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ヒベルニアの極光  作者: 葉梨
第三章
22/52

2.林檎修道院の思い出

ギーヴの思い出語りです。

 マキシム・バルトロメとギーヴ・バルトロメが生まれたのはフランス北西部ノルマンディー地方の漁村オンフルールだった。そこはセーヌ河口の小さな村で、彼らはごく普通の漁師の家に生まれた。


 六歳の時、彼らは近所の古い教会の聖歌隊へ誘われ、その歌声の美しさと見目の麗しさから、たちまち天使のような双子と村中で噂されるようになった。村はずれの修道院長ゴールが二人に目をつけたのはその頃だった。


『おたくのご兄弟をぜひ、我が修道院へ迎え入れたいのです』


 ゴールは彼らの両親を熱心に説得した。修道院の禁欲的な生活が恐ろしく、マキシムもギーヴもそれを拒んだが、両親は二人を修道院へ引き渡した。彼らは信心深く、天使だの神童だのという噂をすっかり信じ込んでいたのだ。また、マキシムとギーヴの下には弟妹が四人いて生活は苦しく、二人は両親に従わざるを得なかったのである。


「君も知ってると思うけど、修道院では自給自足の生活をしなくちゃならない。畑を耕し、収穫し、粉をひいてパンを作る。薬草を育て、牛を飼い、酒をつくる。うちの修道院は林檎のジャムや酒が村の人たちから好評で、それで林檎修道院と呼ばれていたんだ」


 ギーヴが言葉を切ると、パブ兼宿屋の屋根裏に、暖炉の薪がはぜる音と窓の外を吹き荒れる風の音だけが聞こえた。


 ギーヴは目を閉じ、当時のことを思い出そうとする。林檎の木の下で昼寝をすることに至福の喜びを感じていたあの頃。兄と毎日顔を合わせ、ともに暮らしていた青年時代。与えられた聖典の教えを疑いなく信じ、自分がクラシック教徒と呼ばれる希少な信徒だということを知らずにいた。


「俺とマキシムの時間が止まってしまったのは、三十歳のとき。ゴール院長が引退し、俺たちの両親も亡くなった後だった」


 エディンバラから使者が訪れて二人の身に起こったことを『奇跡』と認め、彼らを福者の末席に加えた。すると遠方から巡礼者が訪れるようになり、林檎修道院へ入る者も増加した。


「アンジェラと出会ったのはその頃だ。彼女はまだ十代で、父親と兄と三人で巡礼の旅をしている途中だった。彼女とマキシムは一目で恋に落ち、アンジェラは間もなく林檎修道院で暮らし始めたんだ」


 その頃のアンジェラにそっくりなコルガーが興味深そうに「へえ」と言った。


「グリンヒル公会議でクラシックが異端とされたのはその五年後、今から六十一年前の一七〇四年のことだったよ。修道院へ届いたお触れを読んで、俺たちは愕然とした」


 ギーヴは運命の日のことを思い出す。それは夏の暑い盛りだった。正午過ぎ、林檎畑から戻ったギーヴに、アンジェラが一通の手紙を差し出した。差出人はエディンバラ教皇で、手紙にはクラシックの教義を否定し、改宗しなければ修道院を閉鎖する旨が書かれていた。


 手紙を机に叩きつけ、ギーヴは修道院を飛び出した。ぎらぎらと輝く太陽の下を走っている間に、事の次第がようやく飲み込めて、後から後から涙がこぼれた。わけが分からないままノルマンディーの海に飛び込んで、沖を目指してがむしゃらに泳いだ。苦しくなって水面から顔を出すと、気の遠くなるほど青い空が見えた。しばらくの間、海に浮かんで空を見ていた。


「それまで、俺たちは何も考えずに神々を信じていた。与えられた聖典を読み、与えられた規則に従って、ただただ従順に暮らしていた。だから、自分たちの信じる神々が否定されたとき、どうしていいか分からなかった。とても悲しくて、悔しくて、けれども何を考えたらいいかということさえ、何を悩んだらいいかということさえ、本当に分からなかったんだよ」


 情けなかったよ、とギーヴは額を押さえた。あのとき、誰よりも狼狽していたのは自分だった。それだけ、ギーヴは信仰というものに確固たる信念や考えを持っていなかったということだ。


「それからすぐに、『改宗か死か』というスローガンの下に、クラシック教徒の弾圧が始まった。俺たちは林檎修道院の連中や他のクラシック教徒との会合をこっそり開いて、色々な考えや不安を話し合った。自分たちの信じていた神々が、ある日を境に抹消されてしまうなんて、俺たちは許せなかった。神々とはその程度のものなのか、神々とは人間の都合で創られたり消されたりするものなのか。俺たちは憤ったよ。だからそこで出た結論は、クラシックの教えを守り抜こうというものだった。その頃に改宗しようとする者は少なかったんだ、まだ教会を甘く見てたんだね」


 コルガーは神妙な表情で黙って話を聞いている。


「弾圧が厳しくなったのは年が明けてからだった。教会は唯一神だけを崇めることを強要した。神から人間味は失われ、神は絶対無敵の英雄になった。そうすることで、科学に傾倒し信仰を蔑ろにする人々をもう一度振り向かせることが出来ると教会は本気で思っていたんだ。オンフルールにエディンバラから特使が派遣され、教会や修道院の監査を始めたのは三月、とても寒い日だったよ」


 特使として派遣されてきたのは二人の聖職者だった。彼らは林檎修道院の隅から隅まで調べ上げ、禁じられた書物や絵画を見つけて取り上げた。


 没収されたものは村の中央広場に集められ、無造作に積み上げられて火をつけられた。集まった数百の人々は拳を握り、黙って耐えるしかなかった。教会の掲げた『改宗か死か』というスローガンがはったりではないことを、人々はこの頃には思い知っていたのだ。


