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ヒベルニアの極光  作者: 葉梨
第一章
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2.冒険のはじまり

 ギーヴがウイスキー修道院を訪れる二日前、十二月一日のことだ。


 ギーヴは窓を開けた。分厚い木の窓は勢い良く開いて、塔の中に重く溜まっていた空気がみるみる外へ吸い出されてゆく。彼は胸一杯に息を吸い込み、大きく伸びをした。この塔に幽閉されて六十年、飽き飽きするほど眺めたエディンバラの街は今日も変わらず美しい。薄らと朱色を帯びた夕暮れの光に照らされた赤いレンガ屋根群は、まるでルビーのように輝いていた。


「案外あっさり帰って来るかもだけど、行ってくるよ」


 窓に背を向け、ギーヴは多少の感慨を込めて自室を眺めまわした。可愛らしい小さな木の丸テーブル、テーブルと揃いの椅子二脚、天蓋つきの寝台、火の消えた暖炉、礼拝台、木のついたて。それがこの塔に閉じ込められた彼に与えられた全ての家具だった。


 囚人のように扱われ、惨めな気持ちにならないわけではなかったが、もし自分が普通の人間に生まれていたら、今頃もっと苦しい生活をしていたに違いないとも思う。雨風をしのぐ屋根のある場所で寝起きできるだけましだ。ギーヴには自分の不遇に酔いしれる趣味はなかった。たとえ学者でありながら一冊の本を持たなくとも、エディンバラ大学図書館への出入りが許されているならそれで充分だった。


 彼を捕えているのはヨーロッパのほぼ全域に教えを広めるエディンバラ教会である。もっともらしく「エディンバラ名誉司教」などという位を授かったが、組織内での権限はほとんどなく、エディンバラ城の建つ岩山にそびえる聖ピーター大聖堂に隣接する塔のひとつに軟禁されている。彼はエディンバラ教会が異端とするクラシック教徒なのだ。


 クラシック教徒は六十年前にエディンバラ教会から破門され、改宗しなかった者たちは処刑された。それを免れた者はヨーロッパ中に潜んでいるとも、誰も知らない遠い島に移り住んだとも言われている。彼らが反乱を起こさぬように捕らえた人質、それがギーヴだ。クラシック教徒のリーダーであるマキシム・バルトロメの双子の弟である。


 ギーヴは窓の外を眺め、小声で歌を口ずさんだ。


「過ぎた日々はただ懐かしく 

 振り返ることしかできないけれど

 ただ心だけで この心だけで 

 私はあなたのもとへ飛んでゆく」


 子供の頃、マキシムとギーヴは故郷の聖歌隊で『神の歌声を持つ双子の神童』ともてはやされていた。


「愛を告げる勇気も 己の非を認める強さも

 運命に立ち向かう覚悟もなかった

 あなたが許してくれるなら

 他にはもう何もいらない」


 ギーヴの実年齢は百九歳だが、外見は壮年に見える。背中で緩く結んだ腰まで届く長い髪はつややかな金褐色で、身長は十八世紀のヨーロッパ成人男性の中でも長身の部類だ。長いまつげに縁取られた瞳は、祈りの回数を数えるために腰に提げている翡翠の数珠と同じ色をしている。黙って立っていれば若い女性にもてないこともないが、一度口を開いてしまうと「年寄りみたい」と言動に非難を浴びることが多い。十七世紀のフランス北部の漁村に生まれ、クラシック教徒が異端とされる前から生きているのだから仕方がないといえば仕方がないのだが。


「どうも、菓子店ニュートンでーす!」


 塔の地階から若い娘の元気な声がした。


「ギーヴ猊下にアップルパイをお持ちしました!」


 合図だ。いよいよ始まった。

 ギーヴは石の壁に立てかけてあった一本の錫杖を手に取り、別の手で自分の頭より小さな布包みを持った。荷物はそれだけだ。


「きゃあ!」


 くぐもったような爆発音がして、娘が叫び声をあげた。


「何だ、何事だ!!」

「地下だ!地下道で何かあったんじゃないか?!」


 複数の衛兵たちが大騒ぎを始め、それを聞きつけて大聖堂前の広場を見張っていた衛兵たちも持ち場を離れた。予定通りだ。


「さて、行こうか」


 出かける覚悟を決め、六十年間も雨風から自分を守ってくれた小さな部屋に背を向けたとき、ギーヴの足の下で鐘が鳴った。この塔は鐘楼なのだ。鐘は毎日、日の出から日没まで十五分ごとに鳴り響く。

