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ヒベルニアの極光  作者: 葉梨
第三章
28/52

8.生きるための道具

後半部分がややダークです。ご注意ください。

「当たり前だけど、暗いね」


 先に大聖堂内部を眺めていたギーヴが残念そうに笑った。せっかくのステンドグラスは当然ながら夜の闇に包まれている。ステンドグラスに描かれた聖人の顔さえ悲しそうに見えた。


「猊下、聖水なしでオレが悪魔に勝てる方法って何かないもんですか?」


 ふと思い出して訊ねながら、コルガーは大聖堂には珍しい木造の天井を見上げて陶然とため息を漏らした。ギーヴは説教台の前に立ち、ステンドグラスを背に大聖堂内部をぐるりと見回す。


「俺や君の持つ不思議な力は、極光の女神が与えてくれている。もともとは、八十年前に俺とマキシムが彼女と出会ったことから始まるんだ。出会った時、彼女はこの世に生まれたばかりの赤ん坊で、まるですり込みみたいに、俺とマキシムによく懐いたんだ」


 ギーヴは長い睫毛をふせて懐かしそうに語った。


「女神は俺やマキシムに力を貸すついでに、君に力を与えている。ヒリールが嵐の海から、たったひとりで生還したのも女神の加護のおかげじゃないかと俺は踏んでいるよ。何しろ、ヒベルニアからスコットランドまでかなりの距離があるからね」


 音楽のようなギーヴの声が大聖堂に反響する。


「君が悪魔に敵わないのは、女神の力が悪魔に劣るからじゃない。君の心が女神の方を向いていないからだ。悪魔に勝ちたければ、極光の女神の存在を信じればいい」


 コルガーは笑ってしまった。


「信じる?オレは極光の女神なんてついこの間まで知らなかったのに?」


「君は俺のことだってついこの間まで知らなかったでしょう?それでも、ここに俺がいることを疑ってなんかいないでしょう?遠く離れていても、アンジェラがこの世から消えてしまったなんて思わない。目に見えるものがすべてじゃない。女神はいる。それを信じればいい」


 そう言ってギーヴは胸の前で手を組み合わせた。すると、彼の背後のステンドグラスが突然きらきらと輝き始めた。色とりどりの光が大聖堂の壁や床や天井や長椅子を這い、ギーヴの顔や金褐色の髪や濃紺の法衣の上を遊ぶ。


 彼が両腕を広げると、掌の中にゆらゆらと緑色の陽炎がたなびいた。


「ほらね」


 極彩色の光が大聖堂の内部を踊る。その光の中でギーヴは微笑んだ。コルガーは目の前で起きたことに戸惑いを隠せず、輝くステンドグラスを見回しながらギーヴに訊ねた。


「女神って、神様って、本当にいるんですか?」


 それは長い間ずっと疑問に思っていて、誰にも聞けずに胸の中に収めて来た疑問だった。ギーヴは即答を避け、柔らかな表情で首を傾けた。


「君はどう思うの?」

「神様は――いない。もし本当にいるとしたら、世の中はこんなに目茶苦茶にならないはずだ。教会は三月地震を神の与えた試練だと言ってるけど、そんなのは嘘だ。神様がいないから、世界はこんなことになってるんだ」


 言いながら、コルガーは自分の声と指先が震えているのを感じた。自分が畏れ多い大胆なことを口にしたということは自分でもよく分かっている。だが、コルガーの人生には悲しいことが多すぎた。若くして死んだ母、三月地震で死んだ父や兄妹。もし神様がいたら、彼らを救ってくれたに違いない。


「そうだね。少なくとも、エディンバラ教会の言うような唯一神や、クラシック教徒の信じる神々はこの世にいないんだろうね」


 ギーヴは行儀悪く説教台に頬杖をつき、ステンドグラスを見上げてさらりと言った。


「え」


 コルガーの目が点になる。ここはエディンバラ教会の大聖堂であり、ギーヴが立っているのは説教台であり、彼は聖職者である。他でもない彼がそこであっさりと無神論を唱えるとは思ってもみなかった。ぽかんとしているコルガーに、ギーヴはおかしそうに笑った。


