4.美味い酒に釣られる
「見つけましたよ、ギーヴ猊下」
その背後からの声に、コルガーは飛び上がった。広場はいつの間にか閑散としていて、他人の気配を感じなかったのだ。コルガーの助言を受けてあちこちのポケットに小銭をしまっていたギーヴもはっと顔を上げた。
「うわ、まずい!」
ギーヴはコルガーの手を取って逃げようとしたが、すでに周囲を囲まれていた。黒い詰襟に身を包んだ四人の男たちが、両手を広げて彼らへにじり寄る。
「猊下、こいつらは?」
とても仲間には見えなかったが、コルガーは訊ねた。ギーヴは不快感を露わに答える。
「俺の護衛、もとい監視役。エディンバラ教会の連中だよ」
ギーヴとコルガーは背中合わせに立ち、四人の護衛たちを睨み返す。真っ先に動いたのは豊かな黒い口髭のある中年の男だった。彼はコルガーの腕をつかんで己の方へ引き寄せ、額に短銃を押し付けた。小柄で非力そうなコルガーを人質にしようという魂胆だったのだろうが、コルガーは怯えるでもなく肩をすくめただけだった。
「なんだよ、エディンバラ教会の連中だっていうから、もっとすごいことしてくると思ったのに、残念!」
そう言い放つや否や、コルガーは口髭の男を片腕で跳ね飛ばした。彼の身体は数メートル上空まで舞い上がり、虹のようなアーチを描いて広場の端に落下した。うろたえる残りの男たちが一斉に発砲したが、弾丸がコルガーの身体を傷つけることはない。
「勘弁してよ。裁縫は得意だけど、あんまりつぎはぎだらけじゃ格好悪いだろ」
三人ともコルガーの心臓を狙って撃ったのだろう、左の胸元がぼろぼろになった自分の上着を指でつまみ、コルガーは男たちを迷惑そうに見た。エディンバラ教会の護衛たちは恐怖の表情を顔に張り付けて後ずさりし、互いに目配せし合うと、倒れている口髭の男を背負って逃げ出した。
「やれやれ」
「弱えー」
ギーヴはほっと息をつき、コルガーは退屈そうにぼやいたが、彼らは背中合わせのまま警戒を緩めなかった。広場の端に別の誰かが立っていた。二人組の男だ。
「ひゅー。大したもんだなー、惚れちまうぜ」
朗らかに言ったのは身なりのいい黒髪黒目の白皙の青年だった。背後に四十歳くらいの黒ずくめの男を従えている。コルガーはその黒ずくめの男から、エディンバラ教会の護衛とは比較にならないほどの殺気を感じた。まるで猛獣のような気配だ。
コルガーはギーヴを守るように数歩前に出た。青年は乗馬用のブーツで一歩一歩を踏みしめるようにゆっくりとコルガーに歩み寄り、少女に顔を近づけて囁いた。
「目の保養にゃいいんだけどよ、ちぃっと隠した方がいいんじゃねえか、その美乳」
ばちん、という小気味よい音とともに、青年の頬にコルガーの手形がつく。コルガーは穴のあいた胸元を隠し、余裕の表情を浮かべる青年を睨みつけた。
「喧嘩なら買うぜ、優男」
コルガーが啖呵を切ると、青年はくすりと笑った。まるで王子様のような笑顔だった。彼に裸の胸を見られたと思うとコルガーの頬は恥ずかしさで熱くなる。そんな乙女心を面白がるように、青年は目を細めた。
「威勢のいい嬢ちゃんだな。でも争う気はねーよ、今はまだ」
彼はコルガーの肩に自分の上着をそっとかけ、身をひるがえして黒づくめの男とともに颯爽と立ち去る。と、思ったら、広場の端にある溝に落ちた。
「……なんだろうねえ、あいつら」
ギーヴがつぶやき、コルガーが頷いた。
翌日、ギーヴの熱も下がり、二人は乗り合い馬車に揺られて港町バンゴールへ向かった。馬車の乗客はコルガーとギーヴの二人きりで、彼らは気兼ねなく足を伸ばしたり談笑したりしながら移動を楽しんだ。
「あなたはどうして六十年間もエディンバラ教会に囚われていたんですか?あの護衛たちは無茶苦茶弱いし、幽閉されていた塔から逃げ出すのも簡単だったんでしょう?逃げようと思えば逃げられたと思うんですけど」
昼食のパンをかじりつつコルガーが訊ねると、車窓の景色を眺めていたギーヴはコルガーを振り向いて微笑んだ。
「何だかんだ言って、エディンバラでは自分のしたい研究ができていたからね。幽閉生活は窮屈だったけど、働かずして食べるものや寝る場所を保障されている生活だもの、贅沢は言えないよ。それに、逃げ出したところで行くあてもないからねえ」
ギーヴは窓の外の景色に視線を戻した。きっと外出することも少なかったのだろう。何でもない田舎の風景を愛おしげに眺める彼の姿に、コルガーの胸は少し痛んだ。
港町バンゴールに到着すると夕刻だった。船着き場へ向かうと上品そうな白髪の老人が二人を迎えてくれた。
