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ヒベルニアの極光  作者: 葉梨
第四章
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2.妙に素敵な夜更け

 白一色の町の中心には一本の運河が走っていて、凍りついた川面を複数の人夫が長い棒で懸命に砕いている。氷は気持ちのいい音を立てて割れ、ゆらゆらと川下へ流れてゆくが、人夫たちの顔には諦めのような表情が浮かぶ。


「これ以上寒くなれば港は凍るね」


 橋の上から作業を見守っていたギーヴは近くにいた中年の痩せた人夫に声をかけた。


「こりゃ神父様。ええ、こんなに寒いランズエンドは初めてです」


 しわがれ声で人夫が応じる。

 ランズエンドはもともとあまり寒くなる町ではない。それはベルファストやエディンバラも同様である。もちろんアルプスや北欧などと比較した場合ではあるが、外洋に周りを囲まれたアイルランドやグレートブリテン島は、例年ならばこの時期でも零下を下回らず、降雪量も少ない。


「おまけに税金は上がるわ、雪かきや運河の砕氷は義務と言う名のただ働きだわで、まったく今度のアラン伯爵にはうんざりでさあ」 

「今のアラン伯爵は厳しい方なのかい?」


 欄干に寄りかかるギーヴの金褐色の髪と濃紺の法衣が雪混じりの風になびく。人夫は片手を頬に当てて顔をしかめた。


「ここだけの話、今度のアラン伯爵はちょいとここがイカレてましてね。もともとはどこぞの侯爵家の御曹司だったのが領地で問題を起こして婿入りしてきたって噂です。先代のアラン伯爵はその侯爵家に大金を借りていたとかで、仕方なく今度のアラン伯爵を娘婿にしたとか」


「それはまた気の毒な」

「へへ、そう言って下さるのは神父様くらいでさあ。そんでは」


 中年の人夫は肩をすくめて笑い、おもむろに川下へ歩いていった。ギーヴは欄干に頬杖をつき、砕かれた氷の塊が運河を流れていくさまを見つめた。しばらくそうしていると橋の下を何隻かの小型商船が通過した。


「一刻も早く太陽を取り戻さなくちゃ」


 ヨーロッパの寒暖は緯度の高低以外に外洋に面しているか否かで決まる。そのため一般的には東へ行くほど寒いとされている。アイルランドがこの有様なのだから、スウェーデンやフィンランドなどはどうなっていることか。


「この冬を終わらせなくちゃ」


 つぶやいて顔を上げ、ギーヴは濃紺の法衣をはためかせ橋を渡りきった。

 ギーヴは途中で何度か滑りそうになりながら、人々が踏み固めた雪の上をのんびりと歩いた。かつては滑らない靴を求めて雪国の数々の靴屋の靴を取り寄せたものだが、何を履いても結局は滑るという結論にたどり着いてからは「安全な滑り方」とか「楽しい滑り方」とかをもっぱら特訓中である。


 西の曇り空がわずかに赤く染まっているが、時刻はまだ午後三時だ。目的の場所はロングウォークという大通りから裏道に入った場所にあった。赤レンガの階段を下り、『ダブリン』と書かれた看板を通り過ぎて、カラマツ材の厚い扉を開けるとその上部に取り付けられたベルが小気味よく鳴った。牛が首につけているベルに音が似ている。


「こっちよ、こっち」


 壁に灯されたランプは黄昏時のようなムーディな暗さを店内につくり出していた。その薄闇の中で手を振ったのはヨイクだ。彼女はステージに近いブナの木の丸テーブルについてた。


 ギーヴは靴の裏や法衣についた雪を入り口で落とし、ヨイクに近づいた。彼女の隣にはヒリールの姿もあった。


「コルガーとリプトン君はまだ来てないの?」


 アイリッシュウイスキーを傾けていたヨイクはギーヴの問いかけに頷いた。テーブルの中央でキャンドルの炎が揺れ、彼女の明るい金髪や青色の瞳を照らす。広い店内に他の客の姿はない。考えてみれば、日が暮れたとはいえまだ夕刻にもなっていない時間だった。


