13.あいはぶあすとろんぐらばー
「うえー」
深夜、ヒリールはベッドから転がり下りた。暗闇の中で靴を履き、ミルク色の寝間着の上に毛織りのストールを羽織って自分の部屋を出る。ひどい船酔いをした挙句、数ヶ月前に嵐の海へ船から投げ出された時のことを夢に見てしまった。
「うえー」
しんと静まり返った廊下をよろよろと歩き、ヒリールは食堂の隣にある厨房の扉を開けた。明かりがついていて、大柄な男がかまどの前に立っていた。おそらくフレドリクソンの部下なのだろう、背が高く筋肉隆々の大男だ。
「あ、あの、こんばんは」
ヒリールが声をかけると大男はぎょっとしたように慌てて振り向いた。目深にかぶった鼠色の毛糸の帽子の下から綺麗な青い瞳が見える。現れた相手がヒリールだと分かると、彼はほっとしたように首を傾けて微笑んだ。
「ほわっつ?」
ヒリールは一瞬きょとんとしてしまった。
「えっと、そっか、あなた英語があんまり分からないのね」
「いえす」
「あの、お水がほしいの。できれば、お湯」
そう言った瞬間、数秒間忘れていた船酔いが戻って来た。ヒリールは前かがみになって近くにあった椅子に腰を下した。
「ほっとうぉーたー?おーけー」
大男は柔らかく笑って、かまどにやかんをかける。ヒリールは手で口元を覆ってしばらく石のように動かなかった。大男が目の高さを少女に合わせてカップを差し出してくれた時、ヒリールはやっと我に返った。
「ありがとう」
「ゆーあーうえるかむ」
ヒリールは熱いカップを受け取り、しばらく白い湯気をぼんやりと眺めた。お湯を一口すすると、中に生姜のしぼり汁が入っていた。温かくて、優しい味だった。
「うーー!!!」
ヒリールは歯を食いしばった。何もかも堪えようとした。抑えて諦めて腹をくくって覚悟を決めて、全部飲み込んで平気な振りをしなければならないのに。両目から涙が溢れ、頬や顎を伝って床へ滴り落ちる。
大男はびっくりした様子で数秒間固まっていたが、おそるおそるヒリールの頭に手を伸ばした。大きな掌が慣れない手つきでヒリールの頭を撫でる。
「うわああん、もう嫌だよー!」
船酔いはひどいし、しょっちゅう悪夢を見るし、ヒベルニアに帰った後のことを考えると気が重い。どうしてこんなことになってしまったのだろう。
「うちに帰りたいよお。でも帰ったら、わたしのせいでヒベルニアの秘密が暴かれて、おまえなんて、あの嵐の夜に死んでしまえばよかったのにって言われるんだ。マキシムおじいさまは霧山の王なんかじゃないもの」
しゃくりあげるヒリールの頭を大男は不器用に撫で続けた。
「きんぐおぶみすてぃっくまうんてん?ちゃいるずすと-りー?」
「え?知ってるの?」
大男は頷いた。
「ヨイク、どこの国の民話だって言ってたかなあ。あなた、何人?ええっと、あなたの国、どこ?」
ヒリールは涙をぬぐい、生姜湯をすすりながら訊ねる。大男は一瞬青い瞳を泳がせた。
「……すうぇーでん」
「そうなんだ。こんな船に乗るくらいだから何か事情があるんだろうけど……あなたも故郷が恋しいよね」
「あいはぶあらばー」
何故か大男は照れ笑いして頭をかいた。
「あいはぶあすとろんぐらばー」
ヒリールは涙の止まった目で瞬きを繰り返す。
「強い……ゴム?」
「いえす」
大男が誇らしげに言った時、扉が開いてユアンが現れた。
「そこで何してる?」
ユアンはいつもと同じ立派な仕立てのスリーピースに身を包んでいたが、ヒリールは寝間着姿だ。少女は急に恥ずかしくなって毛織りのストールをきつく身体に巻き付けながらユアンを見上げた。
「船酔いがひどくてここへ来たら、彼が生姜湯を作ってくれたの」
ヒリールが大男を指すと、ユアンは彼をちらりと見下ろして片眉をひそめた。
「そういえば昼間から元気がなかったな。少しは良くなったか?」
「うん、楽になったみたい。どうもありがとう、ええと」
「彼はカールだ」
「ありがとう、カール!わたし部屋に戻る」
椅子から立ち上がり、微笑むカールに手を振ってヒリールは厨房を出た。ユアンが「送ろう」と言って彼女についてきたので、ヒリールは嬉しくて心が弾んだ。そういえばユアンはヒリールが昼間から具合が悪かったことに気がついてくれていたようだった。
「あ、あのね、ユアン」
「あいつと何か話したか?」
心配かけてしまったことへの謝辞と密かな好意を示す機会と思って口を開いたヒリールの言葉を遮り、ユアンは訊ねた。ヒリールはカールとの会話を思い出しながら答えた。
「ええと、彼はスウェーデン生まれで、故郷に強いゴムの木があるって」
「……スウェーデンにゴムの木は、ないんじゃないかな」
「そうかな、そうだね、暑い国にあるものだよね。あれ、じゃあ、スウェーデンじゃなかったのかな」
首をかしげているうちにヒリールの部屋に着いてしまった。
「ユアンはまだ寝ないの?」
「いろいろと仕事があってね」
ひらひらと手を振って立ち去るユアンの後ろ姿を見つめ、ヒリールは腑に落ちないものを感じながらベッドへ向かった。
グラスゴーを出発して四日目、十二月十四日の朝。
朝食の後、ギーヴは甲板に出て大きく息を吸い胸に手を当てた。
「私たちの小さな船は あなたの腕に抱かれ」
ギーヴが歌い始めると周囲の乗組員も声を合わせた。航海の無事を祈る歌だ。
