6.追憶2 ―夕べの光―
前回のすぐ後の話です。
辻馬車は新興住宅街の一角に佇むリプトン家に、二十分で到着した。西の空が薄いオレンジ色に染まり始めていたが、まだ暑い。ユアンは上着とボストンバッグを手に馬車を降りた。彼の命の恩人である少女もそれに続く。二人は裏門の扉を開けて素早く中に滑り込んだ。
「あなた、本当に金持ちなのね」
下級貴族の屋敷より大きな住居を前にして、少女は感心したように口を開けた。
「それも今日までだ。こっちだ、ええと」
「ヨイクよ。ヨイク・アールト」
口を開けてリプトン邸を見上げていた少女が、ユアンに向き直って微笑んだ。波打つ金色の髪が揺れる。瞳は海のように青い。肌は陶器のように白く滑らかで、頬や唇は薔薇色だ。若きビジネスマンは突然居心地が悪くなり、わざとらしい咳払いをした。明るいところで、きちんと彼女の顔を見たのは初めてだった。
「そうか、じゃあこっちだ、アールト嬢」
ユアンは勝手口を開けてヨイクを厨房へ招く。背後を気にしながら自分も建物の中に入ると、ドアを閉めて鍵をかけた。厨房は無人だった。いつもなら使用人が夕食の支度をしている時間なのだが。
「静かね。誰もいないのかしら」
「執事はいるはずだ。ここで待っていてくれないか?」
ヨイクを厨房に残し、ユアンは居間と応接間を覗き、階段を上って自室や使用人の部屋や客室を見て回った。どの部屋も荒され、目のつくところにあった金目のものがなくなっている。そして誰の姿もなかった。屋敷にはユアンの他に六人の使用人が住んでいる。
「旦那さま、ここです、上ですよ!」
もしやと思って屋根裏部屋の隠し扉の真下へ行くと、案の定、扉の隙間から執事が顔を出した。
「みんなそこに隠れてるのか?」
「ええ、フォション侯爵の私兵と市の衛兵がやってきたものですから、ここに隠れておりました。何があったか聞きました、ご無事で何よりです、旦那さま。今、はしごを下しますから」
「頼む。ああ、それと客が来てるんだ。おれの命の恩人だから、できる限りのもてなしをしてくれ」
「承知しました」
親子ほど年の離れた執事が恭しく応じると、ユアンは厨房にヨイクを迎えに行った。彼女はユアンが戻ってきたことに気が付かず、窓から差し込む夕べの光の中にひっそりと立ち、庭師の整えた広い庭を眺めていた。藍色のワンピースに包まれた細い身体は彼女の瞳のように堂々としていて、ユアンは不思議なものでも見るように、しばらくヨイクの背中を見つめていた。
「あら、執事は見つかったの?」
ヨイクが振り向いた。ユアンははっとして、誤魔化すように懐中時計を見た。午後九時。夏のスコットランドは日が長く、まだ日は沈まない。
「あんた、いったい何者なんだ?」
口をついて出た質問にユアンは自分で驚いた。そんなことを聞いてどうする。
「民話学者よ」
ヨイクは天気の話でもするように答えた。
「ヒベルニアって知ってる?」
「御伽噺の島だな」
「私はそれが本当に存在すると思っているの。色々な町を訪ねて、色々な人から話を聞いて、いつかヒベルニアの真実を突き止める。それが私の仕事」
ユアンは身を乗り出した。彼はそれまで飾り立てて踊る女と身を粉にして働く女しか知らなかった。ヨイクは自分と同じ、前に進み続ける種類の人間だ。
「そうか。おれも十五の時に家を出てアメリカへ渡った。最初は辛かったが、商売の流儀やモノや金の流れが分かるとすぐに貿易に夢中になった」
「私はまだ不調よ。この前もエディンバラの名誉司教との意見交換会に応募して落選したし。まあ、大学出の一流学者ばかりが応募する中で無名なのは私だけだったって話だけど」
ユアンはエディンバラ名誉司教などという地位は聞いたことがなかったし、民話の研究とエディンバラ教会がどう関係しているのかも分からなかったが、ヨイクが困っていることは分かった。
「あんたは大学に行くつもりはないのか?」
「私の知りたいことは誰も知らないことだもの」
ヨイクは途方に暮れた顔で西の空を見つめた。夕日の沈んでゆくその向こうに、恋焦がれる何かがあるかのように。
「だからエディンバラ名誉司教ギーヴ・バルトロメにどうしても会いたいの。私の知りたいことの一番近くにいるのが彼だから」
彼女はユアンを顧みてにっこりと微笑んだ。
「ああ、ごめんなさい。――執事は見つかった?」
