6.最後の乗客
「お願い!」
ぱん、とギーヴは整った鼻筋の前で両手を組み合わせた。
ランズエンドを出発した日の夕刻、昨夜の無理がたたっては危ないから早めに錨を下して休もうと相談していたユアンとフレドリクソンのもとにやって来るなり、ギーヴはそう言った。ユアンは目を眇めた。
「ランズエンドが最後の寄港地だと言ったはずです。水も食料も十分あるので、今後寄港や上陸の予定はありませんよ」
フレドリクソンも宥めるように頷く。
「そうですぜ、猊下。それに、こういった黄昏時に、港でもない岬に船を寄せるのは危険です。座礁って聞いたことあるでしょう、海の中の岩に船底を食い破られるんですぜ」
船の持ち主と航海のプロフェッショナルに諭されてもギーヴは食い下がった。
「じゃあ、ちょっと小舟を出してくれるだけでいい!お願い!どうしてもあの岬に用事があるんだ!このとおり!」
ユアンとフレドリクソンは困り顔を見合わせた。
「猊下、理由をおっしゃって下さい。それによっては明日の朝に」
「明日の朝じゃ困るよ。君たちはご婦人に野宿しろって言うの?もういいよ、分かったよ、自分で何とかするよ……」
ギーヴはがっかりと肩を落として踵を返し、操舵室を立ち去る。ユアンとフレドリクソンは彼を追いかけて甲板に出た。ギーヴが船を寄せろと主張した岬はメルセデス号の左手にそびえる断崖絶壁だ。グラスゴー大聖堂の二倍の高さの崖の上には黄色の草が生えていて、白い羊の群れが放牧されている。
「みんなそろってどうしたの?」
船尾の方から歩いて来たのはヨイクだった。西の空の雲が朱色に染まっている。ヨイクが夕暮れに空を眺めるのが好きなことをユアンは知っている。
「猊下があの岬にどうしても用があるんだと」
ユアンは断崖絶壁を指して言った。ヨイクは首を傾げて訝しんだ。
「あんな高い所に?何で?」
ユアン、ヨイク、フレドリクソンの視線が集まり、ギーヴは言いにくそうに目を泳がせる。
「もうひとり、この船に乗りたがってる人がいる……みたい」
「はい?」
三人がギーヴに向かって顔をしかめた時、急に船が揺れた。フレドリクソンがギーヴを、ユアンがヨイクを支えたが、揺れは一向に収まらない。それどころか、船は大きく揺れながら旋回し、断崖絶壁の麓へ走り出した。
「せ、船長!船が勝手に!舵が利かねえです!」
操舵室からフレドリクソンの右腕が叫び、再びギーヴに視線が集まる。
「……猊下?!」
「大丈夫。座礁なんてしないから、心配しないで」
ギーヴはきっぱりと言ってフレドリクソンから離れ、甲板の手すりにつかまった。
「この揺れ、何事?」
船内からコルガーと彼に支えられたヒリールがやって来た。
「俺もヒベルニアへ行く覚悟が決まるまでずいぶんかかったから。彼女もきっとそうだったんだよ」
「はい?」
ユアンは訝るコルガーの肩に手を置いた。
「諦めよう」
「あの方ぁ一体、何者なんだ?」
いつも豪胆なフレドリクソンさえ笑顔をひきつらせ、ひとりでに走る船を気味悪そうに見下ろしている。そして十分後、船は座礁することもなく、断崖絶壁の下でピタリと止まったのだった。
船が崖の下に着くと、ギーヴはコルガーに崖を登るように言った。
「行けば分かるよ」
ギーヴの言葉に素直に従い、コルガーは強風が吹きすさぶ中、断崖絶壁をよじ登った。グラスゴー大聖堂の鐘楼を登るより簡単で、足場を探しながらひょいひょいと登っていくと、頂上には一人の老人が立っていた。灰色の修道着をまとい、大きな旅行鞄を手にした背筋の伸びた白髪の女性だった。コルガーはその人に目をとめるなり、彼女に駆け寄って抱きついた。
「ばあちゃん!!」
「久しぶりね、エド!」
シスター・アンジェラの温かい胸に顔をうずめ、コルガーは目を閉じた。アンジェラの優しく懐かしい声やにおいがコルガーの心を満たす。骨ばった指に髪をなでられ、コルガーはそのまま眠ってしまいたい衝動に駆られた。
「顔を見せて頂戴。――まあ、たったの十日間でたくましくなったこと」
コルガーの顔を自分の胸から離し、アンジェラは嬉しそうに微笑んだ。
「いろいろあったもん」
ばあちゃんと間違えられて寝ぼけた猊下に抱きつかれたこともあるんだから、という言葉が喉まで出かかったが、コルガーはそれを飲み込んだ。あの時は何とも思わなかったのに、アンジェラにそのことを隠した途端に不思議と胸がときめいた。あれはそう、誰も知らない、自分だけの秘密の思い出だ。
コルガーはアンジェラを両腕で抱き上げ、断崖絶壁を飛び降りた。二人の身体は淡い緑色の光に包まれ、ゆっくりと船の甲板に着地した。ヨイクやユアンや乗組員たちは夢でも見ているような顔で一部始終を見守っていた。
「やあ」
