寒そうにしているが、船内に入る気はないようだ。
「年季の入ったいい時計ね」
ヨイクは焦る気持ちを抑え、コルガーに顔を向ける。少年は唇の端を上げた。
「我が家に伝わる魔法の時計」
「魔法の時計?」
ヨイクは笑ったが、寒さでこわばった頬はうまく動かなかった。
「親父がおふくろにプロポーズした時、周りから猛反対されたんだって。うちの親父は名ばかりとはいえ男爵、おふくろは一般庶民、とても一緒にはなれない。しかも親父には婚約者がいた」
婚約者という言葉にヨイクはぎくりとした。
「結局、親父は婚約を解消できずに貴族の女の人と結婚した。だけど、親父とおふくろは揃いの時計を買って、こっそり教会に行って神様に祈った。『どうかこの人と同じ時間を歩ませて下さい』って。そうしたら、おふくろが兄を身ごもって、周りの人たちも親父とおふくろのことを認めてくれたんだってさ」
「いい話じゃない。私、好きよ」
コルガーはヨイクの短い返事から彼女の気持ちをくみ取ったのか、まるでギーヴのように柔らかく微笑んだ。
「大丈夫だよ、ヨイク。ヒベルニアへ向かう海流はきっと現れる」
ユアンもギーヴも操舵室へ戻る際、そう言ってヨイクの肩を叩いたが、コルガーにかけられた同じ言葉はヨイクの心にしっとりと沁み込んだ。不思議と信用に値するような気がした。
「夜明けが来ても 西を向いていればまだ夜だ
朝が来ても 目を閉じていれば真夜中だ」
突然、コルガーが歌い始めた。聞いたことのない歌だった。
「もし 太陽が昇らなかったら
東へ向かって走ればいい
僕と 世界の夜明けを見に行こう
夜の向こうには朝が
暗闇の向こうには光が
混沌の先には希望が
必ず僕らを待っている」
ヨイクがぽかんとしていると、コルガーは照れたように頭をかいた。
「子供の頃、親父に連れられて観に行ったオペラに出てきた歌だよ」
混沌の先には希望が待っている。ヨイクはその言葉を噛みしめ、コルガーの声に耳を傾ける。少年はヨイクを元気づけるように明るい声色で続けた。
「あのさ、オレ、三月地震で家族をみんな亡くしたんだ。だから九ヶ月前は、目の前が真っ暗で、その先の人生もずっとずっと真っ暗で、もう二度と楽しいことも嬉しいことも起こらないと思ってた。ギーヴ猊下と出会って故郷を出ることも、民話学者のヨイク・アールトと一緒に旅をすることも、君とこんな風に並んで話すなんてことも、全然、想像もしてなかった。だけど、オレは今、間違いなくここにいる。あの時は想像もしていなかったことが、現にここで起こっている。きっと、人生ってさ、本人の想像を上回るところにあるんじゃないかな」
コルガーは力強く言って笑い、暗い西の水平線を見つめた。
「今は見えなくても、必ず希望はあるんだ。喜びも、幸せも。きっとそうだ」
「あ!見て、ヨイク!」
コルガーが歓喜の声と共に北の空を指したのは八時半を過ぎた頃だった。灰色の雲から緑色の光が漏れている。極光だ。ヒベルニアが近いせいか、この辺りの雲は薄いようだ。
「まあ!きれい!」
ヨイクが両手を顎の下で組み合わせた時、雲間から覗いていた緑色の極光がゆっくりと空を縦断し、海にぽとりと落ちてきた。形も大きさも人間そのものだった。
「……え?」
ヨイクとコルガーは目を疑った。口を開けてお互いの顔を見る。
「今のって……うえ!」
船が傾き、コルガーはヨイクを抱えて船の手すりから離れた。ヨイクはコルガーにしがみつき、急に荒ぶり始めた海面を見下ろした。頭上では雷が轟き、突然車軸のような雨が降り出した。風がごうごうと音を立てて吹き始める。時が来たのか。ヨイクは生まれてこの方、こんなに高揚したことはなかった。そして、こんなに恐れ慄いたことも。
「これは私の想像の範疇を越えるわ」
ヨイクは自嘲気味に笑い、平気な顔で辺りの様子を眺めているコルガーを大した玉だと感心する。グラスゴーで初めて会った時から、ただ者ではないと思っていたけれど。
「コルガー!ヨイク!」
