12.洋上会議
お手元に世界地図があれば尚たのしいかと……。
潮騒の音、ぎらぎらと輝く太陽、カモメの鳴く声、真っ青な空。
「マキシムが行ってしまって、もう何年になるかしら」
いつになく穏やかなベルファスト湾の海面を、白いカモメの群れが滑空している。刺すような日差しに、ギーヴは額の汗をぬぐう。
「君が辺鄙な邦に住み着いて、もう五十数年。君の曾孫はいくつになったんだっけ?」
ギーヴの問いにシスター・アンジェラは口元に手をあてて笑った。灰色の修道着がばさばさとはためく。風が強い。
「一番上のコルガーは十二歳よ。この前、十歳のエドが聖堂の屋根を落としたの」
「屋根を落とした?あっはっは、昔マキシムもやったよねえ」
「エドはマキシムにそっくりよ。聖堂が暗いから、高窓を広げようとしたんですって」
「血は争えないねえ」
二人は微笑みあい、しばらく黙って海を眺めた。この海の彼方に、マキシムがいる。この打ち寄せる波は、彼の建てた果ての国へ繋がっている。そう思うと、二人は温かい気持ちになれた。そして少しだけ悲しい気持ちにも。
「ねえ、ギーヴ猊下」
アンジェラが被り物を取り去った。彼女が頭を軽く振ると、長い白髪が潮風にさらわれる。ギーヴは胸にほろ苦いものを感じ、彼女から目をそらした。昔むかし、まだ二人が同じ村の修道院で暮らしていた頃、ギーヴは彼女に想いを寄せていたのだ。
「私たちの選択は間違っていなかったわよね?」
訊ねてこそいるものの、アンジェラの声色にはわずかな迷いも感じられなかった。彼女はただ、肯定を求めているだけだ。ギーヴは答えなかった。それが彼の肯定だった。
「また来るよ。今度はもっとゆっくり、君と、君とマキシムの孫や曾孫たちに会いに」
ギーヴはうたた寝から目を覚ました。いつの間にかメルセデス号の甲板の欄干に寄り掛かって眠っていた。六年前、ローマの友人のところから戻る途中でベルファストに奇港した時の夢だ。水や食料を補給するわずかな滞在時間にアンジェラが会いに来てくれたのだ。
「おーい、猊下―!」
己を呼ぶ声に振り返ると、船内から飛び出してきたコルガーが揺れる甲板を身軽に駆けてくる。ギーヴは目を細めて微笑んだ。
「居眠りしていたら、アンジェラの夢を見たよ」
「へえ、ばあちゃんの夢?」
雲間から降り注ぐわずかな日光の下で、コルガーは太陽のように破顔した。
「まだ君が子供の頃、そう、君が聖堂の屋根を落とした頃の夢」
「な、何でそんなこと知ってるんですか?!」
コルガーは頬を染めてのけぞる。ギーヴはそれを愛おしく思いながら声を立てて笑った。鳥の群れが上空を横切り、甲高い鳴き声を上げる。夢の中で見ていたカモメの飛び交うベルファスト湾を思い出す。
「アンジェラに聞いたんだよ。君はマキシムに似てるってね」
「若気の至りだから忘れて下さいよー。それより、ヨイクとユアンが会議しようって!早く来て下さいね!」
コルガーは船内へ続く扉に向かって走り出し、ギーヴもゆっくりと彼を追う。その時、一羽のカモメがギーヴの頭の上を追い越した。白い両翼をぴんと広げ、大空を自由に滑空する姿に、ギーヴは思わず足を止めた。
「――間違ってなんかないよ、アンジェラ」
マキシム、ギーヴ、アンジェラ。三人の選んだ道はすべて異なっていた。マキシムはヒベルニアへ。ギーヴはエディンバラへ。アンジェラはベルファストへ。望みさえすれば寄りそうこともできたはずなのに、誰もそうしなかった。その代わり、孤独だと思ったことは一度もない。他の二人もそうならいいとギーヴは思う。
「俺たちの誰の選択も、間違ってなんかいなかったよ、アンジェラ」
ギーヴは曇天を見上げた。
「だけど、こんなやり方はまずいよ――マキシム」
