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ヒベルニアの極光  作者: 葉梨
第三章
21/52

1.ハートフルな宿屋

今回から第三章です。

再びコルガーとギーヴのお話に戻ります。

 コルガー・バルトロメはハートマーク型の看板がぶら下がる宿屋の前で脱力した。両手両足に力を入れて、湧き上がる何かをこらえる。夕暮れの繁華街だ。


「げ、猊下、あれの意味、分かってます?」


 先を歩いていたギーヴは、木枯らしに吹かれ、揺れるハートマークの看板とコルガーを見比べて小首を傾げた。


「え、ハートフルな宿屋ってことだよね。一昨日泊ったけどとても親切な宿だったよ。だめ?」

「……もういいです、何でも。くたくたなので」


 ベルファストを旅立ったコルガーとギーヴはバンゴールという港町を目指していた。バンゴールはベルファスト湾に面する小さな港町で、そこに船を停泊させているのだとギーヴはコルガーに教えてくれた。


「ささ、いらっしゃいませ。とっておきのお部屋をご用意しますよ!」


 客引きに導かれるままにコルガーとギーヴは宿の扉をくぐった。


「おや旦那、一昨日もお泊りでしたね」


 店主がごますりポーズで現れギーヴの荷物をさっと受け取る。前回の宿泊でよっぽどチップを弾んだのだろうか。コルガーは黙ってギーヴの後ろを歩くことにした。


「うん、また来るって約束したでしょう」

「へへへ、毎度ごひいきに」


 通された部屋には大きなダブルベッドが鎮座していた。粗末ながら天蓋付きだ。頭を抱えるコルガーを尻目に、ギーヴは椅子に腰を下してテーブルの上のマドレーヌをつまみ始める。店主は暖炉に火をつけるとすぐに出て行った。


「あなたはこれを見て何も思わないのか!」


 吠えるコルガーを見下ろし、ギーヴは何度か瞬きを繰り返し、ダブルベッドに目をやった。


「二人で寝るにはちょっと狭いかな?でも君は小柄だし、俺も寝相はいい方だよ」


 そういう問題か、と言おうとしてコルガーはやめた。ギーヴはコルガーを男だと思っているのだ。それにギーヴは聖職者で、しかも六十年間も塔に幽閉されていたと言っていた。


「猊下って結構、世間知らずですか?」

「自分ではそんなことないと思うんだけど、他人からはそう言われるなあ」

「ご自分でもそう思ってください」


 コルガーは部屋の隅にソファがあるのを見て、今夜はそこで眠ろうと諦めた。明日はバンゴールに着く。そうすれば船の中で生活することになるから、ギーヴと同じ部屋で眠るのも今夜限りの辛抱だ。


「猊下、バンゴールに泊めてある船って、寝室はどうなってるんですか?冒険小説に出てくるような、ハンモックが沢山ぶら下がった大部屋で雑魚寝とか?」

「いや、全部個室だって言ってたよ。俺の部屋にはベッドがあるし」

「へえ」


 コルガーは気のない返事をしながらこっそりと胸を撫で下ろした。それなら男ばかりの船の中でも女だとばれずに生活できそうだ。


「今日は風が強かったから髪が砂だらけだ。お湯を持ってきて貰って、湯浴みしてもいいかな?」


 マドレーヌを頬張っていたギーヴが何気なく言って法衣を脱ぎ始めたので、コルガーはのけぞって悲鳴を上げる。


「ええっ?!」

「え」

「いや、どうぞ、オレ、ちょっと出かけてきます!」


 フィドルのケースだけを背負い、コルガーは宿屋を飛び出した。懐中時計を見ると時刻は六時。夕食はギーヴと二人ですでに済ませているから、パブを探して一杯ひっかけるか。コルガーは最初に目にとまった『キーホーズ』というパブに入り、カウンター席に座った。


「やあ」

「よう、見ない顔だな」


 カウンターの奥から言ったのは壮年の太った男だった。おそらく彼が店主のキーホーだろう。パブの店名は店主の名前と相場が決まっている。時間が早すぎたのか、客は一人もいなかった。


