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ヒベルニアの極光  作者: 葉梨
第三章
30/52

10.あなたのような場所

「でも君、女の子でしょう」


 ごく自然に言ってから、ギーヴは慌てて自分で自分の口をふさいだ。


「あ、しまった、言っちゃった」


 コルガーの心臓はどくどくと大きな音をたてて鳴り響いた。どうしてバレたのか、いつからバレていたのか、ともすれば真っ白になりそうな頭の中をギーヴと過ごした数日間の記憶が駆け巡る。女であることを匂わせた心当たりはないし、コルガーが女であることを彼が気付いている様子もなかった、たぶん。


「も、もしかして、匂いで分かった?!」


 コルガーは痴れ者の言葉をはっと思い出して訊ねたが、ギーヴは困ったような顔で首を傾け彼女の襟元の匂いを嗅いだ。


「は?匂い?いい匂いはするけど、匂いで性別は分からないんじゃ?」

「じゃ、じゃあなんで分かったんですか?」


 一瞬、コルガーの頭にアンジェラの顔が浮かんだ。だが、コルガーは自分の性別のことをギーヴに黙っておくつもりだと彼女に告げていた。コルガーの意思に反してアンジェラがギーヴに真実を教えるとは思えない。


「ひ、秘密。でも最初からおかしいなあとは思ってたよ。いくらアンジェラの身内でも、女子修道院で健康な男子が暮らせるはずないもの」


 それもそうだ。だからコルガーは仕事仲間に住所を訊ねられてもウイスキー修道院で暮らしているとは決して言わなかったし、しつこく訊かれても曖昧にかわしてきた。


「……このご時世ですから、男の恰好している方が安全だし得なんですよ」


 コルガーは気持ちが深い悲しみに沈みこむのを感じながら言った。


「うん。でも男装している女性の戸籍はあくまで女性だ。君の首札は男性のものでしょう」


 コルガーは首から下げている首札を服の中から取り出した。木の札には「コルガー・バルトロメ、一七四七年生まれ、男」と彫られている。


「これは死んだ兄を騙って作ってもらった首札です。本当のコルガー・バルトロメは兄なんです」


 彼女は諦めて本当のことを告げた。ギーヴは真剣な面持ちで唇を引き結び、じっとコルガーを見下ろしていた。コルガーは観念して語ることにした。


「オレの本当の名前はエド・バルトロメ、歳は十六」




 彼女が兄のふりをして生きることになったのは些細なことがきっかけだった。それは三月地震の発生から数日後のこと。コルガーの教区の司祭が死去し、新しく就任した司祭は弔いや遺体の埋葬に追われていた。ろくな睡眠もとれずに昼も夜も働いていた司祭は死亡届を出しにやって来た男装姿の彼女を彼女の兄と間違えたのだ。


『コルガー・バルトロメだね、届を出しに来たのかな?』


 彼女は訂正しようとして口を開きかけたが司祭は訳知り顔でそれを遮った。若くて頭が切れそうな司祭だったが、目の下に隈ができていた。


『何も言わなくていい。妹さんたちの冥福を共に祈ろう。君が悲しみを乗り越えた時、神は君に祝福と賛辞を下さるだろう』


 司祭が一方的に話し続ける間に彼女は子供っぽく夢想した。もしこのまま兄として、十八歳の男として生きることになったらどうなるだろう。一人前の男のように己の身で稼ぎ、その金で毎晩パブに通い、ギネスビールを飲みながら楽器を鳴らして歌う。一人で遠くへ旅に出て見たこともない建物に出会ったり、街を大股で闊歩したり、走ったり跳んだり、馬に跨ったりする。それはとても楽しそうだった。


 女に生まれてこなければよかったと思ったことはなかったが、女に生まれて良かったと思ったこともない。男として自由奔放に逞しく生きて行くことはとても魅力的に思えた。だが、兄になりすまし、男として生きて行くなどあまりに馬鹿馬鹿しい。とても現実的ではない。


