8.追憶4 ―無数の星―
前回のすぐ後の話です。
ヨイクは螺旋階段を一気に駆け上り、木の扉を下からどんどんと拳で叩いた。扉はすぐに開いた。
「あ、ニュートンさん。いつもご苦労様です」
「おお、今日は女の子だ、可愛い」
扉を開け、地下を覗きこむなりヨイクに手を貸してくれたのは、スコットランドの正装のキルトを着た二人の衛兵だった。上半身はタキシード、腰にはタータンと呼ばれる伝統的なチェック柄の織物をスカートのように巻きつけて、膝下丈の毛糸の靴下を履いている。彼らに引き上げられつつ、ヨイクは周りを見渡した。そこは衛兵の詰所のようで、窓の外を見る限り鐘楼の地階に位置しているようだった。
「どうもありがとう。猊下の前でケーキの仕上げをすることになっているから、ちょっと時間がかかるんだけど、構わないかしら?」
ヨイクは籐かごを胸の前で持ち、上目遣いで訊ねる。衛兵たちは顔を見合わせ、困惑したように首をかしげた。
「いいんじゃないか?」
「猊下は天辺の部屋にいるよ。その階段の先だ」
「ご親切さま!」
ヨイクは衛兵たちににっこりと微笑み、疲れた体に鞭打って螺旋階段を上り始める。菓子店の店員はいつもこんな苦労をさせられているのだろうか。汗だくになり、肩で息をしながら頂上まで上ると、木の扉の前に衛兵が一人立っていた。
「ニュートンさん、ご苦労様です、猊下が中でお待ちですよ」
「ど、どうも……」
ヨイクは部屋に通されるなり、不覚にも床の上に倒れこんだ。螺旋階段ですっかり目が回ってしまったのだ。冷たい石畳には絨毯の一枚も引かれていない。暖炉には小さな火が燃えていた。
「やあ、来たね。そろそろ来るころだと思って、ちょうどお茶を入れたところだよ」
柔らかい声が聞こえ、ヨイクは顔を上げた。夕日の差し込む部屋の中央に質素な木のテーブルが置いてある。そのテーブルの傍らに背の高い男が立っていた。濃紺の法衣をまとい、金褐色の髪を背中で結んだ男だ。
「アップルパイをありがとう、ニュートンさん」
ギーヴは緑色の目を冗談ぽく細め、ヨイクの手からアップルパイの入った籐かごを受け取った。ヨイクは床に倒れたまま、まじまじと彼を見上げる。クラシックの象徴であり、エディンバラ教会の人質であるギーヴ・バルトロメと、今、自分は二人きりだ。ヨイクは今さら胸がどきどきした。
「紅茶で構わない?俺はコーヒーも酒も飲まないんだ」
ギーヴはヨイクを助け起こし、椅子を引いて彼女を座らせた。彼はまだ湯気の立つアップルパイを籠から取り出し、それを八等分に切り分ける。ティーポットを手に取り、ふたつのカップに紅茶を注ぐ。ゆっくりとした動作はまるで老人のようで、彼が百八歳の聖なる妖怪であることをヨイクは思い出した。
「そうだ、さっきから君の恋人が睨んでるんだよ。後で誤解を解いておいてほしいなあ」
ギーヴが窓の下を指して言うので、ヨイクは腰を浮かせて外を見た。大聖堂前の広場にユアンの姿があった。何故だか分からないが彼は不機嫌面でヨイクとギーヴを睨んでいる。だが、ヨイクは彼の背後に広がるエディンバラ市街に目を奪われた。夕焼け色に染まる赤屋根の街は美しく、鐘楼の天辺から見るとそれはミニチュアのようだった。
「こんな辺境に宗教首都が置かれ続けてきた理由が分かったわ。ここはまるで天界ね」
ヨイクは立ちあがって窓から身を乗り出し、鐘楼に隣接する聖ピーター大聖堂を見た。黄昏色の日差しを浴びるゴシック建築は、どんよりとした陰惨な雰囲気を醸し出している。エディンバラ教皇の住まいはその裏にある。
「こんな安全地帯に本拠地を置いているんじゃ、エディンバラ教会が威張り散らすわけだわ」
ヨイク自身にはエディンバラ教会に対して大きな恨みなどないのだが、教会はしばしばヒベルニアに関する情報収集の妨げになっていた。
「まあ、まずはいただこうよ。ここのアップルパイは本当に美味しいんだから。――神々よ、いただきます、と」
あまり時間がないことを忘れていた。ヨイクは席に着いてフォークを持ち、つやつやと輝くアップルパイを一口頬張った。ヨイクとギーヴは顔を見合わせる。
「これ、やばいでしょう」
「これは、やばいわね」
