6.悪魔2 ―黒霧―
コルガーとギーヴがグラスゴーに辿り着いたのは翌々日の正午過ぎだった。ヨイクたちと待ち合わせた鷲獅子亭という名のパブ兼宿屋を訪ねると、彼女たちもちょうど同じ日に到着したようだった。何はともあれ一刻も早くグラスゴー大聖堂が見たいというコルガーは荷物を置いて出かけてしまい、ギーヴは宿の主人の案内でマキシムの孫娘ヒリールと再会した。
「ギーヴおじいさま、お久しぶりです!」
ギーヴが扉を開けるやいなやヒリールは彼に飛び着いてきた。
「やあ、元気だったかい、ヒリール。ヨイクたちとの旅は楽しかった?」
「はい!」
ギーヴはにこにこと破顔してヒリールの小さな頭を撫でた。コルガーといい、ヒリールといい、血縁者はやはり可愛いものだ。だが、コルガーに抱いている気持ちとヒリールに感じる親しみには何か大きな違いがあるような気がして、ギーヴはぎくりとした。瞼の裏に蘇る官能的な光景を振り払い、ギーヴは室内を見た。ヨイクとユアンの姿はなく、ヒリールは一人で留守番をしていたようだった。
「ヨイクとリプトン君は?」
「ヨイクはたった今出て行ったところ。ユアンは野暮用だって」
「行き違いになったか。仕方ない、俺たちはここで大人しくしお茶でも飲んでようね」
ギーヴは錫杖を壁に立てかけ、荷物を置いて椅子に腰を下す。ヒリールは暖炉の火にかけていたやかんをとってお茶の支度を始めた。
「あの、おじいさま、シスター・アンジェラが一緒に来るって聞いたけど……」
ヒリールはカップをテーブルに並べながら、様子をうかがうようにちらりと上目遣いでギーヴを見た。アンジェラに対してヒリールが複雑な気持ちを抱いているのは分かる。ヒリールにとってアンジェラは祖父の妻で、しかもマキシムはまだ彼女を愛しているらしいのだから。
「彼女はちょっと……ね。代わりにマキシムとアンジェラの曾孫のコルガーを連れて来たよ。そのうち戻ってくるから紹介するね。年も君に近いんだよ」
それから二人は紅茶を飲みながら、ギーヴはエディンバラの塔から脱走してアイルランドまで行ったことを、ヒリールはヨイクとユアンとともにリラ城を抜け出し劇団に紛れてグラスゴーまで旅してきたことを話した。世間知らずの二人にとってそれは大冒険だったので、どちらも興奮して互いの話を聞いていた。
「ヨイクもリプトン君もすごいよねえ」
ギーヴがしみじみと言うと、ヒリールも大きくうなずいた。彼らの助けがなければギーヴもヒリールも今ここにはいない。
「うん。二人とも強いし、かっこいい。ユアンは料理も上手だよ」
「コルガーもね、かっこいいよ。頼もしくて、たくましくて、賢くて、何でも器用にこなせて、優しくて。建築おたくだけど」
苦手なことは諦めること。コルガーはそう言っていた。
「顔はアンジェラにそっくりだけど、性格はマキシムに似てるんだよ」
ギーヴは窓から見えるグラスゴー大聖堂の尖塔を眺めた。今頃コルガーはグラスゴー大聖堂に辿り着いただろうか。ギーヴがコルガーを褒めちぎると、マキシムの孫娘は眉をひそめて目を伏せた。
「じゃあ、わたしあんまり会いたくない」
ギーヴはきょとんとして瞬きした。
「どうして?ヒリールはマキシムが嫌いなの?」
「……嫌い。だってマキシムおじいさまもわたしのこと嫌いだもの」
ヒリールはカップの中の紅茶に視線を落とし、小さな声で言う。ギーヴは椅子の背にもたれ、天井を見上げて考え込んだ。
「マキシムが自分の孫を嫌うなんて、俺には信じられないなあ」
六十年前に別れたきりとはいえ、マキシムはギーヴの双子の兄である。彼のことはよく知っているつもりだった。
「マキシムおじいさまは変わってしまったってみんな言ってる。ギーヴおじいさまとシスター・アンジェラがヒベルニアへ来て下さらないから、あなた方が約束を違えたから、マキシムおじいさまは全てのことに絶望してしまったって」
顔を上げたヒリールの瞳は涙で潤んでいた。ギーヴはテーブルに身を乗り出し、兄の孫娘と正面から向き合った。
「マキシムが怒るのも無理はないと思う。俺はきちんと謝るつもりだよ。でもその前に俺は君に謝らなきゃいけないね。俺やアンジェラのせいでマキシムを悲しませてしまったこと、マキシムのせいで君を悲しませてしまったこと」
ギーヴがヒリールの瞳を覗きこむと彼女は顔を背けて窓の外を見た。大きな茶色の瞳から今にも涙がこぼれ落ちそうだった。
この六十年の間に、マキシムに何があったのだろう。
ギーヴは窓の外の運河の流れに目をやって、遠い地の兄のことを思った。
コルガーはグラスゴー大聖堂を目指して市街地を歩いていた。少しでも自制心のたががはずれたらスキップでもしそうな勢いだ。初めての異邦というだけで胸が躍るのに、それに素晴らしい建築物が付いてくるとなればフルコースディナーをいただくようなものだ。
「おっと!」
夢見心地のコルガーを現実に引き戻したのは鼻先を横切った人影だった。コルガーはたたらを踏み、疾走する人影をよけた。が、直後にもう一人鼻先を横切る。
「ごめんなさい!」
二人目は早口で謝罪し、わずかにコルガーを振り向いた。波打つ長い金髪を揺らした青い瞳の少女だ。藍色のワンピースをまとい、赤い帽子をかぶっていて、どことなく異国情緒漂う不思議な女の子だった。