「ベルファストから来たコルガーだ、よろしく。ギネスを頼むよ、一パイント」

「よし、待ってろ、コルガー」


 キーホーは気さくに笑い、杯にギネスビールを注いだ。しばらく時間を置いて泡が落ち着いてからもう一度注ぎ足す。


「おまえさん、一人旅か?」

「連れがいるけど、今は別行動中だよ。彼、下戸なんだ」


 杯をコルガーに手渡し、キーホーはカウンターに両肘をついた。


「おや、フィドル弾きか。どうだ、一曲演奏してくれたら一パイント奢るぜ」

「よし、乗った!」


 喉を鳴らして杯のビールを一気に飲み干し、コルガーはフィドルを取り出して肩に乗せた。どんな曲を弾こうかと考えた時には弦が歌い始めていた。コルガーはアンジェラがよく口ずさんでいた歌を思い出しながら弾き続けた。哀愁漂うメロディーを奏でるうちに、店は満席になっていた。


「ブラボー!」

「いいぞ坊主!」


 演奏を終えると拍手喝采に包まれ、コルガーは頭をかいた。キーホーは約束通りギネスのおかわりをコルガーに差し出した。






 コルガーが宿に戻るとギーヴは天蓋付きのダブルベッドの真ん中で大の字になって眠っていた。ほのかに石鹸の香りが匂いたち、金褐色の長い髪が湿っている。艶めかしい光景だと思いながらコルガーは彼に毛布をかけてやった。


「オレのひいじいちゃんの、弟か」


 ギーヴの寝顔を見下ろし、コルガーは胸の前で腕を組んだ。目の前で眠る美丈夫が曾祖父の弟だとはやはり信じられなかった。もちろん、百九歳の老人にも見えない。


「……アンジェラ」


 突然、ギーヴの唇から寝言が漏れて、コルガーはびくりとした。ギーヴの表情は柔らかく、口元がわずかにほころんでいる。


「なあに、猊下?」


 コルガーが戯れに答えると、ギーヴの手がコルガーの手をつかんで強く引き寄せた。つんのめってギーヴの上に倒れ込み、コルガーはギーヴに抱きしめられた。ギーヴは思ったより力がある。


「お、おい、猊下、起きろ!」


 コルガーはギーヴの腕の中でもがきつつ、熟睡中の彼に抗議した。だめだ、起きない。深いため息をついて抵抗を諦めると、耳の下でギーヴの心臓の音が聞こえた。それを聞いているうちに不思議と心が落ち着いた。


 ギーヴの腕の力がゆるんだ隙に彼から逃れ、コルガーはベッドを抜け出した。大きな桶にギーヴの使った湯が残っていたので、暖炉で沸かした湯を足して湯浴みの準備をする。


 服を脱いで髪や身体を清めながらコルガーは改めて自分の身体を見下ろした。普段はさらしを巻いて隠している膨らんだ胸、ひきしまったウエスト、三月地震以来すっかり痩せてしまったがそれでも丸みを帯びた腰、毎日の肉体労働のせいで硬い筋肉の付いた腕や脚。男なのか女なのか分からない、なんてアンバランスな身体なんだと彼女は自嘲した。


 身体がさっぱりするとすぐに眠くなり、コルガーは暖炉の前まで長椅子を引きずり、その上で丸くなった。上着のポケットから一枚の紙を取り出し、顔に近づけて描かれた文字を声に出して読む。


「ごはんを食べる、体に気をつける、無茶はしない、飲み過ぎない、自分を過信しない。あなたの上にいつも光が差しますように」


 修道女たちが作ってくれた弁当の中に入っていた手紙だ。コルガーは恋しいアンジェラの字で書かれた手紙を胸に抱き、彼女や修道女たちのことを思った。きっと今頃、彼女たちもコルガーのことを考えてくれているに違いない。