屋根裏部屋には屋敷中の金目のものが集められていた。衛兵たちに奪われないよう、慌てて隠したのだろう。現金、宝石、銀食器、高価なランプ、その他にも小さくて持ち出しやすそうなものが並んでいる。リプトン家の面々は暗く天井の低いその部屋で車座になり、ヨイクは少し離れたところに腰を下した。
ユアンは五人の使用人の顔を順に見つめた。毎日顔を合わせている彼らの、一人が欠けている。御者だ。ユアンの胸は改めて痛んだ。
「みんな、聞いてくれ。おれはこの町を出る。この屋敷も引き払うつもりだ。みんなには本当にすまないと思ってる。特にクレア、おれはあんたの亭主を死なせてしまった」
ユアンが話を切り出すと、ひとりの女が堪えていたような嗚咽を漏らして泣き出した。胸に乳飲み子を抱いているクレアという名の女は死んだ御者の妻だ。
「いいんですよ、旦那さま、全部うちの亭主のせいですから。うちの亭主がもっとしっかりしていれば……」
「彼は何も悪くない」
「そうよ、悪いのはあのイカレ侯爵だもの」
ユアンの言葉をヨイクが援護する。クレアは泣き崩れたが、ユアンは話を進めた。
「今からこの金と、そこにある金目のものを分配する。そうしたら、みんなもここを出るんだ。行くあてのないものはグラスゴー公園通りのおれの弟を訪ねてくれ、会社も彼に託すつもりだ」
ユアンは商談のために用意した金をボストンバッグから取り出し、それを貴金属類と一緒に平等に分け、自分の取り分をクレアにやってしまった。
「こ、こんな大金を?!旦那さまの分は?」
「葬式代にするといい、おれのことは心配するな。それより急げ、みんな、どうか元気で」
主人との別れを惜しみつつ使用人が出ていくと、屋根裏部屋にはユアンとヨイクだけが残された。少女は頬を膨らませてユアンを見上げた。
「私に礼金をはずむ話は?」
がらんとした屋根裏部屋を眺めていたユアンは我に返ってヨイクを顧みた。
「札束を持って旅するのは危険だろう?こっちへ来い」
二人は梯子を下りてユアンの寝室へ向かった。ヨイクはわずかに警戒したようだったが、黙ってユアンについてきた。窓の外は薄闇に包まれており、黄色く丸い満月が東の空に浮かんでいる。その月の光を頼りに、ユアンはカーペットをめくり、床板をはがした。
「現金より便利で確実なものもある」
ユアンが床下から取り出したのは四本の金の延べ棒だった。ヨイクは難色を示した。
「こんなに重いものを持って旅するのも大変よ。換金するのも面倒だし」
「札束は所詮、紙きれだ。それに、国境を越えるたびに両替していたら損をする、貴金属や宝石の方がいい。ほら、これはどうだ?これなら軽いだろう」
続いてユアンがヨイクに手渡したのは数百粒のダイヤモンドが入った革袋だった。それを床に五つ並べ、彼はヨイクの顔を見た。彼女は困ったように唇を尖らせる。
「宝石の価値は知らないわ。これでどれだけのお金になるの?」
「五千ポンドにはなるだろうな。足りないか?」
「……あの鞄にはもっと入ってたんでしょう」
「ばれたか。あの半分だ」
恨みがましそうなヨイクにユアンは笑ってしまった。彼は鈍くない人間が好きだった。
「いいわ。そんなに沢山持てないのは事実だし、これだけ頂戴するわね」
ヨイクは腰のベルトに革袋を結びつけ、床から立ち上がった。
「あんた、いつまで旅を続ける気なんだ?」
立ち去ろうとするヨイクを引き留めるようにユアンは訊ねた。ヨイクは扉に向かいかけていた足を止め、ユアンを振り返らずに答えた。
「故郷を出たのはほんの数ヶ月前なの。知りたいことを全部知るまで旅はやめないわ」
「じゃあ、次に路銀がなくなったらどうする気だ?また金持ちの命を救って礼金をせびるのか?」
ユアンは窓際の机の椅子を引き、ヨイクの方を向いて腰を下した。少女は月光の中にじっと立ち続けている。ユアンからは彼女の背中しか見えなかったが、ヨイクが真剣に考えていることは分かった。彼女は自分の未来や、自分の望みや、これからどうしていくべきかということを真剣に考えている。指針を求めている。目標へ到達するための一歩をどこへ踏み出すべきかを探している。
「さっき膝の上で書いていたものを見せてくれないか」
劇場前広場から命からがら逃げ出した後、路地裏でヨイクがしていた書き物のことがユアンはずっと気になっていた。ヨイクは一瞬何のことか分からなかったようだが、すぐに鞄から紙の束を引っ張り出した。
「これは故郷の民間伝承を文章にしただけのものよ」
