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ヒベルニアの極光  作者: 葉梨
第四章
37/52

4.因縁と未練

 投げ飛ばし、蹴り飛ばし、ねじ伏せ、たたきつける。相手が人間なら、どんな喧嘩もお手の物だ。コルガーは戦意喪失していく暴徒たちを眺めつつ、舌先で唇をぺろりとなめた。余裕の笑みさえ浮かべてみせる。


「やい、てめえらみんな弱っちいじゃねえか!このオレを倒せる奴はいないのか!」


 民族衣装姿のコルガーは暴徒に啖呵を切った。どいつもこいつも弱すぎる。勇気だけはあるようで、コルガーは飛び出してきた血気盛んな青年の棒きれを軽々とよけ、回し蹴りで彼を吹き飛ばす。青年は数メートル先の波間にダイブした。


「さあ、次は誰が相手だ?」


 最初の攻撃が収まり、コルガーはぐるりと周囲を見渡した。暴徒の中にはコルガーと同じ年頃の少年の姿もあった。もしベルファストで暴動が発生していたら、自分もこの暴徒の中に入っていたかもしれない。コルガーは拳を下した。


「なあ、この辺で仲直りしようぜ。あんたたちが腹を立ててるのは税金を上げたアラン伯爵なんだろ?港町が商人を敵にまわしたらお仕舞いだぜ。それとも――」


 宥めるように言いつつ、コルガーはファイティングポーズをとる。コルガーは向かい合った群衆の中にアイリッシュパブで出会った楽団員を見つけた。フィドル奏者とハープ奏者だ。


「――まだやるか?」


 極光の女神のことを意識すると、コルガーの体をじんわりと緑色の光が優しく包みこんだ。


「お、おい、なんだ、こいつ、体が光ってる……!」

「オーロラみたいだ……!」


 暴徒たちは化け物でも見るような目でコルガーを見つめ、後ずさりして武器を下ろした。ユアンやフレドリクソンも驚いてコルガーを見た。コルガーは緑色の光をまとった手で暴徒から銃をもぎ取り、両手で軽く握りしめた。銃は簡単にぐにゃりと曲がり、コルガーはそれを丸めてぽいっと海に放り捨てる。体からはまだ緑色の光が燃え上がっている。


「ば、化け物だ……!!」

「この船はやばい、逃げろ!!」


 フィドル奏者もハープ奏者もすっかり青冷め、やがて他の者たちと共に諸手を挙げて逃げ出した。


「化け物、か」


 コルガーはため息を吐くとともに肩を落とし、傷ついた心を癒そうと瞳を閉じた。彼女の肩に手を置いたのはギーヴだった。


「気にすることないんだからね」


 力強く言い放つギーヴとその隣で大きく頷いたヒリールにコルガーは笑って見せた。今まで彼女にそう言ってくれる人はシスター・アンジェラだけだったが、今は違う。視線を向ければ、ヨイクもユアンもフレドリクソンも温かい目で彼女を見ている。


「もちろん、気にしません」


 気丈に応じるコルガーに近づき、ユアンは彼女の手を握った。


「船を護ってくれてありがとうな、コルガー」


 その時、大通りを真っすぐこちらへ向かってくる複数の足音がした。軍靴の足音、しかも大軍だ。


「静まれ!静まれ愚民ども!」


 軍隊は港の入口に整然と並んだ。暴徒たちは商人につかみかかっていた手を止め、倉庫の扉を打ち壊そうとしていた槌を下した。


「アラン伯爵の名において、この場に居る者全員を、例外なく逮捕する!聞こえたか!例外なく全員逮捕だ!」


 隊長が非情に言い渡すと、まずは商人側が騒ぎ始めた。


「ちょっと待て!俺は俺の倉庫を守るためにここにいるんだぜ!自分の財産を守って何が悪い!」

「そうだそうだ!こいつらに大事な商品を奪われるのを指くわえて見てろってのか?!」

「俺たちは被害者だ!正当防衛だ!」


 商人や船乗りたちが口をそろえてそうだそうだと怒鳴り出したが、隊長は動じなかった。


「この騒ぎの一部であること、それこそが罪なのだ!」

「この分からずやの馬鹿野郎!俺たちじゃなくて、あの貧乏人のクズどもをブタ箱にぶちこみやがれってんだ!」


 商人がわめき散らすと暴徒が怒りの声を上げる。


「何だと、この欲深の悪徳商人どもが!天国の門で神の裁きを受ける前に、人の裁きを受けておいてもいいんじゃないか?!」

「言ったな、ゴミ野郎が!」


 一時停止していた乱闘が再開され、さらにそこへ軍隊が突っ込んだ。三つ巴だ。だが、その混乱に乗じてこっそり逃げ出す者もいた。コルガーが感心しているとユアンが静かに言った。


