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ヒベルニアの極光  作者: 葉梨
第一章
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1.ウイスキー修道院

 そのとき、ウイスキー修道院の塀を飛び越えた者がいた。今夜二人目だ。


 広大な緑の敷地は高い塀と深い堀で囲まれている。ギーヴ・バルトロメはその内側の芝生に、木の葉のように着地した。このウイスキー修道院を訪れるのは六十年ぶりだった。


「うわあ、やっぱり相変わらずだあ」


 ふわふわと夜霧とともに漂うアルコールの香りに、ギーヴは顔をしかめた。ウイスキーを蒸留しているこの女子修道院は昼でも夜でも一日中、酒の匂いがぷんぷんするのだ。酒好きにはたまらないだろうが、ろくに酒が飲めないギーヴにとっては騒音と同じか、それ以上の迷惑である。


 つい何日か前にうっかり飲んでしまったフルーツビールで泥酔したことを思い出し、ギーヴは頭を振った。口で息をしながら、「よいしょ」と言っておもむろに歩き出す。本人は急いでいるつもりだったが、はたから見れば暢気に散歩しているとしか思えない足取りだった。


「この匂いだけで酔いそう。エディンバラより酷いよ」


 彼の暮らすスコットランドのエディンバラの悪臭は国際的にも有名で、「エディンバラは一マイル先からも匂う」と言われるほどだ。パリ同様、家庭の窓から汚物を投げ捨てるので、街はいつでも悪臭が立ち込めている。


 ウイスキー修道院の庭はまるで林のようだった。両腕をいっぱいに広げたようなナラの木が乱立していて、闇よりも濃い直線的なシルエットを天に向かっていくつも作り出していた。その根元にはやせたドングリがごろごろと落ちていて、白い花が黄緑色の冬草に紛れるように点々と咲き、軽く跨いだ小川には薄氷が張っていた。


 ギーヴが風を切って庭を横切ると、身にまとった濃紺の法衣のひだが扇のように広がり、月明かりも差さない漆黒の闇にとろけた。地面についた錫杖の輪がりんと澄んだ音を奏でる。ギーヴの目に礼拝堂の裏に広がる果樹園が映ったのはその時だった。六十年前にここを訪れた時もギーヴは果樹園に足を踏み入れている。天気の良い秋の昼下がり、修道女たちが林檎の木陰で食後のお茶を飲みながら笑いさざめいていた光景を思い出し、ギーヴはちょっと寄り道をしてみようという気になった。


 くるりと方向転換して果樹園に向かうと、六十年前の記憶がまざまざと蘇り、ギーヴは少々ばつの悪い気持ちになる。前回、ギーヴがここを訪れたのは彼の兄嫁を家出から連れ戻すためだった。ギーヴはその兄嫁に横恋慕していたが、もちろん彼女を兄から奪い取ろうとか、兄に内緒で彼女と関係を持とうなどとは一度も考えたことはなく、彼女への想いや不埒な劣情は胸の奥に鍵をかけてしまい込み、誰にも打ち明けなかった。だが。


「迎えに来てくれて嬉しかったわ」


 彼女にそう言われた時、ギーヴはひた隠していた想いを彼女に告げてしまった。彼女はさぞ困っただろう。優しい彼女はギーヴを傷つけないように気遣いながら、きっぱりと彼を拒んだ。ギーヴは悲しかったが、同時にひどくほっとしたのを覚えている。


 果樹園は六十年前より大きく広がっていた。確か何十年か前にもらった手紙に、オンフルール村の林檎の苗を何本か移植したと書いてあった気がする。フランスのギーヴの故郷からやってきた林檎の木がアイルランドですくすくと育ち、人々に美味しい実をふるまっている。感慨深く心を弾ませた時、果樹園の中から小柄な人影が颯爽と現れた。修道女だろうか。


「こんばんは」


 こんな夜更けに出歩くとは奔放なシスターだと笑いながら近づくと、夜の闇の中で、その人の顔はどうしてかずいぶんよく見えた。


 それはギーヴがかつて恋慕っていた女性の顔だった。


「あのー……何か?」


 不審者を見るような目で見つめられ、ギーヴは我に返った。よくよく見ると、目の前の人物は少年だ。年は十代半ばくらいだろうか、中性的な顔立ちは幼く見えるが眼光は刃物のように鋭く、細身の体にオリーブグリーンの上着とズボンを身につけている。短い髪も瞳もアンジェラと同じ茶色だった。


「ああ、ごめん。シスター・アンジェラの若い頃にあんまりそっくりだからびっくりしちゃった。――君はシスター・アンジェラの曾孫のコルガー・バルトロメかな?」


 容姿と年齢から判断してギーヴはそう言った。確かアンジェラの曾孫の中で男の子は一人だけだったはずだ。彼の名前がコルガーといい、古代アイルランドの言葉で「荒武者」を意味するということはアンジェラが手紙で教えてくれた。


「確かにオレの名前はコルガー・バルトロメですが、シスター・アンジェラの曾孫ではありません。神の花嫁に子や孫はいませんからね。――シスター・アンジェラに御用でしょうか?」