『司祭様、私は長女のエド・バルトロメです』


 彼女は言った。言ったつもりだった。


『司祭様、神は大切な妹たちを守れなかったボクをお許し下さるでしょうか』


 口を突いて出た嘘に彼女は内心で愕然としたが、彼女の声は愛する妹たちを失った悲哀と果たせなかった責任への後悔に満ちていた。


『コルガー、自分を責めてはいけないよ』


 司祭の慰めの言葉が我がことのように彼女の胸に沁み込む。彼女は「妹たち」の死を悼み、心を決めた。兄になりすまし、男として生きる。それはとても現実的ではないが、現実的ではないと言うならそもそも三月九日以降のこの世の全てが夢の中の出来事のようだ。それならいっそいいじゃないか。馬鹿馬鹿しくて滑稽な遊びに興じてみるのもいいじゃないか。


 詐称がバレれば厳しい罰を受けるに違いないが、それもいいだろう。妹を守れなかった不甲斐ない己を土の下に埋め、狂人のような真似をして生きてやる。何もかも亡くしてしまった今となっては、もう、そんなことくらいしかやることがないのだ。


 兄の死亡届をそっと服の下に隠し、彼女は妹の届だけを提出した。エド・バルトロメの届を忘れてしまったので後日持参すると言い添えて。




「だから、オレの首札は兄のものなんです」


 コルガーの説明をギーヴは悲しげな顔で聞いていた。


「君は、辛い思いをしてきたんだね」

「でも、そんなのみんな同じでしょう。悲しい思いをしたのも、辛い思いをしたのも、オレだけじゃない。それに、仕事を探すにも男の方が楽だし、建築家を目指すなら女じゃ駄目だし、男の方が安全に街を歩けるし。ま、色々と都合が良いってことで」