コルガーが藍色のワンピースの少女に目を奪われていた時、先にぶつかりそうになった人影がコルガーをちらりと顧みた。その顔には見覚えがあった。
「あ!てめ、あの時の、アヤ・ソールズベリ!」
ウイスキー修道院へ現れたあの男装の麗人である。コルガーはアヤと藍色のワンピースの少女を追って駆け出した。アヤには果樹園に火をつけられた恨みもある。
「あの男装女を知ってるの?!」
コルガーが少女に追いつくと、彼女は青い瞳を見開いて訊ねた。
「名前だけ!とっ捕まえて素性を吐かせてやる!」
「なるほど、目的は同じね」
「よし、オレが先回りする。二人ではさみうちだ」
コルガーはスピードを落とさずに民家の壁を駆け昇って屋根の上を走り始めた。足元一面に広がる赤いレンガ屋根は壮観だった。
「ちょ、ちょっと、何者なのあなた?!」
口をあんぐりと開けて驚く少女を見下ろし、コルガーは不敵に笑って見せた。右足にぎゅっと力を入れると、太ももから靴先までが緑色の陽炎に包まれる。その足で踏みきると、コルガーの身体はたった一歩で十メートルを進む。
「観念しろ!」
アヤの姿を見つけたコルガーは屋根から飛び降り、彼女の目の前の路地に着地した。アヤは方向転換しようとしたが、背後からは藍色のワンピースの少女が追いかけてくる。
「しつこい連中。私たちが争うのはまだ先なのに、死に急ぐこともないでしょう」
苦々しげにつぶやき、アヤは細い脇道へ入った。コルガーと少女も慌ててそれを追いかける。
「よし、チャンス!」
コルガーは指を鳴らした。細い路地の行く手で、一組の男女が身体を寄せ合い見つめ合っているのだ。それを見て藍色のワンピースの少女が「あっ!」と声を上げた。
「ユアン!そいつ捕まえて!」
「はあ?!」
少女の命令に、佇んでいた男女のうち男の方がこちらを見て声を上げた。彼は素早い動作でアヤの行く手を阻み、体当たりを食わせる。アヤは地面に押し倒され、男の腕から逃れようともがいた。
「ナイス、ユアン!」
コルガーと少女はユアンと呼ばれた男と、うつ伏せになったアヤに駆け寄った。
「何なんだ、この女は」
ユアン青年が顔をしかめて訊ねる。少女はアヤのそばに膝をつき、辺りの様子をうかがった。
「油断しないで、おかしな術を使うやつよ、鷲獅子亭の前で私たちを監視してた。たぶん、あんたをつけてる奴もどこかに……きゃ!」
案の定、建物の影から何者かが顔を出し、煙幕弾が投げられた。白い煙が視界を埋め尽くす。コルガーは咳きこみながら姿勢を低くし、目を凝らしてアヤを見た。目が合った。彼女は薄らと気味悪く笑った。
「ミスティック!力を貸して!」
――御意。
アヤの周囲に黒い霧の竜巻が生まれ、道端の落ち葉を撒きあげた。ユアン青年は藍色のワンピースの少女を守るようにして後ずさり、遠巻きに彼らを見ていたパブの女店主風の女性に彼女を預けた。
「あんたも悪魔と契約したのか!」
コルガーはパーシヴァルの悪魔アザゼルと戦った時のことを思い出した。コルガーの人知を越えた力が、悪魔アザゼルには敵わなかった。今度も勝てないかもしれない。喧嘩の前から弱腰になる自分にコルガーは驚いた。こんなことは初めてだ。
「そうよ、私はミスティックと契約したの。ヒベルニアの地を踏むためにね」
アヤは黒い竜巻の中心で女王のように笑った。コルガーは背筋が凍るような思いで後退した。以前会った時の彼女にはこんな邪悪さはなかったはずだ。
「戦いの時はまだよ。ヒベルニアで会いましょう」
女王の哄笑を合図に黒い竜巻はコルガーたちを襲った。膨らみ、勢いを増した竜巻に吹き飛ばされ、コルガーは民家の壁へ背中を打ちつけた。
「待て!」
コルガーはすぐに飛び起きたが、アヤの姿は消えていた。
「くそ!ジャックといい、パーシヴァルといい、あいつといい、何者なんだよ!」
「あなたこそ何者よ」
地団太を踏むコルガーに言ったのは藍色のワンピースの少女だった。彼女は頬や額に小さな傷を負い、乱れた長い金髪を撫でつけながら眉をひそめた。彼女をかばったせいだろう、その背後のユアン青年にいたっては民家の壁にめり込んでいる。アヤから一番離れた場所にいたパブの女店主風の女性が表通りへ助けを呼びに走っていった。
「普通じゃないけど人間だ」
胸を張って言ったものの、コルガーはかすり傷ひとつ負っていない。藍色のワンピースの少女は厳しい表情でコルガーを見つめた。
「あの男装女はヒベルニアへ行くために悪魔と契約をした、ヒベルニアで会おう、そう言ったわ。あなたにはその言葉の意味が分かるの?」
そこでコルガーは合点がいった。
「ヒベルニアのことを知ってるってことは、あんたが民話学者のヨイク・アールトか。ってことは、あれが書籍商のユアン・リプトン?」
「どうして私たちのことを?それにヒベルニアのことを知ってるのは何故?」
警戒するように身構え、少女はコルガーを睨む。コルガーは大きなため息をついて民家の屋根の向こうに見える立派なとんがり屋根を見上げた。
「嗚呼、真っ先にグラスゴー大聖堂が見たかったんだけど、仕方ないか。ひとまず戻ってお話ししようぜ、鷲獅子亭で」