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ヒベルニアの極光  作者: 葉梨
第二章
20/52

11.グラスゴーの鷲獅子亭

『鷲獅子亭』という名前のパブ兼宿屋はグラスゴーが誇る運河沿いにあった。鷲の翼を背中に生やした獅子の絵が描かれた看板が目印だ。


「こんにちは、二部屋空いてるかしら?それと待ち合わせしてるんだけど、金髪の男とおばあさんの二人組が泊ってない?」


 入店してカウンターの中年男に声をかけると、彼は読んでいた新聞を閉じてペンをヨイクに差し出した。彼はヨイクとその後ろのヒリールを一瞥してから無愛想に応える。


「部屋はあるが、金髪の男とおばあさんは来てないよ」


 ヨイクは宿帳に自分の名前とユアンとヒリールの偽名を書いてチェックインを済ませると、店主の案内で部屋に荷物を運んだ。部屋の鍵をヨイクに渡しつつ、店主は首をかしげた。


「ヨイク・アールトって、どっかで聞いたことがあると思ったら、あんたもしかして新聞広告の民話学者の?」

「……同姓同名の他人よ」


 ヨイクは両手の拳を握りしめ、ユアンめ、と歯ぎしりした。不在でなければ足くらい踏んでやるところだ。


「ヨイクは有名人なんだねえ」


 店主が部屋から出ていくとヒリールは感心したように言った。


「不本意ながらね。あ、ヒリール、窓から運河が見えるわよ」


 ヨイクは窓を開け、身を乗り出した。ヒリールも彼女の隣に並び、二人は運河を行き来する船をしばらく眺めていた。


 ヨイクはふと視線を宿の前の通りに移した。すると、路上からこちらをじっと見上げていた何者かがさっと建物の陰に身を隠したような気がした。人影は二つ。


「ヒリール、私はちょっと出かけてくるけど、あなたはこの部屋を出ちゃダメよ」

「え、わたし一人で留守番?」

「大丈夫よ、ユアンもすぐに戻るって言ってたし。じゃあね」


 ヨイクは短銃に弾丸を入れ、ヒリールを残して宿を出た。案の定、怪しい人物の一人がヨイクについてくる。もう一人はヒリールを監視するために残ったのだろう。


 歩くスピードを速め、ヨイクは突然曲がり角を曲がって尾行者を待ち伏せる。尾行者は慌てて角を曲がり、身を潜めていたヨイクに胸倉をつかまれた。


「エディンバラ郊外の森からずっと私たちをつけてたのはあんた?」


 ヨイクは尾行者の顔を正面から睨んで驚いた。尾行者は若い女だった。しかも目鼻立ちの整った美女だ。男装をしている。


「離しなさい!」


 美女はヨイクの手から難なく逃れ、彼女と距離を取った。ヨイクはすかさず短銃を構える。


「教会関係者には見えないわね。私たちを尾行しているのは何故?」

「素直に言うと思う?」


 鼻で笑い飛ばし、男装の麗人は踵を返して逃げ出した。ヨイクは舌打ちしてそれを追う。狭い路地を二人の若い女が疾走する姿を見て不審がる者は多かったが、ヨイクは構わず尾行者を追いかけた。


「ミスティック、相手をしておあげ!」


――御意。


 美女が叫ぶと同時に、ヨイクの目の前に黒い霧が広がった。






 ヨイクたちと別れた後、ユアンは馴染みのパブに向かった。


「ユアン!ユアンじゃないか!」

「ユアン・リプトンか!」

「生きてたのか、ユアン!」


 ユアンが店内に足を踏み入れるやいなや、真昼間から酒を飲んでいた三人の男たちは口々に彼の名を口にし、カウンターの奥の女店主は仰天して口元をおさえた。三十歳前後の若い女だ。


「よ」


 ユアンは彼女に片手を挙げた。三年ぶりの再会だが、改めて挨拶するのは少し照れくさい。


「よ、じゃないわよ、まずいわよ!」


 そう言いながらカウンターの奥から飛び出してきて、彼女はユアンの胸倉を捕まえた。連れ立って裏口から店を出ると、女店主は目を釣り上げる。


「どうして戻って来たの!あんたはこの町じゃお尋ね者なのよ!」

「分かってるさ、でも、あのイカレ侯爵のフォションはどこだかかに婿入りして町を出たって聞いたぜ。おれを指名手配した市長も三月地震で死んで、今じゃ若い奴が市長の座に収まったらしいじゃないか」