「あはは、こーんな格好してるけど、俺は熱心な信徒ではないんだよ」


 ギーヴは頬杖をはずして説教台から離れ、自分の法衣を両手でつまんでにこにこと微笑む。


「じゃ、じゃあ何でヒベルニアへ行かずに、ずっとエディンバラにいたんですか?あなたはエディンバラ教会にクラシックの教えを認めさせるために残ったんじゃないんですか?」


 コルガーはてっきり、ギーヴが揺るぎない信心を持っていて、四人の女神の存在やクラシック特有の寛容な教えをエディンバラ教会に認めさせるためにエディンバラに残ったのだと思っていた。暢気でおっとりしているギーヴだが、本当は胸の内に固い信念と熱い情熱を抱いているのだと。


「俺はねえ、人が何を信じようと、何を信じまいと、どうだっていいと思うの」


 かつん、かつん、とギーヴの靴が大聖堂の床を打つ。彼は長椅子の間をのんびりと歩きながら静かに言葉を続ける。


「問題は、人が、宗教の違う他人を信じられるかどうか、じゃないかと思う」

「人が、宗教の違う他人を信じられるかどうか?」


 コルガーはギーヴの言葉を噛みしめるようにそのまま復唱した。ギーヴの言うことを少しでも理解したいと強く望んでいる自分に気が付いてコルガーは内心で驚いた。


「そう。俺はエディンバラ教会にクラシックの教えを認めさせたいわけじゃない。クラシック教徒がクラシックの教えを守って生きて行くことを認めてほしいだけなんだ」


「それは、つまり、クラシックのことは放っておいてくれ、ってことですか?」


 コルガーの理解を得られたことに満足したのか、ギーヴはにっこりと微笑み頷いた。ふっと前触れもなくステンドグラスの輝きが消え、大聖堂は再び暗闇に包まれた。


「うん。それができれば人類の発展は果てしないと思うよ」

「人類の発展?」


「この世界には色々な神様がいて、色々な宗教があるでしょう。そして、ひとつの宗教の中にも様々な宗派がある。いちいち弾圧したり、戦争したり、喧嘩したりしていたら、たくさんの命が犠牲になる。宗教は人の命の灯を消すものであってはならないし、人類の発展を妨げてはならないと俺は思う。なぜなら宗教とは、人と人が団結して、たくましく生き延びるためにつくられたものだからだ」


 ギーヴは力強く語りつつ闇の中を歩く。コルガーはぼんやりと見える彼の影を目で追いかけた。穏和なギーヴが強い口調でものを言うのは珍しいことだった。


「生きるための道具が人を死に至らしめるなんて本末転倒だ。だから俺は、人が、宗教の違う他人を信じられる世の中を作りたい。そのためにはエディンバラ教会やクラシックやほかの宗教について客観的かつ学術的に研究するのが近道だと思った。俺がエディンバラに残った理由はそれだよ」


 ギーヴはコルガーの目の前で足を止めた。彼はいつになく固い表情でコルガーを見下ろした。どうしてか、コルガーの胸はどきどきと高鳴った。


 この人は、なんて途方もないことを考える人なのだろう。


「……猊下がその考えに至ったのは、六十年前のクラシックの弾圧や大行進のせいですか?」


 さっきユアンとしこたまビールを飲んだのに、口の中がからからに乾いて声が掠れる。もっと彼の言葉を聞きたい。彼の考えていることが知りたい。彼が抱えているものを見たい。それはきっと誰も見たことがない、けれども誰も彼もが救われる、温かい光に違いないのだ。


「うん。あんな悲しいことがもう二度と起こらないように、マキシムはヒベルニアへ身を隠すことを選んだけど、あんな悲しいことがもう二度と起こらないように、俺はエディンバラで研究をすることにした。エディンバラ教会の歴史、クラシックの歴史、イスラム教、ヒンドゥー教、仏教、世界中の神話、色々なことを学んで、信じる神の違う色々な人たちと意見を交わしたよ」


 ギーヴが長椅子に腰を下したので、コルガーも彼の隣に座った。コルガーがギーヴの顔を盗み見ると、彼はじっと祭壇を睨んでいた。その横顔は普段の柔和な彼とは別人のように凛々しかった。


 自分でもよく分からない、経験したことのない不思議な衝動に駆られ、それを抑えるためにコルガーは拳をぎゅっと握った。そうしなければ、手を伸ばしてギーヴの白い頬に触れてしまいそうだった。