「宿の親父さんにはここに来るように、って伝言を預けて来たんだけど、殿方はみなさんお忙しいようねえ」

「コルガーあたりは夜中まで帰って来ない気がするねえ」


 注文をとりに来たウェイターに紅茶を頼み、エディンバラ名誉司教はため息をつきながら椅子に座る。ヨイクはおかしそうに笑い、長い脚を組みかえるついでにウイスキーのグラスを置いた。


 ギーヴは改めてヨイクの姿を見る。身長はギーヴより低いが、極寒の地で生まれ育った彼女には得体の知れない底力のようなものを感じる。特に青い瞳に宿る燃え盛る炎は、どんな男の目にも見たことがなかった。


「あら、ユアンと船長が来たんじゃない?」


 カラマツの扉が開き、勢いよく吹き込む雪とともに現れたのはユアンとフレドリクソンだった。ヨイクは腰を上げ、ギーヴにそうしたように彼らへ手を振った。店内は徐々に客が増えつつある。


「宿でゆっくり休みたかったでしょうに、悪かったわね。たまにはみんなでこういうところに来るのも楽しいかと思って」

「四日間船の中で窮屈に過ごしてきたんだ、パーッとやればいいんじゃないか?」


 熊の毛皮のコートと帽子を椅子にかけユアンは腰を下した。


「そうそう、今頃乗組員たちも安酒場で大騒ぎしてるはずだぜ」


 フレドリクソンもウールのコートを脱いで笑う。しばらくすると、ステージに無数の明かりが灯され、袖から十人ほどの楽団と踊り子がぞろぞろと現れた。


 ギーヴの紅茶とユアンのスコッチウイスキー、フレドリクソンのビスマル産ビールが運ばれてくると、間もなく演奏が始まった。イーリアンパイプスと呼ばれるバグパイプの一種やフィドルやハープなどの賑やかな舞曲の音色に乗って、アイルランドの民族衣装を着た少女たちがリズミカルに踊りだす。にわかに明るくなった店内はいつの間にか満席に近い。


「ところで、コルガーは?」


 ウイスキーを傾けつつ、ユアンが辺りを見回す。


「行方不明。どうせどっかで飲んでるんだよ」


 興味ない風を装ってギーヴが言ったとき、背後からよく知った声がした。


「ええっ、本当ですかああ。じゃあ、とりあえず、ギネスビールとキルケニービールとツボルグビールを一パイントずつとアイリッシュウイスキーとニシンの酢漬けとチーズと、あ、あとアクアヴィットも頂戴!アクアヴィット!」


 そのきゃぴきゃぴとした甲高い声が聞こえたのは壁際のカウンター席だった。さっきまで舞台で踊っていた民族衣装の少女が、恰幅のいいゲルマン系の中年商人に肩を抱かれてウェイターに酒を注文していた。深く被った黒髪のカツラで横顔が半ば隠れ、顔に濃い化粧がほどこされてはいるが、勝気な茶色の瞳は間違いなくギーヴの兄の曾孫のものである。


「c'est incroyable……!」


 ギーヴは母国語でつぶやき、テーブルの上で握った拳を震わせてうなだれた。ヨイクとフレドリクソンは大口を開けて笑い転げ、沈黙するギーヴに代わって立ち上がったのはユアンだ。ヒリールは民族衣装の乙女がコルガーだと分かっていない。


「ちょっとからかってやるか」


 意地悪そうな笑みを浮かべるユアンの顔には本領発揮と書いてあった。






 数時間前のこと。


「えっこれ着るの?!オレが?!」


 労働局で指定された店に着くなりコルガーは地下の小部屋に引っ張り込まれ、出し抜けに服を着替えろと言われた。その部屋には窓がなく、壁際に鏡台と椅子がずらりと並び、奥には様々な衣装がぶら下げられている。