「おれたちも逃げるぞ。ここに居るのはまずい」


 フレドリクソンがすぐに頷き、先に怪我人を下ろすと言って操舵室に取って返した。ヨイクは望遠鏡で辺りを見回しながら眉根を寄せる。


「大通りの方は軍隊が塞いでるわ。いっそ船を出しちゃうのはどうかしら?」


 確かに、陸路を走って逃げるより船で丸ごと逃げる方が簡単そうだ。


「それは駄目だと思うなあ」


 のんびりと言ったのはギーヴだった。


「あれ見て。砦の大砲がいつの間にこっちを向いてるんだ。船を出せば撃たれるかもしれない」


 ギーヴが指した高い崖の上には町を守る砦がそびえ立っている。


「いや?船を出さなくても撃つ気じゃね?」


 コルガーは片頬を上げて引きつった笑みを顔に浮かべた。


「それはないでしょうよ。この混戦じゃ、仲間に当たるもの……ね?」

「そうか……な?」


 コルガーとヨイクが乾いた笑いを漏らした時、大砲が動いた。どおんと言う大音響とともに大砲の弾が放物線を描いて飛んでくる。弾はメルセデス号のすぐ近くに着弾した。五人は船を下りて一目散に駆け出した。


「あいつら正気かしら?!」

「仲間に当たってもいいのかよ!」

「ばかやろおおぉぉぉーー!」

「ヒリールおいで!」

「うわあああん!待ってえぇ!」


 五人は背中に爆風を感じつつ海沿いの小道を目指して船着き場を駆け抜けた。執事を背負ったフレドリクソンや負傷した仲間をかついだカール、他の乗組員たちも乱闘を逃れて次々に合流する。ユアンは横目で彼らの無事を確認した。


「この騒ぎが収まらない限り、船は出せないだろうな」

「冬至までにヒベルニアへ続く海流に行かないとまずいんだろ?」


 コルガーは隣を走るユアンと顔を見合わせた。チャンスを逃せば来年までヒベルニアに行けない。


「そうよ!そうなのよ!それなのに!こんなことで!足止めなんて!絶対に御免よ!」


 ぜえはあと大きく息をしながらヨイクは執念で怒鳴った。


「船と乗組員が無事なうちにさっさとここを出るべきだわ!」

「何か妙案が?」


 ユアンが期待を込めて訊ねると、ヨイクは覚悟を決めたような低い声で言った。


「アラン伯爵に直談判するわ」

「アラン伯爵って誰?」


 呼吸するのも苦しげなヨイクに代わってユアンがヒリールに答える。


「この町を治める横暴な領主だそうだ。軍隊に命令を出しているようだから、この町に滞在しているのは確かだな」


 ユアンの説明にヨイクが頷く。コルガーは首をかしげた。


「領主がオレたちなんかに会ってくれるかな?」

「問題はそこだな。おれたちは皆お尋ね者か平民だ」

「知名度だけならヨイクが一番だよな。さっき通りかかった本屋にもヨイクの本があったし、パブの女の子もヨイクの本の民話をお客さんに読んでもらったことがあるって言ってた」


 コルガーの提案にユアンは頷いた。


「民話学者のヨイク・アールトが研究のためにランズエンドにやって来て、民衆と軍隊の衝突に巻き込まれた。事情があってどうしてもすぐに船を出したい。どうか許可をいただけませんでしょうか伯爵さま、そんなところか?」


 ユアンとコルガーがヨイクを顧みると、彼女は自棄になったように答えた。


「……それで行くわ!やるしかないもの!」


 ヨイクの必死な様子にユアンはにやりと意地悪く笑った。


「がんばれよ、明日の朝にはとっておきの新聞広告も出る」

「そんなことでがんばれるか!明日にはこの町を出てってやるわ!」






 ギーヴ、ヒリール、フレドリクソンを乗組員とともに海岸の岩場に待機させ、コルガー、ヨイク、ユアンは領主の館を訪ねた。館の周辺には見張りの兵士がうろうろしていて、暴徒たちも近づけなかったのだろう、門前はしんと静まり返っている。門番に声をかけ、伯爵へのお目通りをと頼むと三人はあっさり控えの間に通された。街や港の混乱ぶりが嘘のようだった。


「この暴動には無関心だというスタンスで行け。余計な口出しをすれば伯爵の怒りを買うかもしれない。港にいる者を例外なく全員逮捕しろとか、仲間のいる船着き場に大砲を撃ちこめと命ずるくらいだ、伯爵は相当、融通が利かないイカレた男だろう」


