1.大地の果て
青黒い波は渦のごとくうねり、武装商船のたくましい胸板に当たっては白いしぶきを大いに上げる。横殴りの風が吹き、帆船は小島の影から躍り出た。目の前には髑髏の旗をかかげた海賊船が無防備な様子で漂っている。
「ようし、コルガー、一発やりやがれ!」
フレドリクソンの野太い声が甲板に響き、コルガーは慎重に素早く大砲の照準を合わせる。
「――見てろよ、ど真ん中に風穴開けてやる」
狙いを定めたら、あとは点火するだけだ。一時的に聴力を失うほどの轟音とともに飛び出した真っ黒の砲弾が、わずかに弧を描いて海賊船のメインマストに命中したのは数秒後。
「よっし、やったぜ!」
それを皮切りに武装商船メルセデス号と海賊船の砲台から次々と砲弾が飛び出した。先手を期したメルセデス号はあっという間に海賊船の残りのマストを倒していく。一方、海賊船から放たれた砲弾は一向に当たらず、どぼんどぼんという虚しい音をたてて海中に沈んでいった。さすがの海賊も不意を突かれるとこの様だ。
ほぼ航行不能となった海賊船を残し、メルセデス号はランズエンド港へ向かった。海賊たちの戻ってきやがれコールが響き渡るのを聞き、コルガーは歓喜の声を上げ、そばにいたカールと片手を打ち合わせた。
「どうして私を起こさなかったのよ!」
朝食の後、自室でうとうとしていたヨイクは海賊との戦闘を見逃したらしい。ヨイクが騒ぎを聞きつけて甲板に出て来た時には船はほとんど港に着いていて、彼女はたまたま近くにいたコルガーに八つ当たり気味に噛みついた。
「海賊なんてそうそう見られるもんじゃないのにー!!悔しい!!」
「んなこと言ったって、それどころじゃなかったもん」
怒り狂うヨイクに困惑しながら船を下り、コルガーは港町ランズエンドの地を踏んだ。「地の果て」を意味する名を持つこの町は、アイルランド島の北西部の突端に位置していて、アラン伯爵という人物によって治められている。
「それより、あの船長ただ者じゃないんじゃね?飛び石みたいな小島の影に隠れながら海賊船に近づいていって、後ろからずどん、だぜ。怖えよ」
コルガーはフレドリクソンを見くびっていた。豪快なだけの男だと思っていたが、冷静に迅速な指示を出し、あっという間に海賊をやっつけてしまったのだ。
「ユアンはユアンでオーラ出てるし、ギーヴ猊下も聖なる妖怪だし、ヒリールもお姫様だし、ヨイクも有名人だし、つくづく普通の奴がいないっていうか」
コルガーはヨイクと並んで船着き場を進む。足元でざくざくと唸る積雪は数十センチに及び、午前十時をまわっているというのに雪で覆われた町は夜明けの薄明の中にある。カモメの群れが低空飛行する空には相変わらずの分厚い雲だ。
「おっしゃる通りだけど、自分のことを棚上げするのはいかがなもんかしらね」
ヨイクが言った時、真っ青な顔色のヒリールがユアンに支えられながら船を下りて来た。コルガーは辻馬車をつかまえ、自分とヨイクの荷物を荷台に放ると、ヒリールの手を取って座席に乗せてやった。その隣にギーヴが座り、さらにヨイクが乗り込んだ。
「おれは新聞社に行く、あとでこの宿で落ち合おう。フレドリクソンの知り合いの宿だ」
ユアンは言いながらヨイクにメモを手渡した。
「もし空き室がなかったら別の宿を紹介してくれるはずだから、とにかくその宿の親父に頼っていいそうだ。くれぐれも一人でふらふら出歩いて迷子になったりしないように」
「分かってるわよ。どうしたの、コルガー?」
馬車に乗ろうとしないコルガーに仲間たちの視線が集まる。コルガーは馬車から数歩後ずさり、にっこりと笑ってヨイクたちに手を振った。
「オレも野暮用」
コルガーはユアンから宿の地図を受け取って、軽い足取りでランズエンドの街を歩き始めた。フィドルケースを背負っているが、行先はパブではない。
ヨーロッパの冬はとにかく暗くて寒い。冬至を約一週間後に控えたこの時期のイギリスやアイルランドの日の出はおおよそ午前九時、日の入は午後三時半だ。一日の日照時間は六時間ほどしかなく、しかも太陽は南の低い空を通って沈んでしまうというサービス不振ぶりである。おまけに今年の冬の寒さと暗さは、三月地震以来太陽が一度も姿を見せていないせいで例年の群を抜いていた。
