8.美味い酒に釣られる2
コルガーが寝室に戻るとアンジェラは本を読んでいた。彼女がすでに休んでいると思いそっとドアを開けたコルガーは、アンジェラの顔を見てうっと声を上げた。
「まあ、なんて失礼な子でしょう。今夜こそ一緒に寝ようと思って待っていたのに」
「そう言うと思って、わざわざ遅い時間に戻ってきたんだよ」
時計は深夜一時を指している。先ほどまでカールを相手に厨房でウイスキーを飲んでいたコルガーは後ろ手で扉を閉め、諦めて寝支度を始めた。アンジェラが乗船してからずっと彼女の一緒に寝ましょう攻撃から逃げ回っていたのだが、ついに年貢の納め時がきたようだ。
「明日にはヒベルニアへ着くんですって」
アンジェラは世間話のように気軽に言って、コルガーの脱いだ上着を壁に掛けた。
「……へえ」
ヒベルニアに着く。それはコルガーにとって決して感動的なものではない。コルガーの目的はヒベルニア王マキシムに会うことだ。彼に会い、なぜ三月地震が起きねばならなかったのかを問い詰め、家族が死ぬことになった理由をはっきりさせたい。それが自分にできる家族への精一杯の弔いだとコルガーは信じている。
コルガーは仲間たちがヒベルニアを目指す理由を頭の中に浮かべる。ギーヴとアンジェラは六十年前の約束を果たすため、ヨイクとユアンにとっては研究のため、ヒリールにとっては帰郷だ。みんな、なんて穏やかな目的を持って明日を迎えるのだろう。コルガーは自分自身の凶暴さに一瞬嫌気がさした。
「ばあちゃん、マキシムに会うの、まだ怖い?」
コルガーが訊ねると、アンジェラは意外そうな顔で曾孫を顧みた。
二週間前、アンジェラは「変わってしまったマキシムに会うことも、変わってしまった自分を彼の前にさらすことも、彼の築いた家庭を目の当たりにすることも怖い」と言っていた。六十年も約束を先延ばしにしてきたことを後ろめたく思ってもいるようだった。
「そうね、怖いわ。だけど覚悟を決めた」
きっぱりと告げてアンジェラはベッドに入った。コルガーもその隣に足を入れる。
「ばあちゃんにはオレが付いてるぜ。もしもマキシムがばあちゃんを苛めたら、絶対にオレが守ってやる」
コルガーは息まきながらランプの火を消した。慈しみ深い闇とベッドに身をゆだね、コルガーは目を閉じた。アンジェラの体温に心地よい眠気を覚えた時、アンジェラの指がコルガーの前髪に触れた。
「あのね、この間は言わなかったけど、私、もうひとつ、怖いことがあるの」
怖いと言いながら、アンジェラの声は楽しそうだった。
「え?何?」
「心の天秤が傾きを変えてしまうこと」
コルガーは何のことやらさっぱり分からなかった。
「六十年前の私はマキシムのことしか見えていなかった。マキシムは太陽の光を浴びて輝く英雄で、日陰で昼寝している猊下なんて、ちっとも魅力的に見えなかったの」
コルガーの胸がどきりと鳴った。
「でも、今はどうか分からないわ。私は離れ離れになってからもずっとマキシムを愛してきたけれど、彼に会った途端、変わってしまった彼に幻滅して愛情がなくなってしまうかもしれない。そして、もっと素敵な誰かさんに恋をしてしまうかもしれない」
八十歳の曾祖母からこんな話を聞くのは何故だかいけないことのように思えた。コルガーはどきどきと高鳴る胸を抑えて暗闇の中のアンジェラを見た。
「ば、ばあちゃん?!」
「おかしなことを言ったかしら?人はいくつになっても恋をするものよ。たとえ曾孫がライバルになってもね」
アンジェラは手を伸ばしてコルガーを抱きしめた。コルガーは眩暈を感じた。目を開くと天井にぶらさがったハンモックがぐるぐると回っていた。
「ら、ら、らいばる?!お、おばあちゃん、わたしは別に……!」
「さあエド」
アンジェラはコルガーの本当の名前を呼んだ。
「もう寝なさい」
コルガーの本当の性別を知り、彼女を本名で呼ぶのはアンジェラや修道院の女たちだけだ。コルガーは居心地の悪い想いで目を閉じたが、一向に眠くならない。
「ねえ。ばあちゃんが家出した時、猊下と何があったの?」
アンジェラを船に乗せた際、ギーヴは「その話はよそう」と言って情けない顔をしていた。アンジェラは茶色の目をきらりと光らせ、片目を閉じた。
「うふふ、秘密よ」
アンジェラはコルガーの頭を撫で、壁の方を向いて眠ってしまった。コルガーはアンジェラやギーヴのことを考え込んでしまい、なかなか寝付けなかった。
「だめだ」
しばらく悶々と寝返りを繰り返していたが、アンジェラの眠りの妨げになるかもしれないと思い、コルガーはベッドを抜け出した。寝間着の上に上着を羽織って部屋を出て厨房に向かう。こんな時は酒だ、しかもブランデーだ。コルガーは頭の中で繰り返されるアンジェラの言葉を振り切るように廊下を進み、厨房の前でぴたりと足を止めた。中から人の声が聞こえたのだ。