 コルガーに衣装を手渡した女はぴしゃりと言い放つ。


「お金が必要ならつべこべ言わない!お客からもらったチップは自分のものにしていいし、アンタそれなりに可愛い顔してんだから、おめかしすればじゃんじゃんお酒をおごってもらえるわよ?」

「酒?!ハイ!やります!!」


 女が楽屋を出て行くと、コルガーは白いブラウスの上に緑のワンピースを着て白のエプロンをつけるという典型的なアイルランドの民族衣装に着替え、鏡台に据え置かれた化粧品の箱を探った。それは、子供のころ、母の化粧品で遊んで以来、手にすることのなかったものばかりだっだ。


「……本当なら、オレも化粧くらいしてるはずだったんだよな。三月地震がなければ、きっと」


 鏡の中の十六歳の自分は、どう見ても痩せっぽっちの少年だ。三月地震の前は長く伸ばしていた髪も、今ではすっかり短くなっている。コルガーは白粉を手に取り、見よう見まねで顔にはたいた。茶のアイシャドウで目元を色どり、頬紅を薄く両頬にのせる。口紅は控えめにピンク色のものを塗った。


 二十分後、自分なりに研究して作った顔を色んな角度から確認しつつ、コルガーは鏡の前でポーズを取った。我ながらいけてるんじゃないか?最後に緑の帽子をかぶる。


「これでただ酒が飲めるなら、こんな良い商売はないよな」


 そう独りごちたとき、扉が開いてどやどやと四人の女の子が入ってきた。この寒いのに薄いブラウスとスカートに使い古したエプロンをつけているだけの貧しそうな少女たちだ。


「あ、新しく入った子?」

「わあ可愛い。よろしくねえ」

「ねえ髪短いわ、カツラ着けなよカツラ、これなんてどう?」

「えー、だったらそっちじゃなくてブロンドじゃない?」

「ばかねえ、そこをあえてブルネットにするんじゃないのお」


 きゃあきゃあと笑いながら女の子たちはコルガーに何種類ものカツラを被せる。コルガーは顔を真っ赤に染めて大人しくしていたが、「あなたはどれがいいと思うの?」と意見を求められると、楽屋の隅に飾られていた黒髪のカツラを選んだ。特に理由はない。


 白粉を塗りたくった顔と色が違うといって首を塗られ、化粧が薄いといって睫毛に何かをつけられ、ようやく楽屋を出たときにはコルガーは疲れ果てていた。


「今日は新しい子がいるからね。一度みんなで合わせようか」


 地下一階に位置する開店前のパブは寒く、夜のように暗かったが、その舞台に勢ぞろいした四人の楽団員も踊り手の女の子たちも明朗快活なアイルランド人で、コルガーは久しぶりに故郷に戻ったような気分になった。


 二人のフィドル奏者が賑やかな曲を奏で始め、それに合わせるようにハープとイーリアンパイプスが鳴る。横一列に並んだ女の子たちがタップを踏んで踊り始め、コルガーもそれに習って体を動かす。全員の息がそろったところでリーダー格のフィドル奏者が雄たけびを上げ、曲のテンポを倍の早さに変える。一同は楽しげに大声で笑い、お互いに顔を見合わせながら踊った。




「くううう、ギネスビール、天才!!」


 一パイントを一気に飲み干したコルガーに、隣席のゲルマン系の中年商人は一瞬目を丸くしたが、すぐに豊かな黒髭の下でにやにやと笑い出した。


「がっはっは、アイルランド人は女の子でも酒が強いんだなあ」


 その笑みからは脂ぎった下心がちらりと見えたが、コルガーは気にせず二杯目に口をつける。あいにく、酔いつぶれない自信は大いにあるのだ。


「ええっそんなあ、あたしなんて大したことないですう」

「そうなの?まあどんどん飲みなさい」

「きゃーいただきまあす!」


 天職、天職だ、これがオレの天職に違いない。コルガーは愛想笑いの裏でそう確信した。こんなにおいしい仕事があったなんて、今までの自分は何をしていたんだろう。


 だが、至福のときは長くは続かなかった。ニシンの酢漬けを頬張り、キルケニービールを空にしたとき、背後から声をかけられた。


「失礼、お嬢さん」


 そう断り、コルガーの肩に手をかけたのは上品な赤毛の商人だった。コルガーはビールを噴き出しそうになり、それからカウンター奥のウェイターが差し出したアクアヴィットを目に留めて、その衝動をこらえた。騒ぎを起こせば、これが飲めなくなるかもしれない。