メルセデス号の操舵室の円卓にコルガー、ギーヴ、ユアン、ヒリール、フレドリクソンがそろったところで、ヨイクは立ち上がった。
「フレドリクソン船長と相談して決めた今後の予定をみんなにも話しておくわ」
言いながらヨイクは円卓に地図を広げた。中央に大西洋、右にヨーロッパ、左に北アメリカの描かれた地図だ。
「今、私たちはこの辺りにいるの」
波が高く、潮の流れが速い。ヨイクはバランスを取りつつ長い棒の先で地図を指した。スコットランドとアイルランドの間の海だ。
「そして、私たちはアイルランドの北の海を通って大西洋を目指す。この船には教会に追われている御方やお尋ね者が乗っているから、寄港は必要最低限に留めるわ。今のところの寄港予定地はアイルランド北西部の港ランズエンドだけ。西の果て、陸地の終わりと言われている、どん詰まりにある港町よ。だいたい三日から四日で到着する予定」
説明が終わるとヨイクはぐるりと仲間の顔を見渡した。ユアンとフレドリクソンはすべて了解済みという顔をしていて、ヒリールは大人しくじっと地図を見つめている。ギーヴは心ここにあらずという風で聞いているのかいないのか分からない。口を開いたのはコルガーだった。
「質問。ヒベルニアがアイルランドの西、つまり大西洋にあるってことは御伽噺で聞いてオレも知ってるけどさ、正確にはどこらへんにあるわけ?ヨイクを信用してないとか、疑ってるとかってわけじゃないけど、それ、オレたちには教えてくれないの?」
腑に落ちないという顔でコルガーが頭をかく。
「そりゃ同感だ、ちったあ教えてくれてもいいんじゃないか?最終目的地について知らされずに航海するなんて初めてのことだぜ」
底抜けの明るさで笑ったのはフレドリクソンだ。ヨイクは「それもそうね」と呟き、ひとつ深呼吸した。
「ヒベルニアがあるのはここ」
ヨイクはちょうどベルファストの真西、アイスランドの真南を指した。それまで涼しい顔をしていたユアンも、眠そうにしていたギーヴも、うつむいていたヒリールもヨイクの指した場所を凝視する。
「その辺りは大昔から使われているアメリカ大陸への航路のひとつだ、おれも周辺を通ったことがある。こんなところに幻の島があるとは考えにくいんじゃないか」
ユアンは不安げにヨイクを見た。フレドリクソンも頷く。
「旦那の言うとおりだ。俺も近くを通ったことがあるが、ヒベルニアなんて影も形もなかったし、この海域で島を見たなんて話は聞かないぜ」
「そうよ、この辺りは昔から使われている航路のひとつ。北アメリカを『発見』したジョン・カボットも、ここを通って航海した」
「ジョン・カボットって誰?」
コルガーの問いに答えたのはユアンだった。
「ジョン・カボットは十五世紀の貿易商人だ。イタリアのジェノバで生まれ、後にヴェネツィアへ移り、コロンブスと同時代を生きた。コロンブス同様、王室から資金援助を受けて何度か冒険の旅に出ている」
ユアンが説明している間にヨイクは羽根ペンとインク壺を引き寄せた。
「そのジョン・カボットが、新しい土地を探しに出かけた時の針路がこれよ」
ヨイクは地図に素早く線を引いた。線はイングランドを出発し、北大西洋を抜けてグリーンランドに近い北アメリカ北部まで届く。
「ジョン・カボットの船はイングランドのブリストル港を出て西へ向い、アイルランド島を通り過ぎたところで北西を目指すの。性急に、真っ直ぐにね。変だと思わない?」
ヨイクはヒベルニアがある海域を丸で囲んだ。ジョン・カボットの船団はその丸をよけるように北へ向かっている。
「変?」
フレドリクソンが首をひねる。ヨイクはペンを置いて仲間の顔を見回した。