操舵室からギーヴが走って来る。スピードが遅いとはいえ彼が走るのはよほどの有事だけだ。ギーヴの後ろからはユアンとヒリール、アンジェラもやってくる。皆ひと眠りして身支度を整えていたようだ。誰かが警鐘を鳴らすと、あちこちから船員が起き出してきて全員が持ち場についた。
「これは、いよいよってことよね!」
ヨイクが期待を込めてギーヴに訊ねると、ギーヴは神妙な顔で空を仰いだ。
「たぶんね。フレドリクソン、錨を上げて!」
長い髪を乱してギーヴが叫び、フレドリクソンが部下に指示を出す。錨が上げられ、帆が張られ、船はみるみるスピードを上げて走る。
「すごい!これがヒベルニアへ続く海流なのか?!」
少年のような笑顔で船の舳先に身を乗り出し、ユアンが感嘆する。それはあの夜、ヨイクを抱きしめて口づけした男とは思えないほど子供っぽく、冒険小説が好きな彼らしい姿だった。
「――彼女が来てる」
ぎしぎしと音を立てて突っ走る船の上で、ギーヴがぽつりと言った。それは強風にかき消されそうなほど小さなつぶやきだった。
「彼女?」
ヨイクがギーヴに訊ねた時、見渡す限りの海面が淡い緑色に輝き、地平線まで昼間のように明るくなった。まるで、船が緑の光の上を航行しているようだった。
「正直、信じてなかったぜ、ヒベルニアへ続く海流なんてよ。常識的に考えて、ありえねえ。だが、これじゃあ、ヒベルニアへも続いてるわなあ」
情けない顔でフレドリクソンが笑い、他の船員たちも夢でも見ているような顔つきで船を操っている。アンジェラは悠々と風を受けて目を細め、気持ち良さそうにしている。その隣ではヒリールが身を固くして辺りの様子をうかがっていた。
「驚くのはまだ早いかもしれませんよ、船長さん、みなさん」
言いながらアンジェラが指したのは風を切って疾走する船の行く手の海面だった。ぼんやりとした緑色の塊が揺れる波の上に浮かんでいる。それは人の形をした光だった。
「人だ!面舵!よけろ!」
フレドリクソンが操舵室に怒鳴ったが、人の形をしたものは船がよけるより速く宙に浮かび上がり、放物線を描いて甲板に着地した。コルガーはその人型の緑色の光を凝視し、なんて美しいのだろうと思った。
光は薄布のドレスをまとった長身の女性で、足首まで届く長い金髪を裸に近い官能的な肉体にさりげなく巻きつけていた。彼女は慈悲深く美しい瞳を一同に向け、最初にアンジェラに目を留めた。
――アンジェラ、天使の名を持つ娘よ、よくぞ私の元に戻ってきました。
瑞々しい唇からこぼれおちたのは鈴を振るような声だった。女のコルガーでさえどきどきしてしまうような色のある声だ。
アンジェラは甲板にさっと片膝をつき頭を垂れた。
「再びお目にかかれて光栄です、極光の女神」
――おまえも年を取りましたね。あれからどれほど時が経ったのでしょう。
「六十年だよ」
答えたのはギーヴだった。極光の女神ははっとしてギーヴを見つめ、それから眉をひそめて首を振った。それはまるで昔の恋人に再会したような、甘く切なく苦しげな顔だった。
――ギーヴ、おまえに言うことはありません。
ギーヴは憐れむような目で極光の女神を見つめた。
「こんなに遅くなったことを怒っているなら謝るよ。ごめんね、エド」
謝罪するギーヴに目もくれず、極光の女神はヒリールとコルガーに歩み寄った。二人ともびっくりして身を固くし、直立不動だった。
――無事の帰還を祝福しましょう、海神の名を持つ私の娘、ヒリール。
極光の女神はヒリールの髪をそっと撫で、それからコルガーの頬に口づけした。
――ああ、やっと会えましたね、私と同じ名を持つ愛しい娘、エド。あなたが生まれて十六年、ずっとあなたを見守ってきたのですよ。
コルガーは唇を噛んだ。何者かが自分を守ってくれていたことは、子供のころから知っている。三月地震で死んだ兄でも、暴漢に殺された妹でもなく、自分だけを守ってくれていたことを。
「あなたは何故、兄でも妹でもなく、わたしを助けてくれるのですか?」
――あなたはマキシムとアンジェラの子孫の中でも特にアンジェラに似ていました。何より、あなたは私と同じ名を持っている。特別に愛しいのはおかしなこと?