西の空が燃えるように赤い。この鐘はこの日最後の鐘だろう。ギーヴは目を閉じて鐘の音に聞き入った。耳に慣れた厳かな旋律を、しばらく聞くことはないのだと思いながら。


 鐘はまだ鳴っていたが、ギーヴは窓枠に手をかけてそこへ上った。狭い窓枠の上に立ち、思い切って外に身を乗り出すと、夕暮れの美しいエディンバラの町並みが遠くまで見渡せた。地面は遠く、人が豆粒のようだ。


 新鮮な風が吹き、長い髪や足首まで覆っていた濃紺の法衣が扇のように広がる。ギーヴは思わず声を立てて笑った。六十年間感じたことがないくらい清々しい気分だった。

鐘がやんだ。ギーヴは大きく息を吸い込み、両眼を見開いて、力いっぱい窓枠を蹴って窓の外に飛び出した。年甲斐もなく、わくわくした。


――まだ、諦めるのは早いんじゃないか?マキシム。


 法衣をはためかせて落下し、ふわりと石畳へ着地した彼の姿を見た者はいない。ギーヴは身をかがめて広場を抜け、階段を下りて待ち合わせ場所へ急いだ。このエディンバラから逃げ出すために。


 エディンバラ名誉司教ギーヴ・バルトロメが病に伏したという噂がエディンバラ教会内で囁かれ始めたのは翌日だった。彼がクラシック教徒の人質であり、本当は脱走したのだということを知る者は少ない。


 これが冒険の始まりであった。




「その後、脱走を手伝ってくれた子たちと別れて、船に乗ってアイルランドまでやって来たんだ。ここまでは郵便馬車に乗せてもらったんだよ」


 ギーヴはバンゴールというアイルランドの小さな港町で船を下りた。教会の放った追手の裏をかこうと思ってのことだ。ギーヴが姿を消せば、教会が真っ先に調べるのはベルファストのアンジェラの元のはずだ。港で待ち伏せでもされていたらたまらないと思い、彼は陸路でベルファストへやってきた。案の定、市門では厳しい検問を行っていたので夜を待ち、高い市壁を飛び越えて町に入り、やっとのことでウイスキー修道院まで辿り着いた。万事不器用な自分としては大変首尾よくできたものだとギーヴは我ながら思う。


「クラシック教徒の人質?教会から逃げて来た?」


 コルガー少年は困ったような顔で腕組みした。


「あなたはクラシック教徒なんですか?」

「うん。六十年前にエディンバラ教会から破門されて、そのまま教会に捕えられたんだ。ヨーロッパ中に潜んだクラシック教徒が反乱を起こさぬように」


 あっさりと答えるギーヴに少年はますます困ったような顔をした。


「なぜ、ここへ?」


 コルガーの質問には答えず、ギーヴは唇の端を上げた。


「君はアンジェラの曾孫で、しかもここに住んでいるんだよね。それなら、この修道院の秘密を知らないはずはないと思うんだけど」


 少年が何か言おうとした時、窓の外が光った。まるで雷でも落ちたかのように一瞬だけ庭が明るくなったのだ。二人は窓に駆け寄り、外の様子を窺った。よく見ると、礼拝堂に明かりが灯っているようだった。


「こんな時間に誰だろう」

「眠れずにベッドを抜け出した誰かがお祈りをしているだけだといいけど」


 修道院は日没と同時に唯一の門を閉ざして堀に架かる跳ね橋を上げる。夜更けに庭を散歩しても危険はないはずだが、コルガーの表情は厳しい。ギーヴの胸にも言いようのない不安がよぎった。心に何かが引っ掛かっている。


「オレ、様子を見てきます。あなたはここにいて下さい」

「待って、俺も行く」


 ギーヴは暖炉の薪に灰をかけ、慌てて部屋を出て行くコルガーを追いかけた。嫌な予感を抱えながら二人は炊事場や食堂を抜け、閂の外れていた扉を開いて外へ出た。そのとき、ウイスキーの香りに混じって妙な匂いがした。


「――魔の匂いがする」


 ギーヴは背中の毛が逆立つのを感じた。コルガーもうなずいた。


「行かなきゃ」


 礼拝堂に向かって走り出したコルガーの背中をギーヴは追う。

 辺りには奇妙な風が吹いていた。生命の気配が大いに混じった、それでいてひどく冷たい風だ。見上げると、重々しい曇天が彼らの頭上へのしかかっていた。風に吹かれ雲は確実に流れているが、それが途切れることはこの九ヶ月間で一日もなかった。