「あのね、この時、カボットはスポンサーであるイングランド王ヘンリー七世からこう言われて船を出したの。『東部・西部・北部のあらゆる方面で、未知の島や国や地域、地方を何なりと求め、発見し、見つけること』――そして貿易商だったカボット自身は、香辛料を直接東インドから仕入れるために東インドへの西回り航路を探してた。彼はアラビアを経由することで商品の値段が跳ね上がることを憂いてたのよ。新しい土地を見つけろと言われれば、当然、東インドへ向かう足がかりとなる土地を目指すはずでしょう。東インドを目指すのに、何故ここで北西へ針路をとるの?」
ヨイクはとんとん、と地図をたたいた。
「カボットの船団は、ある海流に嫌われたのよ。その海流はヒベルニアへ続く道。普段は船をよそへ押し流してしまうけれど、冬至の夜にだけ理想郷へ連れて行ってくれる」
「まさか!」
フレドリクソンは笑い飛ばしたが、その隣のユアンは真剣な顔つきで考え込んでいる。百戦錬磨の船長には信じがたいことだったのか、フレドリクソンはヨイクとユアンを交互に見やって困ったような顔をした。
「リプトンの旦那、まさかそんな御伽噺みたいなこと、信じるんですかい?」
ふうっと息を吐き、ヨイクはトナカイ革の鞄から紙の束を取り出した。
「これはカボットの船団の航海日誌の写しよ。ここを見て、『羅針盤に従って船を進めようとするも、風と海がそれを拒む。再びの失敗を恐れ、針路を北西にとる』」
「再びの失敗?」
リプトン家の執事が運んで来た紅茶に大量の砂糖を入れつつ、ギーヴは首をかしげる。ヨイクはうなずいて、片手を腰にあてた。
「カボットにとって、これは二度目の挑戦だったの。一度目の航海を失敗していて、しかも既にスペインとポルトガルから出資を断られていたカボットとしては、まさに背水の陣だったってわけ。ヘンリー七世も新航路の価値については懐疑的で、失敗すれば次のチャンスがあるかどうか分からない。実際、この航海でイングランドは新しい領地を手に入れたけど、その後、新航路の開拓からいっさい手を引いたわ。だからカボットの三度目の航海は完全に自費」
ユアンがうなった。
「なるほど、失敗するよりは無理をせず、海流に流されて無難な針路をとった方が安全だな」
「そ。無理に流れに逆らって沈没したり、遭難したら洒落にならないでしょ」
「大航海時代の航海日誌か。ずいぶんとまた、うまい資料を見つけたもんだ。エディンバラ教会が血眼になって探しているクラシックの隠れ家を、一年やそこらで探し出すとはな」
「ヒベルニアについて書かれているものを探すんじゃなくて、ヒベルニアについて不自然に書かれていないものを探そうと思って調べてみたの。私たちの目指す理想郷は、人の目にそうそう触れてこなかったんだもの」
椅子に腰を下し、ヨイクは背にもたれた。
「猊下、どう?私の推理、正解?」
「お見事です、さすがだね」
ほとんど紅茶味の砂糖水と化した飲みものをすすっていたギーヴがヨイクを褒めたたえると、ついにフレドリクソンが頷いた。
「わかった、そのヒベルニア行きの海流にはどうやって乗ったらいいんだ?」
「何が何でも十二月二十二日までにヒベルニア行きの海域付近に辿り着くこと。ランズエンドから五日くらいで行けるはずだから、十二月十五日までにランズエンドに着いていれば余裕よ」
フレドリクソンは頷きながらも渋い表情をする。
「しっかし、海流の流れが変わって、ヒベルニアへ行くことができるのが冬至の夜、ってのは確かなことなのか?」
「ヒリール」
ヨイクがヒリールの名を呼ぶと、それまで黙っていた少女が初めて口を開いた。
