表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ヒベルニアの極光  作者: 葉梨
第二章
16/52

7.追憶3 ―春に―

ヨイクとユアンの出会いから二年後。

 ヨイク・アールトがギーヴ・バルトロメに初めて会ったのは、雲ひとつないよく晴れた春の日のことだった。処女作の『北欧伝承余話』がベストセラー入りしてから一年後、彼女はようやくエディンバラ名誉司教との意見交換会に招待された。


 エディンバラ名誉司教ギーヴ・バルトロメはエディンバラの聖ピーター大聖堂の鐘楼に幽閉されている知る人ぞ知る高位の聖職者である。彼は弾圧の末にヨーロッパ中に身を潜めたクラシック教徒の象徴的人物であり、エディンバラ教会にとっては大事な人質だ。彼は週に一度だけエディンバラ大学図書館を訪れる権利と、そこで月に一度だけ様々な学者と話をする権利を持っている。ギーヴ・バルトロメ自身が研究しているのは教会やクラシックの歴史だったが、彼はこれまで多くの分野の学者と語らってきた。


 そしてその日、とうとう民話学者ヨイク・アールトが彼のもとに馳せ参じたのだった。


 と言っても、実際にヨイクの出る幕はなかった。意見交換会に招かれる学者は二種類いて、意見交換会に毎回招待される老練の学者と、たった一度だけ会の見学を許される若手の学者だ。ヨイクはもちろん後者である。その日もエディンバラ大学図書館の一室で円卓に座ったギーヴ・バルトロメと老練の学者八人の間で議論が進められ、壁際に並んで腰を下した若手学者七人は彼らの見解に耳を傾けるだけであった。


「仕方ないとは思うけど、そんなに緊張しないでね。ほら、みんなアールトさんを見なよ」


 ギーヴ・バルトロメが若手学者に各々の研究テーマについて訊ねたのは、意見交換会の最後だった。緊張する面々のせいで引き合いに出されたヨイクは慌てて背筋を伸ばした。この日のために遥々生まれ故郷のノルウェーからエディンバラへやって来た彼女は、あまりの疲労と眠気に欠伸を噛み殺していたところだった。


「アールトさん、君の本は俺も読んだよ。すごくおもしろかった。次はどの辺りを研究するの?このまま北欧を極める?」


 ギーヴは気さくに柔らかく微笑んだ。若き研究者たちは、初めて自分たちを顧みてくれたギーヴの姿に恍惚とした。当然ながら彼らはギーヴの正体など知らない。三十代前半の容姿を持つ彼が実は百八歳の老人であることも。


 彼の端正な顔立ちや背中で緩くまとめた金褐色の髪や緑色の瞳はヨイクから見ても魅力的ではあったが、その時の彼女の頭の中はギーヴと言葉を交わすチャンスを棒に振るまいという思いでいっぱいだった。おそらく最初で最後のチャンスだ。


「次はヒベルニアを狙ってます。ヒベルニアへ行って、ヒベルニアの住人からも話を聞きたいと思っているんですよ」


 これで百八歳とはねと思いつつ、ヨイクはギーヴに満面の笑顔を向けた。「あなたの仲間のクラシックが隠れ住んでいることは分かっている」と言外に含ませて。ヨイクは、ギーヴが約六十年前からクラシックの象徴であったことも、ヒベルニアにクラシック教徒が隠れ住んでいることも、とあるクラシック教徒の遺した長い日記から知った。


 その場にいた学者たちは失笑をもらし、これだから御伽噺に現を抜かす非科学的な奴はと小声でヨイクを馬鹿にした。笑わなかったのはギーヴだけだった。いや、笑わないどころか、彼は張り詰めた表情でヨイクの瞳を覗きこんだ。


「……そう。またお話できたらいいね、アールトさん」


 意見交換会が終わり、ヨイクが図書館を出るとユアンは中庭のベンチに腰掛けてヴォルテールの小説『カンディード』を読んでいた。楽観主義の主人公が不運に見舞われ、しかしその不運のおかげでより大きな不運から逃れ、さまざまな登場人物と交わり、世界中を旅するのだとユアンはヨイクに教えてくれた。


 口にこそ出さないがユアンが異邦を旅する物語を好んで読んでいることに、ヨイクは最近気が付いた。彼は利益になるからと言ってヨイクの本を出版し、それをヨーロッパやアメリカの書店へ売りさばいているが、実は彼自身も御伽噺や冒険小説が好きなのではないかとヨイクは密かに思っている。