「おかえりなさいませ、ギーヴ猊下」
白髪の老人はギーヴの荷物を恭しく受け取りながら、コルガーを見た。ギーヴがすかさずコルガーを紹介する。
「こちらはコルガー・バルトロメ。シスター・アンジェラの曾孫で、彼女の代わりにヒベルニアへ行くことになったんだ。コルガー、こちらはユアン・リプトンの優秀な執事だよ」
「コルガー・バルトロメです、よろしく」
コルガーはリプトン家の執事に手を差し出した。老人は大好きだ。
執事は二人を船内に通し、紅茶を入れながら夜が明けたらグラスゴーへ向けて出港すると告げた。天候や海の状態にもよるが、グラスゴーには一泊二日で到着するという。コルガーにとっては初めての異邦旅行である。その晩、コルガーはうきうきと胸を躍らせながらバンゴールのパブに向かった。
「くー!うまっ!」
コルガーが三パイント目のギネスを飲み干した時だった。
「次の酒は俺が奢るぜ」
がたっと音を立ててコルガーの隣に腰を下した男がいた。「おかわり!」と叫ぼうとしていたコルガーははっとして顔を赤らめた。昨夜、裸の胸を見られた青年だった。彼の黒い目が至近距離で魅惑的に細まる。
「できれば、静かなところで飲み直さねえ?いいウイスキーを出す店があるんだ」
いい酒と聞いて心が傾かないわけがない。コルガーは青年とともに店を出た。彼は明らかに怪しい男ではあったが、自分の身を守れる自信はある。コルガーは青年の隣を歩きながら、彼の横顔を見上げた。
眉目秀麗とはこういう顔のことを言うのだろうとコルガーは思った。彼は上質な服を身につけている。昨夜コルガーの肩にかけてくれた上着もとても高価そうなものだった。言葉づかいからして貴族には見えないので、豪商か何かだろうか。
「そういや、まだ名前を聞いてなかったなあ。俺はジャック・ロッキンガムだ。嬢ちゃんは?」
ふいに青年が名乗った。ジャック・ロッキンガム。コルガーは口の中で彼の名前を反芻する。
「オレはコルガー・バルトロメだ」
「なんだよ、男名じゃなくて本名を教えてくれよな」
「男名も本名もねえよ。オレはコルガー・バルトロメだ」
ジャックの気さくな口調に釣られ、コルガーの言葉も砕ける。荒くれ男ばかりの仕事場ではいつも汚い言葉を使っていたものだ。
「しゃーねーなー。じゃあ、コルガーちゃんはどうして男装なんかしてんだ?ドレス着たらお人形みたいで絶対可愛いぜ?」
「うるせーな、やっぱオレ帰る」
「あ、ここだ、ここ。この店」
踵を返すコルガーを無視してジャックは店の中に消えた。なんというマイペースな男だ。そしてコルガーはマイペースな男に弱いのだった。小さくため息をつき、コルガーは仕方なく扉をくぐった。客は身なりのいい紳士ばかりで、着飾った女性の姿さえある。街中のパブとは雰囲気が全く違い、コルガーは急に自分の服装が恥ずかしくなった。
「いらっしゃいませ、お席にご案内いたします」
恭しく目礼し、ウェイターが二人をカウンター席に案内する。高級レストランみたいだ、とコルガーは本気で緊張した。緊張しながら一番高いウイスキーを頼んだ。
「で、どうして男装なんかしてんだ?教えてくれよ」
カウンターに頬杖をつき、ジャックはコルガーの顔を覗きこむ。コルガーは彼を睨みつけて顔を背けた。なぜだかジャックの顔を正視できない。きっと昨日、胸を見られたからだ。
「何でそんなこと聞くの?」
「俺のダチも男装してるから」
その時、コルガーの心の中で何かが引っ掛かったが、それが何なのかは分からなかった。
「コルガーちゃんにはどんな事情があるのかなっと。どーしても教えてくれねっていうなら、連れの金髪の人に実は女の子だぜってバラしちまうかなー」
「あんた、鬼だな」
コルガーが顔をしかめて見せると、ジャックは余裕の表情で微笑んだ。
「俺はコルガーのことが知りたいんだ」
少女は大きなため息を長々と吐き出した。
「コルガーっていうのは三月地震で死んだ兄の名前だ。兄は二つ年上で、三人兄弟でたったひとりの男子だった。オレたち兄弟は庶子で母も早くに亡くしていたから、兄が親代わりみたいなものだったんだ。いつもオレたちを守ってくれた」
ウェイターがウイスキーのグラスを二人に差し出した。コルガーはジャックとグラスを合わせ、それを話の合間に煽った。うまい。安酒も愛しているが、高級な酒も好きだ。コルガーは感動した。
「彼が死んだ時、チャンスだと思った。働かなきゃ飯は食えないけど女の姿じゃ仕事は限られる。でもオレ、建築家になりたいんだ。幸いオレは力持ちだから、今は復興現場で下積みしながら建築の勉強をしてる」
