10.追憶6 ―焚火―
前回のすぐ後です。
サーメの村では客人を村人総出で歓迎する。広場で焚火を囲み、トナカイの肉を焼いて強い酒を酌み交わす。ユアンの周りにはカームスや、英語やフランス語を知る青年が集まり、彼にいくつも質問を浴びせては感嘆し、周囲のみんなに通訳してやっている。ユアンはかなり酔っているようで、隣に座ったカームスの肩に腕をまわし、時々説教などを垂れている。
ヨイクはそれを遠巻きに眺め、宴が終わったら、まずはカームスに話をしようと思った。アルコールが入って彼はいつも以上に陽気だが、それが吉と出るか凶と出るか、ヨイクには分からない。
「リプトン君は誠実な男だな、ヨイク」
声をかけられて振り返ると父が立っていた。ヨイクは座っていた横倒しの丸太の上で腰をずらし、父が座る場所をつくった。彼は杯を片手に娘の隣に腰を下した。
「彼と行くんだろう」
単刀直入に訊ねられ、ヨイクは飲んでいた牛乳を吹き出しそうになった。村では牛を飼い、酪農をして暮らす村人が増えた。この村はいずれトナカイを手放し、普通のノルウェー人のように農業と漁業だけで生計を立てることになるだろう。そうすれば、サーメ人にだけ課せられた税金も払わずに済むのだという。
「分かるさ。おれはこれでもおまえの父親だからな」
父は照れくさそうに微笑むとユアンに向かって拍手した。ユアンは彼が密かな宴会芸としているジャグリングを披露し始め、宴は興奮に包まれていた。しんしんと雪が降っているというのに誰もが燃えんばかりに顔を赤らめ、大笑いしていた。
「お父さん、私、いつかこの村のことを本にしたいわ。この村は十年後もきっと今のままよ、でも、三百年後には変わってしまっている。その時に、私の記録を誰かが読んで、ここにはこんな素敵な人たちが暮らしていたんだって、知ってほしいの。そうすれば私たちは失われた民族の民話として、未来の人々の心の中で生き続けられるのよ」
ヨイクはこの村が好きだった。世界中に見たい国や町がどんなに沢山あっても、帰ってくる場所はこの村以外にない。生まれ育った家、愛する家族、友達、トナカイのにおい、雪の白さ、森を吹きわたる風、どれもこれも、世界中のどこをどんなに探しても、この村にしかないのだ。
「行け。おまえはこうと決めたら、おれの話なんて聞かないんだから」
父は静かに言った。ヨイクは驚いて彼を見上げた。彼は髪をかきむしり、不機嫌そうに頬杖をついて足元の雪を睨む。
「正直、おれにも分からん、おまえが選ぼうとしている道が茨の道なのか、そうでないのか。女が結婚もせず独りで学問なんかやって、果たして死ぬまで食っていけるのか。母さんは死んじまったし、ばあさんやおれだって、いつまでもおまえと一緒にはいられない。おれは自分が死んだ後のことを考えるとおまえに早く嫁に行ってほしかったんだが……いや、もうよそう。母さんのところに行ってくる」
父は言葉尻を濁して立ちあがり、とぼとぼと森の方へ歩いて行く。ヨイクはひとまず胸をなでおろした。こんなにあっさりと父が旅立ちを許してくれるとは思ってもみなかった。それと同時に何とも言えない寂しさが胸に去来した。ヨイクは早く結婚してほしいという父の望みを裏切ろうとしている。そればかりか、教会から追われ、二度とこの村へ帰って来られなくなるようなことをしようとしている。
「ヨイク、リプトンさんが!」
カームスの声でヨイクは我に返った。泥酔したユアンがカームスに背負われている。ヨイクは慌てて立ちあがり、ユアンに近づいて彼の顔を覗きこむ。気持ち良さそうな顔で眠りこんでいる。気分が悪くなったわけではなく、飲み過ぎて意識が飛んだようだ。