「どうだった?」


 ヨイクが現れたことに気が付き、ユアンは本から顔を上げて訊ねた。彼はいつものように赤毛を後方に撫でつけ、白いシャツの上にベストと上着を身につけている。折り目のついたズボンも染み一つない襟元のクラバットもユアンが自分で手入れをしているらしく、全くマメではないヨイクは感心してしまう。それとも、二十五歳の独身商人というものは皆こうなのだろうか。


「とりあえずカマかけてきたけど、だめね。ヒベルニアはクラシックが落ち延びた秘密の島だもの、そう簡単に情報を漏らしちゃくれないわ。謎を解き明かせば私が本を書くことはばれてるし」


 ユアンの隣に腰を下し、ヨイクは膝を抱えて深いため息をついた。


「まだまだ分からないことだらけね。ヒベルニアの場所、ヒベルニアへ向かう海流の場所、ヒベルニアには選ばれた者しか入れないというけど、その条件。ギーヴ猊下に会えたら少しは解き明かされると思って今まで頑張ってきたけど、そんなに甘くないか」


 ヨイクは両手を振り上げて空を仰ぐ。


「貯えがなくなる前に謎を解き明かしてくれよ」


 眉を上げて微笑み、ユアンは目を細めてヨイクを見下ろした。時々、ユアンがそんな風に自分を見つめることをヨイクは快く思っている。


「あ……」


 ヨイクは声を漏らして腰を浮かせた。図書館から濃紺の法衣をまとった金褐色の髪の男が出て来たのだ。エディンバラ名誉司教ギーヴ・バルトロメは四人の護衛に前後左右を守られながら図書館前の階段をゆっくりと下りる。すると、すぐに四頭立ての立派な馬車がやって来た。大学内に馬車が出入りすることはまずないので、学生たちは一様にギーヴを振り向いた。


「ずいぶん厳重だな。あれがギーヴ・バルトロメ猊下か」

「ええ、聖なる妖怪ギーヴ・バルトロメ。とても百八歳には見えないでしょ?」


 ヨイクとユアンは苦虫を噛み潰したような顔を見合わせた。ギーヴが囚われの身であることは知っていたが、それを目の当たりにするのはやはり気分が悪かった。


「彼に会うチャンスはもうないでしょうね。会えたとしても教会の監視があるもの。教会関係者の前で彼がヒベルニアの話をするとは思えない」


 言いながら、ヨイクははっとした。馬車に乗り込もうと身をかがめたギーヴと目が合ったのだ。護衛に悟られないようにするためか、ギーヴは静かに目を伏せ、懐からさっと何かを取り出して石畳の上に落とした。彼はもう一度ヨイクに目配せしてから馬車の中に消えた。ギーヴの乗った馬車が門の方へ走り去ると、ヨイクとユアンは図書館に向かって駆け出した。


「これかしら?」


 図書館前の石畳からヨイクが拾い上げたのは一枚のカードだった。クリーム色の紙に茶のインクで文字とリンゴのマークが印刷してある。


『王室御用達、菓子はニュートン。ロイヤルマイル通り白馬亭のとなり』


 周囲の足元を見まわしつつヨイクは首をかしげる。ゴミ以外に落ちているものは他にない。二人は額を寄せてカードを見下ろす。


「どう見ても菓子店のカードだな。裏は白紙、メッセージがあるでもなし。ギーヴ猊下おすすめの店か?」

「王室御用達の菓子店を私におすすめしてどうすんのよ」

「じゃあ帰りに寄り道するからここで会おう、とか?とりあえず行ってみないか?ロイヤルマイルの白馬亭ならここからそう遠くない」

「そうね。行きましょう」


 二人は辻馬車を拾い、街の中心を貫くロイヤルマイルというエディンバラ旧市街きっての大通りを目指した。






 エディンバラはスコットランドの首都であり、ヨーロッパの宗教首都、つまりエディンバラ教会の総本山である。


 街のほぼ中央には急峻な岩山がある。これは大昔に氷河によって削られた死火山で、その西側の頂上に建てられたエディンバラ城にはスコットランド王が、東側の崖の聖ピーター大聖堂にはエディンバラ教皇が鎮座している。


「複雑な地形と頑健な地盤を持ってはいるが、エディンバラ城はこれまで何度もイングランドに占領されてきた」


 辻馬車を下りたヨイクとユアンは、人の往来の激しいロイヤルマイルをゆっくりと下っていた。商用でエディンバラを訪れたことがあるというユアンがヨイクに蘊蓄を話して聞かせている。


「クロムウェルもエディンバラ城を占領したのよね。中世の魔女狩りや一七〇五年のクラシックの処刑にも使われたんでしょう」

「ああ。そのエディンバラ城を起点として、なだらかな坂道が旧市街を貫いている。それがこれだ。ホリルード宮殿まで一マイルほど続いていることから、この坂道はロイヤルマイルと呼ばれている」