 そうでなければグラスゴーには来なかっただろう。そして彼女に会う必要がなければ、やはりこの町には来なかった。


「だからって、あんたがまだ罪人扱いされていることに変わりはないわ。あんたの顔は有名なのよ、自覚しなさい」


 年上の女性にぴしゃりと言われ、ユアンは肩をすくめて両手を挙げる。


「すいませんでした」


 女店主は満足げに微笑み、ユアンの頬を軽くたたいた。


「分かればいいのよ、分かれば」


 店を閉めてくると言って身をひるがえし、彼女は店の中へ消えた。何も言わずとも、彼女はユアンの目的を察しているのだ。危険を冒して来たのだから当然と言えば当然かもしれないが。


 十分後、ユアンはパブの二階にある女店主の住居に通された。彼女はユアンを居間の椅子に座らせ、紅茶を出すと、食器棚から大きな四角い箱を取り出した。


「亭主はどうした?留守なのか?」


 店にも家の中にも彼女の夫の姿が見えず、ユアンは首をかしげた。


「三月地震で死んだわ。落ちてきた店の看板から、私をかばってね」


 彼女は箱をテーブルの上に置き、蓋を開けた。中には札束がぎっしり詰まっている。


「さあ、三年前にあんたが私に預けたお金よ。一ペニーたりとも手をつけてないわ」


 ユアンは五年前、彼女に委任状を手渡し、「おれに何かあったら、すぐにおれの銀行口座から金を下ろしてくれ」と頼んでいたのである。ユアンが指名手配される直前、彼女はグラスゴー銀行に駆け込んでユアンの財産をすべて自宅に隠した。ユアンが死亡するか、五年経っても金を取りに来なければ全額を彼女に進呈するという約束だったのだが。


「もう少しで五年だったのに、悪かったな」


 ユアンは椅子から立ち上がり、持ってきたボストンバッグに五百ポンドだけ詰めた。ユアンがグラスゴーに寄ろうと思ったのは、船の改装費が思いのほか嵩んだからだった。ギーヴ一人を乗せるつもりで船を改装した後、ヒリールとシスター・アンジェラも同行することになり、費用が予算の倍近くかかったのだ。乗客が増えるということは船に積み込む水や食料も増えるということである。計算してみたら思いきり赤字だった。


「助かったぜ」


 箱の中にもう五百ポンド残したまま、ユアンは蓋を閉じた。ユアンの一挙手一投足を眺めていた女店主は微笑んで首を振った。


「いいのよ。それより、全額持って行きなさい、もうこの町には来ちゃだめ」

「いや、あんたには世話になったし、本当に半分で足りるんだ。あんたが使ってくれ」


 ユアンは一旦腰を下して紅茶を飲み干し、立ち上がってバッグを手に戸口へ向かった。彼女は嘆息を漏らして腰を上げた。


「そういえば、あんた、よく言ってたわね。『恩を着せ、恩を着て、恩を返すのが一番の金儲けだ』って」

「ああ、今も恩返しの途中でね」


 屋外の階段を下り、ユアンは彼女と向き合った。改めて彼女を見ると、当然ながら記憶の中の彼女より年老いて見えた。きっと、自分もそう見えるんだろうとユアンが思った時、彼女がユアンの頬を両手で撫でた。


「いい仕事をしてるのね。あんた、すごくいい顔になって来た。あんたはもう、私の愛したユアン坊やじゃないわ」


 三年前、ユアンは追われるようにして町を出た。だからそれは彼女からの正式な別れの言葉だった。彼女との関係は全く過去のものだと思っていたのに、何故だかユアンの心には薄らと影が差した。きっと彼女には新しい男がいる。そう、多分、さっきパブにいた男の誰かだ。あの時の彼女の慌てようは少し度が過ぎていた。


「あのお金は生涯預かっておくわ。老後の生活に困ったら寄りなさい」

「本当に使ってくれていいんだけど、ま、いいか、あんたに再会することを老後の楽しみにしておく」


 二人は友人同士のように微笑みあい、ユアンは彼女に背を向けた。


「じゃあな」


 路地裏を何歩か歩き始めた時、ユアンの背中に女店主が駆け寄って頬を寄せた。彼女の両腕がユアンの胸に触れる。


「ひとつ、言い忘れてた。楽しかったわ、ありがとう、ユアン」


 どうしてか、その言葉をヨイクに言われたような気がして、ユアンの胸はずきんと痛んだ。ヨイクと別れる日が必ず来ることは分かっている。だが、自分はそれに耐えられるだろうか。


 思わず女店主の手を握ってしまったユアンは彼女を振り返った。その時だった。


「あ!ユアン!そいつ捕まえて!」

「はあ?!」


 すっとんきょうな声を上げつつ、ユアンの身体は命の恩人の命令通りに動いた。目にも留らぬ速さで近づいてきた人影に体当たりを食らわせ、地面に押し倒す。それは男装した女だった。


「ナイス、ユアン!」


 もがく男装女を押さえつけるユアンのもとに、息を切らしてやって来たのは、ヨイクと見知らぬ少年だった。



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