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ヒベルニアの極光  作者: 葉梨
第四章
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9.償い

残酷なシーンがあります。ご注意下さい。

 コルガーはギーヴから視線を外し、白い壁を見つめた。狭い個室の中には装飾のひとつもない。アンジェラは持参した風景画を一枚壁にかけていた。それは古ぼけた水彩画で、青い空と海と緑の野が描かれた爽快な絵だった。


「父は……」


 三月地震で死んだ父の顔を思い出そうと、コルガーは目をつぶった。記憶は信じられないほどおぼろげだった。


「父は男爵でした。領地は狭くて収入は多くありませんでしたが、父は二人の嫡子とオレたち三人の庶子の教育費だけは惜しまず、夜会や美食や葉巻や最新のファッションに背を向けて、いつも子供たちと一緒にいてくれました。今から思えば、父が社交界からどんな風に思われていたのか心配にもなりますが、とにかくオレたちは父がいつでもそばにいてくれることが嬉しかったんです」


 話し始めると、父と過ごした様々な思い出が脳裏に蘇り、胸に温かいものが広がった。コルガーは変わりものの父が好きだった。彼に二度と会うことができないことが改めて悔やまれる。彼はすでに過去の人だ。そして母はもっともっと過去の人だった。


「母は、オレが十歳の時に亡くなりました。病気です。父は何度も医者を呼んで母を診させようとしましたが、母は断固として医者に会いませんでした。たった一度だけ、ようやく母が医者を寝室に招き入れた日の翌朝、母は亡くなりました」


 母との思い出はもっと曖昧だった。思い出したのは、明るい日差しの降り注ぐ緑の庭で、母と兄と妹と昼寝をしたこと。妹の頭にバッタがとまって大笑いした。


「母が亡くなっても、オレたちはすぐに立ち直りました。母を愛していなかったからじゃありません。母を愛していたからこそ、オレたちは前を向いて歩かなきゃならなかったんです。母のくれた命を繋ぐために」


 家族全員で母の死を悼み、悲しみ、そして手を取り合って立ち上がった。父は兄を励まし、兄はコルガーを励まし、コルガーは妹を励ました。


「三月地震で父や兄が死んだ時もそうでした。父も兄もいつだってオレを大切にしてくれていて、オレの幸せを願ってくれていた。だから、彼らが死んでしまっても、オレは生きていかなきゃならない。悲しいけど、悔しいけど、心細いけど、オレは踏ん張ってみせる、何が何でも、絶対に。――だけど」


 ぐっと握った拳が膝の上で震える。眼球が、心臓が、血液が、脳が、胃が、腸が、肺が震える。


「だけど、ずっと行方不明になっていた妹の死体を河原で見つけた時、オレは生まれて初めて、自分が生きていてはいけない気がしたんです」


 三月地震は世界を変えた。

 目に見える街や建物や地形を変えたのはもちろん、天変地異は社会を変え、家族を奪い、友達を消し去り、あらゆる日常を壊し、いくつもの未来を滅ぼした。


 三月地震の発生から三日間、コルガーは昼も夜も妹を捜し歩いた。父や兄の遺体が見つかっても、妹の消息だけがつかめなかったのだ。彼女がどこかで生き延びていることを信じて、家の近所や公園や広場や彼女の友人の家を訪ねて歩いた。


 捜すあてがなくなると、捜索範囲を広げ、彼女が絶対に立ち寄りそうにない繁華街にも足を伸ばした。ほとんど眠ることも食べることもなく、狂ったように妹を捜し続けるコルガーを止めるものは誰もいなかった。誰もが自分自身と家族のことに手いっぱいで、他人の不幸を思いやることなどできなかったし、コルガーのように離れ離れになり生死も分からない肉親を捜し歩く者は無数にいた。


 疲労と絶望に苛まれ、とぼとぼと街を歩いていたコルガーに、あれはあんたの妹さんじゃないか、と男が声をかけてきたのは夕刻のことだった。男の憐れみに満ちた目を見た時、コルガーは心臓を冷たい刃で撫でられたような心地がした。だが、うまく回転しない頭が無理やり自分を騙そうとする。きっと妹はひどく疲れてぼろぼろになって、けれど生きて発見されたに違いない。


 男の誘導で街を抜け、河原に下りた時には夕暮れが訪れていた。分厚い雲に覆われて夕日は見えなかったが、西の空が恐ろしいほど赤く染まり、丈の高い河原の枯れた草むらが寂しげな橙色に揺れていた。


 あれだ、と男が指をさした。草むらの間に女の子の服の裾が見えた。見覚えがある。妹の服はコルガーが洗濯していた。


 世界が遠のいていくのを感じた。

 音を立てて、何もかもが壊れていく。


 全身が心臓になったかのように全ての血管が脈打った。それなのに頭から血の気が引いて、体中の毛が一斉に立ち上がる。足が動かない。指先さえ動かせない。でも、確かめなければ。ひょっとしたら、あれは妹ではないかもしれないのだから。