「ごめん、飲み慣れないもの飲むと、時々やるのよ。こら、ユアン!何でもかんでもビールと同じ感覚でぐいぐい飲むなって言ってるのにもう!」
耳元で怒鳴り、ヨイクはユアンの尻を叩いた。カームスは目を丸くしてぎこちない笑みを浮かべた。
「まるで彼の女房みたいだね」
「そう?普通よ、いつものこと」
ユアンは今夜カームスの家に泊まることになっていた。ヨイクはユアンを背負ったカームスを彼の家まで送って行くことにした。宴の続く広場を後にして雪の上を並んで歩く。しばらくしてカームスが口を開いた。
「ヨイク、僕はさっき、嫌味を言ったんだよ」
「嫌味?」
ヨイクがカームスを見上げると、彼は悲しげな瞳でヨイクを見ていた。「気は優しくて力持ち」という言葉が彼以上に似合う男をヨイクは知らない。彼は強く優しい。だが、それだけだ。婚約者といえども、ヨイクにとって彼はそれだけだった。ユアンは夜這いしろと言った後、「できっこないだろう」とヨイクをせせら笑ったが、まさにその通りだ、ヨイクにはそんなことはできない。彼のことを幼馴染の親友以上に考えたことはなかったのだ。
「まさか、私とリプトンさんのことを疑ってるわけじゃないわよね?」
ヨイクはユアンと一年間一緒に旅をした。そのことを変に勘ぐる人物は少なくない。
「みんなは疑ってるみたいだけど、僕は君を信じてる。でも嫉妬はしてるよ。もう一度一緒に旅に出るなんて言ったら僕は今度こそ発狂する」
ヨイクは答えなかった。十秒後、沈黙の理由を悟り、カームスは取り乱した。背中のユアンがずり落ちそうになるが、彼は構わずヨイクに詰め寄った。
「まさか、ヨイク、嘘だろ?」
「ごめんなさい。でももう決めたの。行かなくちゃ」
「君は女にしてはずいぶん自由に生きてきたんだ、もう充分だろう。お願いだから、危険な旅も難しい研究も今すぐ全部やめて、僕と結婚してほしい。君を必ず幸せにすると約束するから」
ヨイクは大きく息を吸い込み、それをゆっくりと吐き出す。そして彼女は覚悟を決めた。
「あなたが私を待てないというなら永遠にさよならよ」
帰宅してベッドに入るとヨイクはすぐに眠ってしまった。精神的に疲れていたせいかもしれないが眠りは浅く、夜明け前に目が覚めた。家の前の道で物音がしたのだ。この小さな村に泥棒などいるわけがない、きっと父が酔っ払って転んだのだろう。ヨイクは起き上がって服を身につけ、上着を着て外に出た。
雪はやんでいたが吹きわたる海風は氷のように冷たい。ヨイクは首を縮めて物音がした方へ足を進める。暗くてよく見えないが、案の定、道端に誰かが倒れていた。
「大丈夫?」
ヨイクは積雪に足を取られながら人影に近づく。すると、倒れていた人物がむくりと起き上がり一目散に駆け出した。
「ちょ、ちょっと!待ちなさい!」
走り去る人影を反射的に追いかけ、ヨイクは全速力で村の小道を駆け抜ける。怪しい人影は船着き場へ向かい、そこで行方をくらました。ヨイクは夜が明けるまで船着き場に停泊した小舟や漁船の周りをしつこく捜索したが、怪しい人物を見つけることは出来なかった。
ヨイクは諦めて一度家に戻り、出かける支度をして祖母に別れを告げた。祖母は暖炉の前に座って燃え盛る炎を見ていた。
「ヨイク、嵐よ。あなたの行く手には嵐が見える」
ヨイクの祖母はシャーマンだ。昔は毎日の狩猟運を占っていたらしいが、今は現役を退いて隠居生活を送っている。
「嵐の向こうには何があるの、おばあちゃん」
ヨイクは躊躇いなく訊ねた。どんな悪いことを言われても、ヨイクは占いを信じないたちだ。
「あれは……島よ。嵐の向こうに、光り輝く美しい島が見える」
「そう、だといいわ。ありがとう」
父がヨイクの大きなトランクを持ち、ヨイクはトナカイ革の鞄を斜めに掛けた。二人は歩き慣れ、見飽きた道を通って船着き場へ向かう。しばらく無言で歩き続けてから、父が口を開いた。