 ヨイクは大きく頷き、ユアンのいつも通りのポーカーフェイスを見つめ返した。これまでヨイクはエディンバラ名誉司教の住まいに潜入したり、ヒベルニアのお姫さまの閉じ込められた塔に忍び込んだりしてきたが、正面切って横暴な地方領主を訪ねるのは初めてのことだ。


「分かってる。出港の許可だけを狙っていくわ」


 ヨイクは覚悟を決めて、壁際に立つ中世風の甲冑を睨む。そして深呼吸して、隣のコルガーに囁いた。


「コルガー、万が一の時には頼んだわよ」


 壁に掛けられた絵画や床の大理石に歓声を上げていたコルガーはヨイクを振り返って気張らずに余裕の笑みを浮かべた。ちなみにまだ緑色のエプロンドレスを着てカツラをかぶっている。そこら辺の本物の女の子よりよっぽど可愛らしいわ、とヨイクは感心してしまう。


「任せとけって」


 館の入り口で武器を取り上げられた今、いざという時に活躍するのは武器要らずの無敵少年だ。この子は大物だわ。ヨイクは感心しつつ呆れもする。


「ヨイク・アールト様、付添いの方々、どうぞこちらへ」


 使用人が扉を開き、恭しく三人を導いたのは小さなサロンだった。赤い炎の燃える暖炉の装飾、ゴブラン織のタペストリー、革張りのソファ、猫足のテーブル、分厚いペルシア絨毯、天井に描かれた天使たちの絵……使用人が部屋を出て行くと、三人はきょろきょろと室内を見回した。


「ヨイクの本がある。やっぱり、伯爵もヨイクの本を読んだんだ」


 本棚の前でコルガーが言うと、ヨイクとユアンもその隣に立って本の背表紙を眺める。シェークスピアやダンテ、ユアンの好きな『ガリバー旅行記』や『三銃士』や『カンディード』もある。まだ見ぬ伯爵は、本棚を見る限り仲良くできそうな人物だ。ヨイクがそう考えているとついにノックの音がした。三人は扉を振り向き、居住まいを正した。


「アラン伯爵がおいでになりました」


 金のドアノブが回り、扉が開いた。


「ようこそ、マドモアゼル・ヨイク・アールト。活躍はこの辺境の地まで聞こえてくるよ」


 言いながらサロンに入って来たのは青白い顔の若者だった。ユアンと同じくらいの年頃の青年は立派な服に身を包み、フランス貴族風の白い巻き髪を揺らして微笑んだ。その瞬間、ユアンが小さく息を飲んだ。ヨイクの頭の中も真っ白になる。


「おや、どうかしたのかいマドモアゼル?お連れの方も、ボクの顔に何か付いてるかな?」


 アラン伯爵が薄い唇を釣り上げて首をかしげた。コルガーが眉をひそめ、唇の動きだけで「おい!」と呼びかけると、ヨイクは我に返った。


「い、いえ!失礼しました!伯爵があまりに、知人に似ていたものですから!」

「大変失礼致しました!」


 ヨイクが弁解し、ユアンも慌てて倣う。二人は作り笑いを浮かべて勧められた席に着いた。コルガーは不思議そうに二人をちらりと見たが、すぐに伯爵の方を向いた。


「あ、改めまして、民話学者のヨイク・アールトと申します。この二人は連れのコルガーとトーマスですわ。このような非常時に突然のお目通りをお許しいただきまして大変ありがたく存じます」


 驚きを振り払い、ヨイクは伯爵を真っすぐに見つめた。トーマスというのはユアンがいつも使っている偽名だ。


「こちらこそ嬉しいなあ。まさか、民話学者のヨイク・アールトに会えるなんて。ロンドンやダブリンでの噂通り、とっても美しい方だ」


 伯爵は夢見るように言い、ヨイクに憧れの眼差しを向ける。舌っ足らずで幼稚な話し方まで彼にそっくりだ。


「まあ伯爵ったら!」


 ヨイクは持ち前の根性と演技力でにっこりと微笑む。真冬だというのに掌に汗をかいていた。


「だけど、あなたのおっしゃる通り、今は非常事態だ。本当はゆっくりとお話したいところだけど、ボクはこの美しい領地を守るため、牛のように暴れまわる愚民どもを取り押さえなきゃいけない。単刀直入に用件を聞くよ」


 ここで動揺すればかえって怪しまれるわ。ヨイクは自分に言い聞かせ、悲壮な表情を作って身を乗り出した。


「私は研究の旅の途中で、一刻も早く、どうしても行かなければならない所があるのです。ですが、港は軍隊と砦からの攻撃で混乱しています。私たちが安全にこの町を出て行けるよう、お力を貸していただけないものでしょうか?」