 コルガー少年は一瞬だけ驚いたような表情を見せたが、すぐに涼しげな顔で大嘘をついた。外見は曾祖母似で、性格は曾祖父似なのかもしれない。マキシムにもそういうところがあった。やたらめったら口が達者なのだ。


「隠さなくていいよ。俺はギーヴ・バルトロメ、つまり身内だ。アンジェラの曾孫はたしか男の子が一人に、女の子が三人くらいいるんだっけ」

「……妹は二人ですよ。二人とも死んだけど」


 コルガーは数秒間の思案の後、低い声で真実を明かした。聡明な子だ。


「緊急のご要件ならお取次しますが、そうでなければ明日改めてお越しください。ここは日没以降、男子禁制ですから」

「前に来た時は快く泊めてくれたよ。それに、君も男子じゃない」

「オレはいいんです」


 よく分からない。一刻を争うわけではないものの、こんな時間にやってきて緊急じゃないと言ったらそれはそれで怒られそうだったので、ギーヴは取り次ぎを頼むことにした。


「取り次いでくれないかな?この時間じゃあどこの宿も開いていないし、どちらかというと急ぎの用件だから」

「シスター・アンジェラは最近寝つきが悪いようなので、できれば起こしたくないんですけど、それでも取り次げとおっしゃいますか?それともシスター・アンジェラが起きるまでお待ちいただけますか?」


 朝まで待てと言われている気がする。気を遣えと。


「分かったよ。アンジェラが起きるまで待たせていただきます」


 ギーヴは降参した。どうやらアンジェラは曾孫にとても愛されているようだ。そう思うと、少年の手厳しい対応も悪い気がしない。むしろ、彼の強引で計算高いところが兄マキシムを思い出させて嬉しくもあった。


「ようこそ、お茶を淹れますね」


 コルガーはそれまでの慇懃無礼が嘘だったように破顔した。その底抜けに朗らかな花のような笑顔を見て、ギーヴもつい笑ってしまった。どんなに泣いても怒っても、あっという間に端から忘れていくのが典型的アイルランド人だと聞く。アンジェラの容姿を引き継ぎ、マキシムの性格を受け継ぎ、アイルランド人の気質を持つ、これが兄の曾孫か。


 コルガーが先に立って修道院の事務所へ向かって歩き出し、ギーヴは彼の小さな背中をのんびりと追った。コルガーは楽器ケースを背負い、小脇にスケッチブックを抱えている。黄緑色の芝の上を歩く足取りは弾むように軽く、その下で踏みつぶされたドングリがぱきぱきと楽しげに歌う。


「ねえ、背中の楽器は何?」


 訊ねると、コルガーはわずかにギーヴを振り向いた。アンジェラに良く似た茶色の目がくるりと動く。さっきまでの鋭さは消え、小動物のように可愛らしい。ギーヴの心にはすでに血縁者に対して抱く親愛の情が芽生えていた。


「フィドルですよ」


 コルガーは意味ありげに唇の端を上げた。


「フィドル?」


 聞いたことのない名前の楽器だった。ギーヴが首をかしげていると、少年はおかしそうに目を細めながら脚を止めて楽器ケースを背中から下し、蓋を開けて中身を見せてくれた。それは紛れもなくバイオリンだった。


「アイルランドではフィドルって言うんです」

「へえ、君は演奏家なの?」

「演奏家?まさか!パブで弾くんですよ。みんなで色んな楽器を持ち寄って合奏セッションするんです」


 ギーヴが暮らしているスコットランドにもパブの文化があるが、アイルランドのそれはまた独特だと言う。下戸のギーヴには無縁の世界だ。


「あの、あなたはシスター・アンジェラとどういったご関係で?」


 フィドルを背負い直しながらコルガーはギーヴを遠慮がちに見上げた。頭二つくらいの身長差のある少年がようやく自分のことを訊ねてくれたのでギーヴは気分良く答えた。相手の反応がおおよそ見えているだけに躊躇いはなく、むしろ面白がっている節もある。


「俺はマキシム・バルトロメの双子の弟だよ。アンジェラにとっては夫の弟、君にとっては……大大叔父さんかな。実は俺、こう見えて百九歳」


 疑わしげな顔をするか、大嘘をつくなと怒りだすか、馬鹿にするなと鼻で笑うか、この子供はどんな反応を示すだろう。ギーヴはひねくれた思いでコルガーの表情をうかがった。ところが、少年は感心したような顔でギーヴをちらりと見たきりで、再び事務所に向かって歩き出した。


「へえ、大大叔父さんかあ」


 拍子抜けして彼に続くのが遅れたギーヴは慌ててコルガーを追いかけた。慌ててと言っても全く速くない。


「あの、君、それ信じるの?」

「え、嘘なんですか?」


 コルガーは振り返りもしない。


「いや、嘘じゃないけど、本当に本当だけど。こんなに簡単に信じてもらうの初めてだから、どうしてかなあと思って」


 どう見ても三十歳前後の容姿のギーヴが十七世紀の生まれで、こともあろうに百歳を超えていると聞いて驚かない者はあまりいない。驚かないとしたら、鼻から信じていないか聞き間違えたと思っているかのどちらかだ。しかしコルガーはそのどちらでもないようだった。