「人類の半数は女だ。女の仕事は彼らに任せて、ヨイクはヨイクの、ヨイクにしかできない仕事をしなさい。おまえほどの民話学者は、人類の中にも二人といないんだろう?」
ヨイクは不覚にも胸が詰まった。誰かに認められたくて研究をしてきたわけではなかったが、父の口からそんな言葉が聞けるなんて思ってもみなかった。
「そうよ。だから、行くわ」
もしかしたら、父とはもう会えないかもしれない。この村にも戻れないかもしれない。ヨイクは泣きそうになるのをこらえて強気に微笑む。父も大きくうなずいた。
船着き場には小舟に乗ったユアンが待っていた。ヨイクは彼に近づき、お待たせと言いながら周囲を見回した。カームスの姿はない。
「ヨイク、これ、カームスがおまえに渡してくれって」
小舟に乗り込もうとしたヨイクにそう言って一通の手紙を差し出したのはカームスの隣の家の青年だった。
「ありがとう。彼はどこ?」
「さあ」
「おい、そろそろ行くぞ。――ああ、出してくれ」
ユアンはヨイクを急かして船に乗せ、船頭役の乗組員に指示を出してさっさと離岸してしまった。小舟は沖に停泊するユアンの貿易船を目指し、ゆっくりと波に揺られて進む。
「永遠にさよなら、か」
ヨイクは手の中の手紙を握りしめ、自分のしたことの重大さに改めて気がついた。それが正しいことだったのか、間違ったことだったのかは分からない。ただ、それは必要なことだった。頑なにそう思う自分がいた。避けて通ることはできなかった。仕方なかった。私にはやりたいことがあるのだから。
この手紙の封を切るのはもう少し先にしよう、ヨイクはカームスからの手紙を鞄の奥にしまいこんだ。遠ざかる故郷の村に別れを告げ、手紙のことも彼のことも頭の中から叩き出してしまうと、これから始まる冒険への期待で胸がわくわくした。
ヨイクがギーヴ・バルトロメと再会したのは、エディンバラの劇場のボックス席だった。先に来ていたギーヴの隣にヨイクはどさりと腰を下す。
「いかがわしいところねえ」
二人掛けの椅子には弾力のある滑らかなクッションが用いられていた。劇場内は暗く、半個室のボックス席は、まさしく貴族の逢引きのためにつくられたような空間だ。
「密談をするにはもってこいでしょう」
ギーヴはヨイクの耳元で柔らかく微笑んだ。肩が触れるほど近い。
「久しぶり。また会えて嬉しいよ、アールトさん」
「私も嬉しいわ。お招きありがとう」
二人が手を握り合った時、開演を知らせる鐘が鳴った。ギーヴがヨイクを招待してくれたのはシェイクスピアの『リア王』だった。芝居が始まると間もなく、あちこちのボックスから恋人たちの囁き声や忍び笑いが聞こえてくる。
「エディンバラ教会にマキシムの孫娘が保護された」
生まれて初めて観る芝居にのめり込みかけていたヨイクはギーヴの言葉に驚いて腰を浮かせた。
「なんですって?!」
「しっ。あんまり大きな声を出さないで。隣のボックスにいる護衛が聞き耳を立ててる」
暗闇の中でギーヴの緑色の瞳が鋭く光る。ヨイクはこっくりと頷いた。
「船が難破して、彼女はたった一人でスコットランドに流れ着いたらしい。俺も一度だけ会って話をしたけど、マキシムのことや、六十年前にマキシムと一緒にヒベルニアへ渡ったクラシック教徒のことをよく知っている。ヒベルニアからやって来たというのは嘘じゃないと思う」
ギーヴはヨイクの耳に唇を寄せ、低く語る。傍から見れば恋人同士に見えるかもしれないとヨイクは頭の隅で思った。
「彼女の話によれば、ヒベルニアには太陽が照っているらしい」
「……世界中の空が雲で覆われているのに?」
