3.アイリッシュパブの風景
午後七時、ギーヴは落ち込んだ気分で、パブ『キーホーズ』のドアノブを握る。
「いらっしゃい」
扉を開けるや否や、店主が友好的な笑顔で言った。同時に、全員の客がおしゃべりを止め、「いらっしゃい」と異口同音に言った。異邦人としては、一瞬、奇妙な感覚にとらわれる。奏でられていた陽気なフィドルの音も止んだのだ。
「神父さんもギネス?それともキルケニー?ロンドンのポーターなんかも入ってるよ」
店主はてきぱきと働きつつ、ギーヴに訊ねる。黒い詰襟だけを着ているので、神父と間違われたのだ。これはいつものことである。
「酒はいらないんだ」
「神父さん、パブに慣れてない?もしかして異邦の方?」
パブに入るのは初めてだった。ギーヴはうなずいた。
「まあね」
そう答えた瞬間、一番近くにいた若者が、ギーヴの背中をばしばしとたたいた。
「えー!それなら旅の話を聞かせて下さいよ」
「え?」
「そうだよ、どこから来たんですかー?」
「は?」
若者たちに群がられ、ギーヴは目を白黒させる。その輪へ、中年親父や老人たちも加わった。
「旅の神父さん、あんたもこっち来て、わしらの武勇伝を聞いていきなさい」
「そうじゃ、このロイじいさんときたら、こう見えて若い頃はぶいぶい言わせてたんじゃよ」
「何を、わしじゃって」
これがアイリッシュパブか!ギーヴは心の中で叫んだ。
もともと人懐っこいアイルランド人が、最も心おきなくフレンドリーになるのがパブだ。たとえ相手が初対面でも、一見であっても、彼らは躊躇しない。客人を自分たちの輪の中に入れ、話をさせ、話を聞かせるのだ。決して放っておいてなどくれない。
「あ、猊下。すいません、気がつきませんでした。大丈夫なんですか、病み上がりなのに」
ギーヴが出口に向かって逃亡を図ろうとしたとき、老人たちの向こうからコルガーが顔を出した。彼の前には空の杯とフィドルが置かれていた。さっきまで演奏していたのはコルガーだったのだ。
「神父さん、あんた、コルガーの友達なのかね?」
「あ、じゃあコルガーが言ってた、病気で寝込んでるって人?もう治ったのかい?」
「あんた、楽器はできるの?コルガーの腕は大したもんだったよ、歌もうまい」
「まったくだ。おまえさん、このままここに住んだらどうだ?」
「なあ神父さん、この前うちに双子が生まれたんだけどさ」
ギーヴは愛想笑いを浮かべ、彼らに会釈だけ返した。そして、一向にこちらへやって来ないコルガーに向かって、「早く来て」と目で合図する。
「これはいったい、何事なんだい」
やってきたコルガーに、ギーヴは顔をしかめてみせた。コルガーはすっかり辟易しているギーヴを不思議そうに見上げ、それから納得したように笑った。異邦人の困惑を察してくれたらしい。
「こんなもんなんですよ、ここはアイルランドの、パブですから」
「これじゃ話ができないよ。出よう」
「オレまだ全っ然、飲み足りないんですけど」
「頼むよ」
人に頼まれたら断れないのもアイリッシュだ。コルガーは男たちに別れを告げ(懐っこい割りに、別れるときはさっぱりしている)、ギーヴとともに店を出た。
二人は細い運河沿いの小道を選び、暗く湿った空気の中を歩いた。しばらくの間、二人とも黙って河の音を聞いていた。いつまでもふさぎ込んでいても仕方がない、そう決心してギーヴは口を開いた。
「バイオリン、上手いんだね」
悩み事を抱えていると、自然と声が固くなるものだ。ギーヴが思わずぶっきらぼうに言うと、コルガーはくすりと笑った。
「バイオリンは歌う、しかしフィドルは踊る」
ギーヴは眉をひそめた。コルガーは背中のケースをこつこつと叩く。
「これはバイオリンじゃなくて、フィドルですってば」
「同じでしょう?」
「同じだけど違うんです。歌うバイオリンは音色が命、踊るフィドルはステップが命。アイルランド人もそう。誇り高く胸を張って、楽しく踊れればオレ達はそれでいい。美しさとか価値とか、そんなもの、少なくともオレは要らないなあ」