黙々とアップルパイを平らげ、紅茶を飲み干し、一息ついてからようやく二人は会話を始めた。外はすっかり暗くなり、空には無数の星が輝いている。
「君に聞きたいことがあるんだけど、俺ばかりが質問するのはフェアじゃないでしょう。だからお互いに同じ数だけ質問するって言うのはどうかな」
「いいわ。お先にどうぞ」
ヨイクは紅茶のカップを受け皿に戻し、椅子の背に寄り掛かってギーヴを促した。
「じゃあ聞くけど、君はどこでクラシック教徒や俺のことを知ったの?教会やクラシックたちは女神信仰と俺の存在を世間から隠したのに」
予想通りの質問にヨイクは用意していた答えを取り出す。
「クラシックがヨーロッパ中へ散らばったのはあなたも知っているでしょう。私の村にも弾圧から逃れて来たクラシック教徒の老人が住んでいたの。もちろん、彼が死ぬまで誰も彼の正体を知らなかった。それが分かったのは彼のお葬式の後、身寄りのなかった彼の遺品を村の女たちで整理していたら、彼の古い日記が出て来たのよ。それはフランス語で書かれていて他の誰にも読めなかったものだから、フランス語を勉強していた私が貰ったの。生前の彼は無口で身の上の話をしなかったから、彼がどこから来た何者だったのかを知りたかったしね。翻訳をしながらゆっくり読み進めて驚いたわ。彼はフランスのオンフルール村出身の元修道士で、四人の女神を崇めるクラシック教徒だった。一七〇五年の大行進ではクラシックのリーダーであるマキシム・バルトロメやあなたと行動を共にしていた」
ギーヴは天井を仰いだ。
「そういうことだったのか、どうりで詳しいわけだ。ねえ、その日記の持ち主の名前は?」
「ミシェルさんよ。姓は分からないけど」
「ミシェル!うわあ懐かしいなあ!そうかあ、あいつも死んだんだあ」
しみじみと独りごち、ギーヴは頬杖をついて遠い目をした。
「本当は、その日記は死ぬ前に処分するべきだったんだろうけど……彼にはそれができなかったのかもしれないね。俺たちの信仰は焚書や弾圧で歴史から葬り去られてしまったから、せめて、この世に何かを書き残しておきたかったのかもしれない。今まで散々エディンバラ教会に――あ、耳、塞いだ方がいいよ」
ギーヴの警告の直後、鐘楼の鐘が足の下で鳴り始めた。その金属的な大音響に、テーブルや本棚が揺れ、食器がカタカタと震える。こんなものが十五分ごとに鳴ったらさぞ煩かろう。ヨイクは耳を塞ぎ、歯を食いしばって甲高い音色がやむのを待った。ギーヴは平然と紅茶のおかわりを飲んでいる。
「もうひとつ聞いていいかな?君はなぜヒベルニアを目指すの?」
鐘が鳴りやみ、ヨイクが耳を塞いでいた手を下すとギーヴは矢継ぎ早に訊ねた。手元を見れば二個目のパイに手を出している。
「ヒベルニアがあるからよ」
ヨイクは背筋を伸ばし、きっぱりと答えた。
「あの地平線の向こうにヒベルニアがあるから、だから行くの」
「それだけ?」
「十分でしょ。ミシェルさんの日記を読んで、御伽噺のヒベルニアが本当にあるなら行ってみたいと思ったの」
疑わしげに顔をしかめるギーヴにヨイクはすまして見せた。実際、本当にそれだけなのだ。
「じゃ、約束通り、私も質問を二つするわね」
「ちょっと待って、その前に断っておこうと思うんだけど、俺の立場上、話せないこともあるということを理解してほしい。君が大衆向けの本を書いている民話学者である以上、クラシック教徒にとって脅威となるような情報は教えられない」
それは最初から分かっていたことだったので腹は立たなかった。だが、ヨイクは少し意地悪を言いたくなる。
「私が知りたいのはヒベルニアの場所と行き方よ。それを教えてくれないというなら、あなたに聞くことはあまりないわね」
ヨイクが顎を上げて睨みつけると、ギーヴは申し訳なさそうな顔をした。
「ごめんね」
「じゃあ、そうね。ヒベルニアへは選ばれた人しか行くことができないってミシェルさんの日記に書いてあったけど、選ばれるための条件って何なのかしら?」
日記には誰もが行ける場所ではないと記されていたが、詳しいことは書かれていなかった。ギーヴは迷う素振りを見せ、思い切ったように一息で答えた。
「ヒベルニアは極光の女神の加護を受けた者しか入れない。島の周りを女神の結界が覆っていて、それを通り抜けられるのは俺やマキシムだけだと思う。だからヒベルニアを探しても無駄だよ、アールトさん」