舞台の上では父娘喧嘩が繰り広げられ、オーケストラは切迫した音楽を奏でている。ヨイクは鞄の中からフルーツビールの瓶を二本取り出し、ひとつをギーヴへ手渡した。
「そう。そこで教会はこの異常気象の原因がヒベルニアにあると確信してヒベルニアを探し始めた。御伽噺に出てくる気象兵器があるに違いないなんて言ってね。彼女が教会の手の内にある以上、ヒベルニアが発見されるのは時間の問題だと思うんだ」
ギーヴが何を言わんとしているか、ヨイクにはすぐに分かった。いや、この芝居に招待された時点で、彼がヨイクの求める情報を教えてくれる気だということは分かっていた。
「アールトさん、君たちに迷惑をかけることを承知の上で頼むけど……俺を連れてヒベルニアへ行ってくれないかな?」
ギーヴを連れてヒベルニアへ行くということは、エディンバラ教会の人質をさらうということだ。だが、ヨイクもユアンも教会を敵に回す覚悟はすっかりできていた。
「こっちはとっくにそのつもりよ。でも……本当にいいの?ヒベルニアへ行ったら、私は何もかも本に書いて、それをヨーロッパ中に売りさばくのよ?」
「もちろん構わない、それは俺の望みでもあるんだ。君こそいいの?教会は自分たちのスキャンダルを暴いた君をきっと許さない。故郷や平穏な生活には戻れないかもしれない」
「覚悟はできてるわ」
「じゃあ決まりだ。教会の歴史の闇に、君のペンで光を当ててくれ」
ヨイクは大きく頷いた。
「私の相棒は今、あなたを連れてヒベルニアへ行く準備をしてるわ。マキシムの孫娘も連れて行くなら、船室をもうひとつ用意しなくちゃならないけど」
ああ、あの書籍商の相棒か、とつぶやきギーヴは微笑んだ。
「実はマキシムの孫娘の他に、もう一人連れて行きたい人がいるんだ」
「連れて行きたい人?」
「ミシェルの日記にアンジェラという女性が出てこなかったかな?」
ヨイクは記憶を探り、数秒後に思い至った。
「ああ、アンジェラ・グランディエね。あなたたちと同じ林檎修道院にいたシスターの。彼女もまだお元気なの?」
「うん。彼女はこちらに残ってマキシムの子供を産んだんだ。今はアイルランドで曾孫と暮らしてる」
「マキシムの子供?!」
ヨイクは素っ頓狂な声を上げた。ヒベルニア王マキシムが子孫を残していても不思議はないが、修道士時代のマキシムに子供がいたとは初耳だった。
「二人は結婚してたんだ。クラシックは修道士の婚姻を認めるから。彼女はこちらへ残り、ヒベルニアへ渡らなかったクラシックたちを無事に逃がした後、アイルランドに修道院をつくった」
ギーヴは遠くを見ながら愛おしそうに目を細め、それから少しだけ悲しそうな顔をした。
「分かったわ、船室はもうふたつ用意する。私もシスター・アンジェラと話がしてみたいわ」
ヨイクは頷き、頭の中でシスター・アンジェラとマキシムの孫娘を思い浮かべた。シスター・アンジェラは八十歳前後、マキシムの孫娘は二十歳くらいだろうか。どんな旅になるやら、楽しみでも不安でもある。
ヨイクの心中など知らぬギーヴは満面の笑みを浮かべて囁いた。
「俺はエディンバラ大聖堂の鐘楼から脱け出して、アンジェラを迎えにアイルランドへ行く。君たちはマキシムの孫娘ヒリールを助けに行って。彼女はエディンバラ郊外のリラ城というところにいるから」
「了解。鐘楼からはどうやって脱出する気?あそこには見張りの衛兵がたくさんいるでしょう?」
「うん。君にも手を貸してもらいたいな」
ギーヴはフルーツビールに口をつけ、思い切り顔をしかめた。酒は大嫌いなんだとぼやいた五分後、彼はヨイクの隣で寝息を立て始めた。
十二月一日、夕刻。
「どうも、菓子店ニュートンでーす!ギーヴ猊下にアップルパイをお持ちしました!」