「へえ」


「エディンバラは険しい谷に挟まれているから、この通り、狭い道路の両脇に五階建てや六階建ての住居が次々と建てられた。中世の香りの残る街路といえば聞こえはいいが、高層住宅の住人が窓から生活排水や残飯を投げ捨てるせいで年中悪臭が立ち込めている。特に夏場は地獄だな」


 ヨイクは鼻にしわを寄せつつ高層住宅を見上げる。嗅覚がおかしくなりそうだった。


「窓の下へ何でも捨てるのはパリの模倣ね」

「ああ、捨てやすいように、上の階に行くほど窓が通りにせり出しているだろ」

「なるほどねえ」

「ははは、感心している間も頭上への注意は怠れないぞ、おっと」


 ユアンが飛びのいた場所に林檎の皮が降ってくる。ヨイクは腹を抱えて笑った。


 パブ兼宿屋の『白馬亭』はロンドン行きの駅馬車の発着地としても有名であるため、ヨイクとユアンはすぐに『菓子店ニュートン』を見つけた。


「おう、入んな。今しがた猊下から注文が来たとこだ。しかし今回限りにしてくれよ、うちだって教会に睨まれたかないんでね」


 ヨイクとユアンが店先を覗くなり、威勢のいい中年男がヨイクの腕をつかんで店の中に引っ張り込んだ。厨房へと連れ去られるヨイクをユアンが慌てて追ってくる。


「お、おい、待ってくれ、悪いがこっちは事情を知らないんだ」


 菓子職人でごったがえす厨房を抜け、食糧庫のようなところへたどり着くと、中年男はクリーム色のエプロンをヨイクに渡した。胸に『菓子店ニュートン』と刺繍されている。


「何を言ってやがる。さあ、それを着な。ぐずぐずするな、パイが冷めちまうだろう。そら、しっかり持て、落っことすなよ、猊下の好物のアップルパイだ」


 ヨイクがエプロンを身につけ、籐かごの持ち手を握ると、中年男は床に生えた取っ手を引っ張り地下への扉を開いた。足元から吹き上げる風は勢いがよく、菓子店の地下がどこかと通じていることが分かる。ヨイクは納得した。


「ユアン、合点がいったわ」

「……おれも分かった気がする」 


 中年男からランプを受け取り、ヨイクは地下室を覗きこんだ。階段の下の方は真っ暗で、どこからかネズミの鳴き声や風の唸り声が聞こえて恐怖心を煽る。


「いいか、階段を下りて少し歩くとY字路がある。右が大聖堂とエディンバラ城方面、左は劇場に行っちまう。迷うと危険だから寄り道せずに右へ行け。突き当たりをもう一度右に曲がると長い階段がある。そこを上れば見張りの衛兵がいるから、猊下に菓子を届けに来たニュートンだと言えばいい」

「わかったわ、ありがとう」


 ヨイクは中年男に礼を述べ、取り残されて不満そうなユアンに任せなさいと頷いてから地下への階段を下りた。Y字路にたどり着いた時、ヨイクの背後で菓子店の入り口が閉められてしまった。賑やかな街から切り離され、頭からつま先まで静寂と闇に包まれる。急に心細くなり、ヨイクは心を落ち着かせようと深呼吸した。


「右が大聖堂と城、左に行くと劇場」


 ヨイクはそれぞれの道をランプの明かりで照らした。高級菓子店が城や劇場と地下でつながっているという話は聞いたことがある。王侯貴族のパーティーや観劇のために、つくりたての菓子をいち早く届けるべく作られたのだそうだが、まさか大聖堂にも通じているとは。


 ヨイクは右の道を足早に進み、しばらく黙々と歩き続ける。寄り道もしたかったが、限りある時間を無駄にするわけにはいかなかった。道は急こう配の上り坂で、ロイヤルマイルを上っているのだと分かる。間違いなく大聖堂方面だ。


 突き当たりを右に曲がると、果てしなく長い螺旋階段の下に着いた。ヨイクは覚悟を決めて階段を上り始めるが、上れども上れども終わりが見えない。何しろ、エディンバラ城もエディンバラ大聖堂も急峻な岩山の上にあるのだ。くじけそうになるたびに、この先にエディンバラ名誉司教ギーヴ・バルトロメがいるのだと自分に言い聞かせる。足が棒になりかけた頃、ようやく頭上に光が見えた。正方形の光の枠だ、扉に違いない。


 折しも、ヨイクの真上で鐘楼の鐘が鳴った。エディンバラ大聖堂の鐘楼に辿り着いたのだ。




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