ギーヴがそう言って片手を上げると、アンジェラは茶色の目をきらりと光らせ微笑んだ。
「本当はランズエンドで合流したかったのだけれど、暴動が起きていると聞いてこちらで待っていたの。あなたなら見つけてくれると思ってたわ。こんな名もない岬にいても、昔、私が家出した時みたいに。あの時のこと、覚えてるでしょう?」
二人は互いに歩み寄り、しばし見つめ合った。コルガーはアンジェラの旅行鞄を手に提げたまま、ギーヴとアンジェラを離れた所から見守った。どうしてか、嫉妬に似た複雑な気持ちを抱いた。
「……その話はよそうよ」
ギーヴが情けない顔をして言うと、アンジェラはがっかりしたように一瞬目を伏せ、温かい微笑みと共に瞳を上げた。
「そうね。――マキシムに、会う覚悟ができたわ」
「そう言ってくるのを待ってたよ。一緒に行こう」
「ええ、六十年前の約束を果たしに」
二人を遠巻きに見ていたヨイクにコルガーは上着の裾を引っ張られた。
「ねえ、もしかして、あの方がシスター・アンジェラ?」
「うん。オレのひいばあちゃんのアンジェラ・グランディエ。後で紹介するよ」
頷くコルガーの耳に、ユアンも顔を寄せる。
「へえ、あれがマキシム・バルトロメの妻か。それにしても、猊下は彼女がここにいることがどうして分かったんだろうな」
コルガーは昔アンジェラが家出をしたときにギーヴがアンジェラの居場所をピタリと当てたという話を思い出した。アンジェラはこう言っていた。「ギーヴ猊下には、まだまだ秘密があるんだと思うのよ。私たちにさえ明かしていない秘密の力が」
ヨイクはお手上げという顔で舌を出した。
「そういう話は専門外。考えないことにしましょ。あの男は私たちの理解の範疇を遙かに越える聖なる妖怪だもの」
ギーヴとアンジェラがこちらに目を向けたので、コルガーは曾祖母の前に出てヨイクとユアンを紹介した。
「ばあちゃん、民話学者のヨイクと書籍商のユアンだよ。――ヨイク、ユアン、オレの曾祖母のシスター・アンジェラ」
アンジェラは背の高いヨイクとユアンを見上げ、二人に白い手を差し出した。
「初めまして。コルガーがお世話になっているそうね、お会いできて嬉しいわ」
「初めまして、シスター。ユアン・リプトンです」
「ヨイク・アールトと申します、どうぞよろしく」
ユアンはアンジェラの手を取って操舵室に招き入れ、カールにお茶を入れてくるよう目配せした。俺とは待遇が違いすぎるんじゃないのとギーヴがぼやいたが、まともに聞いてやる者はいなかった。
「リプトンさん、アールトさん。ヒベルニアへ船を出そうと言い出したのはあなたたちなんですってね。どうか、私も同行させていただけないかしら」
ユアンの引いた椅子に腰を下し、アンジェラは朗らかに言った。ヨイクとユアンは彼女の向かいに座り、身を乗り出すように異口同音に答えた。
「もちろんです!ぜひ!」
コルガーは操舵室の入り口に立って、ヨイクとユアンが興奮した目でアンジェラを見つめている様子を興味深く眺めていた。子供の頃から親しんでいたアンジェラが、マキシム・バルトロメの妻、クラシックの生き残り、と歓迎されているのは不思議な気分だった。
「どうもありがとう。皆さん、よろしくお願いしますね」
アンジェラはにこやかに周囲を見回した。操舵室の中や外に集まった者たちは彼女の穏やかな声に「こちらこそ」と返したが、ただ一人、ヒリールだけは黙したまま、操舵室の外からじっとアンジェラを凝視していた。
「ヒベルニアへ着くまでしばらくかかりますから、どうぞクラシックに関する話を聞かせて下さいね、シスター・アンジェラ!」
「ええ、もちろん」
喜ぶヨイクに目を細め、アンジェラはゆっくりとヒリールに視線を転じた。
「あなたも、私が一緒に行っても構わないかしら、可愛らしいお嬢さん?」
ヒベルニアのお姫様は突然話しかけられたことに驚き、それから頬を染めて床を睨んだ。
「べつに、いいけど」
「けど?」
「あなたは嫌じゃありませんか?」
「嫌?私が何を嫌がると?」
「だって、わたしはマキシム・バルトロメの孫です。マキシムおじいさまはあなた以外の女性と結婚して私の父を産ませたんです。あなたは、わたしのこと、嫌じゃありませんか?」
ヒリールは今にも泣き出しそうな顔でスカートの太腿のあたりをぎゅっと握りしめた。
「たとえ血のつながりがなくても、マキシムの孫なら、私の孫のようなものだわ。いらっしゃい、握手をしましょう」
アンジェラは愛おしげにヒリールを見つめ、骨ばった手を彼女に伸ばした。ヒリールは躊躇いながら操舵室に足を踏み入れ、アンジェラの手を握った。
「私はアンジェラよ。よろしくね」
「……わたし、ヒリール」