話し終え、コルガーはぐびりとウイスキーを飲み下す。ジャックは首をひねり、胸の前で腕組みした。
「つまり、建築家になるために男装してるってことか?兄貴とすり替わって?」
「……一番の理由はそれじゃない。けど、説明すんの面倒くさいから、そういうことにしといて。それより、おかわりしていい?」
ジャックは頷き、ウェイターに目配せした。
「わかったぜ。なーんか、とりあえず生きて行くのに都合が良かったんだな?兄貴にすり替わった方が」
「その言い方、適当でいいね」
コルガーはできる限り朗らかに笑った。同調するようにジャックも笑った。それから二人は互いの身の上を話した。ジャックはイングランドの商人で、アイルランドへは仕事で訪れているのだと言った。彼の家は豪商だが、祖父や父の栄光から離れ、一人の商人として、自分だけの力で一から勝負したいのだとジャックは語った。
コルガーは小旅行の途中だとお茶を濁し、復興現場のレンガ積みや石畳の補修について話して聞かせた。コルガーが建築について熱く語り出したのはウイスキーを四杯飲み干した頃だった。
「オレ、グラスゴー大聖堂は絶対見るんだ!」
これから向かうグラスゴーの有名な建築物のことをコルガーは考えた。それだけで魂がとろけ、妄想の世界に旅立ってしまいそうになる。
「きっとすっごく美しいんだろうなあ!」
一人で語りつつ身もだえするコルガーを眺め、ジャックは楽しそうに目を細めた。少し前から彼はじっとコルガーを見つめ、聞き役に徹している。彼は時々相槌を打ってくれるし、退屈そうには見えなかったが、自分一人ではしゃぎ過ぎてしまったかもしれない。コルガーは頭をかいた。
「ごめん、オレ、建築のこととなると興奮して。つまんなかっただろ?」
恐縮するコルガーに、ジャックは顔を寄せた。
「全然。コルガーを見てると退屈しないし、建築の話をするコルガーは可愛いぜ」
「か、かわ?!」
ぎょっとするコルガーの頬に、ジャックの指が触れる。その長い指は流れるような動作でコルガーの顎をつかみ、ジャックは少女の――唇を奪った。
唇が離れるや否や、コルガーは店中に響くような声で叫んだ。
「お、お、表に出やがれ!!!ぶっ殺す!!!」
「へいへい。じゃ、先に出ててくれ」
ジャックは顔色一つ変えずに懐から財布を出す。コルガーは彼に奢られるのが癪に思えて全財産の十五ペンスをカウンターに叩きつけて店を出た。外は寒かったが、コルガーは活火山のごとく怒りに燃えていた。
「待たせたな。宿まで送るぜ」
店から出て来たジャックは何事もなかったかのように平然と言った。コルガーはますます激怒して、固く握った拳を足元の石畳に叩き下した。ずん、という音がして、コルガーの半径一メートルが二十センチ陥没した。これにはさすがのジャックもうろたえた。
「お、おいおいコルガー?」
「……オレはこれがあったから生き延びられたんだ。これがあったから誇りを失わずに済んだんだ」
コルガーの身体を淡い緑色の光が覆う。コルガーはジャックを睨みつけ、上着の袖で唇をぬぐった。
「オレに触るな」
何度も、何度もぬぐう。
「コルガー、悪かったよ、だから……」
ジャックは眉をひそめて申し訳なさそうに詫びたが、コルガーの耳には入らない。
「オレがこんな恰好をしてる三番目の理由を教えてやろうか」
コルガーは拳を握った。その拳から、ゆらりと緑色の陽炎が立つ。
「あんたみたいな金持ちには関係ないだろうけど、大きな災害が起きた時、社会の底辺がどうなるか知ってるか?ユーカイ、ジンシンバイバイ、キョ-セイロウドウ、バイシュン、ゴーカン。餌食になるのは子供と女だ。老人はまだいい、路傍で骨になるだけだから。ベルファストの警察はほとんど機能してない。地震で刑務所が倒壊して囚人も野放しだ。行政も司法も麻痺してめちゃくちゃになった街で、家族と家を失った十六歳の女の子が無事に生き延びられると思うか?オレが何度危険な目に遭ったと?だからエド・バルトロメには死んでもらった。オレはコルガー・バルトロメだ。十八歳の、一人前の男だ」
緑色の陽炎はコルガーの全身を包み、燃え盛る炎のようにコルガーの身体を取り巻いている。コルガーが拳を振りかぶっても、ジャックは逃げなかった。彼はただ、悲しげな目でコルガーを見つめ返した。
「オレに、触るな」
コルガーの拳がジャックの腹に突き出される、まさにその瞬間、建物の陰から黒ずくめの男が現れコルガーの前に立ちふさがった。