都市ではクリスマス市が盛況だが、異常気象がもたらした被害は大きく、どの町のマーケットも昨年と比べてはるかに寂れている。市場に並ぶ商品は質が悪い割に値段が高く、しかも慢性的な品薄状態が続いているので人々の購買意欲は下がるばかりだった。
十分とは言えない準備でクリスマスを迎えるのは惨めで腹立たしいことだ。ランズエンドは町全体がフラストレーションで満ちているかのようだった。
「さっみい」
コルガーは白い息を吐きだしながらコートのポケットをさぐった。ウイスキーが少量入った小瓶が指に触れる。こう寒いと酒がなければ生きていけない。だが、物価の高騰はコルガーの好物にまで及んでいる。
「ここで稼がなきゃ酒代がね」
ウイスキーをあおり、空になった瓶をコートのポケットにねじ込む。雪がちらつくオフィス街をうろつき、コルガーが目的地を発見したのは午前十一時だった。
ランズエンドの労働局はびっしりと雪に覆われたシンプルな三階建ての建物で、その中に足を踏み入れると、カウンターの向こうで紅茶を飲んでいた男がコルガーに目を留めた。
「やあ、仕事ある?」
コルガーは彼に気さくに話しかける。労働局は閑散としていた。日雇い労働者たちはすでに斡旋された仕事に取り掛かっているのだろう。
「おう、坊主、見ない顔だな。探しているのは午後からの仕事か?」
男は立ち上がり、オフィスの奥から陶器のティーカップを持ってくる。コルガーはそれを目で追い、毛糸の帽子と手袋をはずしながら答えた。
「ベルファストから来た。今すぐ出られるし夜まで平気」
「よそ者か、どおりで。首札はあるんだろうな?」
「もちろん」
帽子と手袋をコートのポケットに突っ込み、コルガーはマフラーの間から首札を引っ張り出して頭から抜く。男はそれを受け取り様に、コルガーの前のカウンターに白湯の入ったカップを置いた。
「紅茶じゃなくて悪ぃな、こっちも不景気でよ。俺はランズエンドに住んで三十年だが、こんな寒さも雪も初めてなんだぜ」
「ありがと」
コルガーは背中のフィドルケースを下ろし、かじかんだ手でカップをとって白い湯気を顔に当てる。暖炉のある屋内とはいえ、無制限に燃料を使えるわけではない。冷え切った体を温める方法としては、酒か温かいものを飲むのが一番なのだ。コルガーとしては前者の方が好みなのだが、まあ、ここで贅沢は言えない。
「コルガー・バルトロメ、十八歳か。……十八には見えないなあ」
「悪かったな。気にしてるんだ」
コルガー・バルトロメが二歳年上の兄だということはもちろん黙っておく。コルガーが睨むと男はへらっと笑った。
「悪い悪い。それにしたって、おまえさんベルファストから何しに来たんだ?」
男は心配そうに訊ねつつ、手元の書類に何かを書きつける。コルガーはその質問を待ってましたとばかりにガクッとうつむき、なるたけ悲哀に満ちた口調で言った。
「アメリカの……病気のおっかさんのとこまで行くんだ……!」
「そ、そうだったのか……!!」
目頭を抑えて天井を仰ぐ情に厚い男を横目に、コルガーは書類にささっとサインした。これでランズエンド市内での今日の労働が許されたことになる。
「で、現場はどこになるの?直すのは何?市壁、市門、石畳、街道、橋、船着場、堤防、牧農地の柵に住宅街、何でも直せるよ。でもできればお城とかお屋敷とか教会とかに触りたいなあ」
うへへと一瞬夢を見てしまった建築ばかの若者とは裏腹に、男は同情の眼差しで彼を見た。
「近頃じゃ、そういうまともな仕事はなかなか入ってこないのさ。入ってきたとしても、家族持ちのランズエンド市民が優先なんだ」
「ちぇ。じゃあ雪かき?薪用の木の伐採?それとも泥炭掘り?」
あまり期待をかけずに訊ねたコルガーに、男は朗らかに笑った。それはそれは朗らか過ぎてコルガーが怪しむほど。
「心配するな、おまえさんにピッタリの仕事がある」