「猊下はエディンバラ教会がクラシックを放っておいてくれる日が来ると思うんですか?」


 コルガーが遠慮がちに訊ねると、ギーヴは振り返って破顔した。


「もちろん!いつかきっとね」


 いつかきっと。途方もない夢を追いながら、それが実現されることを信じてやまない彼がコルガーには眩しくもあり、羨ましくもあった。






「ところで、この世に神も女神もいないってことは、マキシムと一緒にヒベルニアにいる極光の女神って何なんですか?」


 ギーヴは「マキシムとギーヴが極光の女神に出会った時、女神は生まれたばかりだった」と言っていた。人ならざるものには違いなかろうが、まるで生き物のような言い方だ。


「俺たちに力を貸してくれている極光の女神は……」


 ギーヴが言いかけた時、大聖堂の裏手の方角から人の声が聞こえた。二人の侵入者は口をつぐんで顔を見合わせ耳を澄ませた。聞こえてきたのは女の泣き声だった。


 三月地震以来、教会の墓地で故人を想って泣く女性と言うのは珍しいものではない。コルガーもウイスキー修道院で暮らしていた時は墓地の土を涙で濡らしていたものだ。


 放っておいてやるのが親切だろうかとも思ったが、こんな時間に人気のない墓地に女性が一人でいるのはあまりよろしくない。二人は、彼女はどうやって大聖堂の敷地に入って来たのだろうと首をかしげながら再び鐘塔を登って窓から外に出ると、草をかき分けて建物の裏側の墓地に向かった。


「おっと、ごめん」


 途中でぶつかりそうになりつつすれ違ったのは女ではなく中年の痩せた男だった。男はコルガーを突き飛ばす勢いで逃げるように大聖堂を後にする。その背中が随分小さくなってからコルガーはようやく気が付いた。同時に震える女の声がした。


「誰かいるの?」


 草むらの中から涙に濡れた若い女の顔が見えた。引き裂かれた衣服で胸元を覆っていたが、細く白い肩がむき出しだった。長い黒髪が乱れ、気の強そうな黒い目が屈辱と怒りに燃えていた。


「あいつ捕まえて!捕まえて殺してよ!殺して……!」


 悔しそうに泣きわめく女の声に、コルガーの心臓がどくんと大きく鳴り響く。心が命ずるまでもなく、コルガーは踵を返して逃げた男を追いかけていた。


 一瞬、泣き崩れる女に駆け寄るギーヴが視界の端に見えた。殺意を抱いて痴れ者を追う自分と、痛めつけられた女を気遣う聖職者の彼。


 オレたちは何て対照的なんだろう。


 大聖堂前の広場を走り抜け、鳴り響く靴音を頼りに細い路地を全力で駆ける。コルガーの俊足をもってすれば、事を終えたばかりの男を捕まえるのは簡単だ。間もなく彼女は浮浪者の集まる路地裏で男の後ろ姿を見つけた。薄汚い地面に寝転ぶ老人たちを避けたり飛び越えたりしながら彼女はみるみる男に近づいていく。


 男は荒い息を吐きながらちらりとコルガーを顧みた。汚れた顔も伸ばし放題の乱れた髪も脂ぎって汚れていたが、目の奥だけがぎらりと光っている。コルガーはぞっとした。人殺しの目だ。あの時、もしコルガーたちが墓地に足を踏み入れなければ、あの若い女はあの場で殺されていたかもしれない。


 二人の距離が縮まり、コルガーが男の上着の襟に手を伸ばした時、追いつめられた男は踵を返してコルガーにつかみかかった。突然のことにコルガーは男の攻撃を避けられず、窮鼠の体当たりをまともに食らって背中と後頭部を建物の壁に打ち付けた。


「……おまえ、女だろ」


 出し抜けに真実を言い当てられ、コルガーは一瞬抵抗するのを忘れた。男とは大聖堂の墓地ですれ違っただけだ、どうしてばれたのだろう。男の顔が近づき、生臭い息が彼女の顔にかかる。いつの間に抜いたのか男の手には短剣が握られていて、その刃の先はコルガーの首に当てられていた。男の目が放つ暗い光はコルガーの視線にねっとりと絡みついてくるようだった。