「それはもう」


 低く切り出し、コルガーは脚を止めてギーヴに向き直った。小動物のようだった彼の目が再び刃物のような鋭さで光る。この子供が抱えている何か暗く重たいものの正体がギーヴにも垣間見えたような気がした。


「それはもう、他でもないこの自分の身内なら、どんな変人でもありえると思うから」


 眉を下げ、苦々しく微笑んだ少年はアンジェラにもマキシムにも似ていなかった。


「ああ、それは――」


 ギーヴも苦い思いで応じる。自分の心の歪みを感じるのはこんな時だ。ギーヴの思いを感じ取ってくれたのか、コルガーはいくらか親しみをこめて彼を見つめ返してくれた。ギーヴは片頬を上げて微笑む。


「――同感だね」


 築百年以上の修道院は白い漆喰塗の壁に赤黒い瓦屋根が乗っている二階建てだ。コルガーはギーヴを事務所の中の小さな応接室に通し、熱い紅茶を淹れてくれた。石造りの応接室には堅い木の机と揃いの椅子が四つあり、その足元には古い絨毯が敷かれている。


 壁に飾られた一枚の絵にはこのウイスキー修道院が描かれていた。強い日差しの注ぐ緑いっぱいの庭で、青空と白壁の居住棟と果樹園を背に、修道女たちが笑いさざめいている。それはギーヴの記憶の中のウイスキー修道院のイメージとぴったり重なった。


「それ、オレが描いたんですよ」


 食い入るように壁の絵を見つめていたギーヴの背後で、コルガーは照れ臭そうに言った。


「そうなの?君は楽器が弾けて、絵も描けるんだ」


 振り向いたギーヴはコルガーの姿を見て目を見張った。コルガーは二人掛けの布張りのソファを片手で軽々と担ぎ上げている。


「あ、これ、眠くなったら軽く休めるようにと思って」


 どすん、と音を立てて少年は暖炉の前にソファを下す。ギーヴはコルガーの言葉を思い出してなるほどと思った。「他でもないこの自分の身内なら、どんな変人でもありえる」と彼は悲しそうに言ったのだ。


「みんな五時には起きてきますから、それまでゆっくりしてて下さい」


 コルガーはアンジェラが起きて来るまでソファで横になったらどうかとギーヴに勧めたが、ギーヴはそれを辞退した。時刻は二時過ぎだ、あと三時間もすれば居住棟で眠っている修道女たちは起床する。


「ねえ、それ見せてよ」


 赤々と燃える暖炉の炎の前のソファに座り、ギーヴが指差したのはコルガーが脇に抱えるスケッチブックだった。コルガーは頬を染めてわずかに渋ったが、結局はそれをギーヴに差しだした。


 スケッチブックにはベルファストの古い大聖堂や教会や市庁舎が描かれていた。建物の外観、内部の全体図、柱飾り、扉の彫刻、屋根の上の魔物の像、天井の造詣……色々な角度から執拗なまでに描かれたスケッチは、少年の入れ込みようをうかがわせるには十分だった。


「やっぱり。タッチがマキシムによく似てる」


 スケッチブックをめくりながらギーヴはのんびりと言った。胸に懐かしい気持ちが広がり、暖炉の炎で温まり始めた身体と心が眠気に誘われる。兄も絵を描く人だった。彼はギーヴにはない才能を他にも多く持ち合わせていた。


「君は建築が好きなんだねえ」


 ギーヴがソファの背によりかかり、背後に立つコルガーを顧みると、彼は暖炉の炎に照らされたギーヴの姿を頭からつま先までゆっくりと見下した。ギーヴは僧侶が着用する黒の詰襟の上に丈の長い濃紺の法衣をはおり、自分の背丈ほどの長さの錫杖を脇に抱えている。


「失礼ですけど、濃紺の法衣を着る方がエディンバラ教会にいるという話は聞いたことがありません。エディンバラ教皇は純白、枢機卿は朱色、司教は紫、司祭は灰色の法衣をまとうものでしょう?あなたはエディンバラ教会の方ではないのですか?」


 ギーヴの身元を見極めようとする少年の問いは鋭かったが、彼の声や表情からは何故だか警戒心は感じられなかった。ギーヴはどこまで本当のことを話そうかと頭をかきながら、自分の隣に座るようコルガーを促した。


「さすが修道女の曾孫だ、よく知ってるね。そうだよ、俺はエディンバラ教会のヒエラルキーからはずれているんだ」

「ヒエラルキーからはずれてる?」


 コルガーはギーヴの隣に腰を下して首をかしげた。


「俺は六十年間エディンバラ教会に囚われていた、名ばかりの司教なんだ。実は閉じ込められていた塔から脱走して来たお尋ね者なのさ」




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