「ヒベルニアの海にヨーロッパからゴミが流れ着くのは決まって冬至の翌朝なの。船の残骸や酒瓶や色々なものが流れ着くから、海辺の村では家族総出で拾いに行くのが習わしだよ」
「マキシムたちがヒベルニアを目指したのも冬至の頃だったよ」
ヒリールを援護するようにギーヴが続けると、フレドリクソンは「よっし!」と言って、どんと自分の胸を拳で叩いた。
「任せろ!きっとヒベルニアへ連れて行ってやる!」
ヨイクはやれやれと口の中で呟き立ち上がった。ようやく納得してくれた。
「ランズエンドは辺境の地だから、早く着けば、お尋ね者のみなさんも少しは羽根を伸ばして陸地でゆっくりできるはずよ。それを楽しみに、これから三四日間は船内で大人しくしててね」
操舵室を出て、ヨイクは甲板に向かった。見渡す限りの曇り空と青灰色の海だ。フレドリクソンが連れて来た乗組員たちを労いつつヨイクは船尾へ歩いて行く。案の定、ヨイクたちを追跡する船の姿が遠くに見えた。
「ご丁寧に、ロッキンガム東方貿易会社の紋章がはためいてるぜ」
後ろから声がしてヨイクは振り返った。ユアンがヨイクに望遠鏡を差し出す。ヨイクはそれを受け取って右目に当てた。小ぶりの貿易船のあちこちにロッキンガム家やイングランドの紋章が見える。
「砲台があるわ」
「貿易船だからな」
「あいつら、本当についてくる気なのね」
「猊下がついて来いって言ったんだろ」
「そりゃそうだけど」
ヨイクは望遠鏡をユアンに返し、彼と並んで欄干に寄り掛かった。風は冷たく、時々飛んでくる波しぶきは氷のようだ。ヨイクは水平線を見つめるユアンの横顔を見上げた。出会ってから三年が経った。実際に一緒に過ごした時間は短いが、ユアンはいつでもヨイクを助けてくれていた。
「浮かない顔をしてるわね」
ユアンはヨイクを顧みた。茶色の瞳がヨイクをじっと見下ろす。その瞳には喜びも悲しみも怒りも見えない。わずかに見えるのはヨイクに対する――強い興味。
「悪かったな。おれは元からこういう顔だ」
ヨイクは笑い飛ばし、ここ数日間、密かに考えていたことを口にした。
「ねえ、ヒベルニアから帰って来て、ヒベルニアに関する本を世に出した後のことって、あんた考えてる?」
「ヒベルニアから帰って来た後のこと?気が早いな。まあ、教会から逃げなきゃならないだろうから、逃げながらこそこそ本を売りまくる。あんたはどうするんだ?どこかに民話を集めに行くんだろう?」
ユアンは迷うことなくはきはきと言った。彼は思慮深いが即断即決の人だ。ヨイクはユアンから目をそらし、欄干をつかむ自分の手に視線を落とした。
「それが、分かんないのよねえ」
ふと、ヨイクは鞄の中で眠っている婚約者からの手紙を意識した。別れの言葉が記されいているのか、ヨイクの帰り待ち、教会から共に逃げようという約束が綴られているのか、彼女には分からない。
「民話学者を辞めるのか?」
ユアンががっかりしたように訊ねたのでヨイクは我に返った。
「いいえ。いつかまた旅に出たいとは思ってるわ。でもどこに何をしに行くか、さっぱり」
「今までヒベルニアへ行くことだけを考えて来たんだ、仕方ないさ。時間はいくらでもあるんだから、ゆっくり考えればいい。暖かいリゾート地に行ってしばらくぼんやりするのもいいだろうな」
南の島の浜辺でぐうたらしているユアンというのは想像がつかない。ヨイクはふふっと吹き出してしまった。
「あんたにはやりたいことが沢山あるんでしょう?教会の手の及ばない遠くの国で好きなことをやりなさいよ。あんたはあのイカレ侯爵とやり合わなければ今頃きっと立派な豪商だったんだから」
ヨイクはユアンに微笑んで見せた。ユアンは寂しげな表情を顔に浮かべて水平線へ目を向けた。
「ああ、考えておく」