「じゃあ、もし……もし妹の顔がアンジェラに似ていて、妹の名前がエドだったら、妹を助けてくれたんですか?!わたしたち姉妹は、たったそれだけのことで生死を分けられたんですか?!」
――……そう、あの子は死んだのですね。
極光の女神は長い睫毛を伏せて唇を引き結んだが、その声は氷のように冷たかった。コルガーは身体の横でぎゅっと拳を握った。目の前にいる人外の美女に返す言葉がなかった。極光の女神のおかげで自分は生き延びることができた。それなのに女神を責め立てるのは、妹を守ることができなかった無力な自分の責任を転嫁するようなものだ。だが、こうも思ってしまう。――わたしは極光の女神のせいで、家族を失ったにも関わらず生き延びる羽目になった。
コルガーははっとして頭を振った。決して考えてはいけないことだ。
「コルガー」
彼女の偽りの名を呼んで、ギーヴがそっとコルガーの肩を抱いた。女神と同じギーヴの緑色の瞳はこの上がなく優しく、コルガーはギーヴの手にそっと自分の指先を重ねた。
「船長!ロッキンガムの船が急速に近づいてきます!」
叫んだのは見張り台の青年だった。すっかりお馴染みとなったロッキンガムの船が、メルセデス号の右側を少し遅れてやってくる。大砲の弾が当たるか当たらないかというかなり近い距離だ。甲板にジャックらしき姿が見えた。
――あの船には同胞が乗っているようですね。
極光の女神はほっそりとした指で肉感的な唇を撫で、思案するように言った。
「同胞?」
ヨイクが顔をしかめるとギーヴが応じた。
「彼女にとって、アザゼルやミスティックは同胞なんだよ」
――一緒に導いてやりましょう、おいでなさい、ヒベルニアへ。
女神が朗々と言い放つと、風雨は完全な嵐と化し、落雷があちこちに降り注ぎ、船が傾いて甲板に波が躍り込んできた。一同が慌ててつかまるものを探している間に極光の女神の姿は消え、海を輝かせていた緑色の光も消えて、船は再び夜の闇に包まれた。
「船長!舵が聞きません!船が何かに引っ張られてます!」
操舵室からの悲鳴を受け、フレドリクソンはヨイクの顔を見た。ヨイクはギーヴを振り仰ぎ、そろって大きく頷きあった。ヨイクは叫んだ。
「いいのよ!!このまま流れに乗ってちょうだい!!」
嵐の空には真っ黒な雲がうねるように低く流れ、間もなく狂ったように霙が降り出した。吹きすさぶ風に逆らい、ヨイクは船首へ歩を進める。船体が上下に暴れまわるので、何度も転びそうになる。後ろからユアンがやってきた。高波を浴び、二人ともずぶ濡れだった。
「みんなは中に入った、あんたも入れ!海に落ちるぞ!」
背中にユアンの声がかかったが、彼を振り返るのが気恥ずかしくてヨイクは船首に一番近いマストの前でうつむいた。ヨイクは彼に口づけされてから今までまともにユアンの目を見られないでいる。
「……こうするから平気よ」
言いながらヨイクはびしょぬれのカバンの中から自分で綯った縄を取り出す。それを自分の腰に巻きつけ、マストにも巻きつけて結ぶ。頬を打つ霙が痛くてたまらなかったが、覚悟はもうできている。
「一秒でも早く見たいのよ、この、私自身の目で、――ヒベルニアを」
ヨイクは何もない真っすぐな西の地平線を見た。あの向こうにヒベルニアがある。夕日が沈んでいく様を見て、一体、何度ヒベルニアに焦がれたことだろう。そこへ、やっと、辿り着くのだ。胸が苦しくなるほどの感動を覚え、ヨイクは風や波しぶきの冷たさにも耐えられた。
「おれが何考えてるか分かるか?」
船の速度が上がり、ヨイクとユアンはマストにしがみついた。メルセデス号は急流を下るような速度で航行している。空も海も暗黒そのもので、その先に地獄があると言われても誰もが信じて疑わないだろう。
「知らないわよ」
「こんな嵐じゃ、あんたが引き金を引いても着火しないだろうなと」
「こんな時に何考えてんのよ!」
ユアンがくっくっと低く笑い、ヨイクは自分がからかわれたことに気が付く。霙が吹きつけていると言うのに顔や体がかっと熱くなる。昨日から彼に振り回されっぱなしなことに気が付き、ヨイクは思わず唇を噛んだ。ユアンは赤くなったヨイクをおもしろそうに眺め、それから眉と唇を歪めて前方へ視線を転じた。
「おれもあんたと同じだ。どんなに不幸になったって、誰に馬鹿にされたって、おれはおれが生きる意味と喜びが欲しい。あんた、カームスにそう言ったんだろ」
「カッコつけてみたけどね、本当はただの強がりよ。私だって他の女の子たちと同じように、夫から愛され、子供を愛し、平凡な暮らしがしたかった。――だけど、どうしてかこんなところまで来てしまったの」
