9.アイラブユー
泣き続ける女に法衣を着せてやり、肩を抱いて優しく宥めているうちに、彼女はギーヴの腕の中で大人しくなった。墓地の草むらに座り込み、彼女の痩せた背中をさすり続けながらギーヴはコルガーが捕まえた男をどうするか少しだけ不安に思っていた。
痴れ者をここまで引きずって来たとしても可哀想な女の屈辱が晴れるわけでもあるまい。警察に突き出したところで警察はまともに機能していない。かといってあの男を殺してしまうわけにも、無罪放免にするわけにもいかない。
「遅くなってすみません」
疲れた顔をしたコルガーがひとりで戻ってきたのは十数分後だった。女は落胆したような目で少年を見上げ、小さくしゃくりあげた。ひとりで戻ってきたコルガーを見て彼が犯人を取り逃がしたと思ったようだが、彼に限ってそんなことはないだろう。
「犯人を捕まえたんでしょう?」
ギーヴが問うと、コルガーは暗い表情で頷いた。
「金玉潰すぞコラって脅したら気絶しやがった」
怖いことをさらりと言う。
「……で、どうしたの?」
「男に二言はないです」
コルガーは偉そうに胸の前で腕を組み合わせ、ふんぞり返って見せた。本当に男の睾丸を潰して来たのだろう。ギーヴは腕の中で女が肩の力を抜いたのを感じた。コルガーが男を殺さなかったことに安堵したのか、彼が復讐してくれたことで少しは恨みが晴れたのか、ギーヴには分からない。
「君って可愛い顔して恐ろしい子だね」
この子を怒らせるのはやめようと心に誓い、ギーヴは女の肩を抱いたまま彼女を立ち上がらせる。いつまでもここでこうしているわけにもいかない。
「家まで送るよ。この時間じゃ辻馬車もないだろうから徒歩だけど」
女は涙をぬぐって頷き、自宅の場所を簡単に説明する。グラスゴーの地理がさっぱり分からないギーヴの隣でコルガーがあの辺りかと呟き、二人を誘導して歩き出す。女は大聖堂の柵が壊れている場所を教えてくれた。彼女は毎夜そこから墓参していたらしい。募石の下で眠っているのは彼女の恋人だと言う。
「君、今日初めて来た街なのによく分かるねえ」
大聖堂前の広場を通り過ぎ、集合住宅の広がる地域を歩きながらギーヴは数歩先を歩くコルガーの背中に言った。コルガーはギーヴを顧みることなくどこか神経質な声で応じる。
「普通ですよ。町の地図を一度見たし、こっち方面は昼間にちょっと来たし」
女を気遣いながらゆっくりと歩く少年は自分の肩をきつく抱いている。どうもコルガーの様子がおかしいと思いつつ、女を自宅まで送り届けるまでギーヴは口をつぐんでいることにした。女は三月地震で家族を失い、今は集合住宅の一角で同じように家族を亡くした少女と暮らしているという。何をして稼いでいるかは訊ねなかった。
女と別れて二人きりになるとコルガーは女の家の前から無言で歩み去った。ギーヴは早足で帰路に着くコルガーを小走りに追いかけ、隣へ並んで彼の顔を覗きこんだ。コルガーはギーヴが見たこともないほど顔をしかめて唇を噛んでいた。まるで泣くのを我慢しているようだった。ギーヴは思わず彼の茶色の頭髪に手を伸ばした。
「君、大丈夫?」
ギーヴがやわらかな髪を撫でた途端、コルガーはその手を振り払った。コルガーは初めて会ったときと同じ鋭利な刃物のような目つきでギーヴを睨んだ。
「触らないでください」
コルガーはギーヴから距離をとり、再び自分の肩をきつく抱きしめた。手負いの小さな獣が必死で身を守ろうとしているような姿にギーヴの胸は痛む。
「ねえ、どうしたの?」
「猊下には分かりません」
二人の間に厚い壁を築くようにコルガーは低い声でつんけんと言い放つ。
「うん。君がどうしてそんなに怒ってるのかも、何で俺が君に冷たくされてるのかも俺には分からない」
ギーヴはなるべく非難がましくならないように、だが率直に言った。やがてコルガーは自分の振る舞いを恥じるように頬を染めて俯いた。
「すみません、怒ってるわけじゃないんです。ああいう奴が嫌いなんです」
月明かりも星明かりもない闇に包まれた街に、二人の足音が響く。冷たい風が吹いて木の枝や家屋の戸や窓を揺らし、路上の落ち葉を寂しく舞い上げる。まるで、地上から幸福という幸福が取り上げられてしまったような夜だ。出口の見えないトンネルを歩いているような気分だった。
「もし俺があいつを殺そうとしたら、猊下は止めますか」
しばらく続いていた沈黙を破ったのはコルガーだった。
なぜそんな質問をするの?ギーヴは頭を殴られたような気持ちで疑念を飲み込み、迷うことなく即答した。
