11.あなたを攻撃したものは、私にただではすまされない
コルガーと飲んだ酒がまだ残っている。ユアンは軽い頭痛を感じながらベッドを出た。カーテンの隙間から淡い朝の光が漏れている。ギーヴが口を開けて眠っていたので、彼を起こさないように身支度を済ませて部屋を出た。
「おはよう。何よ、その顔。二日酔い?」
一階のパブの四人掛けの席でヨイクが朝食を食べていた。彼女の皿にはトースト、目玉焼き、ベーコン、二種類のソーセージ、ポテト、煮豆などが乗っている。朝から食欲旺盛だ。
「コルガーに釣られて飲み過ぎた。あいつ、とんでもないウワバミだぜ」
ユアンは紅茶だけでいいと宿の主に告げ、ヨイクの向かいに腰を下した。
「ヒリールは?」
「まだ寝てる。あの子、寝つきが悪いみたいね。昨日は結局霧山の王を最後まで話しちゃったわ。色々悩んでるみたいだから、あんたも相談に乗ってあげてよね」
「おれが?」
痛む頭を押さえてユアンが情けない声を出した時、ティーセットが運ばれてきた。ユアンはカップに紅茶をそそぎ、窓を開けて新聞売りの少年から新聞を買った。一面に、「英国議会にアメリカ反発」「代表なくして課税なし」という見出しが躍っている。
「英国の財政難も深刻だ。新聞や証書はおろか、トランプからも印紙税を取ろうっていうんだから」
新聞に目を落としながら紅茶を一口すすり、ユアンは顔を上げた。生姜のしぼり汁が入っている。生姜は二日酔いや船酔いに効くのだ。宿の主はユアンと目が合うと、カウンターの奥でにやりと笑った。
「グラスゴーの新聞も英国議会の悪口を書くのが好きなのねえ。エディンバラの新聞より痛烈な記事だわ」
ヨイクはトーストを飲み込み、感心したように言う。
「アメリカとイギリスが戦争を始めたら、当然フランスもそれに乗っかるだろ。そうしたら大金が動く。それを虎視坦々と狙っている商人がいるってわけさ。それに、こう不景気で街に失業者が溢れていると、いっそ戦争でもやった方がいい。彼らは兵隊として雇われれば食うに困らないし、徴兵があると都市から犯罪が減るというデータもある。英国議会にはせいぜい悪者になってもらわないと」
ユアンがしゃべっている間にヨイクの皿は半分空になっている。民話学者は顔をしかめてユアンを睨んだ。
「ふうん。あんたって嫌なこと考えてるのねえ」
「おれだけじゃないさ」
「フランス王室の財政もそろそろ危ないって言うじゃない。太陽王が華麗に豪快に徹底的に財産を遣い切っちゃったって噂。いくら犬猿の仲のイギリスが相手でも、参戦どころかアメリカへ軍資金援助だってできないかもしれないわよ」
「かもな。だが、未来のルイ十六世は地味で民衆好きの心優しい少年だっていうじゃないか。今後は浪費に走ることもないだろう」
言いながらユアンは階段を下りてくるギーヴの姿に目をやった。金褐色の長い髪を首の後ろで適当にまとめながら欠伸をしている。
「その未来のルイ十六世の花嫁候補としてオーストリア皇女の名が挙がってるそうだよ。――おはよう。君たちはいつも朝からこんな話をしてるの?」
ヨイクの隣に腰を下し、ギーヴは紅茶とトーストを注文した。
「おはよう、猊下。今日はたまたまよ」
「おはようございます。オーストリア皇女というとマリア・テレジアの娘ですか。初耳だ」
眠そうに首を回しているギーヴに、ヨイクとユアンは身を乗り出した。エディンバラ名誉司教とは案外、名ばかりの地位ではないらしい。
「ああ、エディンバラとパリは昔からつながりがあるし、俺はフランス生まれだからパリの要人とも親しいんだ。フランスとオーストリアは同盟を強固なものにするために政略結婚を狙っているそうだよ。まあイギリスやプロイセンに対抗するにはそれしかないよね。特にフランスは、アメリカ大陸やインドやアフリカの植民地をイギリスやスペインに随分奪われてしまったから、どうにか挽回したいんだろうねえ」
ギーヴの紅茶とトーストが運ばれてきた。紅茶の受け皿には砂糖が五つ乗っている。宿の主は両眉を上げて微笑み、カウンターの奥に下がった。
「俺が大の甘党だって、なんで分かったんだろう……」
ユアンは頷いた。
「実にいい宿です」
ヒリールが起きて来て朝食を食べ終わった頃、コルガーが外から帰って来た。誰よりも早起きして市内見物していたのだとコルガーは胸を張った。五人は荷物を持って鷲獅子亭を出て、船着き場に向かってのんびりと歩いた。
「市庁舎とか劇場とかすっごいのな!市場もベルファストより大きいし、ああ楽しかった!」
朗らかに笑うコルガーをユアンが呆れつつ見下ろす。
「……おまえ、元気だな」