「このご時世だ、男装してる女は結構いるぜ。おまえはうまく化けてる方だけどな、においで分かる」


 短剣を突き付けられた首筋をざらりとした舌先で舐められる。足がすくんだ。


 男の言う通り今はこんなご時世だから彼女も危ない目には何度となく遭っているし、その度に襲いかかって来た男たちを虫の息になるまで叩きのめしてはいるが、欲望にぎらつく男の視線にさらされる恐怖だけはいつまで経っても慣れることができない。


「おまえからは牝の匂いがするぜ」


 コルガーは目を閉じた。落ち着いて息を整え、足の裏から湧き上がる恐怖を何とか打ち負かそうとする。――瞼の裏に、あの日の河原の赤い空が見えた。


「どうした、図星を指されて声も出せねえのか?」


 自分を捕まえようと勇ましく追いかけて来た娘が大人しくされるがままになっている様子を不審に思ったのだろう、男が訝しげにコルガーの顔を覗きこんだ。その時、コルガーの膝が男の股間を的確に蹴り上げた。


「おまえは生きてる価値がない」


 コルガーは静かに言い放ち、股間を押さえて地面に転がり苦痛に顔を歪ませている男を見下ろした。男は恨めしそうにコルガーを睨み、取り落とした短剣へ手を伸ばした。その手を靴の裏で素早く踏みつけ、コルガーは悠々と短剣を拾い上げた。暗闇の中でも、その短剣がいかに磨き上げられているかが分かる。ろくに身繕いもしない男が短剣の手入れだけはせっせとしていたらしい。コルガーは鼻で笑った。


「おまえみたいな奴を見るのは胸糞が悪いけど、同時に安心するよ」


 手の中で短剣を弄びながら、コルガーは自分の心がひどく穏やかになるのを感じた。女を凌辱した虫けらのような男の命を、自分が握っている。何とも言い表しがたい素敵な気分だ。冷静なもう一人の自分はそんな自分を非難したが、コルガーはそれを無視して淡々と続けた。


「少なくともオレは、おまえよりマシだ」

「お、お願いだ、助けてくれ、あの女をやったのは俺じゃない、濡れ衣だ!」


 男は地面に這いつくばった格好で掌を返したように命乞いを始めた。だが、情けなく媚びるような顔でコルガーを見上げながら虎視耽々と逃げるチャンスと反撃の機会を窺っている。彼はコルガーのことを少しばかり護身術に長けただけの無力で甘い女だと思っているのだろう。コルガーが男に情けをかけたり、少しでも隙を見せたりすれば形勢逆転できる気でいるのだ。


「おまえ馬鹿だな。オレの方が強いってこと、まだ分かんないのか?」


 コルガーは男の手を踏みつける足に力をこめた。人間離れした力が加わり、男の手の骨が粉々に砕ける音がする。


「ぎゃあああ!!ひ、ひいいい!!」


 男は踏まれている方の手首を抑え、断末魔のような叫びを上げながら石畳の上をのたうちまわった。


「やめてくれええ、頼む、やめてくれええ……!」


 いつものパターンだ。これまで彼女に襲いかかった男たちは彼女の人知を超えた暴力を目の当たりにすると一瞬パニックに陥り、その後に己の敗北を悟るのだ。コルガーは嘆息をついて男の青ざめた顔と下半身を交互に見た。男は化け物を見るような目でコルガーを見上げている。


「殺しはしないし、オレはいつも本人の希望を聞くことにしてる。おまえは、切りとられるのと潰されるの、どっちがいい?」


 男は恐怖を顔に張り付けて絶句した。


「どっちでもいいなら、オレの気分で決める」


 短剣を逆手に持ち直し、コルガーは唇の端を上げて笑って見せる。すると痛みのせいか恐怖のせいか、男は白目をむいて意識を失ってしまった。ごろりと力なく転がった男の手から足をどけ、コルガーは短剣の刃を丸めて闇の向こうに投げ捨てた。


「神様は――いない。もし本当にいるとしたら、世の中はこんなに腐ってないはずだ。だから野放しの無法者には誰かが手を下さなきゃならないんだとオレは思う」


 それは間違いかな、猊下。コルガーは重い気持ちで暗い空を仰ぎ、大きな白いため息を吐き出した。


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