「そう、ヒリール。私の子も孫も曾孫も、コルガー以外はみんな死んでしまったの。だからあなたに会えてとっても嬉しいわ」
アンジェラは空いている方の手でヒリールの髪を撫で、頬を撫でた。ヒリールはとうとう泣き出し、アンジェラに抱きしめられてしまった。コルガーはほっと胸を撫で下ろしながら操舵室を出た。外は薄暗く、雲の向こうの太陽が地平線の彼方へ沈んだことが分かる。
「コルガー様、お風邪を召しますよ」
しばらく海を見ていると後ろから声がして、振り返るとリプトン家の優秀な執事が立っていた。コルガーは彼の顔を見てにっこりと笑った。仲間たちの世話をかいがいしく焼いてくれるこの老執事のことをコルガーはすっかり好きになっていたのだ。
「うちのばあちゃんのこと、よろしくな」
執事は控えめに微笑んだ。
「もちろんです。が、旦那さまがまた頭を抱えるでしょうね。あの方はランズエンドで食料や水を調達する際、予定外の乗客が多いと嘆いていましたから」
「え、予定外ってオレだけでしょ?」
「そもそもの始めは旦那さまとヨイク様とギーヴ猊下の三人だけの予定だったのです。それが、まずヒリール様とシスター・アンジェラをお連れになるとギーヴ猊下がおっしゃり、コルガー様が同行することになり、それからもう一人……」
執事の言葉の途中で、操舵室からユアンが彼を呼ぶ声がした。
「はい!ただ今!――ではコルガー様、失礼を」
執事が立ち去ってしまい、コルガーは執事も大変だよなあと呟きながら船尾へ向かって甲板をぶらりぶらりと歩いた。すると、水平線のあたりに船影が見えた。この船の方へ迷わず走って来る。
「ついて来てるな……ロッキンガム」
コルガーはアヤやパーシヴァルの従える悪魔のことを思い出して顔をしかめ、コートのポケットから酒瓶を取り出してぐいっとブランデーを傾けた。
ギーヴは船室内を見回し、嬉しそうにしているアンジェラに向かって嘆息をついた。
「ちょっと狭いんじゃない?本当にコルガーと同室でいいの?」
アンジェラはコルガーと同室にしてほしいとユアンに頼み、自分の荷物をコルガーの部屋に運び込んでしまった。コルガーの部屋はもともとアンジェラを乗せるために作られていたためベッドが運び込まれており、ユアンはそこにハンモックをかけるようカールに命じた。ギーヴとアンジェラが待っていると、間もなく鼠色の毛糸の帽子を目深にかぶったカール青年が現れ、てきぱきとハンモックを設置して立ち去った。
「ええ、もちろん。それに血のつながった女同士ですもの。一緒のベッドで寝たっていいくらい」
ギーヴは自分の胸がどきりと跳ねるのを感じた。
「……本人から聞いたよ、あの子、本当は女の子だって」
コルガーに打ち明けられる前からギーヴはそれを知っていた。
ウイスキー修道院を出発し、ハートフルな宿屋に泊った晩、ギーヴは夜中に目を覚ましたのだ。水音が聞こえてそっと目を開けると、いつの間にかパブから帰って来たコルガーが湯浴みをしていた。「おかえり」と声をかけようとしてギーヴは目を疑った。暗い部屋にぼんやりと浮かび上がる、暖炉の炎に照らされた柳のようにしなやかな白い肢体は凄烈なまでに美しかった。まるで女神のようだと思った。
「ええ、あの子は十六歳の女の子です。そうでなきゃ、女子修道院で生活できませんもの」
「本当のコルガー・バルトロメはあの子の二つ年上の兄なんだってね」
「そう、彼は三月地震で死んでしまった。エドは兄に成り替わって生きている」
アンジェラは真っすぐにじっとギーヴを見つめた。ギーヴはその目がコルガーにそっくりだと思った。二人とも曇りのない綺麗な目をしているのだ。
ギーヴはまぶたを下し、あの夜のコルガーの姿を再び思い浮かべる。それは欲望の炎を煽りながらも、ギーヴの信仰心をたまらなく刺激した。神々と共に崇めたいとさえ思った。
「――あの子は、人を殺したことがあるのかい?」
ギーヴの問いにアンジェラは眉をひそめて唇を引き結んだ。
「俺は心配だよ、あの子が」
コルガーは、にこにこ笑っていても、どこか危ういところがある。それに時々、ふっと悲しげな顔をしたり、刃物のように鋭い目つきで何かを見ていることがある。
「そうね。だけど私にはどうしてやることもできない。ただ、愛してやることしかできないわ。あの子の心の傷が癒されることを願って」
アンジェラは無念そうに目を伏せた。ギーヴも自分の無力を感じた。クラシックの象徴などと呼ばれ、名ばかりとはいえエディンバラ名誉司教猊下などと呼ばれ、立派な法衣など着ている自分が、たった一人の愛する血縁者の心を救ってやることもできないなんて、あまりに情けない。
「こんな時、己の無力を思い知るよ」
ギーヴはぽつりと弱音を零した。