 コルガーは首札を服の中にしまい、皮肉っぽく笑った。


「オレ、胸あんまりないし」

「そんなことないよ」

「は?」

「いつの日か、もし君が女性に戻りたいと思ったら力を貸すよ。君の教区の司教に頼んで君の戸籍を復活させる。それくらいの力は俺にもあるから」


 コルガーはきょとんとした。ギーヴは真剣な目をしていた。


「当分の間は男の振りをしていられるかもしれないけど、十年後には確実に無理だよ。これから君はもっと――綺麗になるよ」


 歯の浮くようなギーヴの言葉に、コルガーは頬が火照るのを感じた。心臓がどきどきと音を立てて鳴りまくっている。


「オ、オ、オ、オレ、建築家になるまで男の振りするし!」

「じゃあ頑張って早くなってよ」


 ギーヴに優しく頭を撫でられ、コルガーは思わず告白してしまった。


「……オレ、いつか教会を造りたいんです。どんなに小さくてもいいから、みんなが心から祈れて、みんなの心が救われる教会を」


 ギーヴが聖職者だからだろうか。それとも、他に理由があるんだろうか。自分の心の中に秘めていたことが口からするりするりと零れていく。


「そこは荘厳だけど親しみやすくて、朝でも昼でも夕方でも、いつでも光がいっぱいに注いでいて、みんなが安らいだ気持ちになれる、だけどとっても神聖な建物で……」


 コルガーが打ち明ける夢をギーヴは穏やかな緑色の瞳で受け止め、柔らかく微笑んだ。そしてコルガーは気づいた。


 何より、そんな教会を求めているのは自分自身だと。

 そして、ギーヴはコルガーの理想の教会そのものだと。


「そうだ……オレはあなたみたいな教会を造りたい」


 ぽつりとコルガーがつぶやくと、ギーヴは意外そうに目を開き、おかしそうに笑った。


「俺みたいな教会?」


 コルガーは照れ隠しに俯いて、くだらない冗談を言った。


「オレ、あなたの教会、造りますよ。何十年後かにあなたが死んだら、聖ギーヴ教会を」


 ギーヴは声を立てて笑い、コルガーの寝室から出るために後ずさりした。


「それはまた、楽しみだなあ」






 深夜、ヨイクは目を覚ましてベッドの上に身を起こした。隣のベッドでヒリールが泣いていた。


「ヒリール?」


 暖炉の火を消したのはもう何時間も前のことだ。ヨイクは冷え切った暗闇の中で声をかけた。その途端、泣き声がぴたりと止まった。


「ごめんなさい、ヨイク。わたし、また嫌な夢を……」

「いいのよ」


 言いながら、ヨイクは床に転がしていたブーツを履き、自分のベッドから下りてヒリールのベッドに近づいた。ヒリールは頭まですっぽりと毛布をかぶって震えていた。


「この前のお話の続きをしましょうか、途中で眠っちゃったでしょ」


 毛布越しにヒリールの小さな背をさすってやりながら、ヨイクはベッドに腰を下ろす。ヒリールはもそもそと毛布から顔を出した。闇の中でも、涙で頬が濡れているのが分かった。


「……霧山の王のお話?」


 ヒリールの声がわずかに弾んだのをヨイクは聞き逃さなかった。


「ええ。どこまで話したかしらね」

「娘が家に帰ることになって、女がブローチをくれたところ。『またここへ来たくなったら、このブローチに息を吹きかけなさい。そのかわり、ここで見たこと聞いたことについて誰にもしゃべってはいけないよ』って」


 ヒリールが前回の話をきちんと聞いていてくれたことが嬉しくて、ヨイクは気分良く話し始めた。


「一つ目の老人と女と老人の娘に別れを告げ、娘は自分の村に帰ってゆきました。すると、たった数日村を離れていただけなのに、村の様子がすっかり変わっていて、すれ違う村人は見知らぬ人を見る目で娘を見ました。自分の家に入ると両親までもが娘にこう言いました。


『人の家に黙って入ってくるなんて、あんたは一体誰なんだい?』


 娘も訊ねます。


『お母さん、お父さん、どうしてそんなに年を取っているの?』


 そこで両者は気がつき、母親が叫びました。


『なんということだ、あんたは七年前に森でいなくなったあの子だね!』


 そうです、娘が一つ目の老人たちと数日を過ごしている間に、村では七年の歳月が流れていたのです。そして、どういうわけか娘の身体もいつの間にか七年分成長していました」


 寒さを感じてヨイクはヒリールの毛布の中にもぐりこんだ。ヒリールは彼女のために場所を空け、二人はまるで仲の良い姉妹のように寄り添って顔を見合わせた。


「娘は自分の身に何が起きたのか確かめたくて、その晩、家族が寝静まってからブローチに息を吹きかました。娘は気がつくと、あの山頂の焚火のそばに立っていました。


『おまえが何を知りたいか、わたしは分かっているぞ』


 焚火にあたっていた一つ目の老人は村娘を振り返ってそう言うと、杖で地面を叩きました。地面から女と老人の娘が現れ、村娘を歓迎しました。村娘は彼らに訊ねました。


『教えてください。あなた方は何者ですか?』


 女は母親のように優しく微笑み、村娘の頭を撫でました。


『いずれ分かる時が来るでしょう』と」


 ヨイクはヒリールの顔を見て彼女がまだ起きていることを確認した。


「何年か経ち、娘は村の若者と結婚しました。娘はお嫁に行ってからも女に貰ったブローチを大切にしていて、度々、真夜中にあの山頂へ出かけてゆきました。夫がそれに気がついたのは間もなくのことです。娘が真夜中に出かける姿を見て、夫は彼女の浮気を疑いました。娘は裁判にかけられ、魔女として火あぶりの刑を言い渡されます。処刑の日、娘は手足を縛られ、高い塔の上から、大きな大きな焚火の中に投げ入れられました」

「そんな!」


 ヒリールが悲しげに声を上げた。ヨイクはにっこりと笑って続けた。


「しかし、娘が炎の中に落ちるすんでのところで濃い霧が風に乗って現れ、娘をさらっていきました。白い霧の中で目を凝らすと、娘を助けてくれたのは一つ目の老人でした。


『わたしの大事な養い子にした仕打ち、未来永劫悔やむがいい』


 一つ目の老人は村人たちにそう言って、その村の作物をすべて枯らし、二度と草木の生えない土地にしてしまいました。老人の正体は霧山の王だったのです。そしてあの母親のような女は島原の母でした。娘は霧山の王とともにあの山頂に戻り、島原の母や王の娘たちと共に今でもまだ仲良く楽しく暮らしています。――おしまい」