 コルガーは恐る恐る草をかきわけて歩を進めた。とうとう服の裾のそばに、靴を履いていない足が見えた。傷だらけで、土気色をしている。


 それ以上見てはいけない。空っぽの頭の中に警鐘が鳴り響いた。見てしまえば己の世界の天と地がひっくり返り、正常な精神や、心の平穏や、十五年かけて築き上げた平凡な日常を失うことになるかもしれない。目に映るすべてのもの、この世に存在するあらゆるものの価値を見失い、それらを憎むことになるかもしれない。


 いいや、見なければならない。コルガーは足をさらに踏み出した。あれは何かの間違いだ、妹ではないに決まっている。あの愛らしく明るい娘が、こんな屍になっているはずがない。絶対に違う。絶対に。一縷の望みに全てを託し、コルガーは最後の草をかきわけた。


 目に飛び込んできたのは妹の苦しげな顔だった。目と口を大きく見開き、驚きと恐怖を顔に張り付けたまま彼女は絶命していた。彼女の服は切り裂かれ、さらされた小さな乳房や肉づきの薄い胴体やほっそりとした手足には痣や擦り傷がいくつも見て取れた。


「あれ、まさか本当にあんたの妹だったの?」


 背後で男が笑った。笑い声が三人分であることに気がついても、コルガーは驚きも恐れもしなかった。


「あんたも同じようにしてやるよ。お姉ちゃんと一緒なら、妹も喜ぶだろ?」


 男に肩をつかまれて草の上に押し倒され、別の二人の男に手足を押さえつけられる。赤い空を背に、男が覆いかぶさって来た。声を上げても、きっと誰にも届かない。わたしの知らない所で、妹はこんな目に遭っていたのだ。


「うわあああああああ!!!」


 手足を押さえる男たちの腕を振りほどき、コルガーは目の前の男の首を絞めた。両手の十本の指に力を入れ続けると、男は苦しげに喘ぎ、顔をゆがませ、痙攣し、やがて動かなくなった。人を殺したのはもちろん初めてだった。それは考えていたよりずっとあっけなかった。


 残った二人の男は数秒呆然としていたが、仲間が殺されたことに逆上したのだろう、すぐにナイフを抜いてコルガーに向けた。コルガーはしっかりと立ち上がり、血の涙を流しながら男たちを睨んだ。突き出された二本のナイフをよけ、それらを難なく奪いとって振りかざすと、男たちは青ざめた顔を見合わせて逃げ出した。死んだ男の遺体は川に流した。


「妹があんな目に会ったのに、妹を守るべきオレがのうのうと息をしているなんて間違いだ。オレ自身は父や兄や極光の女神に守られていたのに!大事な、たった一人の妹を、わたしは守れなかった!」

「コルガー、もうやめて」


「そればかりか、妹を失った悲しみ以上に、オレは自分が犯してしまった過ちに恐れ慄いている!妹の墓の前に立っても、彼女のことを偲ぶより、オレがこの手で殺してしまった男のことばかり考えてしまう!オレはなんてひどい姉だろう!」

「コルガー!!」


 ギーヴが強い力でコルガーを抱き寄せた。コルガーは自分が泣いていることに気が付き、しゃくりあげながらギーヴの身体にしがみついた。以前コルガーが手入れをしてやったギーヴの法衣は頬で触れると意外と硬くて、あの日よりも強くギーヴの匂いがした。コルガーはこんな時なのにひどく切ない気持になる。自分がどうして泣いているのか分からなくなりそうだ。


 薄く目を開けるとコルガーが手放したグラスがベッドの上に転がり、白いシーツにブランデーの染みをつくっていた。どうしてか、なんて卑猥な光景だろうと思った。


「君はひどくなんかない。ひどくなんかないよ、コルガー。君はとてもとても優しいんだよ」


 コルガーの髪を撫でながら、ギーヴが苦しげに言う。


「コルガー、君が楽になれる方法がひとつだけある」


 耳にギーヴの息がかかる。コルガーはギーヴの法衣に顔をうずめたまま、濡れた睫毛を静かに上下させた。


「それは、許すことだ」


 とん、とん、と幼子をあやすようにギーヴの手がコルガーの背中を優しくたたいた。


「妹を殺した男たちを許し、生き残った自分を許し、過ちを犯した自分を許す。許せるよう努力する。そうでなきゃ、きっと、幸せになれないんだと思う。自分や誰かを許せないということは、とても苦しいことなんだと思うよ」


 コルガーはギーヴの胸で頭を振った。


「でもオレは、オレを許していいんですか?オレは許されていいんですか?楽になっていいんですか?」

「償いとは、苦しむことじゃない。罪を忘れず、人生を真っすぐに歩いて行くこと、それが償いだ」


 すべてを許し、罪を忘れず、人生を真っすぐに歩いて行く。

 コルガーはギーヴの腕の中で彼の言葉を丁寧に心へ書き留める。少しだけ心が軽くなったような気がした。ギーヴはそれ以上何も言わず、コルガーの細い身体を抱き続けていた。


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