ギーヴはヨイクを諦めさせるために言ったのだろう。だが、それを聞いてヨイクは両の拳を突き上げて満面の笑みを浮かべた。
「つまり、あなたを誘拐すればヒベルニアの場所も行き方も分かる上に、ヒベルニアを覆う結界を通過することもできるってわけね!よし、一石三鳥!」
「え」
面食らって瞬きするギーヴにヨイクは吹き出して笑い、苦笑しながら両手を下した。
「冗談よ。あのね、あなたも学者なら知ってるはずだけど、情報っていうのはそのまんま信じちゃだめなのよ。ミシェルさんの日記も、あなたの言葉も、本当ではないかもしれない」
「それを言っちゃあ、おしまいじゃない?」
「でも、そうでしょ。あなたたちはエディンバラ教会に弾圧されてきたクラッシックの生き残りよ。そんな人たちがほいほいと簡単に、しかも赤の他人に大事な情報を与えるかしら。疑う必要は大いにある、だから私はヒベルニア探しをやめない」
ヨイクは強い口調で宣言し、不安そうな面持ちのギーヴを真っすぐに見つめた。
「ヒベルニアはマキシム・バルトロメたち以外の誰も行ったことのない島だもの。つまり、あなたも行ったことがない。結界があるなんて嘘かもしれない。私はヒベルニアを探すわ」
「……そう」
ギーヴは意味深な瞳でヨイクの目を覗きこみ、くすっと笑って椅子から立ち上がった。
「そろそろ帰った方が良いかもしれないね、アールトさん。恋人も睨んでることだし」
彼につられてヨイクも窓の外を覗く。ユアンがさっきより凶悪な顔をしてこちらを睨んでいた。
「苛々しちゃって、どうしたのかしら。あ、ちなみに、あれは恋人じゃなくて、私の本の版権を持ってる書籍商よ」
「ああ、君の後ろに凄腕の書籍商がついてるって聞いたことがある。もちろん本の中身も面白かったけど、処女作のヒットには彼の才能が貢献したんじゃないかって学者仲間が噂してたよ、特にあの新聞広告」
ヨイクはユアンのせいで頭の血管が切れかけたことを思い出して拳を握った。
ヨイクの処女作『北欧伝承余話』の印刷や製本はロンドンで行われた。ユアンの旧友がロンドンのパタノスタ・ロウという書籍街で書店を営んでおり、彼の持つ器材や人脈を借りたためである。原稿が仕上がった後、ヨイクは故郷の村へ一年ぶりに帰り、ロンドンのユアンと手紙のやりとりをしながら本が出来上がるのを待っていた。その時の自分の心境は何とも表現しがたい、そわそわと落ち着かない気分だったのをヨイクは覚えている。そんなヨイクの元にある日ユアンから届けられたのは数日分のロンドンタイムズだった。
『明々々後日、天才美少女民話学者、現る。――リプトン書店』
広告欄の最も小さな一枠いっぱいに、大きな太い活字が躍っていた。ヨイクは卒倒しかけたが、力と勇気を振り絞って翌日の新聞を見た。
『明々後日、天才美少女民話学者、ヨイク・アールト、現る。――リプトン書店』
さらにその翌日、翌々日と新聞をめくって広告欄を見る。
『明後日、天才美少女民話学者、ヨイク・アールト、ついに処女作を……――リプトン書店』
『昨日までの広告には誤りがございました。おとぎばなしと民話が好きなヨイクの本が出ます。明日です。――リプトン書店』
最後の広告だけはまともだった。
『本日発売、ヨイク・アールト『北欧伝承余話』――リプトン書店』
最初の発売はロンドン市内だけだったが、やがて郊外やイギリスの地方都市からも本の注文が殺到した。英国内での販売が軌道に乗ると、ユアンはヨイクと約束した通り、アメリカやヨーロッパ大陸への発送を始めたのだが、そこでも似たり寄ったりの手法で新聞広告を出していたらしく、ヨイクは世界的に「あの新聞広告のヨイク・アールト」と言われるようになってしまったのである。
「同じ書籍の広告なのに、毎日違う宣伝文句が載るというのは話題性が高いよね。もうロンドンで君の名前を知らない人はいないんじゃない?」
一生ロンドンには行けないわと心の中で悪態をつきつつ、ヨイクはギーヴに右手を差し出し、丁寧な社交辞令を述べた。
「ごちそうさま。私は故郷に帰って研究を続けるけど、いつかまたお会いしたいわ、ギーヴ猊下。私にはもう一つ質問をする権利があるわけだし」