 語り終え、ヨイクはヒリールの瞳を覗きこんだ。ヒリールは微笑んで小さく拍手した。


「この民話はね、不器用な父親の愛のお話だと思うの」


 ヨイクはヒリールの茶色の長い髪に手を伸ばし、そっと撫でながら、なぜ自分がこの民話を話して聞かせたのかを語り始めた。


「霧山の王は娘の愛し方が分からない人だった。何しろ出会いがしらにナイフで目玉をくりぬくぞ、だもの、娘も霧山の王を恐れてしまって島原の母と王の娘としか遊ばなかった。でもね、霧山の王は娘のことを大事に大事に思っていたの。自分の子供のように思って、ずっとずっと愛していたのよ」


 勘のいいヒリールは眉をひそめてヨイクから顔を背けた。ヨイクは悲しい気持ちになって少女の肩を抱いた。


「ねえ、ヒリール。ヒベルニア王マキシムは霧山の王なんじゃないかしら?」


 ヒリールは寝返りを打ってヨイクに背を向け、震える声で言った。


「そうだったら、いいね」






 その頃、商人の町グラスゴーに堂々とそびえ立つロッキンガム東方貿易会社の商館では、外出から戻ったジャック・ロッキンガムが、彼を待ち構えていたアヤ・ソールズベリにつかまっていた。


「ジャック、どこへ行ってたのよ!」


 鬼の形相のアヤに詰め寄られ、ジャックはごまかすようにへらへらと笑い、思わず後ずさりした。


「ちょ、ちょっくら野暮用」

「何が野暮用よ、鷲獅子亭を見張ってたトムとジェリーから聞いたわよ、あなたがコルガー・バルトロメと密会してたって!年端もいかない少年に現をぬかしている暇なんてないでしょう!」


 控えていた使用人に二人分のコーヒーを頼み、ジャックは目を吊り上げて怒るアヤを宥めにかかった。


「まあまあ、いいじゃねえか、万歳、自由恋愛。それにあの子は女の子だ」

「どっちでもいいわ」


 嘆息をつき、アヤは応接室の革張りのソファにすとんと座る。どこからか黒猫がやってきて、その膝の上にひょいと飛び乗った。


「とにかく、彼らが合流したからには近いうちにヒベルニアへ向けて出発するはずよ。私たちも準備を整えて、いつでも出られるようにしておきましょう」


 ジャックもアヤの向かいに腰を下す。


「分かってる。備えあれば嬉しいなってやつだろ」


 憂いなし、とアヤは歯ぎしりしながら訂正した。


「トムとジェリーは鷲獅子亭を見張ってるんだろ?パーシヴァルは?」

「彼はロッキンガム家の船に荷物を積んでいるわ。まったく、遊んでるのはあなただけよ、ジャック」


 アヤは膝の上の黒猫の背を撫でながら小言を口にする。


「そういうアヤは?」

「私は留守番と、訓練よ」


 アヤがにっと美しく微笑んだ途端、ごろごろと喉を鳴らして撫でられていた黒猫が全身の毛を逆立てて彼女の膝から飛び降り、部屋の隅で威嚇音を発した。アヤの足元から黒い霧がぞわりぞわりと現れる。


「……その悪魔、契約取り消しとかってできなのか」


 ジャックは顔をしかめた。不気味に思うより、とにかく不快だった。大切な幼馴染が取り返しのつかないことに手を染めてしまった、そんな気分だ。だが、アヤは鼻で笑った。


「できたとしても、する気はないわ。だって私はミスティックのおかげで強くなれたんだもの。私の望みを邪魔するものは誰も彼もミスティックの力で排除できるのよ。そうよ、昔、私をいじめた義母や父に仕返しすることだってできるかもしれない!」


 興奮して立ち上がり、笑いながら語るアヤは常軌を逸しているように見えて、ジャックは彼女に恐怖を覚えた。悪魔との契約を境に、アヤは変わってしまった。苦々しくそう思った時、悪魔が低く笑う声がジャックの耳に聞こえた。


――くっくっくっくっくっく。


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