陽気で人懐こくて誇り高い。大酒飲みで音楽をこよなく愛している。コルガーはとてもアイルランド人らしいアイルランド人だとギーヴは思う。
「この国は、肌に合いませんか?」
言いながら、コルガーはフィドルケースを背負い直す。十六歳の若者に気を遣わせたことに気がつき、ギーヴは頭をかいた。苦笑して、なるべく冗談ぽく答える。
「合わないねえ。こんなに合わない国もないねえ」
コルガーは小さく笑った。
「せめてお酒が飲めれば良かったですねえ」
「酒なんて、あんなもん」
頑固にそう言いながら、ギーヴは生まれて初めて、本当に初めて、酒が飲めればよかったのにと思った。
もし酒が飲めれば、コルガーと毎夜でも杯を傾けたのに。色々な話をしながら、笑いながら。
「じゃあ何でまた病気の身でパブに?」
話が本題に移り、ギーヴは胃の辺りを抑えた。
「……夕飯が味気ないから、ちょっと買い物に出て」
「味気ない夕飯で悪かったですね」
「甘いものが食べたかったんだ。それで、カフェでスコーンとジャムの代金を払おうとしたら――」
ギーヴは詰襟のポケットを裏返した。
「――さいふがない」
自分の財産を持たないギーヴの財布にはユアン・リプトンから支給された旅費が詰まっていた。それも四ポンド、およそ二人の一週間分の旅費に相当する。
「えっそれは大変だ」
「……君、いくら持ってる?」
「ちょっと待って下さい。よいしょっと」
泣きそうなギーヴとは対照的に、コルガーは落ち着き払っていた。上着の内ポケットとパンツの尻のポケットとブーツの底から紙幣やコインをかき集め始める。
「ええと、五十七ペンス。大丈夫、今夜の宿代は払えます」
コルガーがにっこり笑うと、ギーヴはホッとため息をついた。
「良かった。でも、また偉くバラバラに持ってるねえ」
「そうじゃないと、一発でごっそり丸ごと持っていかれるでしょう。あなたも、そんなところに全部入れといちゃだめです」
「聖職者から財布をする奴はいないと思ってたんだ」
「このご時世ですからね。しかも、あなたの場合は異邦人だし、それに」
とろくさいし、という言葉をコルガーは半分ほどで飲み込んだが、ギーヴの耳にはしっかり届いている。
「それより、どうします?これじゃ、明日には宿を引き払わなければならないし、バンゴールへ行く馬車にも乗れませんよ。あなたの体調を考えると、歩いて行くのはやめた方がいいだろうし……」
頭を抱えるコルガーに申し訳なさを感じ、ギーヴは腹を決めた。
「――よし、ここは俺が一肌脱ごう」
人通りの多い中央広場へ出ると、ギーヴはコルガーのフィドルケースを開いて足元に置き、中身を持ち主に返して大きく息を吸った。
「過ぎた日々はただ懐かしく
振り返ることしかできないけれど」
ギーヴが歌い出すと、コルガーが息を飲んだ。道行く人々も次々に足を止める。かつて神童と呼ばれ、天使のような歌声と讃えられたギーヴの歌声は健在だ。低く安定した柔らかい声が小さな町の広場に響き渡り、ギーヴの調子は上がっていく。
「ただ心だけで この心だけで
私はあなたのもとへ飛んでゆく」
そこでコルガーがフィドルを肩に乗せた。ギーヴの歌の邪魔にならない程度の音量で、瑞々しい旋律を奏でる。
「愛を告げる勇気も 己の非を認める強さも
運命に立ち向かう覚悟もなかった
あなたが許してくれるなら
他にはもう何もいらない
ただ心だけで この心だけで
私はあなたのもとへ飛んでゆく」
気がつくと、二人の周りに人だかりができていた。
「この心だけで この魂だけで
あの場所へ あの時へ あなたのもとへ」
歌い終わると拍手喝采とともにコインが投げられた。ほとんどが一ペニーコインだったが、この不景気である。音楽などという腹の足しにもならないものに金を投げてくれるだけでありがたい。
人だかりがなくなった後、二人はフィドルケースの中の金を数えた。四十ペンス以上もあった。これなら乗り合い馬車でバンゴールへ行けるだろう。二人は顔を見合わせて破顔し、それから声を立てて笑い合った。