ヨイクから紙の束を受け取ると、ユアンはそれを月明かりの下でゆっくりと読んだ。ヨイクの字はとても綺麗で、彼女のように堂々としていた。民間伝承は神秘的で、幻想的で、何より彼女の語り口がおもしろく、情景描写も美しかった。
「なあ、お嬢さん、エディンバラ名誉司教に会う方法を教えてやろうか」
一通り読み終わると、ユアンは座ったままヨイクに声をかけた。
「え?」
ユアンの本棚から『ガリバー旅行記』や『東方見聞録』を抜き取ってページをめくっていたヨイクは驚いてその本を閉じた。
「ついでに研究費用も少なからず手に入る。悪くない話だと思うがね」
「あなたに何がわかるのか知らないけど、教えてほしいわ」
机の上に転がっていたペンを手に取り、ユアンはこつこつと机をたたいた。それから紙を取り出し、実家の雑貨屋を継いだ弟へ手紙を書いた。『おれの会社をおまえにやる。ついでにおれの家の処分を頼む。ユアン・リプトン』
「エディンバラ名誉司教に会うには、あんたが学者として有名にならなければならない、そうだろう?ではどうしたら有名になれるか?大学を出ていないあんたには学者同士のネットワークがないだろうし、老いも若きも学者たちはあんたを相手にしないだろう。となると、学者たちを当てにはできない。じゃあ誰の間で有名になるか?」
かたん、とペンが机の上に落ちた。ユアンは立ち上がって真正面からヨイクを見た。ヨイクはユアンの次の言葉を待つようにじっと彼を見つめ返した。ユアンは唇の端を吊り上げた。
「庶民も貴族も、御伽噺は大好きなんだよ」
一歩、二歩とユアンはヨイクに歩み寄った。そうしながら、彼女を焚きつけるように早口で語る。
「あんたが集めた民話を女子供にも分かるような本にする。英語版は庶民をターゲットに安価で刷り、フランス語版は貴族のために立派な装丁で出版する。目新しいものをテーマにした方が売れるだろうから、北欧辺りの民話がいい。もちろん、それを全国の書店に売りさばくのはおれだ」
「あなたが?」
ユアンの勢いに付いて行けず、ヨイクは疲れたように声を裏返した。ユアンは尚も身を乗り出し、部屋の中を行ったり来たりした。
「これはビジネスだ。採算がなければやる気も起きないが、これは儲かる。あんたの本は売れる。英語版はイギリスやアメリカで、フランス語版ならヨーロッパ中で売れるだろう。そうすれば、あんたの名はヨーロッパ中に広まるぞ」
呆れかえるヨイクの周りを行き来していたユアンが、その時ぴたりと動きを止めた。彼はヨイクの顔を覗きこみ、一語一語をゆっくりと発音した。扇情的な言い回しだった。
「おれはあんたに賭ける。あんたもおれに賭けてみないか?」
ヨイクは腹を抱えて笑いだした。
「あっはっは、あなたはペテン師ね。おまけにキザ。あなたが言うことはみんな本当に聞こえるわ、リプトンさん」
ユアンは憤慨した。
「みんな本当のことだ」
「そう?じゃあ本棚のこれは何?」
言いながらヨイクが指したのは本棚に収まる一冊の本の背表紙だった。『相手をその気にさせる交渉術、ペテン師一歩手前編』
「……」
「ま、いいわ。私も現状を打開したかったから」
おかしそうに笑い、ヨイクは大きく深呼吸した。憮然としているユアンに向き直り、彼女は静かに告げたのだった。
「私はあなたに賭けない。私はあなたを信じるわ」
ふわふわと揺れるヨイクの金髪を、黄色の月影がぼんやりと輝かせていた。海のように青い瞳もきらきらと光る。人間の目というものは、こんなにも美しく輝くものだったのか。ユアンはヨイクの瞳に見入り、一瞬、我を忘れた。この瞳を輝かすためなら、何でもしてやろうという気になった。
「……あんたも十分ペテン師みたいじゃないか」
ユアンがやっとのことで絞り出した悪口に、ヨイクは再び声を立てて笑った。ユアンもつられて笑い、それが収まると身を正してこう言った。これからは忙しくなりそうだと思いながら。
「まあ、ペテンだろうが何だろうが、これだけ覚えておいてくれれば上手くいくさ。世の中にうまい話なんてありはしない。おれはあんたの書いたものを必死で本にするし、必死で売りさばく。だからあんたは必死で考え、必死で書いてくれ」
それから一年後、ヨイク・アールトの本はヨーロッパ中でベストセラーになった。その才能が認められ、彼女がエディンバラ名誉司教ギーヴ・バルトロメに会うことができたのはさらに一年後、彼女が十七歳の時であった。