 伯爵は青白い顔をゆがめて笑った。


「おやすい御用さ。ボクもヨイク・アールト先生の研究の手伝いができて嬉しいよ。通行許可証と出港許可証を書いてあげるから、少し待っていておくれ」


 あっさりと承諾し、伯爵は立ち上がって扉の向こうに消えた。ヨイクは肩透かしをくったように脱力してソファの背に寄り掛かった。


「ずいぶん簡単に許可してくれたわね。私たちにかかずらっている暇なんてないってことかもしれないけど。――それにしても、ユアン」


 ヨイクは珍しく狼狽しているユアンと視線を合わせる。


「あいつにそっくりね」

「……いや、もしかしたらそっくりというか、むしろ案外――」


 ユアンの声を遮るように扉が開いた。アラン伯爵と二人の使用人が現れる。


「そう、案外、本人かもしれない。世の中は狭いようだね、グラスゴーのやり手商人ユアン・リプトン」


 伯爵はそう言って扉を後ろ手で閉めた。かちゃりという音と共に伯爵の短銃がユアンに向けられる。二人の使用人の銃はヨイクとコルガーに向けられた。ユアンは天井を仰いでため息をついた。


「……あんた、やっぱりフォション侯爵だったのか」


 彼は三年前、グラスゴーの劇場前でリプトン家の使用人を銃で撃ち殺した男だった。ヨイクに助けられなければ、ユアン自身も殺されていた。


「グラスゴーにいられなくなって、どこぞに婿入りしたとは聞いていたが、まさかアイルランドの地方領主になっていたとはな」


 ユアンの落ち着いた声を聞きながら、ヨイクはいつでも逃げられるよう、わずかに腰を浮かせる。コルガーも警戒した様子でアラン伯爵を見上げた。伯爵は狂気じみた薄笑いを浮かべた。


「そうさ、おまえのせいでボクはグラスゴーにいられなくなった。婚約者にも振られ、こんな辺境の地に婿入りさせられた!ボクは侯爵の家に生まれたんだぞ、それが今じゃ伯爵だ!おまえのせいで、ボクの人生台無しじゃないか!おまけに領民どもは馬鹿ばかり!税が重い、物価が高い、天気が悪い、寒い、ひもじい、ボクのところへ来てはそんなことばかり言う!挙句に暴動だ!」


 ユアンに詰め寄り、彼の顔に唾を飛ばしながら、伯爵はヒステリックに怒鳴り散らした。


「軍隊を派遣して関係者を全員逮捕するように命じたのに、今度は軍隊も乱闘に混じって不毛な戦い始めた。それを止めようと思って砦から大砲を撃ったら、愚民どもが押し寄せて来て砦を占拠した。どうしてボクの望み通り、みんな大人しくしていられないんだ!どうしてボクがこんな目に遭わなくちゃならないんだ?!誰のせいだ?!――全部おまえのせいだよ、ユアン・リプトン!おまえのせいだ!おまえのせいなんだ!」


 ユアンの襟をつかみ、伯爵は狂ったように彼を揺さぶった。ユアンは顔をしかめてそれに耐えている。伯爵は急にユアンから手を離し、再び銃口を彼の眉間に突きつけた。


「死ね、ユアン・リプトン。そうすれば、おまえの仲間の出港を認めてやる!ヨイク・アールトのために死にますと言え!」






 金切り声を上げる伯爵から目をそらし、ユアンは息を吐き出して乱れた赤毛を手で撫でつけた。突きつけられた銃口は三年前と同じ、宇宙の果てのように真っ暗だった。三年前のあの日、死を覚悟したあの時でさえ、この世の未練を思いつかなかった。家族の顔すら浮かばなかった。だが、今は――。


「……民衆に砦を占拠されたのか?」


 ユアンは震えないように声を張って訊ねた。今の自分は、死ぬことが怖い。これから成し遂げたいことがあり、見届けたいものも、手に入れたいものもある。ユアンは目を向けずにヨイクの存在を肌で感じた。錯覚以外の何ものでもないが、彼女の肺や心臓の動めく音さえ、己の耳には聞こえるような気がする。彼女の熱い血が全身を駆けめぐり、彼女の心の炎が燃え盛る音さえも。