 一方、中年商人の方もアクアヴィットのグラスに目をつけている。これはじゃがいもの焼酎で、アルコール度数は四十度を越える。可愛い女の子を酔い潰すなら是が非でも飲ませたい酒だ。


「彼女はわしと話してるんだ、邪魔しないでもらえる?」


 中年商人は赤毛の商人を振り返って凄んだが、ほとんど呂律が回っていないので迫力はない。むしろ涼しげな表情で彼を見下ろす赤毛の商人の方が迫力満点だ。


「お嬢さん、私と踊ってくれたら一ポンド差し上げよう。それに好きなだけ酒もおごりましょう」

「ええっ」


 コルガーの目がにわかにダイヤモンドの輝きを放つ。赤毛の商人は意地悪く微笑み、中年商人を横目で見た。どんなもんだと顔に書いてあり、この人こういうところは子供だなあとコルガーは一瞬我に返った。


「ほざきやがって。さあさ、お嬢ちゃん、こんな奴は無視して飲みなさい。そうだベルファストの話を聞かせてよ」


 中年商人がそう言ったとき、舞台で新しい曲の演奏が始まった。ひときわ明るく、アップテンポな曲だ。持参した楽器で演奏に加わる客が何人もいて、もう舞台も客席も、演奏者も観客も境界線がない。お祭り騒ぎだ。


「さあ」


 赤毛の商人はコルガーのワンピースの胸元に一ポンド札を差し込み、脇の下に手を入れて少女の体を強引に抱き上げる。


「踊ろうか、美しいお嬢さん」


 びっくりして声も出ないコルガーに構いもせずに彼は楽しげに笑った。悪意のない少年のような笑顔だった。


「もとい、コルガー・バルトロメ君。おまえ本当に男か?」


 ユアン・リプトンの言葉に、抱きかかえられたままコルガーはのけぞった。


「ななな何でオレだって分かったの?!」

「バレないとでも思ったのか?見ろ」


 ユアンが指した先にはギーヴやヨイクの姿がある。ギーヴは呆れ顔で脱力し、ヨイクとフレドリクソンは笑いすぎて涙を流している。ヒリールはきょとんとした顔でこちらを見ていた。


「さあ、準備はいいか?おれはアイリッシュダンスがハイランドダンスの次に得意なんだ」

「な、なんでオレがユアンと踊らなきゃなんないんだ!」

「一ポンド払っただろ」

「返す!」


 コルガーが一ポンド札を突き返すとユアンは愉快そうに笑い、紙幣を再び彼女の胸元に戻した。どうやらからかわれたようであるとコルガーが悟ったときだった。


「嬢ちゃん!!」


 大声とともに舞台の上からフィドルが放られて、コルガーは慌ててそれを受け止める。見上げると、満面の笑みのフィドル奏者が拳を振り上げて叫んだ。


「いっちょ弾いたれ!」


 コルガーはフィドルを肩の上に構え、冗談めかしてフィドル奏者を睨み上げる。


「こら、バイオリン投げる奴がいるかよ!」

「そいつはバイオリンじゃない、フィドルさ!ビールをこぼしたって泣く奴ぁいない!」


 期待通りの答えに破顔し、コルガーは楽器をかき鳴らした。音色よりステップ、美しさより誇り、価値より楽しさ。同じ血の流れる人たちと一体になる幸せと故郷への懐かしさや愛しさがこみ上げる。


「アイルランド万歳!」


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