5.夜逃げめいた出港
「安全に出港できるようになったからって、この横暴伯爵を野放しにして立ち去っていいものかなあ。せっかくだから、砦の人たちにプレゼントしちゃおうよ」
というコルガーの提案にヨイクとユアンが同意し、簀巻きにされたアラン伯爵は砦を占拠した民衆の元に連行された。馬にまたがり、彼を担いで行ったのはコルガーだ。アラン伯爵はくぐもった悲鳴を上げて、じたばたともがいたが、徒歩で付き添うユアンがこう言って脅すと急に大人しくなった。
「この状態であんたを民衆に突き出したりしたら、十中八九、殺されるだろうな。大人しくしていれば奴らから命を守ってやらないこともないが、どうする?」
さらに、民衆の代表と対面する際、コルガーがこう励ますと伯爵は観念したようだった。
「安心しろよ、伯爵。オレたちが見張っていれば平和的なお話し合いができる。広い心で税を軽くしてやれよな」
民衆は彼らの訪問に手を叩いて喜び、特にユアンは「あのイカレ伯爵を公衆の面前でぶん殴って指名手配された男だろ」と歓迎された。伯爵は簀巻きを解かれ、民衆代表との話し合いの席によろよろとついたのだった。
話し合いはもちろん民衆が満足する内容で終わった。コルガーとヨイクとユアンは伯爵を館まで送り届けてやり、メルセデス号に戻ってギーヴやヒリールと合流した。そして彼らは、長い夜が終わったことを喜び合い、各々の寝床に潜り込んだのであった。
明けて翌日。ヨイクは昼前にハンモックの中で目覚めた。グラスゴーを出てから三日間も船の中で寝泊まりしていたから一晩や二晩は地上の宿に泊まろうと言っていたのに、結局また船室で朝を迎えてしまった。ヨイクは苦笑しながら身を起こし、コルガーとギーヴの身体を案じた。ギーヴはエディンバラから、コルガーはベルファストからずっと船で移動してきたから、船内の生活にうんざりしていることだろう。
「まあ、彼らなら大丈夫か」
それでも今夜は地上の宿に泊まりたいものだ。ヒリールも船酔いに参っている。ヨイクはてきぱきと身支度を整え、船室を出て操舵室に向かった。ユアンがしかめ面で書類をめくっているだろうと思いながら操舵室の扉を開くと、そこに彼の姿はなかった。フレドリクソンもいない。船内に人の気配がほとんどないことに気がついた時、ヨイクはリプトン家の執事と廊下ではち合わせた。
「朝食は地上でとりましょうと、旦那さまが。他の皆様もすでに向かわれましたよ」
執事がそう言って手渡した地図を手にヨイクは船を下りて繁華街へ向かった。街は日常を取り戻していたが、昨夜の暴動の爪後はそこここに残っており、商店やオフィスの壊された看板や破られた戸や窓などが痛々しかった。
「ヨイクさん、おはようございます!!」
指定されたパブを訪れると、メルセデス号の乗組員たちが朝食を食べていた。ほぼ全員そろっているようで、ユアンたちは奥の席でトーストをかじったり食後のお茶を飲んだりしているところだった。
「おはよう」
ヨイクは声をかけてコルガーとヒリールの間に座った。向かいはフレドリクソンだ。
「おはよう、よく眠れた?」
ヨイクはアイリッシュブレックファーストを注文し、ギーヴの問いに頷く。
「ええ、でも今夜こそ地上のベッドで眠りたいわ」
「そうだね、俺も揺れない部屋でゆっくり休みたいなあ。リプトン君、頼んだよ」
「今夜の宿ならもう見つけてありますからご安心を」
注文通りに運ばれてきた朝食に取りかかったところで、ヨイクは仲間の様子がおかしいことに気がついた。コルガーとフレドリクソンは下を向いて肩を震わせているし、ヒリールはヨイクと目を合わせない。
「何?私、何か変?」
