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ヒベルニアの極光  作者: 葉梨
第三章
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5.悪魔1 ―牡山羊―

「若旦那、下がりなさい!」


 黒づくめの男はコルガーとジャックの間に割って入ると、コルガーの迫力に負けて呆然としていたジャックを低い声で怒鳴りつけた。男の腹にはコルガーの拳が打ち込まれているが、彼は眉一つ動かさない。よく見ると、コルガーの拳は男の身体に指一本分届かず、空中で止まっていた。


「な、なんで?!」


 コルガーは訳が分からず後退した。黒ずくめの男は嘲笑う。黒い髪に黒い目、黒い服、夜のような男だ。


「おまえにおまえを助ける者がいるように、私にも私を助ける者がいる。私と悪魔の契約は、おまえとおまえを助けるものの繋がりより強い、それだけだ」

「悪魔?」


 男は困惑するコルガーを冷たい目で見下ろした。


「姿を見せてやれ、アザゼル」


 ――御意。


 烏のようなしわがれた声が男の言葉に応え、次の瞬間、コルガーの目の前にどす黒い人型の闇が現れた。頭には山羊の角が生え、身体は獣のように濃密な毛で覆われ、先のとがった長いしっぽを持っている。


「なんだよ、これ……!」


 さすがのコルガーも思わずうろたえる。己の従える悪魔に恐れ慄くコルガーを見て、男は実に満足そうに笑った。


「はっはっはっは!さあ、アザゼル、遊んでやれ!」


――御心のままに。


 アザゼルと呼ばれた悪魔は気まじめに答え、太い腕をコルガーへ伸ばした。コルガーは軽い動作でそれをよけ、アザゼルに思い切り拳を突き出した。緑色の陽炎に覆われたコルガーの拳はアザゼルの腹に命中したが、悪魔は痛がるそぶりがない。続けざまに回し蹴りを入れてもびくともしなかった。


「どうすりゃいいんだよ、いったい」


 手ごたえのない戦いに恐怖を感じ、コルガーは助けを求めるようにジャックを見た。ジャックは黒ずくめの男に抗議するように言った。


「パーシヴァル、やめろ、まだ争う必要はねーだろ!」


『まだ』か。そういえば初めて会った時も彼はそう言っていた。最初から敵だと分かっていたはずなのに、美酒に釣られてジャックにのこのこついてきてしまった自分が今さら腹立たしい。コルガーは頭に血が上るのを感じた。


「てめえら、エディンバラ教会の奴らか?」


 パーシヴァルと呼ばれた黒ずくめの男は胸の前で両腕を組んだ。アザゼルも同じポーズをとる。


「教会関係者が悪魔と契約しているわけがないだろう」

「じゃあ何者だよ。どうしてオレたちを狙う?」

「アヤ・ソールズベリについて来いと言ったのはそちらのはずだったと思うが」


 どこかで聞いた名前だ。コルガーは三秒後に気がついた。


「おまえら、あの男装女の仲間か!」


 叫ぶと同時に、コルガーの身体は吹き飛ばされた。アザゼルの吐き出した灰色の息がコルガーを襲ったのだ。コルガーは数メートル後方のレンガの塀に叩きつけられた。


「ぐえ!」


 せき込みつつ起き上がろうとするコルガーに、アザゼルがのしかかってくる。喧嘩で相手に押されたのは生まれて初めてのことで、コルガーはどう対処していいか分からなかった。いつもの怪力も発揮できず、それどころかアザゼルに触れられると全身から力が抜けて行く。


 しゅーしゅーとアザゼルが呼吸した。鋭い爪を持った悪魔の手がコルガーの細い首に伸びる。血のように赤い瞳と目があった。殺される。コルガーはぎゅっと目をつぶった。


「――我が声は神々の御声」


 りん、と錫杖の輪が鳴る音がした。


「悪しきものよ、光によって打ち払われよ」


 りん。再び鳴る。アザゼルが苦しげな動きをしてコルガーの身体の上から退いた。パーシヴァルが舌打ちする。コルガーは瞳だけを動かして声のした方向を見る。背の高い男の影が見えた。


「悪しきものよ、光によって、打ち、払われよ」


 穏やかな音楽のような声に続いて小さな水音がした。アザゼルに何かの液体を――恐らく聖水のようなものをかけたのだ。悪魔は醜い悲鳴を上げながら転がるようにパーシヴァルの足元の影の中に姿を隠した。


「君、大丈夫?」


 コルガーの顔を覗きこんだのはやはりギーヴだった。コルガーは彼の緑色の瞳を見上げた。言葉が出なかった。本当に殺されると思った。バケツの水をかぶったように、全身に冷汗をかいていた。


 コルガーは震える手を無理やり動かし、ギーヴの濃紺の法衣をつかんだ。家族以外の誰かに守ってもらったのも、家族以外の誰かにすがったのも、初めてのことだった。そして、なぜだか頭の隅で、女に生まれて良かったと思う自分がいた。