「あなたの御心のまま 揺られて進む」
遡ること四日前、乗船して間もなく、ギーヴはユアンにこう言われたのだ。
「あなたに力仕事をさせるわけにはいきませんが、何もすることがないのは退屈でしょう。猊下には歌を歌っていただきます」
ギーヴは首をかしげた。
「え?歌?」
「時間を知らせる歌ですよ。乗組員は時計を持っていませんから、時計が一時を指したら一時の歌を、二時を指したら二時の歌を歌ってください。それから起床の歌と朝の祈りの歌も」
「そんなに歌うんだ」
「あなたの歌に合わせて他の乗組員も歌います。全員で歌うことで乗組員の団結を固くするんです。ストレス発散にもなります」
「へえ」
「我々がしているような危険な航海の上で、事故の次に恐ろしいのが乗組員による暴動です。あなたやヨイクを人質に取られ、船を陸に戻せと脅されれば計画は全てパーですからね。船長をフレドリクソンに任せ、彼が信頼する部下を乗組員としたのも、そこに私の元使用人を混ぜたのも、最悪の事態を防ぐための手立てです」
ギーヴはなるほどと頷いた。
「分かった、心して歌うよ」
「ありがとうございます。念のため、お持ちの懐中時計の針を操舵室のものと合わせて下さい」
「時計は持ってないんだ。俺の体内時計はすごいよ。十五分おきに鐘が鳴る鐘楼で六十年も暮らしてたから」
航海が始まってから、ギーヴはその役目をきちんと果たしてきた。船はそろそろランズエンドに到着する予定だ。
「あなたよ どうか安らかであれ
あなたよ どうか穏やかであれ
あなたよ どうか静かであれ」
歌い終わり、ギーヴは船室に戻ろうと揺れる甲板を歩きだしたが、船尾に小さな人影が見えてそちらに歩みを進めた。
「やあ、ヒリール。朝食の席にいなかったから心配したんだよ」
後ろから声をかけると、少女は青い顔で振り向いた。乗船してからずっと、船酔いがひどいらしい。
「ギーヴおじいさま、おはようございます。今朝もカールが生姜湯をくれたからランズエンドまでは何とか頑張るけど、食欲は全然ないの」
口元に手を当て、ヒリールは弱弱しい目でギーヴを見上げる。ギーヴは彼女の隣に並んで小さな背中をさすってやった。この年頃の女の子としてはやせ過ぎだ。
「そろそろ着くはずだってフレドリクソンも言ってたよ。もう少しの辛抱だ」
「はい」
ヒリールは従順に頷き、それから首を傾けた。
「ねえ、ギーヴおじいさまはどうしてマキシムおじいさまと一緒にヒベルニアへ行かなかったの?シスター・アンジェラも」
純真無垢な瞳に見つめられ、ギーヴは頭をかきながら本当のことを言った。
「俺もアンジェラもマキシムと離れ離れになりたくはなかったよ。だけど、俺はエディンバラ教会とクラシック教徒が共存できる世の中を作りたいんだ。そのためにはヒベルニアへ隠れていたらだめだと思う。教会の歴史を知り、他の宗教を知り、人間と宗教について考える、それが今の俺の仕事。アンジェラは、こちらに残った仲間の世話をするために留まったんだ。仲間を見捨てたとマキシムが後ろ指をさされないようにね」
「じゃあ、ギーヴおじいさまとシスター・アンジェラは、愛し合っていたわけじゃないの?二人で示し合わせて残留したわけじゃないってこと?」
あまりにも率直な質問にギーヴは咳きこんだ。胸を抑え、どきどきしながら言葉を選んで否定する。
「あ、当たり前でしょう!アンジェラはマキシムの妻だよ!」
ヒリールはふうんと言って水平線に目を移した。本当に納得してくれたのだろうか。ギーヴは疑り深く少女を見つめたが、そうしているうちにいつか聞こうと思っていたことを思い出した。
「ヒリール、マキシムは俺たちを恨んでるの?」
ヒリールがギーヴを顧みた。茶色の髪が風にそよぎ、大きな目がギーヴをとらえる。その茶色の瞳はすぐに伏せられた。
「恨んでいるかどうかは分からないけど、とても悲しんでるのは本当だよ。マキシムおじいさまはギーヴおじいさまやシスター・アンジェラが来るのをずっとずっと待ってる。待っても待っても二人とも来ないから、マキシムおじいさまの心は凍ってしまったと言われてるの」
「心が凍った?」
「うん。昔のおじいさまを知る人はみんなそう言う。マキシムおじいさまは、昔は今のようじゃなかったって。マキシムおじいさまは、ギーヴおじいさまとシスター・アンジェラが自分を裏切ったと思っているんじゃないかと思うの」
誤解だ、とギーヴが眉をひそめた時だった。
「港だ!港だぞー!」
頭上の見張り台から嬉しそうな声がした。操舵室の扉が開き、フレドリクソンとユアンが姿を現す。ギーヴとヒリールが目を凝らして水平線を見ると、陸らしきものが見えた。
「間違いねえ!あれがランズエンドですよ、旦那!」
望遠鏡を覗きこみ、フレドリクソンは大声で笑った。ユアンは満足そうに微笑み、フレドリクソンのたくましい肩を叩いた。
「さすがだ、予定通り。――猊下、ヒリール、一時間後にはランズエンドに上陸します。荷物をまとめておいてください」
本人には言っていないが、ヒリールの体調を考慮して今夜は陸に泊まることになっている。ギーヴとヒリールは船室に戻った。彼らが荷づくりを済ませて甲板に戻って来た時、小島の多い行く手の海に、見張り役が不吉な船影を見つけた。海賊船だ。