「おれを信用できないという気持ちは分かる」
ユアンの声だ。ものすごく不機嫌そうだった。
「隠さなくてもいいさ、おれがいつ裏切るか、不安でたまらないんだろう?」
コルガーは混乱した。ユアンが裏切る?相手の声は小さすぎて聞こえない。ユアンと話しているのはヨイクだろうか?それともフレドリクソン?いいや、二人とも声だけは大きい。となると、執事か別の使用人か。どちらにせよ、室内には不穏な空気が漂っているようだ。
「はっはっは!手厳しいな!だが、約束は約束、そして雇い主はおれだ。ヒベルニアに着いたら、おれの命令通りにしろ。じゃあな」
ユアンが扉に近づいてくる。コルガーは飛び上がってその場から逃げ出した。足音を忍ばせて無茶苦茶に走っているうちに、うっかり女性陣の寝室の前まで来てしまっていた。コルガーも本当は女性なので別段やましいこともないのだが、誰かに見られたら面倒だ。
「あれ、コルガー?」
「ぎゃあ!」
真後ろから声をかけてきたのはギーヴだった。ろうそくを持ったヒリールも一緒だ。そういえばギーヴとヒリールがフレドリクソンや航海士と操舵室でトランプに興じているとカールが言っていた。ヒリールの船酔いの良い気晴らしになるようだとカールは喜んでいたが、まさかこんな時間まで遊んでいたとは。
「どうしたの?こんなとこで」
「べ、べ、別に!!」
力いっぱい叫んだところで、コルガーは再び眩暈を覚えた。健康には自信があるのだが、月経が近いのかもしれない。よろめいた身体をギーヴに支えられ、コルガーは情けない気持ちになった。こんな時、決まって思い知るのだ。どんなに男になろうとしても、結局は本当の男にはなりきれないということを。
「顔色が悪いね、部屋まで送っていくよ。じゃあね、おやすみ、ヒリール」
「おやすみなさい、ギーヴおじいさま。コルガー、お大事にね」
ヒリールが機嫌良く自分の部屋に入るのを見届け、ギーヴはコルガーを促して歩き出した。船内はしんと静まり返っていて、波の音と船がきしむ音だけが聞こえた。途中でユアンの部屋の前を通ったが、彼の気配はなかった。また操舵室にこもっているのかもしれない。
「俺は酒を飲めないから分からないけど、こういう時って飲まない方がいいのかな」
黙って歩いていたギーヴがつぶやいたのは、彼の部屋の前にさしかかった時だった。
「はい?」
「俺の部屋に、ランズエンドで買った良いブランデーがあるんだけど、飲む?」
コルガーは突然元気になった。
「ブランデー?!よっしゃ!!……って、なんで猊下が酒なんか」
「だって君、美味い酒を飲ませてあげるよって言われたら、誰にでもついて行くんでしょう」
「……ジャックのことまだ言ってるんですか」
「君と話したかったんだ。おいでよ」
とろけるような笑顔で誘われ、コルガーは思わず頷いてしまった。ギーヴは笑みを深め、コルガーの手を引いて部屋の中に少女を導いた。ギーヴの部屋はコルガーの部屋と同じくらいの広さで、内装もほとんど同じだ。コルガーはどきどきしながら彼のベッドに腰掛けた。
「二人で話すのはグラスゴー以来だね」
目を細め、ギーヴはコルガーにグラスを差し出す。てっきり食堂から拝借したものかと思ったら、新品のベネチアングラスだった。これもランズエンドで買ったのだろうか。ひょっとしたら、彼は随分と前からコルガーと話そうとしていたのかもしれない。
「……久しぶりな気は、します、猊下と話すの」
「うん、久しぶりだ」
「お久しぶりです」
「お久しぶりです」
ギーヴはブランデーの瓶を手にコルガーの隣に腰を下した。椅子が無いのでベッドに並んで座る以外に方法はないのだが、コルガーは急に緊張した。冷たい冬の空気を介してギーヴの体温が伝わって来るような気がする。
「どうぞ」
ギーヴがブランデーの瓶を傾ける。コルガーは手の中のグラスに素晴らしい芳香の液体が注がれるのをうっとりと見つめた。
「あ、すみません、猊下」
ブランデーに夢中になっていたコルガーははっと顔を上げる。楽しそうにコルガーを見つめていたギーヴと目が合った。慈しむような緑色の瞳はどこか悲しげで、それでいて扇情的だった。
「げ、猊下は何か、紅茶とか、オ、オレ、厨房に取りに行きます!」
ギーヴは腰を上げかけたコルガーを制止し、ベッドについた両腕で支えるように上体を後ろにそらした。
「俺はいいよ。それより、早く飲んでみて」
そんなに見つめられては飲みにくい。コルガーはギーヴの視線を意識しながらブランデーを一口含んだ。