波や風の音がうるさいせいで、二人はお互いの耳元で怒鳴り合っている。
「岐路に立つたびに、好奇心に負けていたから?」
「そうよ。本当は危険なことなんてしたくない、安全な場所で誰かに守られていたい。だけど私には見たいものがある。そのためなら、わが身が危険にさらされてもいいと思えるほど見たいものが」
やがて小石大の雹が甲板をぱらぱらと叩き始め、命あるもの全てを殺そうとするかのような、凍てついた風が吹き始めた。船は、時に立ちはだかる壁のような波を突いて進み、時に大波に持ち上げられて放り出されそうになった。いつ転覆しても、沈没しても不思議ではなかった。
「この目で見たいもの、知りたいこと、触りたいもの、匂いをかぎたいもの、肌で感じたいもの、聞きたいこと、そういうもののために私はここまで来たんだわ」
ユアンの顔を丸一日ぶりに見上げると、彼は興味深そうな目で彼女をじっと見下ろしていた。ヨイクは照れ隠しに指摘した。
「……で、何であんた、私がカームスに言ったことを知ってるのよ」
ユアンは珍しく目を泳がせた。
「……カームスに聞いた」
「でも、あの晩はあんた酔いつぶれてたじゃない」
メインマストがきしみ、その先端が嵐へもぎ取られていったその時、水平線の彼方に何かが見えた。ヨイクはふと祖母の言葉を思い出した。
――ヨイク、嵐よ。あなたの行く手には嵐が見える。
村を旅立つヨイクに一族のシャーマンであった祖母がそう予言した時、ヨイクは彼女に訊ねたのだ。嵐の向こうには何があるの、と。
――島よ。嵐の向こうに、光り輝く美しい島が見える。
暗黒の世界を切り裂くように、空から一条の光が差している。それはまるで、天が漏らした黄金色のため息のようだった。
その光の中に、島はあった。
「……ヒベルニアだわ」
ぽつんと低い呟きがヨイクの唇から漏れた。近づくにつれ、島とその周りだけに青空が広がっているのが分かる。こちら側は嵐の渦中なので暗いが、いつの間に夜が明けていたのだ。
「見ろ、太陽だ……」
嵐を抜け、雨と波に洗われた甲板に明るい光が差した。ヨイクもユアンも海へ落ちたように頭から爪先まで濡れていたので、九ヶ月ぶりに浴びた太陽の光は、気が遠くなるほど温かく優しく感じられた。
「太陽だ!太陽だ!太陽だ!」
嵐の中、必死で船を操っていた船員たちが歓喜の声を上げ、はしゃぎながら上半身の服を脱ぎ捨て、やわらかな日光を全身に浴び始めた。騒ぎを聞きつけて船の中からも船員たちがわらわらと出てくる。操舵室からはフレドリクソンも飛び出して来た。
「おおお、ヒベルニアだ!!ヒベルニアに着いたぞおお!!」
「あれがヒベルニアかよ!」
「まさか本当にあったとはな!」
「すげえよ、俺たち、御伽噺の主人公みたいだ!!」
歓声や笑い声が弾け、誰かが酒を持ち出した。船の揺れが落ち着き、甲板で即席の酒盛りが始まる。コルガーがフィドルのお手並みを披露し、ギーヴとアンジェラがそれに合わせて歌った。
「眩しいもんだな、こんな冬の太陽でも」
ワインの瓶を手にやって来たユアンに声をかけられ、ヨイクは我に返った。ヨイクは宴にも混ざらず、マストによりかかったまま太陽の恩恵を受ける小さな島をぼんやりと見ていたのだ。そこは緑豊かな楽園のようで、空に浮かぶまろやかな白い光は、小さな島を愛でるように甘く輝いている。
「そうね」
ヨイクは上の空で応じ、自分とマストをつないでいた縄を切って、濡れた髪を撫でつけた。ワンピースの水気を絞り、ブーツを脱いで踵を持ってひっくり返すと杯を傾けたように水が零れ出た。
「あ!しまった!」
ヨイクははっとして、斜めにかけた鞄を開けてカームスからの手紙を取り出した。婚約者からの便りは雨水にインクが流れてしまってすっかり読めなくなっていた。ヨイクは片手で額を抑えて空を仰いだ。研究に必要な覚書の類は船室に保管しておいたのだが、この手紙のことはすっかり忘れていた。
「あーあ、これじゃあ、もう何が書いてあったか分からないわ。まあ、分かったとしても、もう手遅れなのかもしれないけれど」
その時、嘆き悔やむヨイクの背後でポンと小気味のいい音がして、甘い芳香がふんわりと漂ってきた。振り返ると、ユアンがワインのコルクを抜きながら、後方に見えるロッキンガムの船と酒盛りに興じる船員たちを眺めていた。ずぶぬれの書籍商はヨイクの視線に気が付いて彼女を顧みた。
「これはヒベルニアへ着いたら開けようと思ってたんだ」
太陽の光の下でヨイクの相棒は少年のように笑った。
「昨日は悪かったな」
ユアンはそう言ってすまなそうな顔をした。
「……二度としないって約束するなら許すわ」
ヨイクの要求を鼻で笑い、書籍商はゆっくりとワインの瓶を傾けた。