「はい」
笑いをこらえながらユアンがヨイクに差し出したのはランズエンドの今朝の新聞だった。ヨイクは恐る恐るそれを受け取り、ものすごい勢いで新聞をめくって広告欄を片っ端からチェックする。ヨイクの手は間もなく止まった。その顔がみるみる赤くなる。ユアンは素知らぬ顔で紅茶を飲んでいる。
「――こ、この、金の亡者!!」
ヨイクがユアンに叫んだ時だった。
「おおい、大変だ、アラン伯爵の軍隊が君たちを捕まえに来るぞ!!」
店の外から大声で教えてくれたのは昨夜のパブのフィドル奏者だった。コルガーは彼に礼を述べ、不機嫌そうに仲間を顧みた。
「懲りない奴だねえ」
ユアンも立ち上がって同意する。
「ああ。せっかく助けてやったのに、恩を仇で返すとはこのことだな」
乗組員たちも腰を上げ、皿に残った食べ物を慌てて口の中に詰め込んだ。ヨイクも目玉焼きとソーセージを全部頬張り、パンをポケットに突っ込んだ。そうしている間に軍靴の足音がどんどん近づいて来る。その靴音との距離を測り、ユアンはフレドリクソンに命じた。
「フレドリクソン、何人か連れて港へ走れ!おれたちはここで出港準備の時間を稼ぐ!」
「了解!準備ができたら大砲で合図しますぜ!」
フレドリクソンが最小限の手下を連れて裏口から店を出ると、間もなくアラン伯爵の軍隊が入り口からなだれ込んできた。おおよそ三十人ほどだ。
「アラン伯爵の名において、この場に居る者全員を、例外なく逮捕する!聞こえたか!例外なく全員逮捕だ!」
軍隊の長はそう言った。パブにいた無関係の市民は彼らが到着する前にさっさと店を出てしまったので、店内にはヨイクたちと乗組員しかいない。店主の姿さえ見えない。
「――この町とは本当に相性が悪いな」
「まったくだわ」
ヨイクとユアンは顔を見合わせて毒づき、ギーヴとヒリールを後方へ下がらせた。誰よりも前に出たのはもちろんコルガーだ。それを見てユアンはにやりと笑った。
「目的はあくまで時間稼ぎだが、全滅できるっていうなら任せるぜ?」
「へへ、誰に言ってるの?」
コルガーが不敵な笑みを浮かべて身構える。隊長は金切り声を上げて剣を振り上げた。
「突撃ー!!」
せまい店内で銃は使えない。アラン伯爵の軍隊は剣を抜いて一斉にコルガーに向けた。コルガーは突っ込んできた兵士たちのいくつもの剣先を身軽によけ、ひとりの兵士の胸倉をつかんで隊列の真ん中に投げ飛ばした。投げられた本人も、頭の上に仲間が降ってきた連中もうめき声を上げて床に倒れ込む。
「私も今日はやるわよ。ここのところ大人しくしてたからね」
ヨイクは手首を回しながらユアンに目配せした。彼は茶色の瞳をくるりと回した。
「大人しく、ねえ」
ヨイクは剣を振り回して来た兵士に椅子を投げつけ、相手がひるんだ隙に短剣を一閃させる。別の兵士が切りかかって来ると、股間に蹴りを食らわせ、ついでに腹に拳を叩きこむ。兵士は声にならない痛みに顔をしかめてうずくまった。
「勘が鈍ったんじゃないか?民話集めの旅をしてた頃と比べて」
ユアンはヨイクに言い捨て、突き出された剣をテーブルナイフで受け止め、長い脚を回転させて別の兵士を蹴り飛ばす。続いて襲いかかってきた兵士にはカウンターの上に並んでいたアイリッシュウイスキーのボトルをお見舞いした。メルセデス号の乗組員たちも椅子やテーブルや皿を投げ、時に拳で応戦する。
「うわあ、き、貴様ら何をする!一緒に捕まりたいのか?!」
隊長の悲鳴がしてヨイクはそちらに顔を向けた。見ると、店の外から空き瓶やビールの空き樽を兵士に投げつけている市民がいた。パブのフィドル奏者や踊り子の少女たちの姿もある。隊長は頭部に植木鉢が直撃したようで、額から血を流して怒り狂っていた。