「……死にそうです」


 コルガーはやっとのことで答えた。


「だめ、死なないで」


 大まじめに答え、ギーヴはパーシヴァルとジャックに向き直った。


「まったくもう、いたいけな十代に何してくれるんだい」

「うちの若旦那に手を上げたのは彼の方だ」


 パーシヴァルが鼻を鳴らすとギーヴは首を傾げてコルガーを見た。


「そうなの?」

「だってあいつ、オレの唇にキスしたんだ!」


 コルガーは石畳に倒れ込んだまま、改めて唇を服の袖でぬぐって顔をしかめる。あんな男に初めての口づけを奪われたなんて屈辱だった。


「それにあいつら、あのアヤ・ソールズベリの仲間なんです」

「ふうん」


 コルガーの怒りを察したのか、ギーヴも不機嫌そうに眉をひそめる。


「コルガー、悪かった、一生の無覚だ。本当にヒベルニアへ着くまで争うつもりはねえんだよ。いや、もっと言っちまえばヒベルニアへ着いてからも、俺はコルガーと争いたくねえ」


 そう言って、ジャックは葛藤するような表情で唇を引き結んだ。コルガーはこんな時にわけのわからない言い間違いをするジャックを睨み返しつつ、パーシヴァルの様子をうかがった。


 ジャックの思惑と彼の思惑はしばしばずれているように思える。ひょっとしたらパーシヴァルはジャックの意向を無視して今すぐに決着をつけようなどと言い出すかもしれない。だが、パーシヴァルはコルガーの予想に反してあっさりと頷いた。


「その通りだ、坊やをからかったに過ぎない。利害が一致している以上、我々に争う意思はない」


 悪魔に殺されかけたコルガーとしては異論大ありだったが、ギ-ヴはコルガーを両手で抱き上げると、非常にあっさりと二人の男に背を向けた。


「そう。じゃあさようなら、おやすみなさい。――コルガー、君、ちょっと軽すぎない?」

「は?え?あの、いいんですか、あいつら放っておいて」


 コルガーはギーヴの腕に抱かれてジャックとパーシヴァルを顧みた。ギーヴならば彼らに勝てたはずだ。 


「それは、決着をつけて、できればトドメを刺した方がいいっていう意味?」


 困惑するコルガーにギーヴは厳しい声で応える。コルガーは彼の露骨な表現に腹の奥が冷たくなるのを感じた。違う、ギーヴに人殺しをしてほしいなんて思ってはいない。だが。


「だって、あいつらヒベルニアに着いたらオレたちに危害を加える気ですよ!」

「俺は腐っても聖職者だ。人殺しはしないし、君にもさせたくないよ。火の粉が降りかかれば払うけれど、それ以上のことはしない。争いが何も生み出さないことは六十年前に思い知ったんだ」


 コルガーは黙るしかなかった。ギーヴはクラシックの大行進の時のことを言っているのだろう。大行進に参加したクラシックの多くが、エディンバラ教会の僧兵との戦いで命を落としたのだ。もしかしたら死者の中には彼の大切な人がいたのかもしれない。愛する人を失う悲しみをコルガーは痛いほど知っていた。そして――この手で人を殺める罪深さも。


「それより、どうして彼と一緒だったの?」


 口を閉ざしたコルガーにギーヴは非難がましい声で言った。


「……ジャックが美味い酒を奢ってくれるって言うから」


 正直に答えたものの、自分で言っていて情けなくなってきた。コルガーは肩を落とし、ギーヴはため息をついた。


「君は、自分の力を過信してるよ。知らない男に一人でついていくなんて、だめ」


 女の子じゃあるまいし、と言おうとしてコルガーはやめた。いつも穏やかなギーヴの瞳が怒りに燃えていたからだ。


「あの、怒ってます?」


 恐る恐る訊ねると、コルガーを抱くギーヴの腕の力が強まった気がして、コルガーは彼の顔をさらにまじまじと見つめた。身長差の大きな二人がこんなに顔を寄せ合ったのは初めてだった。コルガーは唐突に、ギーヴの長い髪や頬の産毛や金褐色の眉や睫毛に触れたいと思った。


「怒ってるよ。でも君にじゃないよ。あのジャックって男に怒ってるんだ」


 さっきまでコルガー自身もジャックに怒り狂っていたが、ギーヴが歯噛みしながらそう言うのを聞いて少し気持ちが和らいだ。自分のために誰かが怒ってくれるのは嬉しいものだ。


「何笑ってんのさ」


 知らずに微笑んでいたコルガーにギーヴが唇を尖らせる。コルガーは今度こそ声を漏らして笑ってしまった。じわりと温かい何かが胸の中に広がり、凍っていた心の一部をゆっくりと溶かしてゆく。


「助けてくれてありがとうございます」


 家族以外の誰かに助けられたのは初めてだった。家族以外の誰かがコルガーのために怒ってくれたのも初めてだった。自分が、自分以外の誰かに大切にされていると思うと、もう少しだけ己を大切にしようと思える。


 コルガーは目を閉じて、想像する。


 もしもあの時、あの残酷なまでに赤い夕焼けに染まる河原にギーヴがいたら、彼はどうしただろう。腐っても聖職者だと言って、あの男たちを許したのだろうか――。


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