暗い地下道からエディンバラ大聖堂の鐘楼に出るなり、ヨイクは叫んだ。菓子店ニュートンに頼み込み、再びギーヴへ菓子の配達をさせてもらうのはひと苦労だった。地下道のあちこちに爆弾をしかけ、長い導火線に火をつけて地上へ這い上がったヨイクは衛兵たちに笑顔を向けつつ螺旋階段を上り始める。あと数秒で爆発だ。
「きゃああ!!!」
足の下で爆発音がして、ヨイクは力いっぱい悲鳴を上げた。地下への入り口から白い煙がもうもうと湧き立つ。
「な、何だ、何事だ!!」
「地下だ!地下道で何かあったんじゃないか?!」
「よし、おまえ、見に行って来い」
「え、俺?!やだよ、おまえが行けよ!」
「おおい、変な音がしたけどどうした?」
あちこちから持ち場を離れた衛兵たちが集まり、地下への入り口に人だかりができる。ヨイクはそれを尻目に鐘楼を出て、アップルパイの籠を持ったまま見張りのいない無人の広場を駆け抜け階段を下りた。ロイヤルマイルから脇道に入ったところで一台の辻馬車が待っていた。
「うまく行ったわね!それにしても猊下って只者じゃないわ。あんなに高い鐘楼の天辺から飛び降りて無事だなんて」
ヨイクが息を切らせて辻馬車に乗り込むと、同じように肩で息をしながらギーヴが笑った。
「よく言われるよ」
港まで行ってほしいと御者に告げ、ヨイクは固い椅子にもたれて深いため息を吐き出した。窓の外は黄昏時だ、この闇にまぎれて船着き場まで行かなければ。
「でも、アールトさんも只者じゃないと思うよ」
「ヨイクでいいわ。これからヒベルニアまでずっと一緒に旅するんだもの」
「いいの?君の恋人に睨まれるのは避けたいんだけど」
「だから恋人じゃないって」
ユアンはヨイクの婚約者カームスとも相性が悪い様子だったが、ギーヴともそうなのかもしれない。思えば、カームスとギーヴは少し雰囲気が似ている。長身で体格がいい割に柔和で優しいところなどそっくりだ。
「どうぞ、ようこそいらっしゃいました。ユアン・リプトンです。あなたやシスター・アンジェラのお部屋を大急ぎで作らせました。ご不満ご要望は何なりと申しつけてください」
港で二人を待っていたユアンはギーヴが辻馬車から下りるなりそう言って大げさに一礼した。なぜか喧嘩腰で、慇懃無礼のお手本のような態度だ。
「ありがとうリプトン君。よろしく、仲良くしようね」
ギーヴはあくまで穏やかに受け答えた。百九歳の成せる技だろうかとヨイクは思う。三人はユアンの貿易船に乗り込み、ヨイクはギーヴを彼の部屋に通した。乗客が乗客なので全て個室を設置したものの、一部屋一部屋はかなり狭い。寝台と机と椅子を置いたら他にスペースはない。
「猊下ならこれでも我慢してくれると思ったんだけど、どう?」
ヨイクが訊ねると、ギーヴは苦笑した。船内は天井が低いので、ぶつけた頭をさすっている。
「そうだね、俺ならこれでも我慢できるよ。今まで暮らしてきた塔よりは狭いけどね」
「そう言ってくれると思ってたわ。シスター・アンジェラやヒベルニアのお姫様の部屋もこんな感じよ。私やユアンの部屋はハンモックだけどね」
「へえ。俺もハンモックで寝てみたいなあ。後でリプトン君に頼んでみようかなあ」
羨ましそうに言うギーヴにヨイクは乾いた笑いを漏らした。狭い部屋に苦労してベッドを運び込んだ書籍商は一体何と言って怒るだろうか。
三人は食堂に集まり、菓子店ニュートンのアップルパイをつつきながら最後の作戦会議を簡単に済ませた。決定事項の最終確認だ。
「私とユアンはエディンバラ郊外のリラ城へ向かい、ヒベルニア王マキシムの孫娘ヒリールを助け出す。猊下はこの船でシスター・アンジェラを迎えにアイルランドへ行く。目的を果たしたら、グラスゴーの『鷲獅子亭』で合流、間違いないわね?」
これで回想は終わりです。