昨夜、コルガーはユアンより飲んでいたはずだ。
「ヒリールもおまえくらい図太ければ楽だろうに」
本人に聞こえないようにつぶやき、ユアンはため息をついた。ギーヴとコルガーの神経の太さには共通するものがある。だが、楽天的な彼らに対して、ヒリールは繊細過ぎる気がしてならない。
「ヒリールといえば、あの子、ちょっとオレに冷たくない?一応親戚だし、もう少し仲良くしたいんだけどなあ」
コルガーは背伸びをしてユアンの耳元で言う。聞き咎めたヨイクが困ったような顔をしてコルガーを顧みた。ヒリールはギーヴと並んでかなり先を歩いている。
「まあヒリールの気持ちも分からないでもないのよ。ヒリールの話によると、マキシムはシスター・アンジェラをまだ忘れられず、ヒベルニアで築いた家庭をあんまり大事にしてないんですって。要するに、ヒリールからしてみれば、コルガーは祖父が真実の愛をささげたたった一人の女性の曾孫ってわけ。ヒリール的には複雑でしょ」
コルガーは頭を抱えた。
「だったらオレの方が可哀想じゃねえか。オレはマキシムが外に作った曾孫で、しかも父親が外に作った子供だぞ。どこにも拠り所がないってことなんだからな」
「そうだとしても、不幸合戦やってるわけじゃないのよ。ヒリールのことも分かってあげて」
ヨイクがコルガーを諭しているうちに五人は船着き場に辿り着いた、街を貫く運河に大きな商船がずらりと停泊している様は圧巻だ。さすがは商業都市グラスゴーである。ユアンはこれから始まる冒険に胸が躍った。
「おはようございます、旦那さま」
一隻の商船の上から声がかかったのは間もなくだった。ユアンは顔を上げ、リプトン家の執事の姿を目に留める。
「おはよう。フレドリクソンは来ているな?」
「ええ」
執事は穏やかに微笑んだ。その背後から大男が現れ、船から飛び降りてくる。
「風向き、波の高さ、すべて良好だぜ、旦那!」
登場したのは筋骨たくましい大男だった。名前はフレドリクソン、年は三十代半ばで、この寒いのに長袖の服を一枚着たきりだ。彼は冗談みたいに馬鹿でかい手を振り上げて近くに立っていたコルガーの背中をたたいた。
「おまえさんがヒベルニアへ行こうっていう酔狂な民話学者かい!」
フレドリクソンの掌をまともにくらったコルガーは前のめりになる。
「いってえ!オレじゃねえ!民話学者はヨイクだ、オレはコルガー!」
「そうか、よろしくな、コルガー!俺はフレドリクソンだ!」
ばしばしとフレドリクソンは再びコルガーの背中をたたいた。コルガーは痛そうに背中をそらしながらギーヴの影に逃げ込んだ。
「また旦那とコイツと航海ができるって聞いてすっとんで来ましたぜ」
フレドリクソンはユアンの手を握り、眩しそうに貿易船を見上げた。メインマストは一本。胸部にはリプトン海運会社の紋章と、スコットランドの紋章、そしてエディンバラ教会の紋章が貼り付けてあった。威風堂々とした姿はなんとも頼もしい。
「彼はフレドリクソン。三十年以上船に乗っているベテラン船長だ」
「武装商船メルセデス号の船長だ、よろしくな!」
どんと自分の胸を叩いて言うと、フレドリクソンはからからと朗らかに笑い、ヨイク、ギーヴ、ヒリールと順番に握手すると船の中へ戻って行った。出港前にまだやることがあるのだろう。
「武装商船?」
フレドリクソンが行ってしまうと、コルガーはユアンを見上げて小首を傾げた。
「ああ、海賊や外国の海軍と戦うために大砲を積んでいるんだ。いざという時はおまえにも撃たせるからな」
「ええっ?!」
「当然だろ、男の仕事だ。帆船の操り方も教われ。フレドリクソンは厳しいぞ。あれはハンザ同盟一の船長。冬の海を渡るにはうってつけ、おまけに海賊だろうが海軍だろうが一瞬で沈めて見せる男だ。見ろよ」
ユアンはコルガーの肩をたたき、船の胸部を指差した。三つの紋章の下には鮮やかな赤いアザミの絵とラテン語の文字が踊っていた。
「“nemo me impune lacessit”」
ラテン語で書かれた文字を読み上げ、ユアンはその言葉をかみしめた。
「私を攻撃したものはただではすまされないという意味だ」
説明しながらユアンはヨイクの姿を瞳に映した。自分自身のことはともかく、おれはヨイク・アールトを攻撃したものをただではすまさないだろう。決してただではすまさない。
「野郎ども、出航の時間だ!碇を上げろ!」
数十分後、甲板にフレドリクソンの大声が響いた。フレドリクソンが連れて来た乗組員たちが野太い声で応え、甲板をばたばたと走り始める。五人が船に乗り込み、船が滑るように動き出したのは間もなくのことだった。