「止めるよ。殺人鬼や強姦魔が相手でも、君に人殺しはさせない。させたくない」
「どうして?どうしてオレに人殺しをさせたくないんですか?」
コルガーは顔をうんと上げてギーヴの顔を食い入るように見た。その目が期待している答えが何なのか、ギーヴには分からない。ギーヴは早鐘を打つ胸を抑えて逡巡する。
「それは……」
ひょっとして、彼はあの男を殺してしまったのではないか。疑惑が首をもたげ、ギーヴは言葉に詰まった。気が付くと鷲獅子亭の前だった。コルガーは鍵を取り出して鍵穴に差し込み、がちゃりと音を立てて扉を開ける。
「それは、きっと君が、苦しむと思うから。君みたいな優しい子はきっと一生、罪の意識に苛まれ続けると思うから」
受付もパブのカウンターも無人だった。コルガーは玄関の鍵を閉めると、黙って階段を上り、自分の部屋の扉に鍵を差す。
「待ってよ、コルガー、待って。君、まさかあいつを……殺した?」
ドアノブをひねり、コルガーは滑り込むように自分の部屋に入る。ギーヴが追いすがると、コルガーの茶色の瞳が扉の隙間からギーヴを睨み、形のいい唇が拒絶を示すようによそよそしく皮肉っぽい笑みを浮かべた。
「いいえ、殺してません。――あいつは」
鼻先で扉が閉まりかけ、ギーヴはいつになく俊敏に右足を扉の隙間にねじ込んだ。勢いよく挟まれた足首は飛び上がるほど痛かったが、それよりも背筋が冷たくなる。あいつは殺していないということは――。
「じゃあ、君は誰を殺したの……?」
薄く開いた扉の隙間から訊ねると、コルガーは傷ついたような目でギーヴを睨んだ。知らない方がいいことが世の中には山ほどある。俺は知らない方がいいことを無理やり聞き出そうとしているのかもしれない。挙句、この子との関係を取り返しがつかないほど悪くしてしまうかもしれない。ギーヴは早くも湧き上がってきた後悔の念と戦いながらコルガーの返事を待った。
「……なぜそんなことを聞くんですか?自分がしたことの責任くらい、オレは自分で負えます。オレが何をしたかなんてことを猊下が気にする必要はないし、猊下に迷惑はかけません」
コルガーはギーヴとの間に一線を引くように冷たく言った。彼の心から締め出されたように思えて、ギーヴは胸が苦しくなる。
「でも俺は君を――」
支えたい、守りたい、救いたい。いろんな言葉が思い浮かんだが、どれも適当ではない気がして言葉にはならない。
「君を、愛してるんだ!!」
ようやく腑に落ちる言葉が見つかったと思った時、ギーヴは気づいた。コルガーが顔をひきつらせている。ギーヴは自分の頭に血が上るのを感じた。
「はい?」
「い、いや、変な意味じゃなくて!俺は君のことを遠い親戚の可愛い子だと思ってて!俺が守ってあげなくちゃとか、俺が面倒みてあげなくちゃとか、可愛がりたいとか、甘やかしたいとか、そういう風に思ってて……!」
ギーヴは慌てて弁解を試みながら自分の胸の内に存在していたもやもやとした気持ちの正体が半分だけつかめたような気がしていた。だが、残りの半分の気持ちについて考え始めた途端、ギーヴはぎくりとした。
「あの、あの、あのさ、ほら、顔を知ってる血縁者って、君とマキシムとヒリールくらいしか残ってないからさ。中でも君のことは目に入れてもきっと痛くないよ。俺には父親代わりなんて大役は務まらないと思うけど、親戚のおじさん程度のことはしてあげられると思うんだ。だから君は俺のことをもっと頼ってくれていいんだよ」
いつになく早口でまくしたてるギーヴの言葉は彼の心底からの本心であり、けれども嘘でもあった。
ギーヴはコルガーの手を取った。小さな手は細く温かく、ギーヴは思わずその手を両手で強く握りしめた。
「お願い頼って。時々でもいいから、俺に甘やかされてやってよ」
ギーヴが懇願するとコルガーは諦めたように肩をすくめて微笑んだ。扉を閉めようとしていた手がドアノブを離れて茶色の短い髪をかく。
「分かりましたよ。……ありがとう」
ギーヴは父親が我が子にするようにコルガーの頭をくしゃくしゃと撫で、顔を近づけて彼の額にキスをした。コルガーは照れたように視線をあちこちへ泳がせたが嫌がる素振りは見せなかった。
「ところで君、あいつに何もされなかったでしょうね?」
コルガーは鼻で笑って胸を張った。
「はっ女の子じゃあるまいし、されてませんよ」
ギーヴがそれを口に出してしまったのは今世紀最大の失敗だったかも知れない。
「でも君、女の子でしょう」