ヨイクの手を握り返し、ギーヴはじっと彼女の目を見つめた。何か目に見えないものを見通そうとするかのような眼差しだった。
「たぶん、君とはまた会えると思う。次に会う時、君はヒベルニアを見つけているような気がするよ」
予言めいた不思議な口調で別れの言葉を述べると、ギーヴはヨイクの背を押して扉までエスコートする。ヨイクはそっとギーヴの顔を盗み見たが、彼の真意は読めなかった。
「だといいわね。おやすみなさい」
ヨイクの背後で扉が静かに閉ざされた。彼女はしばらくその場に立ち尽くしていたが、キルトを着た衛兵が迷惑そうに顔をしかめたので螺旋階段を下りて鐘楼の外に出た。菓子店ニュートンのクリーム色のエプロンをはずしながら、ヨイクは待っていたユアンへ駆け寄った。彼はむっつりと唇を結び、黙ってヨイクを見下ろした。
「お待たせ。どうしたのよ、何怒ってるのユアン」
「べつに」
そういえば最初の旅を終え、ヨイクが帰郷する際にも彼はこんな顔をしていた。容姿がいいので少年のようにふてくされた姿が可愛らしく見えないこともない。ヨイクは八歳の年の差を忘れてしまうくらい保護欲をそそられた。
「べつに、って怒ってるじゃない」
ヨイクは腕を伸ばしてユアンの頭を乱暴に撫でた。後方に撫でつけた赤毛が乱れ、ユアンはヨイクの手をつかんだ。彼はため息をついて顔の筋肉の緊張を解き、途方に暮れたような遠い目でヨイクを見下ろした。その悲しげな表情に彼女は一瞬どきっとした。
「それは、あんたがあんまり鈍……」
「アールトさーん、忘れものだよー」
ユアンの声に被さるように、頭上からギーヴの間延びした声と菓子店ニュートンの籐かごが降って来た。籐かごは鳥のようにゆっくりと石畳に着地する。ユアンはヨイクの手を離し、籐かごの横にひっそりと片膝をついてうなだれた。
「いけない、忘れてた!ありがとう猊下!」
ヨイクがギーヴと手を振り合っているうちに、ユアンは階段を下ってロイヤルマイルへ向かい始めていた。冷たい夜風に首を縮めながらヨイクはユアンの背中を追った。彼と彼が手に持った菓子店の可愛らしい籐かごは果てしなく似つかわしく、ヨイクはつい吹き出してしまったが、幸い彼は気が付いていないようだった。
「ユアン、ありがとね」
大股で階段を下りていくユアンにちっとも追いつけず、ヨイクはかなり遠くから声をかけた。ユアンは歩調を緩め、いつも通りの仏頂面で彼女を振り向いた。機嫌が直って良かった。ヨイクはユアンに追いつき、彼の持つ籐かごにエプロンを押し込みながら続けた。
「あんたがいなかったら、私、まだギーヴ猊下に会えてなかったと思う。これまであんたの言う通りにやってきて良かったわ」
ヨイクはしみじみとつぶやき、足を止めて大聖堂の鐘楼を見上げた。ユアンも立ち止まり、ギーヴ・バルトロメの住まう塔を見やる。次にギーヴと会えるのはいつだろう。その時こそはヒベルニアへ行けるのだろうか。ヨイクは目を閉じて肩を落とし、それから腹に力を入れた。
「だからといって、あの新聞広告の件を許したわけじゃないけどねええええ!!」
階段の高低差を利用して、ヨイクは長身のユアンの脇腹に右膝をぐりぐりと打ちこんだ。ユアンは笑いながらよろけ、落ちるように階段を数段下る。
「しつこいな、あんたも。あれはあれで好評だったんだぞ」
二人はしばらく笑い続け、人通りの減ったエディンバラ旧市街を月明かりに頼って歩いた。そういえばユアンに会うのは久しぶりだった。数えてみると実に一年ぶりだ。ヨイクが帰郷している間もユアンはマメに手紙を送ってくれたし(広告の載ったロンドンタイムズも送ってくれた)、あまり離れていた気がしなかったのだが。
「これからは私の戦いなんだと思う。ヒベルニア行きの手掛かり、絶対に見つけるわ」
にっこりと笑って意気込んで見せるヨイクを、ユアンは目を細めて見下ろした。ヨイクは居心地の悪さと快さを感じて彼から視線をそらし、何かを誤魔化すように菓子店ニュートンのクリーム色のエプロンをユアンに着せてはしゃいだ。
数日後、ヨイクは船に乗って故郷へ帰り、ユアンは駅馬車に乗ってロンドンへ戻った。二人が再会し、ギーヴを連れてエディンバラを脱走するのはその一年後である。