「ユアン、行かなきゃ。ぐずぐずしてると、また暴動になりかねないわ」
息を切らせ、ヨイクはユアンと背中を合わせた。
「仕方ない。フレドリクソンの合図がまだだが……」
ユアンがヨイクを振り向いた時、遠くから大砲の音がした。フレドリクソンの出港合図だ。二人は頷き合って乱闘を繰り広げる乗組員たちを見た。
「フレドリクソンなら、なんと言って指示を出すかしら」
「きっとこうだろうな。――野郎ども、出港だ!!」
ヨイクも笑って叫ぶ。
「例外なく、全員、船まで駆け足!!」
「逃げろ逃げろ!アラン伯爵なんかに捕まるな!」
ヨイクとユアンは顔をくしゃくしゃにして大声で笑いながら、先陣をきって走り出した。わああっと声を上げながら、メルセデス号の乗組員たちもパブを出る。ギーヴはヒリールを連れておもむろに駆け出し、コルガーも最後尾で追手を退けながら走る。切る風はとてつもなく冷たかったが、ヨイクは少しも寒いと思わなかった。にっとユアンがヨイクに微笑んだ。
「初めて会った時も、こんな風に一緒に走ったな」
石畳をたたく数十個の靴。押し合いへし合い、港へと走る。通行人はどやどやとやって来た一団とそれを追いかける兵士たちの姿にぎょっとして道を開ける。
「あんたといるといつも走りっぱなしよ」
ヨイクが憎まれ口をたたくと、ユアンは眉を上げて笑みを深め、じっと彼女を見つめた。ヨイクの心の内を探るような目だった。
「そりゃこっちのセリフだぜ」
港に着くとメルセデス号の甲板でフレドリクソンが手を振っていた。帆が下され、錨が上げられ、舫い綱が解かれようとしている。追手を食い止めるコルガーを残して全員が船に乗り込み、船が陸から離れ始める。
「コルガー!もういい、早く来い!」
フレドリクソンが叫び、コルガーは追手を振り切るように船着き場を走り出した。彼の足はどんな駿馬より速い。船と船着き場の間の海を飛び越え、コルガーは甲板に着地した。
「おまたせ!」
「よし、野郎ども、出港だ!!!」
フレドリクソンが叫び、乗組員がオールを漕ぎ、船は沖に向かって走り出す。目の前には果てしなく広い海がどこまでも広がっている。その向こうにヒベルニアがあると思うと、ヨイクの胸は震える。
「撃て撃てー!!」
アラン伯爵の追手が船に向かって射撃を始め、ヨイクとユアンは身をかがめて短銃で応戦する。兵士たちの撃った弾は船の手すりやオールにいくつか穴を開けたが、ヨイクの反撃は隊長の軍靴に見事に命中した。隊長は足の甲を抑えて地面に転がり、兵士たちは上官が負傷したのをいいことに銃を下して逃亡者たちに大きく手を振った。ハンカチを振っている者もいる。
「じゃーーなーーー!!」
船尾の手すりの上に立ち、コルガーは笑顔で両腕を振った。船はぐんぐんと進み、やがて船着き場の兵士たちは豆粒のように小さくなった。
「アイルランド人って、いいだろ?」
コルガーが手すりの上から誇らしげに微笑み、仲間たちはくすりと笑った。
「さて、いよいよね!」
ヨイクは仲間たちの顔を見回した。ポーカーフェイスのユアン、急に緊張した面持ちのヒリール、いつも通り穏やかで、けれどどこか悲しげな顔をしたギーヴ。
「目指すは、ヒベルニア!!」
翌日のランズエンドの新聞には彼らの記事が似顔絵付きで掲載された。そのことを彼らが知るのはヒベルニアから戻った後のことで、ヨイクの本がランズエンドの書店で異常な人気を博した理由をユアンが調べなければ、ひょっとしたら知らないままだったかもしれない。領主を懲らしめ、町を救った立役者として、彼らは永く語り継がれることになるのだった。