 空間を越えて彼女たちと思い合っている錯覚から目覚めると、コルガーは手紙を大事に折りたたんで上着のポケットに戻した。手の届くところにギーヴの法衣があったのでそれを被ると、あっという間に眠りに落ちて行った。






 翌朝、ギーヴはなかなか起きてこなかった。毛布で全身をすっぽり覆い、コルガーに顔さえ見せない。チェックアウトの時間が迫っていたのでコルガーが無理やり毛布をはぎ取ると、ギーヴは真っ赤な顔で言った。


「げほげほ、死ぬ……。俺はきっとこのまま死ぬ……」

「……昨夜、ちゃんと髪を拭かなかったから風邪を引いたんですよ」


 コルガーはギーヴを部屋に残し、ハートフルな宿屋を出てパブ『キーホーズ』を訪ねた。どこか長期滞在に適した安宿を知らないかと訊ねると、キーホーは知人のパブの屋根裏が空いているはずだと親切に教えてくれた。宿代はハートフルな宿屋の半値だ。


 二人は小さなパブ兼宿屋の屋根裏部屋に移った。今度はベッドが二つある。ギーヴは引っ越しが済むとすぐにベッドに潜り込み、コルガーは傍らの椅子に胡坐をかいて繕いものをしながらエディンバラ名誉司教の看病をすることにした。


「俺はねえ、今まで刺激の少ない生活を送ってきたんだよう」


 毛布の中から恨めしそうなギーヴの声がする。コルガーは顔をしかめて首をかしげる。


「……だから?」

「だからだよ!」

「意味が分かりません」


 コルガーは針に糸を通した。膝には洗い上がったばかりギーヴの服がある。コルガーは慣れた手つきで裾のほつれを直し始める。ギーヴが毛布の隙間からちらりとコルガーを見た。


「……わけわかんないぜ」


 ちょうどいい機会だから後で彼の靴の修理もしよう、それから病人食も作らなくちゃ。コルガーは今後の段取りをあれこれ考えたが、ふと、大切なことを思い出した。


「グラスゴーで待ってる民話学者って、どんな人なんですか?二三日ここで療養してても怒らない人?」

「ヨイクは怒らないと思うけど、ユアン・リプトンはどうかなあ」


 ごほごほ、とギーヴは咳き込んだ。


「ユアン・リプトン?」

「ヨイクの本を出してる書籍商だよ。ヨイクのことが大好きで、あれは彼女に近づく男に片っ端から喧嘩を売ってるねえ、きっと」

「へえ」


 笑いながら、コルガーは手を動かした。黒の詰襟の上下と濃紺の法衣が、新品のように蘇っていく。毛玉を丁寧に取り去り、すそや刺繍のほつれを直しているだけなのだが、「それだけに神業だね」とギーヴは言った。


「あなたは、病気になるんですね」


 しばらく会話が途切れた後、コルガーは言った。昨夜よっぽどよく眠ったのか、ギーヴは眠る気配がない。


「俺の体は時間が止まってるけど、死なないわけじゃない。風邪も引くよ」

「へえ。オレは病気も怪我も無縁です」


 何でもない風に相槌をうつコルガーに、ギーヴは嬉しそうに微笑んだ。


「君はあんまり、俺のことをあれこれ聞かないねえ。ヨイクなんて好奇心のカタマリだから、根堀り葉掘りだったのに」


 コルガーは縫い物を続けながら明るく応える。


「だって、自分の不思議体質を説明するのって億劫でしょ。自分にだってよく分かんないんだから」

「そうだね」

「そいやオレ、同じような体質の人に会ったの初めてだ」


 ぷつん、と歯で縫い糸を切り、コルガーはギーヴを見た。


「そう。俺も滅多に会わないねえ。でも、君といると気が楽だよ。負い目を感じたり、好奇の目にさらされることもなくて」


 二人は目を合わせてくすりと笑い合った。


「ああそうだ、ゆっくり話をするには今がちょうどいいね。俺やマキシムやアンジェラのこと、君にも聞いておいてもらおうかな。昔むかし、六十年以上も前の話」


 ギーヴは静かに話し始めた。


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