「……美味しい」
「ああ良かったあ。結構高かったんだけど、そんなに美味しくなかったらどうしようって心配してたんだ。俺は味見もできないし、まあ、できたとしても味なんて分からないんだけど」
ギーヴはほっと息をつき、のんびりと笑った。コルガーも緊張が解けて笑ってしまった。ああ、久しぶりに彼のテンポに巻き込まれるのは、なんて心地がいいんだろう。
「猊下」
「うん?」
「オレが女だって、気が付いたのはどうしてですか」
コルガーは自分の胸を見下ろした。布をきっちり巻いて潰しているので、どう見ても平らだ。なぜバレたのだろう。ギーヴは言いにくそうに口を開いた。
「ハートフルな宿屋に泊った夜、君、湯浴みをしてたでしょう。次の日、俺が熱を出したのは君のせい。俺はこの六十年、刺激の少ない生活をしてきたから」
コルガーは記憶を探り、その夜のことを思い出した。パブで飲んで帰り、眠っているギーヴの横で湯浴みをした。彼が眠りこんでいると思ってやたら堂々と髪や体を洗ったものだったが……。
「の、覗いてたんですか?!」
コルガーは思わず寝間着の胸元を手で押さえた。
「人を覗き魔みたいに言わないでよ。水音で目が覚めて、たまたま見ちゃったんだ。……十分間くらい」
「それっ、全然たまたま見ちゃったレベルじゃないしっ!!」
ショックだった。コルガーは思い切り落ち込んで顔を両手で覆った。恥ずかし過ぎる。ひど過ぎる。泣きそうだ。
ところが、打ちひしがれるコルガーの隣で、ギーヴはのんきにのたまった。
「俺はこう見えて百九歳だけどさ、やっぱり、色々と邪まなことを考えてしまうよねえ」
「知るか!!ってか考えるな!!」
「いいじゃない、男の宿命だもの」
「オレはあなたの兄の曾孫ですよ。ましてマキシムと猊下は双子でしょう。つまりオレにとって猊下は直系の先祖に等しいってことです。人の道にはずれます!」
自分で言った言葉に、コルガーの胸はずきんと痛んだ。
ああ、そっか、だめなんだ。この人を好きになっては。どうしてもっと早く、思い当らなかったのだろう。取り返しがつかなくなる前に、気が付けばよかった。
「ああ、そっか」
ギーヴも間の抜けた声で言った。
「それは、ちょっと、びっくりだな。遠い親戚だと思ってたのに、そっかあ、うっかりしてた」
彼は俯いてゆっくりと頭をかき、それから顔を上げて微笑んだ。
「ともあれ謝るよ。このブランデーに免じて許して下さい、コルガー様」
ギーヴはブランデーの瓶を目の高さに掲げ、冗談めかしてははーっと頭を下げた。コルガーはぎこちなく笑顔を作り、空のグラスを差し出した。胸の奥がぎゅっと押しつぶされる。
「……しょうがねえなあ」
色つきガラスの器に注がれたブランデーを口に含み、これまで生きてきて感じたことのなかった切ない思いとともにそれを飲み下す。そういえば、いつかギーヴがコルガーに訊ねたことがあった。君には苦手なことがあるのか、と。コルガーはこう答えたのだ。
――そりゃありますよ。例えば……諦めることとか。
「――そういえばさっき銃声がしたでしょう、あれ、ヨイクだったらしいよ」
ギーヴの声にコルガーは現実に引き戻された。何時間か前に甲板から銃声が聞こえ、ちょっとした騒動になったのだった。様々な憶測が飛び交っていたのだが、犯人が判明してみれば、コルガーはなるほどという気分だった。
「……誤発砲か何かですか?」
「俺も詳しいところは分からないんだけど、ヨイクとリプトン君が喧嘩をしてたってカールが言っていて、見張り台にいた子もヨイクが怒鳴ってるのを聞いたとか何とかって。どうしちゃったんだろうね、もうすぐヒベルニアに着くっていうのに」
コルガーは先ほど盗み聞いたユアンの話声を思い出した。不機嫌そうな低い声で彼は言っていた。
――隠さなくてもいいさ、おれがいつ裏切るか、不安でたまらないんだろう?
「もしかしてユアンは……」
「え?」
「……な、なんでもない!」
コルガーは慌てて首を振った。ユアンが何か企んでいるとは思えなかったし、不確かな情報を軽率に口にするのは憚られた。だが、もしもユアンが妙な動きをすれば黙っているつもりはないし、本人を問い詰めるチャンスがあればそうするつもりだ。
話が途切れるとしばらく沈黙が続いたが、コルガーはその沈黙が嫌ではなかった。何も聞かずに黙ってそばにいてくれるギーヴの存在が有難いとさえ思った。
「――家族の話、聞いてもらえませんか」
コルガーが思い切って切り出すと、ギーヴは緊張した面持ちで彼女へ目を向けた。無理に聞き出す気はないようだが、耳を塞ぐ気もないようだ。
「君が話したいことなら、何でも、いくらでも聞くよ」
コルガーは心を決めた。