 おれはヨイク・アールトという人間の、人生を見つめていたい。できることなら永遠に。ユアンは思わず自嘲気味に笑った。何という女々しい願いだろう。


「笑ったな!ああ、いいさ、笑えばいい!でもね、ボクはあの馬鹿どもの言いなりになるつもりはないんだ!いざとなったらこの町に油をまき、火をつけて、何もかも灰にしてしまえばいいんだ!ボクもこの館ももろともね!そして真っ先に死ぬのはおまえだよ、ユアン・リプトン!」


 銃口を突き付けられたまま、ユアンは大きく深呼吸した。


「おまえは、イカレてるな、相も変わらず」


 ユアンはゆっくりと立ち上がった。瞳は伯爵を見据えている。


「ま、ま、またボクを殴るのか?!」

「いや。殴っても効果がないことは証明済みだから。――あ!!あれは何だ?!!」

「ん?」

「え?」


 ユアンが窓の外を指して言った瞬間、彼以外の人間は一斉にそちらを向く。その隙にユアンは思い切り脚を振り上げ、伯爵の後頭部に力いっぱい回し蹴りを食らわせた。伯爵は脳震盪を起こしたようにばたりと床へ倒れこむ。我に返った使用人がユアンに銃を向けたが、横合いから飛び出してきたコルガーとヨイクが彼らの腕と銃を押さえつけて事なきを得た。ユアンは伯爵の上に馬乗りになり、力なく抵抗する伯爵を押さえつけて床のペルシア絨毯で簀巻きにしてしまった。


「この、この、商人の分際で、ボクに何てことするんだ!」


 絨毯で巻かれた伯爵はみの虫のように床でのたうった。


「まったく、イカレてるわね、いつまでたっても」


 使用人を縄で縛りあげたヨイクはぱんぱんと手を払った。


「こんな奴に殺されてやらなくて正解よ、ユアン」


 ヨイクとは対照的に、コルガーは不安そうな顔をしている。


「なあ、大丈夫なの?腐っても貴族は貴族。この人、伯爵だぜ」


 ヨイクは自信満々に胸を張った。


「二度とこの町に来なければいいだけのことよ。行きましょう、砦は民衆の手に落ちたそうだから、出港しても大砲で撃たれる心配はないわ。――ユアン?」


 ぼんやりとヨイクを眺めていたユアンを、彼女は不思議そうに見返した。ユアンは自分に向けられたヨイクの瞳に吸い込まれそうになる。


「……生まれて初めて、死ぬのが怖いと思った」


 ユアンがつぶやくと、ヨイクは目を丸くした。それから目を細めて笑う。


「そう、その割には落ち着いて見えたけど。いい経験だったわね」


 死ぬのが怖いと思ったことを、いい経験などという人間がこの世に何人いるだろう。きっと彼女だけだ。ユアンは思わず手を伸ばした。指先にヨイクの手が触れた。彼女はぽかんと口を開け、ユアンの顔と手をまじまじと見つめる。


「……あの、ユアン、だいじょおぶ?」


 ユアンはヨイクの手を握りしめる。


「あんたはおれの人生に喜びをもたらしてくれた。今まではそれだけで十分だと思っていた。でも、おれはヨイク・アールトという冒険小説の続きを知りたい。あんたの冒険を終わりまで見届けたい。――それがおれの未練だ」


 いつか船の上で、ヒベルニアから戻ったらどうするつもりなのかとヨイクはユアンに訊ねた。ユアンはよく考えもせずに「教会から逃げながらリプトン書店の本を売るつもりだ」と答えた。だが、今ならきっぱりと己の本当の望みを言える。


「ヒベルニアから戻っても、おれはあんたについて行く」


 八歳も年下の女性にこんなことを言う日が来るなんて、三年前の自分は夢にも思っていなかっただろう。だが、人生をかけてやりたいことがあるとすれば、この女性の瞳を輝かせること、この女性が何を成し遂げるのか見届けること、それだけだと思った。それだけ、たったそれだけだ。


「あんたが死ぬまでついて行く。おれに、あんたの人生を見届けさせてくれないか」


 ヨイクは驚いたように瞬きを繰り返し、それから楽しそうに声を上げ、腹を抱えて笑い出した。


「あーっはっはっはっは!何言ってんのよ!」

「……爆笑するか?おれは本気で真剣に大真面目だぞ」

「あはははは!だってあんた、自分が何言ってるか分かってる?」

「これからもよろしく頼むって言ってるだけだろ!」


 身体をふたつに折って笑い転げるヨイクに憤慨し、ユアンは簀巻きのアラン伯爵に片足をかけた。おかしなことを言ったつもりはないし、ユアンは正直な気持ちを率直に述べただけだ。

だから、蚊帳の外のコルガーの呆れたようなつぶやきは聞き間違いに違いない。


「どう受け取っても控えめなプロポーズだよな」


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