「中に何者がいるか、分かりますか?」


 コルガーは礼拝堂の前で足を止め、静かにギーヴを顧みた。

 修道院に隣接した礼拝堂は一見すると白い石造りの二階建てだ。だが本当はレンガで造った後に石を貼り、石造に見せかけている。どこの修道会にも所属せず、修道院長も置かず、資産家の後ろ盾もないので、石で礼拝堂を建てる金などないのだ。三月地震の時に崩れなかったのは奇跡としか言いようがない。


「アンジェラと、少なくとも一人、魔法を使う者がいるね」


 ギーヴは声を潜めて答え、少年と視線を交えた。


「ちなみに、こういうことに対処する自信はありますか?」


 訊ねつつ、コルガーは両開きの扉の片方を押した。


「全然ないねえ。長生きだけはしてるんだけど、俺は箱入りだからね」


 悪びれもせずに答え、ギーヴはもう片方の扉に手をつく。二人の手で力いっぱい押し開けられた扉はバンと音を立てて壁にぶつかった。装飾のない壁と天井を持つ小さな礼拝堂の床にさっと光が差し込み、風が壁のろうそくの火を消す。入口から祭壇まで太い通路が真っ直ぐに伸びていて、その両脇に木製の長椅子が合計二十個ほど並んでいる。


 長椅子の群れの向こうに、二人を顧みる人影が二つ見えた。彼らは高窓から注ぐわずかな光に照らされていた。


「ばあちゃん!」


 少年は人影に向かって呼びかけた。帰って来たのは期待通りの声だった。


「コルガーね?」


 張りのある堂々とした声で応じたシスター・アンジェラは、最前列の長椅子に座らされていた。その傍らにすっと立つ侵入者は、シルエットを見る限り女性だったが、着ているものは典型的な男性貴族の服だった。茶色の長い髪を丁寧に結いあげていて、化粧が濃く、胸が豊かだからすぐに女性と分かる。女であることを隠すというよりは機能性を求めての男装なのであろう。年齢は二十台前半くらいに見える。


「やあ、俺もいるよ」

「まあ、ギーヴ猊下(げいか)!よかった、あなたが病に倒れたという噂はやっぱり嘘だったのね!」


 おもむろに手を振るギーヴと、歓声を上げるアンジェラに、無視されたと思ったのだろう、男装の女が動いたのは間もなくだった。


 ずがん!という鈍い音とともに、祭壇と扉を結ぶ通路に小さな穴が開いた。撃ち込まれたのは銃弾だ。コルガーはギーヴの腕をつかみ、とっさに長椅子の影に身を隠した。


「あらあらあら、誰かと思えば、ギーヴ・バルトロメ名誉司教猊下ではございませんか」


 高窓からの薄光を浴び、男装の女は胸をそらして妖艶に笑った。


「君は誰だい。エディンバラ教会の人間には見えないけど」


 ギーヴは長椅子の影から顔を出し、女に訊ねた。彼女は新しい銃を構え、それをアンジェラに向ける。ところが、そこで一瞬だけ、彼女は表情を曇らせた。アンジェラを見下ろし、寂しげな顔をしたのだ。


「ええ、その通り。私はアヤ・ソールズベリ。教会とは無関係よ。あなたやシスター・アンジェラに用があるの」


 女は言いながらしげしげとギーヴを見つめた。


「本当なのね。三十歳の身体に百九歳のおじいさんが閉じ込められているという噂は。あなたのことを聖なる妖怪と言う人もいるのよ」


 壮年の頃から姿が変わらないこと。それこそがマキシムとギーヴがかつてエディンバラ教会に認められた『神の奇跡』だった。二人は三十歳のある日を境に、髪や爪が全く伸びなくなった。擦り傷や切り傷を作っても瞬時に癒え、傷跡さえ残らなくなった。


「いつまでもこの世にとどまり、神のために尽くすよう、老いが止まったのだ」


 当時の教皇はそう言って二人の名を福者の列に加えたが、ギーヴとマキシムだけは本当のことを知っていた。


「君はこんな夜更けに、物騒なものを持って、そんなおしゃべりをするために来たの?」


 ギーヴは不愉快な気持ちを抑えて立ち上がった。無礼な女を恐れて椅子の影に隠れているのが我慢ならなかったからだ。彼の法衣の裾をコルガーが引っ張ったが構わない。


「ええ、そうよ。単刀直入に言うわ。シスター・アンジェラの命が惜しければ、ヒベルニアの場所と行き方を教えなさい」




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