7.撃たれてもいい
「風が吹かねえ」
フレドリクソンの何度目かのぼやきにヨイクは頭を抱えた。彼の言う通り、シスター・アンジェラを乗せた翌日の朝からちっとも風が吹かず、船がなかなか進まないのだ。普段穏やかであっけらかんとしているフレドリクソンも、さすがにナーバスになっている。
日中は帆をたたみ、オールを使って船を漕いでいるが航程は順調に遅れており、ランズエンドを出発して七日目の明日の夜、ようやくヒベルニアへ続く海流へ到達する。明日は冬至、つまり、ヒベルニアへの道が開ける日だ。
「本当は余裕を持って到着したかったけど、まあ滑り込みセーフってとこね」
「ランズエンドを一晩で発ったのは正解だったぜ」
何日か羽根を伸ばすつもりだったランズエンドを早々に出港したのはアラン伯爵の軍隊に捕まりそうになったからだった。思わぬ幸運があるものだとヨイクは思った。
「まあまあ二人とも、なるようにしかならないんだから、落ち着こうよ」
操舵室の隅でぼんやりと紅茶を飲んでいたギーヴが笑う。人生において焦るということがめったにない男である。
「それもそうね」
ギーヴがフレドリクソンや航海士とトランプを始めたので、ヨイクは操舵室を出て甲板へ向かった。空を覆う雲は濃い灰色をしていて、辺りには冷たく重い空気が薄気味悪く沈殿していた。船尾に行くと先客がいた。
「いよいよ明日だな。冬至に間に合ってよかったよ」
ヨイクを目にとめ、手すりにもたれて酒瓶を傾けていたユアンが言った。ヨイクは彼の隣に立って水平線を睨む。
「ランズエンドを一晩で発ったのは正解だった、ってフレドリクソンが言ってたわ。アラン伯爵に感謝しなきゃね」
「そうだな。あのイカレ伯爵には酷い目に遭わされたが、おれはあいつのおかげであんたに巡り会えたわけだしな。おれにとっては幸運と不運を背中合わせにしたコインのような男だ」
ヨイクがユアンの顔を盗み見ると、彼は物思いにふけるかのように、微笑みをたたえて遠くを見ていた。ヨイクは目を閉じて波の唸る音と白いしぶきが船にぶつかる音だけをしばらく聞いていた。
「あのね、ユアン、機会がなくてずっと黙ってたんだけど」
ヨイクはおずおずと切り出した。
「私がグラスゴーであんたを助けたのは偶然じゃなかったのよね。あの時、私はハナからあんたに出資してもらいたくて、あんたに会いにグラスゴーを訪れていたの」
「……は?」
ユアンはぽかんと口と目を開いた。いきなり何を言い出したのかと問うような顔だった。
「私があの場に居合わせたのは本当の偶然だけど、私はあんたが大金持ちで変わりもののユアン・リプトンだって知ってたのよ。でなきゃグラスゴーになんて行かないもの」
ユアンは考え込むようにしばらく沈黙して頭をかいた。
「始めから話してくれないか?」
「私は十四歳の時にミシェルさんの日記の翻訳をした。ヒベルニアとクラシックに興味がわいたのもその頃だった。そして十五歳の時に父に連れられて出かけたエディンバラで、ミシェルさんの日記に登場するギーヴという人が、エディンバラ名誉司教だということを知った。彼に会いたくて、私は彼の研究会へ参加を申し込んだけれど願いは叶わず、その時、抽選に漏れた別の学者のパトロンから、あんたの名前を聞いたのよ。彼はグラスゴーの老商人で、私にこう言った。『俺の知り合いにユアン・リプトンって奴がいる。そいつなら、あんたの研究に金を出すかもしれない。何しろ愛読書が『ガリバー旅行記』だって言うから本物の変わりものさ』ってね」
「……老商人」
「ええ。私は路銀が底をつきかけた時、その老商人のことを思い出してグラスゴーへ向かったの。私たちが出会ったあの日、あんたは商談に向かっていたでしょう。その相手は、この私よ」
ユアンは酒瓶にコルクを詰め込み、再び黙りこんだ。三年前の記憶を思い出そうとしているようにも見える。
「あの日の商談は……きっとおれが喜ぶ話だと言って知己がセッティングしてくれた商談だった」
「うん。その知己っていうのが、私にあんたのことを教えてくれた人。確か、スコットって人じゃなかったかしら。彼が私のためにあんたを呼び出してくれたのよ」
ユアンは水平線へ目をやってしみじみと言った。
「そうか、あの商談のことをずっと気にしていたんだ。そうか、あんただったのか」
「ま、今となってはどうでもいいことだけどね。あんたと私は、たとえあそこで出会わなくても、きっとどこかで出会う運命だったんじゃないかしら」
ヨイクはユアンの横顔を見上げ声を立てて笑ったが、ユアンは笑わなかった。
「ヨイク」
突然、ユアンがヨイクの手をつかんで彼女を引き寄せた。ヨイクは自分の頬がユアンの胸にぶつかるのを感じ、彼の顔を見上げた。その瞬間、ユアンの顔がヨイクに覆いかぶさってきて、逃げる間もなく唇が重なった。
「ユ、ユアン?!」
ヨイクが顔を背けると、ユアンはヨイクの波打つ金髪の中に手を入れて彼女の頭と腰を引き寄せた。再び口づけられ、唇をこじ開けられて、ヨイクは混乱しながらユアンの胸を押し返す。だが彼はびくともせずに、差し入れた舌でヨイクの口の中をゆっくりと撫で、自分の唇でヨイクの下唇を噛んだ。ヨイクは思いがけずくらくらした。こんなことをされたのはもちろん初めてだ。今までのユアンは泥酔している時でさえ紳士だった。
ヨイクは自由の効く手で腰の短銃を抜いた。何かの拍子で引き金を引かないように注意しながら、その冷たい銃口をそっとユアンの頬に押し当てる。ユアンは静かに唇を離し、ヨイクの瞳と短銃を見比べた。
「……震えてるぞ」
唇は離れたのに、ユアンの吐き出した息が自分の口の中に入ってくる。吐息で口づけされているような気がしてヨイクは顔を背けた。書籍商の服からは紙とインクの匂いがした。
「や、やかましい。それ以上のことがしたかったら、それなりの覚悟が必要よ。わ、私には婚約者がいるんだから」
ヨイクは小刻みに震える指を引き金に近づけた。ユアンは平然と、けれども熱い瞳でヨイクを見下ろしている。彼の濡れた赤い唇が何とも言えず艶めかしく、ともすれば膝の力が抜けてしまいそうだった。
「弾は一発だろ。あんたとやれるなら撃たれてもいい。下半身と頭以外にしてくれ」
「何言ってんのよ!ユアンのばか!」
頭に血が上ったヨイクは渾身の力で膝を蹴り上げ、ユアンが股間を押さえてその場に崩れ落ちると、床に向かって短銃の引き金を引いた。ばん、とユアンの頭のすぐ横に弾丸が撃ち込まれる。
「い……いくら何でも、む、無茶苦茶だろ……」
「うるさい!今度やったら殺すわよ!」
ヨイクは自分の胸を抑え、大股で甲板を立ち去る。途中でカールという大男と鉢合わせたが、顔を見られたくなくて、ヨイクは俯いたまま彼の横を通り過ぎた。