 ところが、群衆の中からマキシムが飛び出した。鬼のような形相だった。かつて天使と呼ばれ、神童と呼ばれ、奇跡と呼ばれ、福者と呼ばれた男の、本当の姿だとギーヴは思った。マキシムは誰よりも情熱的で、誰よりも人間らしい人間だった。


『やめろ!!神々への冒涜だ!!』


 脱いだ上着で聖典の山をたたき、マキシムは火を消し止めた。焚書を邪魔された特使の二人は僧兵に命じ、マキシムを取り押さえさせた。


『神々なんてものはいない。この世の神はお一人だ』


 特使の言葉に、マキシムは朗らかに笑った。その笑顔の裏には表現のしようのない怒りが見え隠れしていた。


『馬鹿を言う。我々人間ごときに、そんなことは断言できない。神々は天にいる、おまえに天のことが分かるのか?』

『それを言うなら貴様とて、天のことなど分かるまい』


『そうだ、だから俺は自分が信じたいように信じる。女神はいる』

『たわごとを。特使への反逆罪だ、異端の悪魔め、エディンバラへ突き出してやる』


 特使に命ぜられ僧兵はマキシムの両腕を背中で縛り上げる。マキシムは顔をしかめた。


『人間のものさしで何が分かる。おまえたちのやろうとしていることは中世への逆行だ。俺の言っている意味が分かるか?エディンバラ教会は退化してるんだ。盲目的に人々が教会を信じていた時代に帰りたいのは分かるが、それは人類そのものの発展の妨げにしかならないし、中世の闇を払拭してみせたルネッサンスの時代の人々に申し訳が立たないことだ』


『黙れ、悪魔め!おい、この減らず口を早くふさげ!決して耳に入れるな、悪魔の言葉だ!』

『ふん、黙るものか。天には神々の世界があって、彼らは我々と同じように面白おかしく暮らしている。それを信じて何が悪い』

『こいつを連れて行け!早く!』


 特使が僧兵を怒鳴りつけたとき、小柄な女性がマキシムに駆け寄った。彼女の名はアンジェラ・グランディエ。二十歳の若き修道女はエディンバラ教会の特使を気丈に睨みつけた。


『お引取りを』


 特使は嘲るようにアンジェラを見下ろした。


『改宗か死か、おまえたちにはそれしかない』

『では、これで、お引き取りを』


 アンジェラがさっと特使に握らせたのは金の包みだった。特使はにやりと笑ってマキシムを解放させた。その時、晴れていた空から急に雨が降り出した。くすぶっていた火がじゅっと音を立てて消える。マキシムとアンジェラは手を取り合い、顔を見合わせた。


『ふん、この天気では焚書もできん』


 特使はそう言いながら、仲睦まじい修道士夫婦の姿に嫌悪感をむき出しにした。聖職者の婚姻の許されない正統派に比べ、人間らしさを追求するクラシックの規律は緩く、聖職者や修道士の結婚も許されている。


『覚えてろよ』


 陳腐な捨てゼリフを残し、特使たちは引き揚げて行った。そして、夜が明けないうちにオンフルール周辺のクラシック教徒を引き連れ、マキシムはエディンバラへ抗議の大行進を始めた。行進に参加するものは徐々に増え、船に乗ってスコットランドへ渡る時には数十隻に別れることになったほどだ。


「スコットランドへ上陸すると、すぐに教会側の軍隊との戦闘が始まった。大陸では石を投げられることがあっても、武器を向けられたことがなかったから、それは俺たちにとって最初の戦いだったんだよ。俺たちは素人同然で、ロクな武器もなく、文字通り惨敗した。予想以上の死傷者が出た上、大行進から抜けて改宗を選ぶ者が現れ始めると、マキシムも教会への抗議運動に限界を感じるようになった。そこで、教会の手の届かない所へ落ち延びようということになったんだ。選ばれたのがヒベルニアだ」


「マキシムはどうしてヒベルニアの場所を知っていたんですか?」


 ギーヴの話を大人しく聞いていたコルガーが目を瞬く。


「ヒベルニアの場所を知っていたのは極光の女神だよ」

「極光の女神が?」

「そう。彼女がマキシムを誘導し、それに多くのクラシックが同行したんだ」


 ギーヴは疲労を感じて瞼を下した。


「ああ、何だか眠くなっちゃったよ。続きはまた今度にしようね」


 どこまでもマイペースな男である。コルガーはがっかりしたように息をついて立ち上がった。


「じゃ、オレ出かけますんで、夕飯の時間になったらシチューの残り、食べて寝ててくださいね」


 コルガーは椅子の背にギーヴの服をかけ、アイリッシュシチューの入った小鍋を暖炉のそばに置いた。ポケットの小銭を確かめフィドルのケースを背負い、うきうきと扉へ向かうので、ギーヴにもコルガーの行き先が分かった。またパブに行くのだ。


「ねえ、君って、苦手なことや不得意なことはあるの?」


 足取り軽く扉を開けたコルガーに、ギーヴは訊ねた。どちらかというと不器用なギーヴとしては、何でも器用にこなすコルガーはヒーローのようだった。コルガーは不意をつかれたように両目を開き、それから苦く笑った。


「そりゃありますよ。例えば……諦めることとか」


 静かに扉を閉め、コルガーは出て行った。ギーヴは寝転んだまま頬杖をつき、憮然としてつぶやいた。


「……かっこ良すぎやしませんか」


 ギーヴには、コルガーの心の闇が見えなかったのだ。



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